Spring
ホグワーツの二年目が終わって数日が過ぎた。ルイスは相変わらずほとんど家にこもりきりで、外に出るといってもたまに森の中へ探索に出掛けるくらいだった。何度も兄のラウル・ジュリアードや同居しているリーマス・ルーピンが一緒にダイアゴン横丁まで買い物にいこうと誘ってきたが、ルイスはそれをことごとく断っていた。
ルイスは決してダイアゴン横丁に行きたくないわけではない。むしろ、気分転換に行きたいくらいだ。しかし、そこへ行くためにはこの世で最も嫌いなもの三本の指に入るだろう、煙突飛行で行かなければならない。煙突飛行がダイアゴン横丁にあるグリンゴッツ銀行のトロッコのように楽しいものだったらよかったのにと、ルイスは常々そう思っていた。
それに、いつか試したかったもののひとつを、ルイスはとうとう試すことができなくなった。ハリーからダーズリー家にある、マグルの機械で電話というものの番号を聞いたので、夏の休暇中にかけてみたいと考えていたのだ。だが、休暇がはじまって間もなくした頃、ロンからの電話に対する警告の手紙が届いた。ロンはどうやら物凄い失態を犯したらしく、ダーズリー氏を酷く怒らせてしまったのだという。
ルイスが夏休みにやることといえば勉強と読書、それから今は、ラウルの手伝いで地下の図書室の本を並べ替えるという作業くらいだった。夏休み中に魔法を使うことは禁じられているので、その作業は予想以上に難航した。
「疲れた?」
「……うん、疲れた」
杖を振り、一気に本の場所を入れ替えながらラウルが言った。ルイスは二時間ほど前からずっと地下一階と二階を何度も往復し続けていたので、もうずいぶん前からへとへとだった。
「それじゃあ、今日はこれで終わりにしょう」ラウルはルイスが持ってきた本を受け取るとそう言い、棚に押し込んだ。「そろそろお客さんが来るんだ」
「お客さま?」
「うん、僕ではなくて、リーマスにだけど」
ルイスはふらふらとする足取りでラウルの後ろに続いて階段を上る。
「それって誰なの?」
「ルイスが吃驚するような人だよ」
「リーマスのお客さまなのに?」
「君もよく知っている人だからね」
リーマスと自分が知っている共通の知り合いとは一体誰だろう。ルイスはそう考えながら首を傾げた。正直に言って、共通の知り合いなどいるとは思えなかった。生まれたばかりの頃にリーマスとは会っていたことがあるようだが、それを除けば、ほんの一年と少し前に出会ったという記憶しかないのだ。そういう相手と今はひとつ屋根の下に暮らしている。
ルイスがホグワーツに行っている間、リーマスはどうやらラウルの仕事を手伝っているらしい。だが、自分の兄のことなのにルイスはラウルが何の仕事をしているのか、未だによく知らなかった。たまに魔法省へ出向いたりしているようだが、魔法省が迫害対象である人狼のラウルに、一体何の仕事を与えるのだろうか。
「リーマスにお客さまって、一体誰なの?」
キッチンでスコーンを焼いていたリーマスにルイスは問い掛けた。すると、リーマスはきょとんとした顔でこちらを見る。
「私にお客さま?」
「え? 違うの? だって、ラウルがリーマスにお客さまが来るって」
「そうなのかい?」
「もうそろそろだ」
リーマスは困惑した表情を浮かべ、オーブンから最後のスコーンを木のバスケットに取り出した。そのバスケットをダイニングテーブルの上に乗せると、手際よく後片付けをしていく。ルイスはダイニングの椅子に座り、できたて熱々のスコーンに手を伸ばした。半分に割ると中から湯気が立ち上り、まだふわふわとしているだろう食感が目に見えて分かった。ラウルはルイスの手からその片方だけを取り上げると、はふはふと熱そうにしながら平らげてしまう。
ルイスもはふはふと言いながら食べていると、隣に腰を下ろしたラウルが杖を振ってティーセットを取り出し、いつものように紅茶を淹れてくれる。焼きたてのスコーンと淹れたての美味しい紅茶を飲みながら幸せを感じていると、ラウルが思い出したように口を開いた。
「そういえば、ホグワーツから帰ってきたとき、キングズ・クロス駅で何か言ってなかった? 帰ったら話があるって。すっかり忘れていたけど」
「あ、そうだったね、あたしもすっかり忘れてた」
ルイスは思わずスコーンを喉に詰まらせそうになって、慌てて紅茶で飲み下した。その様子を見てラウルはくすくすと笑い、リーマスは一体何の話だと首を傾げる。
「それで? びっくりする話って?」
「あー、うん、ええと……」
突然その話を持ち出され、ルイスは少しだけ戸惑った。一体どう説明すればいいのか、それが分からなかった。
ルイスはホグワーツから帰ったその日のうちに、ラウルとリーマスにアニメーガスになったということを話そうと思っていた。しかし、思いの外疲れていたらしく、ほぼ帰ってくると同時にリビングのソファで倒れるように眠り込んでしまい、気が付くと次の日の朝、自分の部屋のベッドで横になっていたのだ。それから話すことはおろか、その話題があがることはなく、タイミングを逃してしまっていた。
ルイスは曖昧に笑いながら立ち上がった。
「……話すより、見たほうが早いと思う。だけど、絶対に怒らないでね?」
結局、ルイスは口で説明することを諦めた。そして次の瞬間には、ラウルとリーマスの前にルイスの姿が消えてなくなる。ふたりはぎょっとした顔で今までルイスがいた空間を見ていたが、動物が爪で床を引っ掻く音が聞こえてくると、驚いたようにそちらに目を向けた。同時に、ルイスは後ろ足で床を蹴って跳躍し、ラウルの膝に乗る。
「……まさか」
そう言って絶句をするラウルを見て、ルイスは鼻を鳴らすと、その濡れた鼻先をラウルの胸に押しつけた。
ルイスはリカオンのアニメーガスだった。体調は五十センチほどで、濃い茶色の毛並みに白と黒の斑が入っている。尻尾を振ると、ラウルは無意識に小さな頭を撫でた。その向かい側では、リーマスが目を見開いて驚いているのが見える。
「本当に驚いた。一体いつの間に――」
ラウルがそう言ってルイスを抱き上げようとしたとき、リビングに突然、姿現しのときに鳴る独特の音が響いた。思わずびくりとしたルイスは、ラウルの腕のなかで固まる。ちらりと背後に目をやると、ルイスは背中の毛が逆立つほど驚いた。
そこには、流れるような長い銀髪と顎髭、折れ曲がった鉤鼻に乗せた半月眼鏡の奥にある青い目をきらきらと輝かせた、この時代の最も偉大な魔法使いと称されているホグワーツの現校長、アルバス・ダンブルドアその人が立っていたのだ。
「こんにちは、ラウル。久しぶりじゃのう、リーマス」
ラウルはダンブルドアに向かって頷くと、ルイスをリーマスの腕に押しつけた。しかし、リーマスはというと、ルイスがアニメーガスだったという事実に加えて、突然ダンブルドアが現れたことに驚愕の思いを隠し切れていない。
「……本当に……お久しぶりです、ダンブルドア先生」
リーマスは慌てて立ち上がると、微妙に震える声でそう言った。すると、ダンブルドアは穏やかに笑い、その青い目で覗き込むようにリーマスを見た。
「どうぞ、座ってください」
ラウルはそう言って、ダンブルドアにリビングのソファを勧めた。そしてまた魔法でティーセットを出すと、ついでにダイニングテーブルの上にあるバスケットに入ったスコーンも呼び寄せる。
「リーマスもこっちに来て座って。君にお客さまっていうのは、ダンブルドアのことだよ」
ラウルはルイスを抱いたまま茫然と立ち尽くしているリーマスを見て、くすくすと笑った。
「あ、ああ、うん」
一体ダンブルドアはリーマスに何の用があるというのだろう。ルイスはそのことも気になったが、それよりも何よりも、自分の正体がダンブルドアにばれてしまうのではないかと、内心気が気でなかった。何と言っても、あのダンブルドアだ。本物の動物とアニメーガスの見分けなど、簡単についてしまうに違いない。
ルイスはできるだけリーマスの身体にぴったりと身を寄せて、ダンブルドアに顔を見られないように努めた。リーマスがソファに腰を下ろすとほぼ同時に、ルイスはあの青いすべてを見透かしてしまいそうな目に見つめられているような気がして、思わず身体を緊張で強張らせる。
「おや、その子は――」
「森でルイスが拾ってきたんです。怪我をしていたので手当てをしていたようですが」
ああ、持つべきものは兄妹だと思いながら、ルイスは感謝の言葉を心の中で叫んだ。それから、何も言わないリーマスを見上げるが、その表情は何とも言いがたい複雑なものだ。微かに鼻を鳴らして注意を引くと、リーマスはふわりと笑って優しく頭を撫でてくれた。
「それで、私に用というのは……」
「おお、そうじゃった。まずはこれを読んでもらえるかのう」
ダンブルドアはそう言うと、懐から一通の封筒を取り出して、それをリーマスに差し出した。
ただの動物があまりじろじろと手紙を見るのはおかしいと思ったので、ルイスは極力その封筒を見ないようにしていた。だが、好奇心を抑えることができず、思わず身を乗り出すと封筒の匂いを嗅ぐふりをして、その文面を覗き込もうとする。嗅覚が人間の時より鋭いせいか、インクの匂いが鼻をつんと刺激した。
封筒には見慣れたエメラルドグリーンの文字で、ジュリアード宅、リーマス・J・ルーピン殿、と記されている。リーマスがそれを裏返すと、そこにはホグワーツの校章の印鑑が押されていた。
ホグワーツからリーマス宛に手紙が来るなど、どうしたことだろう。ルイスは眉間にしわを寄せるような意識をしたが、アニメーガスになっているので、自分がどのような表情を浮かべているかなど分かるはずもない。
そして、ルイスが更に覗き込もうと身体を大きく乗り出すと、突然立ち上がったラウルがリーマスの腕のなかから毛皮に覆われたその身体を奪うように抜き取った。
「さあ、ルイスはフェリオのところにいると思うから、君もそこへ行ってくるといい」
そうにこやかに言うラウルだったが、その目は自重しないルイスの行動を非難しているようにも見える。結局、ホグワーツの用事が何なのかも分からないうちに、ルイスはラウルの手によって家のなかから締め出されてしまった。
少し湿った土の上にそっと下ろされたルイスは、くるりと後ろを振り返った。からからと閉められた窓の向こうにはラウルが立ち、こちらを見下している。早く行けとばかりに手を振り、またソファのほうへと戻っていく。
少しの間、ルイスはそこに腰を下ろして窓越しにリビングの様子を眺めていた。ダンブルドアとリーマスはなにかを話しているようだったが、リカオンの大きな耳を動かして聞き耳をたててみても、ここからでは何を話しているのかまったく聞こえない。
ルイスは完全に諦めて、アニメーガスの姿のまま森にとぼとぼと入っていった。
アニメーガスの姿となった今のルイスにとって、この歩き慣れた森はいつもと違い、とても愉快なものだった。視線の高さが違えば視界は変わってくるもので、低い位置から見渡す森は、いつも以上にとても広く、大きく見えた。動物と出会うたびに不審そうな目が向けられるものの、しかしすぐにそれがルイスだと分かると、何食わぬ顔でどこかへと去っていく。やはり、本物の動物たちにはアニメーガスとの見分けが容易につくのだと、ルイスは妙に感心した。
そして、どうやらそれはケンタウルスにも例外ではなかったらしい。
「そのような姿で何をしているのですか、ジュリアード」
突然頭上から聞こえた声に、ルイスは飛び上がって驚いた。小動物から見るケンタウルスはこれほどまでに大きいのだと、フェリオを見上げて思う。
「やっぱり、あたしだって分かるんだね」
一瞬で人の姿に戻ったルイスは、身体中についた葉や土を払った。しかし、小動物だろうが人間の子供だろうが、ケンタウルスはやはり見上げるほど大きい。
「そんなに隙だらけの動物はいません。その内餌食にされますよ」
「恐ろしいことをさらっと言わないでよ」
ルイスが少しむっとして頭上を振り仰げば、フェリオは髪の毛にしつこく絡み付いていた葉をそっと取り除いてくれた。
「図書室の片付けというのは終わったのですか? 当分忙しいと仰っていましたが」
「ううん、まだまだ終わらないと思う。今日はね、お客さまが来たから締め出されたの」
「客人ですか」
「うん、アルバス・ダンブルドア。知っているでしょう?」
「ああ、彼ですか」
フェリオはさほど興味がなさそうにそう応じると、また歩きだした。けれど、その足取りはとてもゆったりとしたもので、ルイスに歩調を合わせてくれていると分かる。
ルイスは迷いもせずにフェリオの隣に並ぶと、一緒に森の奥へ向かって歩き出した。どうせ大人たちの話はまだ終わらないのだろう。戻ったところでその話し合いに混ぜてもらえるとも思えない。
この森は普通の人たち――マグルも魔法使いも含む――にとっては、とても危険な森だ。だが、ルイスにとってはさほど危険な場所ではない。なぜなら、ここは古くから伝わるジュリアードの領地だからだ。魔法がかけられているので、マグルには決してあの屋敷を見つけることはできないし、魔法族も限られた人しか屋敷を訪れることができない。
いくらジュリアード一族の友人や親戚だとしても、勝手にこの森に立ち入ればどうなるか分からない。最悪の場合、無事にこの森を出ることはできないだろう――そう言われているが、そんな無謀なことをしようとした人が未だかつて存在しなかったようなので、実際のところ、どうなるのかは誰にも分からない。
「ところで、どこに向かっているの?」
しばらく歩いた先で、ルイスはフェリオを見上げて言った。すると、フェリオはちらりとルイスを一瞥し、僅かに首を傾げる。
「お疲れですか?」
「ううん、大丈夫だけれど」
「もう少しで着きます」
やはり、どこか明確な目的地があったようだ。
ルイスは幼い頃、森で迷子になってラウルやケンタウルスたちに迷惑をかけてから、あまり奥の方までは行かないようにしていた。思い出せるかぎりでは、これほどまでに深い場所までやってきたことはなかったように思う。
森の奥へ奥へと進むたびに、どんどん緑が濃くなっていくようだった。何百年も生き続けているのではないかというほどの太い木々が生い茂り、薬草事典で見た貴重な薬草、まだ見たこともない花や植物、そこには人の手によって荒らされることのない、手つかずの自然が広がっている。
「着きました」
ルイスがきょろきょろと辺りを見回しながら歩いていると、隣を歩いていたフェリオが立ち止まって、そう言った。しかし、フェリオが指す方向を見ようにも、目の前には巨大な木があったので、ここからではその向こう側を見ることができない。一体そこには何があるのだろうと、フェリオの方に身体を寄せてみると、目の前に広がっている光景に思わず目を奪われた。
「う、わあ、凄い、綺麗」
そこには、まるで隕石が落ちてきたクレーターのように、丸く刳り貫かれた泉があった。傾きはじめている太陽を鏡のように映し、水面をきらきらと輝かせている。周りを取り囲む木々の緑がそれを縁取り、何とも言えない幻想的な風景を作り上げていた。
「もう少し近づいて、水のなかをごらんなさい」
フェリオはルイスの背中に優しく触れて、前へ進むように促した。背の高い草が鬱蒼と生い茂っているので足許が悪い。フェリオはそれを察して、ルイスが泉に落ちないよう肩に手を置いてくれていた。
「これって……」
ルイスは水中で煌めくそれを見て目を細めた。そこにはたくさんの石が――おそらくすべてが宝石だろう――沈んでいる。赤、青、緑、黄――数えきれないほどの宝石が、まるで本物の夜空を輝かせる星のように、そこに存在していた。
「こんな場所があったなんて知らなかった」
ルイスがそう声を漏らすと、フェリオは眩しそうに水中を覗き込みながら口を開いた。
「ルーファス・ジュリアードは、よくここに来ていました」
「父さんが?」ルイスは首を傾げる。「何をしに?」
「祈りを捧げに」
「祈り?」
ルイスが訝しげにそう問うと、太陽の光を帯びてきらきらと揺らめく青空のような目が、こちらをじっと見つめた。それから不意に優しい眼差しになったかと思うと、くるりと踵を返す。
「そろそろアルバス・ダンブルドアも帰る頃でしょう。屋敷までお送りします、私の背に乗ってください」
今度はルイスがフェリオの顔を見つめた。ケンタウルスが人間を背中に乗せるという行為に、ルイスはあまり良い印象を持っていない。普通のケンタウルスならば、ルイス以上の嫌悪感を覚えるはずだ。禁じられた森に棲むケンタウルスたちは、ハリーとルイスをその背に乗せたフィレンツェを目の当たりにして激昂していた。だが、ルイスを見ているフェリオの顔は、なぜ乗らないのですかとでも言いたげで、どこか不思議そうだ。
「早く乗ってください。帰りが遅いとあなたの兄上に怒られてしまう」
一瞬、フェリオがラウルに叱られている様を想像し、ルイスはくすくすと笑ってしまった。奇妙な顔をしているフェリオに、何でもないと言って首を横に振る。乗りやすいように屈んでくれた背中によじ登り、横向きに座った。
確かにフェリオはケンタウルスだ。しかし、ルイスにとってフェリオはフェリオだった。ルイスは確かに人間だが、フェリオにとってはルイスがルイスであるということと同じように、友人で、親友で、家族なのだ。そう思えば、禁じられた森に棲むケンタウルスたちの言葉など、瑣末な問題にも思えた。
「ねえ、祈りってなに?」ルイスはフェリオの背中に身体を預けながら聞いた。「祈りって、何を祈るの?」
フェリオは器用に木の枝を避けながら進んでいった。その足取りはあまりにゆるやかで、背中で揺られている感覚がとても心地良い。
「彼が何を祈っていたのか、私には分かりません。けれど、ジュリアードは――あなたのお父上は、満月の晩には必ずあの泉へ赴き、佇んでいました」抑揚のない声に、少しだけ昔を懐かしむような感情が滲んだような気がした。「あの泉は、祈りの泉というそうです。祈る者の望みを聞き入れるのだと、そう言っていました。祈りの対価として泉に宝石を投げ入れ、聞き入れられるのをただじっと待つ」
ルイスはフェリオの背で心地良い揺れに身を任せながら、木々の隙間から覗く木漏れ日を見上げていた。宝石も美しいが、自然の光というものは、もっとずっと綺麗だ。そう思いながら、フェリオの話に耳を傾けている。
「何を祈っているのだと訊ねてみたことはありますが、彼は曖昧に微笑むだけで、肝心なことは何も教えてはくれませんでした。満月の映る水面に宝石を投げ入れたあとは、ただじっと波紋を広げていく様子を眺めていただけです。ただ、この泉に沈む宝石の数だけ、自分たちは大切なものを護ろうと必死だったのだと、そう教えてくれました」
「……父さんの祈りは、届いたと思う?」
「さあ、どうでしょう」フェリオは相変わらず抑揚のない声で言う。「私には分からないことです」
この土地は何百年とジュリアード家の領地であり続けている。あの泉から湧き出る水がこの森を造り、生かし、成長させ続けているのだろう。
泉の底には無数の宝石が沈んでいた。父が話していたという通り、その宝石の数だけ、先祖たちは数え切れないほどの祈りを捧げてきたに違いない。一体誰に祈るのか。何を祈るのか。誰がそれを聞きいれ、応えてくれるというのだろう。
祈りの泉は、とても美しい場所だった。そして、それと同じくらい、言い知れぬ悲しみが漂っていたようにも思える。フェリオはどうして今、自分をあの場所へ連れて行ったのだろうとルイスは思った。だが、そのことを訊ねたところで、望んだ返事が返ってこないことなど分かりきっている。
今のルイスに祈るべきことはない。けれどいつか、これまでの当主たちがそうだったように、自分にも祈るべきときがくるのかもしれないと、ルイスは漠然とだがそう思った。
屋敷が見えるところまでフェリオに送られてくると、窓辺に寄り掛かりながら空を見上げているラウルの姿があった。ルイスはふくろうでも待っているのかと思ったが、隣にいるフェリオが呆れたように息を吐いているので、どうやら違うようだ。
「送ってくれて、どうもありがとう」
ルイスはフェリオの背中から滑り降りると、前に回り込んでにっこり微笑んだ。すると、フェリオは少し意地の悪そうに口の端を片方だけ持ち上げる。
「動物の姿を模るときは、もう少し動物らしく振舞うことをお勧めします」
「……意地悪」
「では、これで」
顔を顰めて舌を覗かせるルイスを見下し、フェリオは少しだけ表情をやわらかくさせた。それから軽く会釈をし、くるりと背を向ける。またね、というルイスの声に答えるように、尻尾が大きく左右に揺れた。