ホグワーツへ戻るのが二週間後に控えた日の朝、ルイスはやけにおかしな夢を見たと思いながら、ベッドの上にのっそりと起き上がった。だが、最近は自分の見る夢が本物の夢なのか、夢でないのか判断がしにくいのだ。あの薬を飲んでいるからといって、絶対に夢――のようなもの――を見ないようになるわけではないのだと、身を持って実感していた。けれど薬を服用し続けているせいか、夢の後の気分の悪さに襲われることはもうなくなったので、それだけが救いのように思える。
しかし、今日見た夢は、きっと本物の夢に違いないとルイスは思った。本当におかしな夢だったのだ。
それはなぜか友人のハリー・ポッターと、その親戚兼保護者であるダーズリー一家が食卓を囲んでいる夢だった。ひとりの女性の言葉に癇癪を起こしたハリーが、そのおばさんを風船のように膨らまして家出をしてしまう夢だった。それが夢以外に何と説明できるだろう。ハリーがこのようなことを実際にしてしまったら、下手をすると魔法省に逮捕されてしまいかねないし、ホグワーツは退校処分だ。いくら頭にきたとしても、ハリーはそのようなことをしたりはしないだろう。
あれはやはり夢だったのだと思うことにして、ルイスはベッドから滑り降り、クローゼットからローブを取り出して着替えを済ませた。もう少しでみんなに会えるのだ。そう思うと何だか少し嬉しくて、階段を下りる足取りも軽かった。それに、新学期が始まればセブルスに特別授業をしてもらう約束にもなっていた。ルイスは魔法薬学が嫌いではなかったので、それが殊更楽しみでならなかった。
「ふたりともおはよう」
ルイスが階段を降りきってそう挨拶をすると、ダイニングテーブルで食事をしていたラウルとリーマスが挨拶を返してくれた。しかし、なぜかいつもと様子が違うような気がして、ラウルの隣に座りながら訝しげにふたりを見比べる。
「どうかしたの?」
見兼ねてそう訊ねるが、ラウルもリーマスも曖昧に笑って何も答えてはくれない。代わりにラウルが今日の日刊預言者新聞を押し付けてくると同時に、リーマスが席を立った。
「私は少しやることがあるから、部屋に戻らせてもらうよ」
リーマスはそう言うと、足早にキッチンから立ち去ってしまった。
「ねえ、本当にどうしたの?」
ルイスがもう一度問うと、ラウルはただ新聞を読むようにと促してくる。何が何だか分からないまま、ルイスはとりあえず今日の新聞に目を落とした。
ブラック未だ逃亡中
ルイスはその見出しに顔を顰めた。
「ブラックって、あのシリウス・ブラック? アズカバンに投獄されている?」
「いいから、先を読んで」
魔法省が今日発表したところによれば、アズカバンの要塞監獄の囚人中、最も凶悪といわれるシリウス・ブラックは、未だに追跡の手を逃れ逃亡中である。コーネリウス・ファッジ魔法大臣は今朝、我々はブラックの再逮捕に全力であたっていると語り、魔法界に対し平静を保つようにと呼び掛けた。魔法省大臣はマグルの首相に対しても、シリウス・ブラックには警戒するよう警告を発したという。マグルにはブラックが銃を保持していると伝えてあるが、ブラックはかつて杖の一振りで十三人もの人間を殺した殺人鬼であり、そのような警告は気休めにもならないだろう。魔法界はあのような悪夢が再び起きるのではないかと恐れている。
新聞にはそのような記事と一緒に、シリウス・ブラックの顔写真が載っていた。暗い影のように落ち窪んだ目が殺気を帯びている。頬は痩せこけ、髪と髭は当たり前だが手入れされてはいない。
ルイスはその記事を読んで、今朝の夢のことなどすっかり頭から消え去ってしまった。
「脱獄していたの? 全然知らなかった」
思えば、ルイスはこのところ日刊預言者新聞を目にしていなかった。なぜだろうと思っていると、ラウルは杖を取り出して一振りし、ここ最近の日刊預言者新聞をばさばさとテーブルの上に出現させた。それらの新聞の一面は、どれもシリウス・ブラックがアズカバンから脱獄したという記事で、その凶悪な顔写真がおまけのように掲載されている。
「最初に話してしまえばよかったんだけど、逃してしまうとなかなか言いだせなくてね」
その言葉の意味を理解しかねて、ルイスは首を傾げた。
「どうしてシリウス・ブラックが脱獄したことを、あたしに隠さなければいけないの?」
「別に隠そうと思ったわけじゃない。いずれは知ることだからね。だけど、僕たちは――特にリーマスは、このシリウス・ブラックの脱獄という事実を聞いて、多分、かなり動揺しているんだ」
「ちょっと待って。このシリウス・ブラックが、ラウルやリーマスと何の関係があるっていうの?」
慌ててそう問うと、ラウルは近年稀に見る真面目な表情をこちらに向けていたので、ルイスは言葉に詰まった。言いたいことが喉まで込み上げてきているのに、仕方なくその言葉をごくりと呑み込んだ。
「……ジェームズ――ハリーの父親について、前に話たことがあったね?」
「話したといっても、本当に少しだけね。リーマスとは仲のいい友達だったとか、グリフィンドールのチェイサーだったとか、それだけ」
「そう。ジェームズとリーマスは、仲のいい友達だった。だけど他にもふたり、仲のいい友達がいたんだ。ひとりの名はピーター・ペティグリュー」
ピーター・ペティグリューの名は、どこかで聞いたことがあるような気がする。ルイスはラウルの話を聞きながら、そう思った。
「そしてもうひとりが、このシリウス・ブラックだ」
「……えーと、リーマスと……あの、シリウス・ブラックが?」
ルイスはラウルの言葉を受け入れ、理解するのに少し時間がかかった。思わず確認するようにそう尋ねると、ラウルは首を縦に振った。
「ホグワーツの悪戯仕掛人と言われていてね。それは問題児で、彼らの悪戯には先生方も頭を悩ませていた。だけど、成績はとても優秀で人気もあったんだ。僕が人狼だと知っても、それを周囲に吹聴するどころか、敵対しているスリザリン生の僕にも、本当によくしてくれた」
そう言うラウルの表情は昔を懐かしく思っているのに、それを思い出すのはあまりに酷だと、そう言っているようだった。
「ホグワーツを卒業したあとも、彼らは仲良くつるんでいたよ。休日になれば頻繁に会うようにしていたし、ジェームズとリリーの結婚式では、シリウスが新郎の付き添い役を務めた。そして、ポッター夫妻はシリウスをハリーの後見人にしたんだ」
僕もその結婚式には参加してね、とラウルは付け加えた。
「だけど、ハリーが生まれて間もなくすると、ヴォルデモート卿がポッター夫妻を付け狙い始めた。その頃はちょうどヴォルデモートの全盛期時代で、ダンブルドアを含めた何人かの魔法使いがとある組織を設立し、その組織から放たれたひとりのスパイが、ポッター夫妻がヴォルデモート卿に狙われているという情報を、どこからか仕入れてきた。ダンブルドアはすぐふたりに危険を知らせたよ。だけど、ヴォルデモート卿から身を隠すのは、容易なことではなかった」
ルイスは今までに二度、本物のヴォルデモート卿に会ったことがある。正確には、一年生のときの闇の魔術に対する防衛術の教授に寄生し、力と体を取り戻すために賢者の石を奪おうとしていたときの、ただ一度だけだ。二年生のときに会ったのは、ヴォルデモート卿の十六歳のときの記憶だったので、ヴォルデモート卿その人に会ったというわけではない。
けれど、あのとき会った少年はヴォルデモート卿ではなかったと、ルイスは心のどこかでそう考えていた。あのとき会ったのは、トム・リドルという十六歳の少年だ。しかし、十六歳という年齢で自分の記憶を日記に封印できるだけの能力を持っているのだから、全盛期時代ともなれば、それは驚異的な力だったことだろう。
「だから、ダンブルドアはふたりに忠誠の術を勧めた。それが一番助かる可能性がある方法だと、そう言ってね」
「忠誠の術って、秘密の守人ね。生きた人間のなかに秘密を封じ込めるという、あのとびきり複雑な魔法でしょう?」
「そう。当然ポッター夫妻はそれを実行した。ダンブルドアは彼らの秘密の守人を引き受けると申し出たけど、あのふたりはそれを断った。そしてジェームズは、シリウスを自分たちの秘密の守人にしたんだ」
「だけど――」
「ダンブルドアは、ジェームズのすぐ近くにヴォルデモート卿の放ったスパイがいると、そう確信していた。だから少なくとも、ダンブルドアははじめからシリウスや、それにおそらくリーマスのことも疑っていたんだと思う」
ラウルはルイスの言葉すら遮って、ほとんど息も吐かずに急いで先を続けた。このような話は早急に終わらせてしまいたいとでも言うように、言葉を挟むことを許さなかった。
「案の定、ダンブルドアの確信は的中し、忠誠の術をかけてから一週間も経たないうちに、シリウスはふたりを裏切った。十二年前のハロウィンにヴォルデモート卿がポッター夫妻の家に押し入りふたりを殺したあとで――」
「ハリーに呪いを弾き返され、凋落した?」
「そして、その後すぐに新聞に書いてある通りのことが起こった。たった一度の呪いで、シリウスは十三人の人間を殺した。ひとりの魔法使いと、十二人のマグルを。十三人を殺したあと、シリウスはその場に突っ立って狂ったように高笑いをしていたと、そう聞いている。魔法省の警察部隊に捕らえられたシリウスはそのままアズカバンに連行された。そして、僅かな肉片だけを残して消えるように死んでしまったひとりの魔法使いというのが、ピーター・ペティグリューだった」
ラウルの話をそこまで聞いて、ルイスは自分の心臓が早鐘のようにどくどくと鼓動を繰り返していることに気付いた。自分のことでもないというのに、酷く動揺している。
「それなら、シリウス・ブラックはハリーのお父さんの親友だったけれど、本当はヴォルデモート卿の手下で、スパイだったということなの?」
「そうだね。一般的には、そういうことになっているみたいだよ」
ラウルは生真面目な顔でそう言うと、ポットを杖で軽く叩き、お湯を沸騰させて新しい紅茶を淹れてくれた。
「魔法省の人間から聞いた話によると、シリウスがアズカバンから脱獄したのには、どうやらそれなりの理由があるらしい」
「理由?」
「シリウスはハリーの死を望んでいるというんだ。その証拠にシリウスが脱獄後、魔法省大臣のファッジがアズカバンに行ったとき、看守がこう報告したというんだ。あいつはホグワーツにいるという寝言を、シリウスが頻繁に口にしていたと」
ルイスは急に目眩がして、頭を鈍器で殴られたような気持ちになった。そのまま驚愕しきっていると、ラウルは小さくため息を漏らす。
「だから、リーマスは複雑な心境なんだと思う。かつては確かに友人だったシリウスが、親友であるジェームズを裏切り、そしてピーターを殺した。アズカバンに収容されたと思ったら、十二年後に脱獄。普通、十二年もアズカバンで吸魂鬼の近くにいたら、正気を失ってしまうのが普通だし、ましてや脱獄なんてできるはずがない」
「でも、それでもシリウス・ブラックは脱獄した。吸魂鬼を掻い潜る方法なんてあるのかな……」
「そうなんだ、問題はそこだよ。どうやってアズカバンから脱獄をしたか、それが不思議でしょうがない。未だかつてアズカバンから脱獄に成功した者は誰もいないからね。脱獄する方法を見つけたという時点で、シリウスは正気を失っていなかったのだということが分かる」
すると、ラウルは心なしかその目を輝かせてルイスを見た。しかし、それは錯覚だと思わせるほど、瞬きをしたあとに開いた目は虚ろに見えた。
「僕はね、ルイス。どうしても、あのシリウスがジェームズを裏切ったとは思えないんだ。確かに、明らかにされている事実はシリウスが間違いなく犯人だと、そう言っているようなものだし、もしかしたら本当に彼がジェームズを裏切ったのかもしれない。その事実を知るのは、今となってはシリウスただひとりだけだ。だけど、そのシリウスは裁判もなく、弁解の余地すら与えられず、すぐさまアズカバンに収監されてしまった。だから、誰も彼の口から真実を聞くことはできなかったし、多分、彼の口から語られることなんて、結局のところ誰も信じなかっただろうとは思うけど」
ラウルはとても歯痒そうな表情を浮かべていた。けれどその表情と口調から、ルイスは何となくラウルの言いたいことが分かるような気がした。
「……ラウルは、シリウス・ブラックに会いたいんでしょう?」
ルイスが何の前触れもなくそう口にすると、ラウルは目を見開いて驚いていたが、それから少し困ったような笑顔を見せて首を傾げた。
「会いたいよ、多分ね。それに、シリウス本人の口から真実を聞いてみたい。彼が脱獄した目的がハリーではないと信じたいし、ジェームズを裏切ったとも思いたくない」
「シリウス・ブラックが犯人じゃないと、ラウルはそう思っているの?」
「一概にそうとは言えないけどね。でも、個人としてはそう信じたい。それに、僕の知っているシリウス・ブラックは、決して闇の勢力に加担するような人ではなかった」
その日、ジュリアードの屋敷はほぼ一日中、鬱々とした雰囲気に包まれていた。しかし、この屋敷に住む三人はその雰囲気に決して気づかないふりをして、それぞれが明るく振る舞おうとし、互いに気を使いあっていたように思う。ラウルとリーマスは不自然なほどいつも通りだったし、ルイスもなるべく普段通りを装い続けた。
けれど、その普段通りが、夕食を終えて食後の紅茶を飲んでいるときにぽろっと口にしたルイスの言葉と、慌てすぎて家の窓ガラスに激突したふくろうの来訪によって豹変することになる。
「そういえば、今朝変な夢を見たの」
鬱々とした雰囲気のままでいるのが嫌で、ルイスは今朝見た夢の話をしようと思い立った。
「夢? 夢って――」
そう言ったラウルが怪訝そうにこちらを見たので、ルイスは慌てて首を振った。
「あれはラウルが思っているような夢ではないよ。間違いない。だって、あんな変なことが実際に起こるはずがないから」
ルイスはあの夢を思い出してくすくすと笑ってしまった。最初はとても腹立たしかったのに、ハリーがあのいけ好かないおばさんを風船のように膨らませてしまったのを思い出すと、とても愉快な気持ちになってしまうのだ。
ルイスが面白おかしくその夢のことを話して聞かせると、ふたりはくしゃっと顔を歪ませて笑った。やっと笑ってくれたと思いながらルイスが安心しかけたとき、どんっと鈍い音をたてて何かが窓ガラスに激突する。
「今の音、なに?」
「慌てん坊のふくろうかな」
ラウルは椅子から立ち上がると、窓を開けて地面にのびきってしまっているふくろうを抱き上げた。そして、足から丁寧に手紙を取り外してやり、ふくろうを抱き上げたまま差出人を確認している。
「誰からなの?」
「魔法省の知り合いから。一体なんの――」ラウルはそこで一瞬、固まったように動かなくなった。それから思い切り顔を顰めると、ルイスを見た。「ルイス、ハリーがおばさんを膨らませて、家出をしたって?」
「え? う、うん、そうだけれど」ルイスはこくりと頷くが、すぐに事態を悟った。「ちょ、ちょっと待って、まさか……」
「そのまさかだよ。ルイスが見たものは夢じゃなかった。ハリーはおばさんを膨らませたあと、家出をして姿をくらましたって書いてある」
ラウルはそう言って苦笑すると、杖を一振りしてリビングのテーブルに何やら取り出してみせた。美しい細工が施された大きな楕円形の銀色の鏡に、同じ細工の刻まれた水差しだ。しかし、ルイスはそんな物には目もくれず、椅子から滑り降りるとラウルの隣に駆け寄った。
「ねえ、でも、本当? だって、そんなことをしたら、きっと大変なことに……」
このときばかりは、自分の身体に心配性なハーマイオニー・グレンジャーの魂が乗り移ったのではないかと、ルイスはそう思うくらいに大きく動揺していた。
確かに、ルイスには――ジュリアードの家系には代々、現在、過去、未来を見通す能力が備わっていると、そう言われている。しかし、幼いうちはその能力を制御することができず、自分の意志に反して夢のような形で現在や過去、未来を見ることがあるのだ。けれど、今朝見たあれが、まるで現実味のない夢のようなものが、実際にあった事実だと誰が考えるだろう。
「まあ、少し落ち着いて。今からそれを見てみるから」
ラウルはそう言って、ルイスの腕に気絶したままのふくろうを預けた。それからソファに腰を下ろして銀の水差しを手に取り、鏡のうえにゆっくりと水を流していく。
「たまにね、魔法省の役人たちは自分たちの都合で、こうして僕に厄介事を手伝わせるんだ。人狼は信用ならない生き物だとか言って、まったく矛盾した話だよ」
ラウルは面倒臭そうにそう言うと、ちらりとリーマスを見て悪戯っぽく笑った。そして、杖を持ち直すと、その先を鏡の上に広がった水面に向け、何やら呪文のようなものを唱えはじめる。すると、水面には小さな波紋が広がっていき、ぐるぐると反時計回りに渦を巻き出した。
「よく見ていてごらん。ルイスには見えるはずだよ」
ダイニングテーブルからリビングに移動してきたリーマスは、ルイスの隣に腰を下ろした。物珍しそうに目の前の鏡を見ていたが、ラウルはリーマスの様子などお構いなしに、ルイスに向かってそう言った。
鏡の上の渦はどんどん弱まっているように見えたが、本当はその逆なのだとすぐに気づいた。物凄い勢いで渦を巻いているので、最後にはその渦すら見えなくなる。
「……ほら、見えてきた」
ラウルはちょんと杖で水面を突いた。ルイスは目を凝らし、ソファから身を乗り出して鏡の中を凝視する。すると、ラウルの言ったとおり、僅かずつではあるが何かが水面に見えはじめた。
「これって――ハリー?」
「その通り。どうやら夜の騎士バスに乗っているみたいだね」
水面は少し淀んでいたが、薄い霧がかかっているように見えるだけで、ハリーの顔ははっきりと捉えることができた。
「リーマスには何か見える?」
ルイスがそう声をかけると、リーマスは首を横に振った。
「いや、私には水を張ったただの鏡にしか見えないよ」
リーマスもルイスと同じように鏡を覗き込んでいたが、本当に、これがただの鏡にしか見えないようだった。
夜の騎士バスというものの話を聞いたことはあるが、ルイスは実際にそれに乗ったことはなかった。しかし今日、鏡越しにそれを見て、このまま一生乗らなくてもいいかもしれないと、そう思う。とりあえず、運転がかなり荒そうだ。角を曲がるたび、そして停車をするときは急ブレーキをかけ、いくつか並んでいるベッドがその度に五十センチくらい移動する。
ラウルが再び水面を突くと、鏡の上の景色がぼやけ、違う場所が映し出された。
「漏れ鍋かな。これってトムでしょう?」
「ハリーはどうやら家出をした後、夜の騎士バスに乗って、ロンドンの漏れ鍋に向かっていると考えていいようだね」
ラウルはそう言うと杖を水面に押しつけ、もう一度耳慣れない呪文ぶつぶつと唱えた。そうすると、鏡の上にあった水がすべてラウルの杖先に吸い込まれるようにして消えてしまい、今まで見えていたハリーの姿が見えなくなる。その代わりに、ラウルとリーマス、それからルイスが鏡を覗き込んでいる姿が、そこに写った。
魔法で羊皮紙と羽ペンを取り出したラウルは、さらさらと何かを書き込んでいく。それはほとんど殴り書きに近いもので、いつもに比べると大雑把な文字の羅列だった。解読するのに難儀しそうだ。
「ルイス、かわいそうだけどそのふくろうを起こしてくれる?」
ルイスが腕に抱えていたふくろうは未だに気を失っていたが、何度か揺すってやるとびっくりしたように起き上がり、大きな丸目を何度も瞬かせた。ばさばさと大きな翼を羽ばたかせてルイスの頬を打ったかと思うと、リビングの天井でぐるぐると旋回をはじめる。
「さあ、元気なのは分かったから、これを魔法省に届けてくれ。大至急だよ。どこかで木に激突して届かないなんてことがあったら大変だからね」
そう言うラウルの腕にふくろうは止まり、大人しく足に手紙を括り付けられていた。そして窓辺まで運んでやると、来たときと同じくらい大慌てで暗い空に飛び立っていった。
「この鏡は一体何なの?」
窓辺から戻ってきたところでルイスが訊ねると、ラウルは鏡と水差しを杖一振りで消してしまった。
「遠視鏡っていうんだ。元々は母さんが使っていたものだったんだけど、母さんがいなくなってしまっても、そっち方面の仕事は一向に減らなくてね。変わらず僕のところに依頼が来るんだよ」
「そっち方面の仕事って……?」
「ああ、そういえばルイスにはまだ話したことがなかったね」ラウルは苦笑して、小さく肩を竦めた。「母さんの本職が闇祓いだったってことは知っているよね? だけど、副職で――いや、副職というよりはボランティアかな。本当に必要だと思ったときにだけ、今みたいに少し未来を覗き見していたんだ。母方のカトレットの家系は、トレローニーの家系に次いで多く予見者を出している」
「トレローニー?」
「ホグワーツの先生にもいるよ。占い学の、確か――そうだ、シビル・トレローニー」
「今年から占い学の授業が始まるけれど、そのトレローニー、先生ってどんなヒトなの?」
トレローニーと呼び捨てにしようとしたルイスをラウルが咎めるように見たので、慌てて先生と付け加えた。
「有名な予見者のカッサンドラ・トレローニーの曾々孫で、第二の眼の持ち主だと聞いたことがあるけど、僕は直接彼女の授業を受けたことがないから、詳しいことは分からない」
「さっきの鏡に映ったものがリーマスには見えなかったのはどうして?」
ラウルとリーマスを交互に見ながらルイスが尋ねると、今度はリーマスが答えてくれた。
「それは多分、私にはそういう能力が備わっていないからだと思うよ。というよりは、やはり血筋の問題だろうね。例えば、水晶玉を覗いても何も見えてこない人がいるのと同じだよ。ラウルもルイスもカトレット家の血を受け継いでいるから、予見者としての才能が他の人より秀でているんじゃないかな」
ルイスはそれから自分の部屋に戻って、セブルスに出された魔法薬学の追加課題を片付けながら、ぼんやりとハリーのことを考えていた。とりあえず、ハリーが無事なのだということは分かった。しかし、問題はその後のことだ。おばさんを風船のように膨らませてしまったということは、ハリーが魔法を使ってしまったということになる。未成年の魔法使いが学校以外の場所で魔法を使うことは法律に違反するのだ。それどころか、マグルに危害を加えたのだから、それなりの処罰があるはずだ。そう、例えば――学校を退校処分だとか。
もしハリーがホグワーツを退学することになったら、きっとセブルスは大喜びだろう。きっと毎日がクリスマス気分に違いない。
しかし、ルイスはハリーが問題を起こしたという事実を目の当たりにして、終始冷静にしていたラウルとリーマスの態度が気になっていた。まるで、退学になるかもしれないなどということは、考えもしていないかのように。あの冷静さは、一体どこから、何を根拠にやってくるのだろう。
そのとき、ルイスは不意に日刊預言者新聞に載っていたシリウス・ブラックの顔が脳裏に過るのを感じた。
「そうか……」
魔法省の考えでは、シリウス・ブラックがアズカバンから脱獄したのはハリーの命を奪うためだと、そういうことになっている。そう考えると、ハリーをどうしてもホグワーツから退校させるわけにはいかないのだ。ハリーはダンブルドアの傍にいなければならない。ダンブルドアはあのヴォルデモート卿ですら恐れている、近年で最も偉大な魔法使いなのだ。ダンブルドアの傍にいれば、例えシリウス・ブラックがハリーの命を狙っていたとしても、そう簡単に殺せるわけがなかった。魔法省はハリーをみすみす殺すわけにはいかないのだ。ハリーは例のあの人と恐れられているヴォルデモート卿を打ち負かした張本人であり、有名人だ。そのようなハリーを、アズカバンから脱獄した囚人に殺されでもしたら、きっと魔法省はこの世の終わりを見る。
ルイスは自分にそう言い聞かせるようにして、無理やりにも納得させた。そして近いうちに――セブルスが出した宿題が終えた頃――煙突飛行は嫌だけれど、ダイアゴン横丁の漏れ鍋に行ってみようと、そう思った。きっとハリーは、夏休みの残り二週間はプリペット通りのダーズリー一家の家には帰らず、漏れ鍋で過ごすことになるはずだ。それに、新学期の買い物もしなくてはならない。
ルイスは天井に向かって腕を突き上げるようにして身体を伸ばしてから、机の上のランプを消した。今日はもう眠ろうと思い、ベッドに潜り込む。今夜は夢も見ずに眠れますようにと、そう心から願いながら。