1943年、8月。
8月に入って20日目、金曜日の朝だ。あー、今日もいい天気……っと。
(うーっし、今日も目覚まし時計に勝った)
アラームを五時に合わせた枕元の目覚まし時計のスイッチを切り、ベッドから起き上がった姿勢でしばらくボンヤリする。
当たり前ながら、目に入ってくるのはいつも見慣れた自分の部屋。いつも通りの古いスチールベッドに、ところどころが黒ずんだ白いリノリウムの床、あとハンガーの制服と略帽。ついでに木製の簡素な机に、そこに置かれたガス欠のガスランプと中佐に昇進したときの記念メダル。あとは色々と雑多なものを仕舞ったタンスがあって終わり。何気に電気は来ていないのがアレだ。
特に何の変哲も無い、ただの部屋。……まあ、ちょっと殺風景か。木製の格子にはめられた窓ガラスの向こうには、今日も南国の日差しを浴びて輝くブーゲンビルの蒼く澄んだ海が見えた。
しばらくボーッとしたら寝巻きから肩章のついた真っ白な半袖の制服に着替え廊下に出る。早朝の静まり返った空気を感じながら向かうのは俺の主な仕事場、執務室だ。
「おっ」
いつも俺が朝一に開ける執務室のドアがすでに開いてあって、カーテンのようにドアの脇にまとめられた蚊止めのネットが風に吹かれて揺れていた。風が通ってるって事は、窓も開けられているのか。
目覚ましには勝ったが出勤時刻は負けた、ウチの秘書艦は俺より早く起きてきたらしい。
「おはよう!今日も良い朝だな……って、いねぇし」
ここに隣接する休憩室か?あっちの部屋は畳張りになっていて、4畳ほどのスペースながら毛布とかも置いてあるので、たまにヒマになった艦娘たちがあっちで昼寝していたり遊んでいたりする。
壁に掛けられた時計の針は五時十五分を指していた。まあ普通にかなり早い時間だし、奴も頑張って早起きしてるんだから無理に起こしてやるのも酷な話か。
……じゃぁしばらく寝かしといてやるとしよう。頑張れば朝の仕事なんざすぐ終わるし、どうせ時間が余るんだったらお茶ぐらい自分で入れたほうが効率的かもしれん。大体お茶汲みのために艦娘のみんなを使うなんてなぁ……特に負担でもないし、自分でいれた方が好みで入れられるからいいと思うんだよね。
「それでは本日の業務を開始いたします、帝都に向かって敬礼!」
何だろう、やっぱり1人でやるのもアレだねぇ。空しい。
敬礼を解き、胸ポケットから出した紙巻き煙草にマッチで火を点けながら、少々寂しいようなそうでないような、微妙な気分になるのだった。
それから一時間ほど経って。
「完ー了ー!………っふー」
ギリギリまで吸いきった煙草の火を灰皿に押し付けて消し、大きく伸びをする。机の上の書類に全て目を通し、今日一日のスケジュールも把握した。なんかやけに仕事が少ないが……まあ、毎日これだから慣れた。軍人らしからぬスケジュールも『艦娘』の総指揮官の特権、というか珍しく昨今は国際情勢も平穏で内地の方も暇だなんて同期の奴が言っていた。まあ俺たち兵隊の出る幕がないのは結構な事、やはり何でも平和に越したことはない。ぼんやりと電気式扇風機の風に当たりながら、これまた読むのが習慣になっている新聞を手に取った。
新聞とはいっても3種類あって、ひとつは東京から毎月まとめて送られてくる向こうの新聞(もちろん先月分だ)、ふたつめがギニアに駐在する日本の新聞社が発行する現地ニュースを取り扱った新聞。
―――で、3つ目は『青葉新聞』。ゴシップ好きな重巡洋艦娘の『青葉』が、自身の集めたネタやら写真やらをまとめて毎週出している新聞だ。ちなみにこれは両面刷りの1ページ。毎週1人で書く新聞なんだし、まぁ小さくもなるか。
俺はどちらかと言うと堅い話は苦手だし、それに先月ぶんの新聞の情報も現地のローカルニュースも粗方ラジオで把握している。そうなると必然的に手に取るようになるのが青葉新聞になるわけで。……お、最新号じゃん。目を通しとこう。
「どれどれ、『新規艦娘、続々配備サル』……?」
なんでも今週中に新規に登録された艦娘が何人かウチの基地に配属されるようだ。はあ、今回は駆逐艦がメインか。
「2面……は、『超弩級!独逸戦艦、長崎ニ寄航!』?はて、こっちは本当に分からんぞ」
ドイツ生まれの戦艦娘『ビスマルク』?……そもそも僕はドイツの
なんか結構な問題児が来そうな予感がしてならんが、まあ気のせいだろう。……そういえば、この手のカンが最近やたら当たるんだよなぁ。
………それも多分気のせいだろう。きっとそうだ。
「ま、ひとまず居眠りさんの分の茶も淹れてきますか」
湯沸室、湯沸室っと。
やっぱ湯沸室が近くにあるって便利だ。執務室の2つ隣に行けばもう湯沸室だもんな。お茶も冷めなくていい。
さーて、そろそろ休憩室の奴を起こさにゃあならん。まだ寝てるみたいだし。
「おーい、誰だい朝から無茶した奴ァ」
バコーン、とわざと音を立てて休憩室のドアを開ける。
中で丸まって寝ているのは、学ランのような詰め襟の上衣に短いスカートとニーハイをはいた黒髪の少女。
いつも被っている学生の制帽っぽい帽子はきちんと外して置いていた。まぁ起きてから折角とかした髪が乱れないように外してるんだろう。ちなみに俺の略帽は自室の帽子掛けに年中刺したままだ。……まあそういう訳なんでこの帽子、ちょっくらありがたく活用させていただく。
「すわっ」
投げた。
「わぷっ!?」
当たった。
「っしゃー、顔面ヒーット!」
「だ、誰でありますか!………って、提督殿!?」
泡食って飛び起きたウチの揚陸艦娘にして秘書艦、『あきつ丸』が俺を見るなり顔を赤くして飛びずさった。
というか奴は何でスカートの裾を押さえとるんだ。俺は見てないぞ、断じて見てない。
短いスカートの裾から見える白い下着など……っとと、くわばらくわばら。
「まあいい、取り敢えず出てこい。冷める前に茶でも飲もうや」
「………提督殿、見たのでありますか?」
「あ、アホ!お前の下着なぞ見るかッ」
「動揺するということは……」
「ぐ………」
まだ顔が赤いながらも、いつもの落ち着きを取り戻したあきつ丸が溜め息を吐きながら靴を履く。
……ポーカーフェイスの練習でもするか、俺。不知火か加賀あたりに頼むとしようかな。あ、でも動機が動機だから問答無用でブッ飛ばされるかもしれん。やっぱナシだ。
立ったまま手にした湯呑みを傾けながら、完全なる真顔でそんなことを考える俺であった。
「お、もう7時か………」
「そのようでありますね。食堂へ行かれますか?」
「そうするか。そうしよう」
朝のラジオを聞きながらあきつ丸と駄弁っていると、いつの間にか7時になっていたらしい。中庭から7時を告げるラッパの音が響いてきた。今日の当番は軽巡洋艦の……『球磨』か?元気に最大音量で滅茶苦茶に吹きまくっている。
『みんな起きるクマー!!』
おお、やっぱ球磨だった。朝から元気があってよろしいこった。
椅子から立ち上がってラジオのスイッチを切り、机の上に転がしていた煙草の箱を胸ポケットに詰めた。それを見たあきつ丸の顔がわずかに曇る。
「提督殿、差し出がましい事とは思いますが……」
「やーだね。これは止めねーもん」
前々から結構いろんな艦娘たちに言われているが、俺は煙草を止めるつもりは毛頭無い。そりゃ確かに健康に悪いが、それも知ってやってんだから別に良かろう。
それに俺はちびっ子たちの前では吸ってない。これでもマナーはきちんと守ってるつもりだ。
………でも何で
「こちとら煙草ってのは……あ、いや何でもねーや」
「………はぁ」
まあ行こうや、と釈然としない表情を浮かべたあきつ丸を促して執務室を後にする。
んー、ノリが悪いやっちゃ。まだ暗い顔してやがる。それならこっちも強行手段だ。
「そぉら走るぞあきつ丸!俺より早く着いたら朝飯奢ったらぁ!」
「あ、ちょっ、提督殿!?」
ハッハッハッ、ようやくノってきたなあきつ丸よ!だが仮にも俺は戦地も抜けた生粋の軍人!足の早さにゃ自信が
「………よお、お前の定食も並でいいか」
「良いのであります」
「はい、並を二人ぶんですね」
今日も眠そうに食券の発券係をしている工作艦娘『明石』に小銭入れから出した400円を渡し、2人分の券を受け取る。
あきつ丸、ウチの基地では珍しい
「はよーざーす」
「おはようございます提督。昨日はよく眠れました?」
「うん寝れた寝れた。めっちゃグッスリ。あ、並定食ふたつお願いできますか」
「はい、では少しお待ちください」
「うーい」
食券を2枚受け取って、てきぱきと処理していくのは、割烹着姿の軽空母艦娘『鳳翔』。今日も早起きして朝食を作ってくれていた。本当に有り難し。
ちなみに厨房の担当はいつも鳳翔さんが中心になってやってくれているが、皿洗いとかその辺りの雑用は当番制で他の艦娘が担当することになっている。ちなみに今日の当番は……ああ、綾波型姉妹か。奴らなら真面目にやってくれるだろうから心配ナシだな。これを軽巡の川内型姉妹に任すと皿が滅茶苦茶になるから警戒せねばならん。
「はい、定食の並です」
「ありがとう」
「頂くのであります」
鳳翔さんから食券の半券と食器の乗ったトレーを受けとる。お、今日はアジの開きかー!日替わりのメニューに好物が入ってると嬉しくなるな。
まだかなり早い時間のためガランとした大食堂の角に、あきつ丸と向かい合って座る。朝食の最中だが、俺らにとっては大事な打ち合わせの時間だ。
勿論飯も味わって、残さず食べるがね。鳳翔さんの作る飯は本当に美味い。いつも俺が鳳翔さんに頭が上がらない理由もここら辺にある。
「いただきます!」
「頂きます」
味噌汁を一口すする。……あぁ、味噌と出汁の加減が絶妙。何とも言えん旨さだ。
味噌の味が残っているうちに麦飯をかきこみ噛んでいると、同じく向かいで味噌汁を飲んでいたあきつ丸が口を開いた。
「ところで提督殿、本日のご予定でありますが」
「デスクにあった分は把握してるぞ。あと他に何か補足か?」
「はい。今朝『向こう』から客人が来ると連絡があったのであります」
「早朝からアポの電話かよ……すまんな。本来なら俺が電話を取るところを」
脂の乗ったアジの身をほぐしていきながら、思ったままを口にする。俺がトップである以上は、彼女らに無理はさせたくない。以前から決めている俺なりの決意だった。まあ決意したところで誰も察してくれやしないんだがね。
「良いのですよ。この程度は朝飯前であります」
「二度寝してた奴が偉そうになぁ」
「あ……あれは不可抗力です!」
でかい胸を張って得意そうにしたかと思えば、くるっと表情を変えてあたふたとするウチの秘書艦。あー、楽しいったらありゃしねぇな。
顔を真っ赤にしてお新香を
「今日もいっちばーん!提督、おっはよーございまーす!」
「はよーす」
猛スピードで食堂に駆け込んできたのは駆逐艦娘『島風』。
「しれえ!おはようございます!」
「はよー」
やや遅れて二等賞、駆逐艦娘『雪風』、
「ふっ、やはり速力で駆逐艦には敵わんな!」
「オイやめれや超弩級。また床を抜く気か?」
三等賞、長門型戦艦『長門』。……『また』という辺りで色々と察してほしい。
「川内ちゃん起きて!食堂ついたよー!」
「………やせん……」
「お、お早うございます提督……」
「おっは。毎朝ご苦労」
川内型軽巡三姉妹。『那珂』が上半身を、『神通』が足を持って運んでいるのは長女の『川内』。絶賛爆睡中だ。
「おはようございまぁ〜す」
「おはー提督、大井っちは?」
「Доброе утро」
「ちょっと姉さん、またタイル割ったの!?」
「でち!」
重巡洋艦、重雷装巡洋艦(長い)、駆逐艦、戦艦、潜水艦。
多種多様な艦種の艦娘たちが次々と食堂に入ってくる。まあ華やかな事よ。古びた食堂が
「毎度思うんだが……女子って凄いねェ」
「……まれに提督殿は老人のような事を仰る」
「うっせえな、これでも28だぞ」
苦笑いしながら『見た目は相応なのですが』なんて言いやがるあきつ丸。
いつもよく言われる事だけにダメージがでかい、でかいぞ。
俺ももうすぐ30歳、機会に恵まれないまま世間一般では
「まぁいいや……っと。ご馳走さま」
頭も皮も食べ尽くして中骨だけになった開きを皿に置き、トレーを持って立ち上がる。今日もほんとに旨かった、鳳翔さん様々だ。
「あ、では自分も」
「待てや、まだ食ってないんなら全部食ってから来い。マジ勿体ない」
「しかし……」
「あーいいからいいから。ちょっと約束があってな?9時ぐらいまでは執務室か裏手にいるからよ」
朝食を切り上げて付いてこようとしたあきつ丸を制して、湯呑みの茶を飲み干す。
手伝って貰うほどの事でもないし、何よりせっかく鳳翔さんが作ってくれた飯を残すなんてのはとんでもなく勿体ねー話だしな。
「そうでありますか……」
「まあゆっくり食ってこいや。んじゃまた後でー」
なんでか寂しそうにするあきつ丸を残し、トレーを流し台へ持っていく。ここで食器を水洗いしておけば、後片付け担当の艦娘らも少しは楽になるからな。去年ぐらいに設置したが、朝の水仕事が楽になるからと皆から好評だった。
トレーを返却口に戻し、混雑を避けて食堂の裏口に向かう。……本音では、朝っぱらから俺に猛アタックしてくる金剛型戦艦の長女とあと何人かの奴等を回避したいというのもややあるのだが。
さあて、腹も一杯になったし、早いとこ仕事を片すとしますか。
点火しないままの煙草を一本くわえて、執務室に向かって小走りに駆け出す。
開いた窓から覗く蒼い海を横目に見ながら、俺は基地の空気が人の気配に満ちていくのを感じていた。
飽きもしないで訪れるブーゲンビルのヌルい一日が、今日も今日とて始まった。
あきつ丸かわいいです。大好きです。(小並感