「侍の国」
この国がそう呼ばれていたのは、今や遠い昔のことだ。
かつて侍たちが仰ぎ見ては夢を馳せた青く澄んだ空。その空には今、異星の船が幾筋もの航路を描いて飛び交っている。かつて侍たちが己の誇りを背に歩いた街路。その街路には今、天人どもが我が物顔で闊歩している。
──ずいぶんと、嫌な国になったものだ。
虚しさが胸を満たし、男の口から重い溜息が漏れた。
白い壁に囲まれた清潔感溢れる一室。無機質な光を放つ蛍光灯が、整然とした家具を一層際立たせている。その部屋の一角、背の高い椅子に腰掛けた男がいた。よれたシャツに白衣を着た男だ。彼が書類の山を片付ける手はどこか機械的だった。壁に掛けられたテレビからは、退屈なニュースが流れている。真選組がまた建物を破壊しただの、天人の貴族がどこかで宴を開いただのと、騒々しいばかりで中身のない話ばかりだ。
男はその画面を一瞥することもなく、溜息を再び落とした。その瞬間、かすかな騒めきが耳に届いた。
「……ん?」
顔を上げた男は、音のする方へと視線を向けた。椅子から立ち上がり、無造作に窓を開ける。冷たい外気が部屋の中へ滑り込み、白衣の裾を揺らした。視線を下に落とせば、狭い通りの片隅で天人が町娘を一方的に責め立てている光景が目に入った。娘は怯えた表情で周囲を見回すものの、誰も助けに入る様子はない。通行人たちは視線を逸らし、足早にその場を去るばかりだ。
男は眉を顰め、嫌悪感に満ちた目つきでその様子を眺めた。
「天人……」
しかし、呟きはそのまま空気に消えた。
「ククク、酷ぇモンだよなぁ」
背後から、不意に声が響いた。
男は驚きもせずに振り返った。そこには、派手な着物を身に纏い、包帯で片目を隠した男が立っていた。どこか胡乱な笑みを浮かべながら、その存在感は部屋の空気を変えるほど強烈だ。
「高杉……」
男は懐かしさとわずかな警戒心を交えた視線で彼を見た。この江戸で最も危険とされる攘夷志士。その名は広く知られている。
「君が来るとはね……珍しい客だ。この部屋に勝手に入る許可は出していないはずなんだけど……。一階の受付で手続きは済ませた? お薬手帳は持ってきてるかい?」
淡々とした口調ながら、どこか皮肉めいた言葉を返す。
「そんなもんは持っちゃいねぇさ」
高杉は笑いながら近づくと、懐から一枚の紙を取り出した。
「だが、もっと面白ぇもんを持ってきたぜ」
男の視線が紙に注がれる。
「……なんだ?」
高杉は紙を広げ、男の目の前に差し出した。それは何かの資料のようだった。
「半年後だ。戌亥星の王族がこの江戸にお忍びで来るらしい。バカンスだとよ。しかも三ヶ月も滞在する予定だとさ。いいご身分だよなぁ」
男は無言で資料を読み込んだ。その瞳がわずかに鋭く細められる。
「……王族ねぇ」
彼の表情が一瞬だけ険しくなる。しばしの間、何事かを考えるように口を閉ざした。そして、静かに資料を机に置くと、ひとつの結論に至ったかのように顔を上げる。
「あれは……まだ完全じゃあないけれど、時期は悪くないかもしれない」
低い声で呟くその様子を見て、高杉は満足げに笑った。
「ククク、やる気になったみてぇだな。天下の奇傑の大一番、楽しみにしてるぜ」
「はぁ……期待しないでほしいな」
男は手をひらひらと振りながら背を向けた。その声には冷めた調子が混じっている。
「僕は陰気で臆病だ。派手なのは性に合わない。僕がやるのは、ただの地味な嫌がらせなんだから」
そう言い残すと、白衣の裾を翻して奥の部屋へと姿を消した。
高杉は彼の後ろ姿を楽しげに目で追い、そのまま笑みを浮かべながら部屋を後にした。
* * *
時は流れて半年後
「ゲホッ、ゲホッ!」
江戸はかぶき町。繁華街の一角にさまざまな飲食店がひしめく活気ある街並みが広がる。その喧騒の中にひっそりと店を構えるのが万事屋である。ある朝、その万事屋の一室に響いたのは、ひどい咳き込みの音だった。
「風邪ひいたアル……」
仁王立ちで宣言するのはチャイナ服を身に纏った少女、神楽だ。透き通るように白い肌と丸い大きな目が特徴的な彼女は、うつむき気味に額を押さえながら苦しげな表情を浮かべている。
その様子を一瞥してから、ソファに寝そべってだらしなく鼻をほじりつつテレビを眺めている銀髪の男は、明らかに面倒臭そうな声で返事をした。
「そんな訳ねーだろ、お前。馬鹿は風邪を引かねーの。アレだろ? そんな気がしてるだけ。学生がよくやるんだよそれ。熱測ってみろ、平熱だから」
「そんな事ないネ! 完全に風邪アル!」
神楽は額を押さえたまま力強く反論する。
「頭の調子良くないもん! お腹もグルグルよ! 吐きそうアル!」
「頭の調子が良くないもゲロ吐くのもいつもの事だろうが」
「酷いヨ銀ちゃん! こんな苦しんでんのに伝わらないアルか!? もうしんどくてしんどくて冷房効いた部屋で冷えピタ貼って卵粥湯豆腐梨エトセトラを食べないと治らないよ飲み物はスポーツドリンクがいいアル!
「元気いっぱいじゃねーか! 食べ物の事で頭がいっぱいだろ!? 何か体に良いもん食いてえならアレだ、冷蔵庫にネギがある! それでも食っとけ!……アレ? でもあれ買ったの結構前だからもしかしたら腐ってるかも? いやでも神楽なら平気か」
万事屋の主、坂田銀時。彼はいつもの調子で返事をしつつ、頭の中で買い置きのネギの賞味期限をぼんやりと考えていた。
その瞬間、神楽が怒りの形相で銀時の頭を鷲掴みにした。
「病人になんつうモン食わせようとしてんだ!! いいから黙って美味いもん買ってこいやこの天パが!!!!!」
「どわぁっ!」
次の瞬間、銀時の体は宙を舞い、そのまま万事屋の扉を突き破った。そして、
「え、銀さ──」
ちょうど出勤してきた黒髪に眼鏡の少年、新八は驚きの声を上げたが、銀時は彼と一緒にかぶき町の地面へと叩きつけられるのだった。
* * *
「へぇ、神楽ちゃんが風邪ですか」
数分後、出勤した新八が銀時の横を歩きながらぽつりと言った。
「そうそう、冷えピタと美味いもん買ってこいって叩き出されたんだよ」
銀時は打ち付けた腰を摩りながら痛そうに顔をしかめる。
「どうせ仮病だろ? あの馬鹿が風邪なんか引くタマかよ。適当になんか食わせりゃ満足すんだろ」
「いやいや、それが仮病じゃないかもしれませんよ」
新八は意外そうに首を振る。
「今、何か病気流行ってるみたいで、キャサリンさんも仕事休んでるんですよ」
「馬鹿が風邪引くわけねぇだろ。それとも何? また眉毛でも繋がったか?」
「いや眉毛じゃないですよ! あんなウイルスネタ何回も擦れないですからね!」
「じゃあ恋煩いか? 恋の病ってか? 今度はどこの馬鹿に騙されてる?」
「騙されてる前提かよ!? そういうのじゃねえって! どんだけ馬鹿だと思ってんだよ!」
新八は深く溜息をつき、少し苛立った口調で続ける。
「ガチの風邪ですよ! それも重めのやつ! 咳と熱と腹痛がすごいって聞きましたし、買い物終わったらちゃんと病院に連れて行ってあげるべきですよ!」
「へいへい」
銀時は適当に相槌を打ちながら薬局に入り、「姉ちゃん、この冷えピタまけてくれ〜」と無理な値引きを交渉していた。店員が「八百屋じゃねーんだよ」と対応する横で新八は頭を抱える。
その後、近くのスーパーに向かった銀時は、特売コーナーで体に良さそうな食材を探していた。その姿は、まるで買い物に精を出す主婦のようだった。
* * *
「ただいまぁ」
銀時はスーパーで適当に買い集めた食材を抱え、万事屋の扉を軽く開けながら戻ってきた。手に提げられた買い物袋が少し重そうに揺れる。奥の部屋から「おかえりなさいヨ〜」という神楽の声が聞こえるが、その調子はどこか苦しげで弱々しい。
「ん?」
銀時は一瞬足を止めて眉を寄せた。いつもならもっと大きな声で無駄に元気よく返事をする神楽がこんな調子とは珍しい。新八も同様に不安げな顔で眉をひそめる。
「神楽ちゃん、大丈…ぶ…?」
新八が声を掛けながら居間へ足を踏み入れると、銀時と同時に目の前の光景に固まった。
「神楽〜?」
その場には、妊婦のように腹を大きく膨らませた神楽が座り込んでいた。彼女はどこから覚えたのかラマーズ法で「ひっ、ひっ、ふー」と呼吸をしている。
一瞬で全てを察した銀時は、ほぼ反射的に冷蔵庫へと走り出した。扉を開けた瞬間、彼の悲鳴が江戸中に響き渡る勢いでこだまする。
「神楽ちゃん、あの、何してんの?」
新八は恐る恐る問いかけるが、目の前の異様な状況に思考が追いつかない。
「何って、療養アル」
「いやいやいや、療養じゃないよねそれ! 完全に別の問題が発生してるでしょ!」
新八は額に手を当てて必死にツッコむが、神楽は堂々と続けた。
「風邪引いた時はいっぱい食べていっぱい寝ると良いって、マミーが言ってた気がするネ」
「気がするだけかよ!? そんなに食ったら余計に体調悪くなるに決まってんだろ! 何してんの!?」
神楽はプイと横を向き、不機嫌そうに鼻を鳴らす。
「ごちゃごちゃうるさいアルな。そんなんだからお前はいつまでもモテないネ。いつまでも新八アル、新七にレベルアップができないアルヨ」
「どういう意味だコラァ!! モテねえのも新八なのも今関係ねーだろ!!!」
そのやり取りが続く中、銀時が冷蔵庫から怒り狂った顔で戻ってきた。
「神楽!! テメッ、備蓄の米とか俺の秘蔵のチョコレートも全部食いやがったな!? ふざけんなテメーッ!!!」
神楽は顔を背けたまま肩をすくめ、何事もなかったかのように答えた。
「糖尿病予備軍が食うより病人が食う方がまだましアル。チョコレートも私に食べられて喜んでるヨ。それより冷えピタとか諸々ちゃんと買ってきたアルか?」
銀時は怒りを必死に飲み込むようにしながら、手に持った冷えピタを神楽の額目がけて投げつけた。
「ご苦労を許すアル」
神楽が満足そうに呟いた言葉に銀時は眉間に皺を寄せて呆れ果てる。
「何様なんだよこのクソガキは」
新八は半ば困ったように笑みを浮かべながら肩をすくめた。あえて言うなら、女王様だろうか。
新八は視線を冷蔵庫の方へ向けながら口を開く。
「それにしても米までないんじゃお粥作れませんね。どうしましょう?」
「ええ!? お粥ないアルか!? 出汁と生姜の効いた卵粥食べたかったネ! 何とかしろよぱっつぁ〜ん」
「いや無茶言わないでよ」
「自業自得だバカガキ」
銀時は溜息をつきながらどかりと椅子に腰を下ろし、無造作にリモコンを手に取ってテレビをつける。
『えー、現在江戸で蔓延している謎のウイルスですが、このウイルスは戌亥星から進出してきた未知の細菌であるとの見識が出されています。また現段階では天人にのみ感染が確認されており、天人にのみ感染するタイプのウイルスだと考えられています。症状としては軽い咳や微熱から始まり、徐々に悪化。腹痛や胸痛なども報告されています。感染者は隈が濃くなり顔色が青白くなるのが特徴的です。また、感染者の中には幻覚を見ているのか突然凶暴化して辺りの人に襲い掛かったという例もあるそうで──』
「……あの銀さん、これって」
新八がテレビの画面を指差しながら低い声で言うと、銀時は目を細めて黙り込む。
その瞬間、万事屋の中に妙な緊張感が漂い始めた。神楽の姿に目をやった二人は、真顔になって顔を見合わせる。
『軽い風邪であると軽視してしまう方も多いようですが、このウイルスは病状が悪化するのが非常に早く、とても危険です。また感染力も非常に強く、この先大量の死者が出る可能性も高いと考えられていますので、現在このような症状が確認されている方はすぐに病院に──』
ニュースキャスターの落ち着いた声が、万事屋の薄暗い居間に響いている。テレビ画面には、謎のウイルスに感染した天人の症例写真が映し出されており、それを見つめる銀時と新八の顔には、薄い緊張感が漂っていた。
銀時は顔を青ざめさせながら、ぎこちなく後ろを振り返る。
「あの〜、神楽ちゃん? それで、その、体調の方は? どんな具合なのかな〜、みたいな?」
ダラダラと汗を流しながら振り返った彼の視線の先には、壁にもたれかかったまま動かない神楽の姿があった。彼女の瞳の下には黒々とした隈が浮かび、白かった肌はさらに青白く見える。いつもなら元気いっぱいに何かしら文句を言ってくる神楽だが、今はどこか覇気が感じられない。
「何か熱上がってきた気がするヨ。汗ダラダラで気持ち悪いアル」
「他には?」
銀時が恐る恐る聞くと、神楽は疲れたように息を吐きながら首を横に振る。
「咳も酷くなってきたヨ。喉っていうか肺が痛いアル」
その言葉を聞いた新八と銀時は無言で顔を見合わせた。二人の間に、一瞬だが妙な沈黙が流れる。
神楽はさらに続ける。
「あとは何か……お腹と胸もすごく痛いアル。ミキサーぐるぐるしてるみたいネ。それになんかむしゃくしゃするヨ。お前ら殴っていいアルか?」
その瞬間、新八は半ば悲鳴じみた声を上げた。
「フルコンボじゃねーか!! 病院!! 病院行かないと!!! 銀さん!!」
「救急車ァアア!!!!!!」
「落ち着けバカ!! どんな原始的な呼び方してんだ!!!」
新八は額に手を押し当てて、うろたえながらその場をウロウロ歩き回る。
「ししし、死ぬ!? 死ぬって言った今!? これ何!? ていうか襲い掛かるって、バイオハザードじゃねえか!? 風邪とかじゃないの!? そんなやべー病気なの!?」
パニックに陥る二人を冷めた目で見つめながら、神楽は馬鹿にするように口角を上げ、強気で嫌らしい笑みを浮かべる。
「何を今更ごちゃごちゃ慌ててるアルか? 私最初から調子悪いって言ったのに。あ、信じてなかったアルか? 信じてなかったアルな!? 今更信じても遅えからな!! 精々後悔すると良いネ!! 私が病で苦しんで死んだ後に己の浅慮を一生引き摺って生きていくがいいアル!! ブハハハハ!!!」
「何でお前そんな強気になってんだ!? 今一番やばい立場なの神楽ちゃんだからね!?」
新八の声が、銀時の焦燥感にさらに火をつけるように響き渡る。その時だった。
ピンポーン──
玄関のベルが鳴り、三人はピタリと動きを止める。
「え!? 何!? このタイミングで家賃!? あのババアどんだけ空気読めねえんだ!」
銀時がいらついた様子で声を上げると、新八が首を振って否定した。
「いや違いますよ。お登勢さん、キャサリンさんのお見舞いに行くって言ってましたし、依頼人じゃないですか?」
「んだよ、暇な時は来ないのに忙しい時に来やがって。帰ってもらうか」
「帰ってもらうって、それはさすがに悪いですよ! ただでさえ仕事もお金もないのに」
「でもこいつ病院に連れてかねえとバイオハザードが」
神楽はそのやり取りを遮るように、ぐったりした様子ながらも口を開く。
「銀ちゃんは仕事受けたらいいヨ」
「えぇ、でも」
「私新八と病院行ってくるネ。最近仕事なかったしこれ逃したらそろそろやばいアル。家賃どころか水も電気も止まっちゃうネ。それは困るアル」
新八は少し不安そうな顔で神楽を見つめるが、彼女の意思の強さに反論できない。
「私は卵粥食べたいから銀ちゃんは米代しっかり稼ぐヨロシ」
銀時はやや疲れた様子で溜息をつくと、頭をポリポリ掻きながらしぶしぶ返事をする。
「わーったよ。とりあえずお前が帰ってくる頃には米用意しとくからさっさと病院行ってこい。新八ぃ、頼んだぞ」
「任されました!」
「偉そうにすんなよ、私一人でも病院くらい行けるアル」
「入院とかになったら準備もいるでしょう。それじゃあ行くよ」
新八はそう言いながら、神楽を連れて玄関に向かう。ドアを開けると、そこには紫苑色の着物をまとった一人の女性が立っていた。
「悪かったな待たせて。仕事の依頼か?」
銀時がぶっきらぼうに声をかけると、女性は一言だけ答える。
「……ええ」
彼女の言葉に対して、銀時はとりあえず家の中に招き入れようとしたが、その瞬間、彼は思わず目を見開いた。
「……お前は」
懐かしい顔に再会した驚きで、銀時の表情が一瞬硬直する。
彼の声には、わずかな動揺が混じっていた。