もう、15年以上昔の話だ。
秋の夕暮れ。赤紫の空が遠くに滲み、ヒグラシの鳴き声が耳に染み入るような静かな空気を引き裂くように、甲高い子供たちの声が響いていた。
「やい! このチビ助!」
「お坊ちゃんに剣なんて難しいんじゃないの~?」
「何とか言ったらどうなんだよ! 意気地なし!」
「いっつも陰気な顔しやがって!」
楽しげな子供たちの声が、時折混ざる“ボカッ”、“ドカッ”といった鈍い音に彩られる。 それは1人の少年が複数の子供たちに殴られている音だった。少年の名は木坂玄瑞。小柄な体を丸めてただじっと耐えている彼に、彼らは嘲笑混じりの言葉を投げつける。
「こいつ、やり返してこねえぜ!」
「けっ! 臆病者め!」
「棒で叩いてやれば泣くんじゃないのか?」
いじめっ子の1人がどこからか木の棒を持ち出してきた。それを見た木坂は、どこか冷めた目でぼんやりと考える。
(流石にアレで殴られたら、血が出るだろうな……)
そんな他人事のような感覚で。
「オラ! 何とか言ってみろよ! 木坂!」
木の棒が振り上げられた瞬間だった。
突如として空気を裂く鋭い音とともに、刀が地面に突き刺さる。
「なっ!?」
驚きと恐怖で動きを止めた子供たちの中から、1人間の抜けた声が響く。
「あ、悪りぃ。手ぇ滑って落としちまった」
木坂が顔を上げると、そこには見覚えのある顔があった。塾で何度も目にした男、坂田銀時。いつも高杉や桂と一緒にいる、やたらと剣が強い少年だ。彼は淡々とした様子で木坂といじめっ子たちの間に立つ。
「ギャーギャーギャーギャー騒がしい声が聞こえてよ。発情期の猿でも喧嘩してんのかと思って、取り敢えず追い払っとこうと思ったんだよ。いやーまさか人間だったとは、悪い悪い」
銀時は飄々とした口調でそう言い放つ。その言葉に、いじめっ子たちの顔色が変わった。
「な、何だよお前!」
「なんか楽しそうなことやってんじゃん、俺も混ぜろよ」
銀時はニヤリと笑いながら彼らを見据えた。その不敵な笑みと、漂う圧力に気圧されたのか、子供たちは負け惜しみを吐きながら散り散りに逃げていく。
「あーあ、つまんねぇな」
彼らの背中を見送りながら、銀時は退屈そうに溜息をつき、頭を掻きながら木坂に向き直った。
「あれ? お前見たことあんな。何だっけ……えーと、確か最中杏子とかいう美味そうな名前だったっけ?」
「……木坂玄瑞だよ」
木坂は呆れた声で答える。
「あ、そうそう。それそれ。いや、分かってたからね。知ってたからね本当は。今のはアレ、小粋なジョークってやつ。同じ塾生の名前忘れるわけないじゃんかーハハハ!」
無邪気な様子でバシバシと木坂の背中を叩く銀時。しかし木坂の心の中には確信があった。コイツ絶対僕の名前覚えてなかったな、と。
「それにしても、何でやり返さなかったんだよ。お前、そこそこ強いだろ。俺ほどじゃないけど」
「……喧嘩なんて、痛いだけで何の生産性もないじゃない」
木坂は冷静にそう答える。しかし、銀時は鼻で笑った。
「いやいや、男は生産性で喧嘩なんてしないのよ。喧嘩したいからすんの。殴りたいから殴るのよ。一種のコミュニケーションみたいな? 殴り殴られ殴り合い、男は漢になり、敵は友になり、ゴリラは人間へと進化した。つまり喧嘩は対話と同じ、人が人であるためにはかかせない事だ」
「喧嘩がコミュニケーションって、そんなの蛮族じゃない……」
「男なんて皆蛮族だろうが。槍持ってウホウホしてた時期とほぼ変わってねえんだよ。それにそれで言ったらお前、殴られっぱなしはそれこそ損だろ。やられっぱなしだって痛いだけで何の生産性もねえじゃねえか」
痛いところを突かれた木坂は黙り込む。
「ほらみろお前、だんまりじゃない。いいかお前、殴り返せ。殴り返さないと馬鹿どもは学ばない」
「いや、でも今更何も変わらないよ。それに僕は喧嘩は……」
「諦めんなよ! 諦めんなよお前! どうしてそこでやめるんだ、そこで! もう少し頑張ってみろよ! ダメダメダメ! 諦めたら! ちゃんとやってみろ! お前は絶対目標を達成できる! だからこそネバーギブアップ!! ユーキャンドゥーイット!!」
「急に何……」
木坂は呆れながらも、銀時の言葉の中に一理あることを認めざるを得なかった。
このままでは、いじめっ子たちの行動はますますエスカレートするだろう。殴り返す、それは彼にとって未知の選択肢ではあったが、案外アリかもしれない、と心の中で少しだけ考え始めていた
* * *
秋の夕暮れ。冷たい風が頬を撫で、赤紫色に染まる空が寂しげに見える中、木坂はまた呼び出されていた。いじめっ子たちの不穏な声が空気を震わせる。
「この間はよくもコケにしてくれたな」
「あの白髪野郎はもう助けにこねえぞ」
少年たちは全員が木刀を手にしており、明らかに先日の仕返しをするつもりでいる。その光景を目にしながら、木坂は首を傾げた。なぜここまで執拗に恨みを買っているのだろうか。いじめが始まった頃は、家柄の良さを妬まれているのだと思っていたが、それにしてもこの状況は異常だ。
「……あのさ、もうやめない? 流石に木刀で殴られたら大怪我しちゃうし、犯罪だよ。少しでも考える頭があれば分かると思うけど、そんなことしたら親御さんが困っちゃうよ」
冷静に諭すような木坂の言葉に、少年たちの顔が歪む。
「馬鹿にしてんのかテメー! バレないようにやるに決まってんだろ!」
「父ちゃん母ちゃんは関係ねえだろ!!」
「いやいや外聞は……ええと、周りの人達からの評判は大切だよ。犯罪者の親だって後ろ指刺されるようになっちゃうから」
「外聞くらい分かるわ! 見下しやがって!!」
「もういいよ! やっちまおう!!」
その一声で全員が一斉に木刀を振り上げる。説得は完全に失敗だった。木坂は溜息をつきながら、自分の無力さを噛み締める。しかし、その瞬間、先日の銀時の言葉が脳裏をよぎった。「殴り返せ」と、そう言っていた。
振り下ろされる木刀を寸前で避け、相手の腕を掴む。そして一瞬の隙を突いて木刀を奪い取った。
「あんまり、得意じゃないんだけど」
呟きながら、奪った木刀を横に振り払う。木刀は見事に少年の胴を捉え、鈍い音を立てる。苦しげな声を上げながら地面に倒れ込む少年。その光景に、木坂はこれまで感じたことのない不思議な高揚感を覚えていた。
「コイツ、やりやがった!」
「いけ! やっちまえ!」
次々と木刀を構え突っ込んでくる少年たちを、木坂は冷静に見据える。彼の脳裏にはこれまでに塾で見てきた、高杉や銀時といった剣の達人たちの姿が浮かんでいた。それに比べれば目の前の相手は幼稚で未熟。それでも数が多いのは厄介だが、木坂の動きは迷いがなかった。次々と迫る少年たちを、的確な攻撃で薙ぎ倒していく。
やがて、息を切らして立っているのは木坂1人だけだった。地面には呻き声を上げる少年たちが転がっている。
「あ゛ー、痛い……」
流石に全ての攻撃を避けるのは難しかったようで、木坂の体にはいくつかの痣ができていた。そんな中、不意に乾いた拍手の音が響く。
「ブラボー、やればできんじゃん。優等生」
その声に振り返ると、そこには銀時が立っていた。
「……見てただけなんだ」
「当たり前だろ、男の喧嘩に手は出さねえ。これ常識な」
「どこの常識だよ」
呆れた口調で返す木坂だったが、その顔に怒りの色はなかった。
「で、どうだったよ?」
「何が?」
「ばっかオメ、決まってんだろ。ハジメテの喧嘩だよ。ハジメテはどうだった? 気持ち良かったか?」
「……なんか言い方が卑猥なんだけど」
「一皮剥けて男になった気持ちはどうよ?」
「ちょっと、やめてよ」
「恥ずかしがらずに言ってみろって。誰にも言わないから、俺とお前の仲じゃねえか。自分の棒を振り回して、パコパコ打ち付けて、気持ち良かっただろ? もうやめられなくなっちまったろ?」
「どんな仲!? ていうか本当にやめてくれる!? 誤解を招くんだけど!!」
「この堕落からは逃げられねえ、お前もこっちに来いよ木坂」
「勘弁してくれ品性のカケラもない!」
銀時と木坂が言い合っているところに、軽い足音が近づいてきた。
「銀時、木坂」
その声に2人が振り向くと、そこには亜麻色の髪をなびかせた1人の男が立っていた。
「ん?……げっ!?」
2人の反応を無視し、穏やかな口調でその男は言う。
「……君達に快楽堕ちの話なんて、1000年早い」
「子供に向かって何つー単語言ってんだアンタ!!?」
その人物は2人の師匠、吉田松陽だった。
* * *
「珍しいですね、君が喧嘩なんて」
「……ごめんなさい」
「謝らなくていいですよ、どうせ銀時に乗せられたのでしょう?」
松陽は困ったように笑いながらも、どこか楽しげだった。
「先生、僕が彼等を殴ったのは正しかったのですか? 間違っていたのですか?」
「どうでしょう。暴力という手段はよくないですが、先に酷いことをしたのは彼らなのでしょう? 一概に悪いとは言えませんね」
「でも母上には叱られました。如何なる理由があろうと暴力はダメだと。確かに医者を目指す男が人を殴るなどあってはならないというのも理解できます。しかし銀時の言うことにも一理あったのです」
「そうなんですか?」
松陽はその言葉に頷き、静かに木坂の言葉を受け止めた。彼の笑みには、どこか木坂を労う温かさが滲んでいた。
秋の日は短く、いつの間にか赤い夕焼けが山際に広がっていた。松陽は木坂と共に塾の裏手にある静かな空き地に腰を下ろしていた。夕焼けの中、静かに彼の話に耳を傾けるその姿は、ただの聞き手以上の存在感を放っている。
木坂は一息ついてから、言葉を選びながら口を開いた。
「彼等の嫌がらせ。先生の塾に入るよりもずっと前から……日記を読んで振り返ると、334日も前から始まっているのです」
「何でですか、阪神は関係ないでしょう」
「先生、話を聞いて下さい。今阪神の話はしてないです」
木坂は思わず額に手を当ててため息をついた。松陽は微笑み、軽く咳払いをして話を促した。その仕草に、木坂も気を取り直して続けた。
「……初めは些細な嫌がらせだったのです。下らない僻みだと無視していたら、段々と過激になってきて……。これは酷いと、対話での解決を目指した事もあったのですが、彼等は聞く耳を持たず、状況は変わりませんでした」
木坂は拳を握り、膝の上に置いていた手がわずかに震えているのに気づいた。それを悟られまいとするように、言葉を続ける。
「そうなれば、銀時の言うように殴るしかないでしょう? 彼等は悪ガキで有名で、僕以外にも被害者はいます。もしかしたら、僕が殴った事で彼等も覚醒して、殴られるままではなく自らイジメを何とかしようと動いたりはしませんか?」
松陽はしばし黙り込んだ。夕焼けの光がその横顔を浮かび上がらせている。その沈黙は重く、それでいて厳しくない。不思議な感覚に木坂は少し息を詰めた。やがて松陽は口を開く。
「……君にしては些か浅慮ですね。暴力で解決できるのであれば、もっと早くに解決していますよ」
その静かな声が、夕焼けの中で優しく響く。
「それに、それは結局、至誠ではなく私憤からの行動です。綺麗な言葉で飾っても、腹が立って殴りたいから殴ったというだけでしょう? 君に負けた、君はもう殴れない。そうなれば彼等の鬱憤は、他の殴り返してこない被害者へと向かうでしょうね」
木坂は目を伏せ、拳を握り締めたまま小さな声で言い返す。
「では、殴られるままでいろという事ですか? それはおかしい。銀時に言われてハッとして、僕は考えたのです。確かに殴られるままなのは如何なるものかと。このまま死ぬまで殴られるのかと。僕は、嫌でした。であるならば、己らで行動するしかないのではありませんか?」
松陽は表情を緩めて答える。
「だからといって、こちらから手を出すべきではありません。人間が1人で出来る事なんてたかが知れています。周りの大人や友人達に相談して、皆で問題にあたるべきです。殴って全て上手くいくなんていうのは空論でしかありません。銀時のアレは偶然に偶然が重なって、何故か今のところうまく行っているだけですからね。絶対参考にしてはいけません。怒りのままに起こした行動というのは、大抵が上手くいきませんからね」
木坂は眉をひそめながら問いかける。
「では、いつ誰が助けてくれるのですか? 誰かに相談した者がいなかったとは思えない。現状が保たれていた時点で、誰も被害者達に興味がなかったのは一目瞭然です。彼等がのうのうとのさばっているのは、誰も僕らの痛みに気が付かなかったから。興味がなかったから。それならば、今僕が何とかするしかなかったじゃないですか」
松陽は目を細め、木坂の心情を噛みしめるように頷いた。そして少し間を置いてから、口調を変えた。
「そうですね。ですが、やり方というものがあります」
「やり方、ですか……」と、木坂は松陽の言葉を促すように呟く。松陽は淡々と語り始めた。
「ええ、少し殴っただけではダメです。彼等が泣いて許しを乞うまで、心が折れるまでやりなさい。やるなら徹底的に、です」
「……あれ? 流れ変わったな」
その意外な発言に木坂は驚く。そんな彼に気がついているのかいないのか、松陽は微笑みながら続ける。
「いじめっ子というのは碌なものではありませんからね。殴る事に一切の問題はありません」
「松陽先生?」と、不安げな木坂の声に、松陽は冗談めかして笑った。
「うふふ、冗談ですよ。戦う事に問題はありません。しかし、戦い方に問題があるのです。殴って、その後どうするのか。人に言われて感情のままに暴力を振るった君の考えにはその先がない。その感情に取ってつけたような理論だから、先ほどの君の考えは浅いのです」
その言葉は優しくも鋭く、木坂の胸に深く刺さる。松陽は穏やかに続けた。
「ただ君が、君の分だけ殴り返すのであればそれはそれで構いませんが、根本から問題を何とかしたいのであれば感情論で動いてはいけません。本気で解決したいのなら、もっと良く考えて行動しなさい。君にはそれが出来るのだから」
木坂は深く頷き、静かに「よく考えて……」と呟いた。その姿を見て、松陽は柔らかな笑みを浮かべた。
「とはいえ、よく我慢しましたね木坂。先ほどは責めるような事を言ってしまいましたが、被害者は君です。取った手段は乱暴でしたが、別にそこまで悪いことではないでしょう。喧嘩なんて男子であれば大抵誰でも通る道ですから」
木坂は意外そうな顔をして問いかけた。
「先生も誰かと喧嘩した事があるのですか?」
松陽は意味深な微笑みを浮かべながら答える。
「さて、どうでしたかね?」
そう言って松陽はそっと木坂の頭を撫でる。その温かさに、木坂の心が少し軽くなった気がした。
「とりあえず、今日はもう休みなさい。後の事は私が何とかしておきますから」
松陽はひらりと手を振り、夕焼けの中を歩き去っていく。その背中を木坂は見えなくなるまでじっと見送っていた。
数日後。木坂の前に現れたのは、泣き腫らした顔で謝罪するいじめっ子たちだった。その姿を見て、木坂は心の底から思った。
あの人に弟子入りして良かった、と。