銀魂小編   作:佐倉シキ

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天人ハザード編 終

 

 

 

暗い地下の研究施設。その奥の奥、ほとんど光も届かない場所に、まるで侵入を拒むかのような冷たい空気が満ちていた。そこは異様な空間だった。床や壁には乾いた血の痕が散らばり、何か鋭いもので引っかかれたような深い傷跡が硬い床に残されている。その無数の傷痕が、この場所でかつて繰り広げられた暴力的な光景を生々しく語っていた。

 

「──ッ!」

 

鋭い金属音が冷たい空間に響き渡る。二人の男が息を荒げながら、力と技術を総動員して戦っていた。

 

木坂は歯を食いしばりながら刃を振り下ろすが、銀時の木刀がその攻撃を正確に受け止める。真剣の鋭利な刃が木刀の表面を削り、わずかな木片が宙を舞った。次の瞬間、銀時が素早く間合いを詰めて木刀を振り払うと、木坂の刀が弾かれそうになる。しかし、木坂もまた全身の力を使って持ち堪える。

 

「ッ、はぁ……」

 

木坂は静かに息を整えた。

彼は自分の剣技が銀時に劣ることを理解していた。いや、それは戦いが始まる前から分かり切っていたことだ。しかし、彼の目的は勝利ではない。負けないこと。それが彼の戦術だった。この戦いを引き延ばし、誰かが援軍に来るまで耐え切ること。それだけで十分だった。

 

銀時が木刀を構え直す間隙を縫い、木坂は白衣に隠されていた注射器を手に取り、勢いよく投げつけた。それは改造された注射針であり、刺されば自動的に薬物を注入する仕組みになっていた。

 

「危ねえもん投げやがって!」

 

銀時は間一髪で木刀を振り払い、注射器を粉々に砕き割る。飛び散った薬品の一部が銀時の頬にかかり、かすかにヒリつく感覚が走る。銀時は顔をしかめながら、声を張り上げた。

 

「ついにグレたな、優等生! 俺ァ陰気なお前が多少吹っ切れたら面白ぇと思ってあの時声かけたけどな、このグレ方は歓迎できねぇぜ!」

「お陰様でね。一番初めに僕の目を覚まさせてくれたのは君だ。そこだけは感謝してるよ、そこだけだけどね!」

 

木坂は瞬時に踏み込んで突きを繰り出した。その鋭い動きに銀時の目がわずかに細まる。彼の突きは的確だったが、銀時は紙一重の動きでそれをかわし、木刀を振り上げると木坂の顔を狙った。

 

「ぐっ……!」

 

顎に狙いを定めた木刀はかすめるに終わったが、それでも頬に強烈な衝撃を与える。痛みが脳に伝わり、木坂は一瞬視界が歪む感覚に襲われた。

 

「……ああ、痛い。掠っただけなのに。だから嫌いなんだよ、戦いって」

 

息を整えながら、木坂は口を開く。その言葉に、銀時は冷ややかな視線を向けた。

 

「戦嫌いのテメーが何でこんな真似してやがる」

「……そうだな。最終的には、戦争を起こそうと思ってるんだ」

「おいおいおい、高杉に頭毒されたか? 何言ってやがる?」

 

銀時が冷たく吐き捨てるように言うと、木坂は表情を変えず淡々と続けた。

 

「……頭があんまり良くない人達は気がついていないかもしれないけど、このままだと地球は天人達に植民地にされてしまうよ。

日本も、アメリカも、イギリスもフランスもドイツも。みーんな天人にビビって日和っちゃった。だから搾取され続けても平気な顔してる。怖いから、これ以上痛い目に遭いたくないから、我慢してるんだ。嵐がいつか過ぎ去るのを待つようにね。そんな日は来ないのに」

 

銀時は目を伏せ、木坂の言葉を黙って聞いていた。そして、しばしの沈黙の後、低く呟いた。

 

「そりゃ、天人の技術は途轍もないものだけど……座して国が滅びるのを待つのは如何がなものかと思ったんだ。だから、どうにかしたいと考えた。とはいえ僕には力がない。他の志士のように大使館を襲撃したり、幕府のお偉いさんを殺す事もまあ出来なくはない。でも無益だ。だからそれはやめた。

昔、松陽先生に言われたんだよね。“戦い方をよく考えて行動しろ、君にはそれが出来るはず”って」

「よく考えた結果がこのバイオテロか?」

「そう、害虫をまとめて駆除して国を立て直す第一歩さ」

 

木坂の目には強い決意が宿っていた。その目をじっと見据えながら、銀時は唇を歪めた。

 

「国を立て直す? ハッ! 御大層なことじゃねぇか。どんな綺麗事並べても今のお前は昔のお前となんら変わっちゃいねぇ。気に食わねえから殴りつける、それだけだ。やり方が陰湿になっただけだぜ木坂。無意味な事はやめろ」

 

木坂の顔に一瞬影が差す。“変わっていない”という言葉が胸に刺さる。たくさん考えて行動した。昔は彼等を殴ったのが自分だと結局バレたが今はテロの犯人は自分だとバレていない。それに何より国を立て直したいと言う動機に嘘はない。搾取され、傷付けられ、嘲笑される。今の江戸の在り方は見るに堪えない。誰も何もしないのだから、自分が動くしかないのだ。

徐々に表情に怒りが浮かぶ、

 

「座して待てと言うのか、君も。この国が滅び行くのを黙って見ていろとッ!」

 

そう叫びながら、木坂は力いっぱい刀を振り下ろした。その軌道を読んだ銀時が木刀を高く掲げ、激しい衝突音とともに受け止める。二人の剣が交錯し、鍔迫り合いの火花が飛び散る。

 

だがどちらも押し切ることはできない。拮抗する力の中で、お互いが冷たい視線を交わす。そして、同時に飛び退いた。

 

次の攻防を前に、銀時は木刀を握り直し、静かに息を整えた。木坂の目にはまだ諦めの色は見えなかった。

 

「歴史を学べば分かるはずだ!」

 

木坂が叫ぶ。力任せに振り下ろした刀を銀時が木刀で受け止める。刃が木を削る不快な音が耳を刺す。

 

「この国の末路が! 天人の目的は、この星の資源だ! 抗わねば、利用され食い尽くされて滅びるぞ!!」

 

銀時は口元に笑みを浮かべたが、その目は冷静だった。

 

「知った事かよ、俺ァ馬鹿なモンでね。難しい事はよく分かんねえ。未来だの過去だの、そんなもんは知ったこっちゃねぇんだよ。俺はただ、この今を真っ直ぐ生きるだけだ!」

「……何故分からない、何故理解しようとしない! お前も、文子も!!」

 

木坂の怒声と共に、刀がより激しく振り下ろされる。銀時の木刀が応戦し、二人の武器が何度も激しくぶつかり合う。その衝突音は空間を震わせた。4度、5度と打ち合いが続き、木坂の刀に次第に罅が入り始めた。そして6度目の衝撃、ついに木坂の刀が砕け散る。

 

その瞬間、木坂の顔に驚愕の色が浮かぶ。そしてその顔に容赦なく銀時の拳が叩き込まれた。

 

「分かってねぇのはテメェだろ!!」

 

拳が顎に命中する鈍い音と共に、木坂は後方へ吹き飛ばされた。地面に転がりながらも、彼はすぐに体勢を立て直す。そして隙を見て素早く針を投擲した。そのうちの一つが銀時の足に突き刺さる。

 

「クソッ……!」

 

銀時は舌打ちをし、刺さった針を乱暴に引き抜く。

 

一方、木坂は拳を喰らった顔を歪めていた。口の中が大きく切れ、血の味が広がる。唾を吐き捨てると、奥歯に違和感を覚えた。どうやら砕けたらしい。「馬鹿力で殴りやがって……!」と顔を歪めながら、痛みと不快感に耐える。

 

銀時は木刀を構え直し、静かに言い放つ。

 

「国を守る、そりゃあ素晴らしい事だろうよ。でもテメーはそんな遠くの事見据えるより、もっと手元を見るべきなんだよ。テメーが守るべきものは国なんかじゃねえだろうが!」

 

木坂は銀時の木刀を躱しながら、隠し持っていた脇差を振り払った。その刃先は銀時の肩を掠めるが、致命傷には至らない。

 

「テロリストになって、大勢苦しませて、よりにもよって高杉と手を組んで! どうしようもねえところまで手を汚したお前を、まだ助けようとしてる奴がいる! 何でソイツを見ねえ!? お前の目は節穴か!? ソイツから目ェ逸らして遥か遠くのもの見据えて、今のお前は昔より余程馬鹿だ木坂!!」

 

木坂は苛立ちを隠せなかった。

 

「助けようとしてる? まさか文子の事か? 彼女は僕を裏切ったじゃないか!」

「裏切りだと? 馬鹿言っちゃいけねぇ。嫌われても、殺されても構わない。お前が間違ったのなら必ず止めるってよ。おっかない、良い女じゃねえか」

 

銀時は距離を取り、木刀を木坂に向ける。その目には強い意志が宿っていた。

 

「このままテメェが手を汚し続けたって何も変わらねぇ。下らねえ癇癪はもう仕舞いにしな。守るべきものを間違えるな」

「……戯言は、それで終わりかな?」

 

木坂は眉をひそめて言ったその瞬間、銀時の身体に異変が起きた。優勢だったはずの彼が、膝をついて前のめりになる。

 

「ッ!?」

「さっきの子は夜兎だったからたくさん入れなきゃ効かなかったけれど、人間が相手なら本当に少量でも問題ないんだよ」

 

勝利を確信した木坂はゆっくりと銀時に近づいた。しかし、念のため間合いを保って立ち止まる。

 

「……嫌だな、君はまた僕の心を掻き乱す。殴るべきなのか殴らないべきなのか。正解のない問題は大嫌いなんだよ、僕は」

 

銀時は息を荒げながら、かすれた声で言い返した。

 

「迷ってんのが……何よりの証拠だぜ。本当に、覚悟が決まってるんなら……迷うはずなんかねえんだからな」

「その通りだね、一理ある。でも僕はもう引き返さない」

 

木坂は軽く笑い、懐から拳銃を取り出すと銀時の頭に狙いを定めた。

 

「……手ェ震えてんぜ、臆病者」

「脳に当たれば問題ないだろう」

 

引き金に指をかけ、力を込める。しかしその瞬間。手に激痛が走り拳銃を取り落とした。

 

「ッは!?」

 

刺さっているのは医療用のメス。振り返ると、息を切らしながらも険しい表情でこちらを睨む文子の姿があった。

 

「何で──」

 

木坂がそう思った瞬間、激しい痛みが全身を襲った。

銀時だ。彼が一瞬で間合いを詰め、木刀を全力で振り抜いたのだ。

 

「ッぐぁッ!」

 

鈍い音と共に肋骨が数本砕け、尖った破片が肺を刺す感覚が走る。木坂は息が詰まり、苦しげに地面を転がった。受け身を取る余裕さえない。

 

咳き込むと、血混じりの息が漏れる音がする。

 

ここに勝敗は決した。木坂はもう、立ち上がれない。

 

「どんな、…馬鹿力だよ。……ほんともう、最悪……」

 

木坂は顔をしかめながら、痛みに耐えて地面に伏していた。銀時が少し得意げに笑いながらポケットから何かを取り出し、彼に見せつける。それは、筋弛緩剤の拮抗薬だった。

 

「悪いね。拮抗薬、初めからもらってたんだわ」

 

彼の言葉に、木坂は呆れたように肩を落とす。

 

「はあ、もう……ほんと萎える。銀時の下手くそ演技に踊らされるとか、そりゃ節穴って言われるよね」

 

その言葉に、銀時が一気にむきになった。

 

「は? 銀さん馬鹿にすんなよ! 言っとくけど超演技上手いからな! 男性声優賞取ったし、主演男優賞なんて二回取ったことあるんだから!」

「それ君の声優と俳優のことでしょ。君だけど君じゃないからね」

「ふふふ、元気いっぱいね」

 

と、文子が少し苦笑しながら二人に歩み寄る。

 

「……元気じゃないけど? お陰様で大怪我だよ」

 

木坂を見下ろす文子の目は険しく、怒りがありありと浮かんでいた。彼女は容赦なく倒れている彼の頬を叩いた。鋭い音が響き、木坂は無言のまま顔をそらす。代わりに銀時が痛そうに声を上げた。

 

「馬鹿ね、本当に。こんなことをして」

「…馬鹿だったかな。結構……悪くない作戦だったと、思ったんだけど…」

「そういう意味じゃないわよ」

 

文子は険しい顔のまま、携帯電話を取り出して画面を確認した。表示されていたのは部下からのメールだ。

 

「新八くんたちが無事にワクチンを打ち上げたそうよ」

「お、アイツらはやればできると思ってたぜ」

 

銀時がニヤリと笑う。その笑顔を見ても、文子は表情を崩さず言い放った。

 

「貴方の野望はもうお終い。病は収束するわ。これが大切な第一手だったんでしょう? ならもう、完全に貴方の負けね」

「……あーあ、負けちゃったか」

 

木坂の悔しそうに笑う声は、それでもどこか清々しさを含んでいた。命を懸けてでも止めにきた文子、ずっと会っていないのに自分を助けようとする銀時。二人の姿を見て、遠くではなく近くを見るべきだったという言葉の意味にようやく気づく。

喧嘩をして人は人になるとは昔の銀時の言葉だったか。あの時は詭弁と一蹴したが、なかなかどうして悪く無い気分だった。

 

その時、土が顔にぽろぽろと落ちてきた。そして、地面が微かに震え始める。

 

「え!? なに!? 地震?」

 

銀時が驚いて叫ぶ中、木坂が口を開いた。

 

「……建物を壊すんだ。あの大筒が、ワクチンを発射したら証拠隠滅するように連動させといた。ワクチンを使う=作戦失敗だからね」

「え、この地下施設ごと潰すってこと!?」

「そうだよ。文子たちが実験室で見たウイルスも今頃全部滅殺されてる。その後全部燃やして地面の下に埋めてしまうのが一番手っ取り早いからね」

「え!? 燃やす!? 燃やすって言った今!?」

「やるなら徹底的にって先生が」

「何でもかんでも先生のせいにするんじゃありません!! 何で最後だけ脳筋作戦なんだよ!! 馬鹿かお前は!! 馬鹿だお前は!!」

 

銀時が声を荒げながら木坂を肩で支えて走り出す。文子が先導し、三人は来た道を駆け抜けていく。

殺しに来たのかと思えば自分の事も連れて逃げようとする。置いていけば良いのに、よく分からないやつだと木坂は隣の銀時の顔を見た。

 

故に、気がついた。

 

 

こちらに銃口を向ける攘夷志士の男に。

2人を突き飛ばしたのは咄嗟の行動だった。

 

背後から鋭い銃声が響く。

 

衝撃が腹を貫き地面に転がる。

すぐに分かった。致命傷だ。

 

 

「玄瑞ッ!?」

 

文子が悲鳴のような声を上げる。倒れた木坂の腹には鮮血が広がっていた。駆け寄った文子はその様子を見て、言葉を失う。医師としての本能が告げるのは一つ、助からない。

 

銀時もまた、その現実をすぐに悟った。目の前で仲間が死にゆく姿を見せつけられるのは耐え難い。

 

「オイ!! しっかりしろ!! 木坂ッ!! オイ!!」

「……あはは、無様な最期だね。……死ぬのか、あーあ……家族に見せる顔なんて、ないのに。……いや、僕は地獄行き、か」

「馬鹿な事言ってんじゃねえ!! お前は死なねえ!! なあ、あや、こ」

 

銀時は文子に目を向けたが、彼女は涙をボロボロとこぼしながら震えていた。それで察するには十分だった。木坂の命は、もう尽きようとしているのだ。

 

「クソッ!!」

 

銀時が拳を地面に叩きつける。木坂は弱々しく笑った。

 

「……自業自得の罰が降ったんだよ。気にしないで…置いていってくれ……。この施設は、もうすぐ崩れ落ちる……。お荷物を背負っていったんじゃ、二人とも脱出は間に合わない……」

 

倒れた木坂は薄く笑いながら言い放った。その声は静かだったが、揺るぎない決意が宿っていた。血が腹部からあふれ出し、冷えた地面を濡らしていく。銀時は一瞬言葉を失い、足が止まる。胸の奥から込み上げてくる感情……置いていけるわけがない。だが、木坂の言葉には反論の余地がなかった。

 

銀時は奥歯を噛みしめる。これ以上、命を無駄にするわけにはいかない。助けるべきは死にゆく木坂ではなく、文子だ。その選択が正しいと理解しながらも、心の中で何かが激しく軋むのを感じる。

 

「全部壊そうとした、最低な…馬鹿医者だったけどさ、…最期くらい、大切なものを守らせてよ……」

 

苦しげに息を吐きながら、木坂は続けた。

 

「銀時、……文子を連れて早くここから脱出して。……僕からの、最初で最後の依頼だ……」

 

木坂は静かに笑みを浮かべた。その顔には、どこか悟ったような穏やかさがあった。彼の言葉に、銀時は目を伏せて拳を握りしめる。そして、わずかな間を置いて顔を上げた。

 

「……ああ。承ったぜ、木坂」

 

そう答えると同時に銀時は文子を抱え上げ、走り出した。振り返ることはしなかった。崩れかけた通路を全力で駆け抜ける。文子は銀時の腕の中でもがきながら、声を張り上げる。

 

「待って! 銀時! 戻って!!」

 

涙に濡れた文子の叫びが耳をつんざく。だが銀時は止まらない。これが木坂の望みだ。胸に押し寄せる罪悪感に耐えながら、彼はただ出口を目指して一直線に走った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

──どうか、こんな馬鹿のことなんて忘れて自由に生きてほしい。

 

大切な人に対して、最期にそう願う。

血が止めどなく流れ、木坂の身体は徐々に冷たさを増していく。視界が揺らぎ始め、意識が遠のく中で、彼はかつての自分を思い出していた。

 

「ごめんなさい、先生。僕は……上手くできませんでした……」

 

木坂はぽつりと呟く。若き日の理想が頭をよぎる。

 

最初は、みんなに笑っていてほしいと思って医者を目指した。怪我や病に苦しむ人を治して、幸せな日常を取り戻してもらう。そんな純粋な願いだけが、自分を動かしていた。

 

「結局失敗、大言壮語……しただけでした……。昔と、何も……変わらない……」

 

熱に焼かれるような痛みも徐々に感じられなくなってきた。黒煙が視界を覆い、やがて熱風が肌を焦がす。

 

「……あーあ。さようなら、皆……」

 

目を閉じる直前、木坂はかつての仲間たちを思い浮かべた。松下村塾で共に過ごした日々。自分は道を踏み外してしまったが、彼らはきっと、自分の願った笑顔を取り戻してくれるに違いない。

 

「……さようなら、文子」

 

最後に文子の顔を心に描き、彼は静かに瞼を閉じた。どうか君が笑っていられる世界でありますように。

 

 

──そうして、一人の男は瓦礫に飲まれて消えた。

 

 

 

 

 

*  *  *

 

 

 

 

 

怪しげな月が夜空に浮かぶ夜。一隻の船が静かに波間を漂う。船室の中で、ひとりの男が窓際に腰掛け、三味線を弾いていた。音色は静寂に溶け込み、どこか物悲しい旋律を奏でている。

 

「どうやら失敗してしまったようですね、木坂さんは」

 

部屋の入り口に立つのは、武市変平太。三味線の音に耳を傾けながら、口を開いた。

 

「聞き覚えのない曲ですね。それは何という曲か伺っても?」

 

窓際の男、高杉晋助は薄く笑った。

 

「死者の魂を鎮めるための鎮魂歌さ。俺の趣味じゃねえが、今日くらいはな」

 

三味線の音色は途切れず、静かに響き続ける。武市はその音を聞きながら、木坂の姿を思い浮かべた。

 

死体を探させることもできるが、それは無駄だ。木坂は完全に証拠を隠滅した。この状況で生きているはずもない。

 

武市は心の中でそう呟く。あの場で死んだことは確実であり、生存の可能性を考える必要もない。仮に彼が生き延びたとしても、それは鬼兵隊にとって厄介なだけだ。だからこそ、武市はあらかじめ木坂を殺すよう指示を出していた。

 

「勿体ねえな」

 

高杉がつぶやき、また演奏を再開した。

 

 

 

 

* * *

 

 

 

 

それからしばらくして、バイオテロが収束した平穏な晴れの日。珍しく万事屋の扉にベルが鳴る音が響いた。

 

「はーい!」と慌ただしく玄関へと走るのは新八だった。ドアを開けると、そこには紫苑色の着物を着た文子が立っていた。

 

「あれ? 文子さんじゃないですか? どうしたんです?」

「あら、新八くん。今銀時いる?」

「ああ、すいません。ちょうど神楽ちゃんと出かけちゃってて……何かご用ですか? 中に入って待ちます?」

「いえ、それほどのことじゃないからいいわ。言伝だけ頼めるかしら」

 

新八が頷くと、文子は名刺を一枚手渡した。

 

「いろいろ本当にありがとう。法律上割引はできないけど、君たちがうちの病院に来たら最高の医療を提供するわよって」

「ええ!? 本当ですか? うちは生傷が絶えないからお医者さんとの繋がりは本当に助かります!」

「ふふ、素直ね。……それと、私は元気。大丈夫よって伝えておいて」

 

それだけ言うと、文子は優しく微笑み、振り返って静かに立ち去った。

 

 

 

 

 

 

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