嵯峨野観光鉄道は京都府にある鉄道会社だ。嵯峨野観光鉄道は1989年(平成元年)3月に電化準備及び複線化のため新線に切り替えられて廃止された西日本旅客鉄道(JR西日本)山陰本線嵯峨駅 - 馬堀駅間の旧線を、観光専用鉄道として利用するため、1990年(平成2年)11月に設立された企業である。1991年(平成3年)4月27日には山陰本線旧線を嵯峨野観光鉄道嵯峨野観光線としてトロッコ嵯峨駅 - トロッコ亀岡駅間が開業、トロッコ列車運転開始をした。
初代社長の長谷川氏は、持ち前のガッツでトロッコ列車にすべてを賭ける決意をし、資金や人手は足りなかったが、自ら先頭に立ち、開業までの時間もない中、営業企画はもちろんのこと、気の遠くなるような沿線の雑木整理、線路の補修工事等にも全力を投入し、その姿を見て従業員も一丸となって、昼夜を忘れて工事等準備作業に従事した。開業後も長谷川氏は、運転・車掌業務、車両の検修、鉄道施設保全業務、線路の保守をはじめ、駅窓口での切符販売からトイレ掃除、沿線のゴミ拾いなど何でも行った。弁当を食べながらの改札業務など苦労が絶えず、初めてのトイレ掃除では手が震えたと長谷川氏はいう。
つまり社長自ら作業や手を加えて尽力し実った結果の鉄道会社だった。
東京都のとある編集社が京都府の観光の本を創るのに嵯峨野観光鉄道のページが必須と考えた為に編集社の記者の濱野 五郎は東京都の東京都駅から京都駅まで新幹線に乗り、濱野 五郎は更に京都駅で山陰本線で通称嵯峨野線に揺られながら向かった。
島根県にて石原 義氏という人物が旅行に来ていた。濱野 五郎は石原氏に聞く
「やあ、お久しぶりです。先生?今日は嵯峨野で何しに来たんですか?」
石原 義氏は濱野 五郎の中学校の時の先生(教師)にあたる。濱野 五郎は静かに缶コーヒーを渡すと灰色のコートにサングラスをかけ、杖をかける初老の男性、石原 義氏は濱野の質問に答える。
「誰かと思えば五郎君じゃないか?放送部だったかな?懐かしいなぁ。」
石原はどうやら眼が悪いらしく耳で五郎の話しを聞いていた。
やがて石原と別れると今度こそ本社に向かった。
嵯峨野鉄道株式会社へ濱野 五郎は辿り着くと長谷川氏の意思を受け継いだ吉岡 寛治がいた。吉岡 寛治は濱野 五郎に質問に答えた。濱野 五郎はまず嵯峨野観光線について質問してみた。
「御社はどこが起点でどこが終点なんですか?」
実は、濱野 五郎は島根県と山口県と広島県しか行っていなったので関西の事はからっきり分からなかったのだ。
すると社長である吉岡が言う。
「トロッコ嵯峨駅が起点です。JR山陰本線(嵯峨野線)の嵯峨嵐山駅と乗り換え出来ます。終点はトロッコ亀岡駅という駅ですよ。こちらもJR馬堀駅が近いですね。もう最寄り駅です。」
と笑顔で話していた。従業員の石川 拓斗は裏でコーヒーを注ぎ込む。
社長である吉岡と濱野、二人に持っていく。
次の質問に移っていた。濱野が再び質問する。
「実は、トロッコにどれぐらいの人数が休日にいますか?」
吉岡が再び答える。
「そうですね?あまり私も数えていませんが109人いるんじゃないでしょうか?嵐山に行こうと思う人はいると思いますね。」
と冷静な口調で伝えた。ただ笑顔は絶やさなかった。
そして石川が注いだコーヒーを二人に渡す。
吉岡は飲んだ直後、苦しみだし、死んでしまった。
「社長‼しっかりしてください‼社長!!」
吉岡は既にこと切れていた。
嵯峨野トロッコは既に109人の乗客を乗せて出発してしまった。
さて嵯峨野トロッコ爆破事件まだまだ続きます。西村 京太郎の十津川警部シリーズを参考に作ってみましたが何せドラマにすると3時間の小説を書こうとしています。貴方ならどうしますか?濱野 五郎になって考えてみてください。本物の嵯峨野観光鉄道に行って頭に小説の台詞を覚えてドラマを再生しても良いかもしれませんね。