凄まじい雷雨だった。春雷と呼ぶには少し遅すぎるだろうか。梅雨を待てなかった黒雲がどっしりと空にもたげて、劈く雷鳴と共に涙で世界を濡らした。
瞬く間に昼の空を薄灰色に染め上げた雨に背中を打たれながら、僕は一人大学からの帰路を走っていた。橋を渡る時には横薙ぎの強風に煽られて、車に水を跳ねられながら狭い歩道を駆ける。
雨は嫌いだ。感傷に浸るときにしか、雨に好意的な感情を抱いたことがない。苦しいときにだけ慰めてくれる雨は、日常の可もなく不可もない気分をあっという間にマイナスへと振り切らせる。
三分ほど走れば、ようやっとアパートが見えてくる。ぐずぐずに濡れたズボンのポケットから苦労しながら鍵を取り出して、部屋に入った瞬間にどっと疲れが襲ってきた。
ぐしょぐしょに濡れた服とリュックを脱ぎ去ってシャワーへと直行する。後始末が面倒だな、と考えて再び気だるさに襲われる。いつもと同じ温度のシャワーが、冷えた体に当たって少し痛い。
浴室を出るのはいつもより早かったと思う。身体が冷えていた分、逆上せるような暑さを感じた。脱衣所にバスタオルを持ち込むのを忘れたことに気が付いてまた気落ちする。床を濡らすのも今更かとタオルを取りに廊下を歩いた。
部屋着に着替えて、鞄や濡れた服を摘むように持ちながら雑巾で廊下を吹く。鞄の中のイヤホンが水没していなかったことに安堵して、腰を落ち着けたのが十分後。まだ外では唸るような風と叩きつけるような雨が地面を打ち付けていた。
ポッドからお湯を注いでコーヒーを入れる。甘さが欲しくて多めに砂糖を入れた。いつもと同じような日常で、されど雨と水曜日のダブルパンチで随分と疲れているように感じた。今日は早めに寝よう、と心に決めてカップに口をつけながらスマホの画面を覗き込む。
──インターホンが鳴った気がした。一瞬の、意識の空白に、空耳かと思うような非現実さでもって聞き慣れたはずの音が。玄関に意識を傾けて、立ち上がりかけたときにもう一度。今度こそははっきりと聞き取れた。配達の予定もない筈だが、と考えながら扉の先にいる相手を予想しながらドアを半開きにする。残念ながら安アパートにはカメラ付きのインターホンなんてものはない。
果たして、扉の向こうに立っていたのは全く予想外の人物だった。友達でもなければ、配送業者でも、回覧板でもない。
濡れた水色の髪の隙間から黄金の瞳を覗かせて、息を飲むような美人が立ち尽くしていた。
「こんにちは、少し雨宿りさせて貰えませんか」
「うん、まあ……風邪ひかせるのも気が引けるし、気にしないなら入りなよ」
強いて言うならば、大学の後輩というやつだった。確か名前を氷川紗夜といった彼女は、大学の友人を介して何度か話した程度の仲だ。それがどうしてここに、とかどうして僕の部屋を知ってるんだ、とか疑問は尽きなかったが、追い返すのも外聞が悪い。全く知らない相手でもないのが、余計に。気圧されながらも部屋に招き入れる。
ありがとうございます、と平静を保ったまま靴を脱いで上着に手をかけた彼女は、窺うように僕を見た。
「着替えはジャージくらいしか貸せないけど、シャワー浴びてきなよ」
「……ええ、お借りしますね」
どうしたものか、と今年一番の急展開に戸惑いながら、彼女を脱衣所に押し込んだ。再び水滴の零れた廊下を見てもそれどころではない。
とりあえず傘を貸すなり送るなりすればいいか、と問題を先送りにした。あまりアドリブのきくタチでないのは自覚しているが、なるようにしかならないとも思う。有り体にいえば現実逃避だった。
一人だったら後回しにしていただろう洗濯を済ませてテーブルの片付けに手を付け始めた段階で、彼女が浴室を出る音が聞こえた。着替えは置いておいたから問題ない。彼女の分のコーヒーも入れようかと思い立って、彼女の好みを知らないことに気がついた。空のマグカップを所在なく揺らす。
「コーヒーは飲む?」
「頂きます。わざわざすみません」
「まあ、迷惑ってほどでもないから構わないんだけどね」
一つしかない椅子を彼女に譲って、ベッドに座り込んだ。一人暮らしのワンルームなんでこんなものだ。ベッドとPCデスク、ローテーブルを置いたらスペースなんて残らない。
スティックシュガーとガムシロップを添えてコーヒーを差し出せば、彼女はブラックのまま口をつけた。
「傘を貸そうか? 帰るにしてももう少し雨足が弱まってからの方がいい──」
言葉の途中で、彼女はずいと身を乗り出した。僕が座るベッドの縁に右手をついて、整ったかんばせが眼前に迫る。唇に湿った感触がして、閉じた唇の表面を、小さな舌が撫でていった。
「手を出さないんですか、ミズキ先輩?」
窺うように彼女は僕を見ていた。流れを握られている、とどこか遠くで考えた。
「……そのつもりで来たのか?」
「そうだと言ったら?」
「少し、イメージが崩れたかな」
慎重に言葉を返す。
彼女はきっと、ここで僕に何かしらの事をして、大学生活を棒に振るような人じゃない。僕が他人に言いふらすような性格でないことをわかった上でも、きっとだ。
その数秒後。案の定、額の上でふっと笑う吐息があった。
「ミズキ先輩が堅物だって噂、本当みたいですね」
「……試すためにわざわざ濡れてきたの?」
「いえ、これは単なる気まぐれですよ」
「リスクいっぱいな気まぐれだねぇ」
「……まぁ、その時はその時でしょう」
あまり聞こえの良くない言葉が聞こえて、気づかないフリをした。
彼女──うちの軽音サークルの新入部員、氷川紗夜は、サークルの中でも少なからず人気があった。その美貌、男を寄せ付けない冷淡さ、おまけにギターの腕前は随一ともなれば理由としては十分だろう。
(この辺前後の繋がり無いですね すみません)
彼女が入学してまだ三ヶ月足らずだが、アタックして振られての繰り返しを何度も何度も見たものだ。
そんな彼女は今、僕の部屋で薄いシャツを着て、まだ乾ききっていない髪を無造作にベッドに流し寝転んでいる。
「氷川は──」
「紗夜です」
「…………紗夜はさ、友達とかいないの?」
「……? どういう意味ですか?」
あまりに不躾な質問だ。
〝こんな雨の中、数回しか話したことのない僕のところより、もっと頼れる友人がいるんじゃないか〟──これが聞きたかったのに、透けている下着に風呂上がりの彼女の熱気が、僕の口数を減らしていた。
「……単なる友人の有無でしたら、三人ほどいますが」
「同じ大学?」
「ええ、無事同じ大学に合格できました」
「……そっか、おめでとう」
会話が途切れる。
その三人のところには行かなかったの、とは聞けなかった。
口ぶりからすると、その三人は高校からの同級生で、おそらく仲も相当に良いのだろう。けれどその友人達がいるにも関わらず、彼女は僕のところへ来たのだ。その選択肢を当然のように選ぶ彼女に、頼れる友人がいることを淡々と話す彼女に、僕は少し恐怖していた。
そして、恐怖と性欲が紙一重であることも理解した。
「……外に出ない?」
「雨の中を、ですか?」
「そう、雨の中を」
「……もしかして私、邪魔ですか」
「いいや。……もう少し雨の見える場所で、紗夜と話したいとか、ダメかな」
数秒の間、紗夜が硬直した。
紗夜と躊躇いなく呼ぶのも、話したいと言うのも、友人未満の関係なら忌避されること必至だろう。
けれど、きっとこの言葉の選択は間違っていない。そう僕に思わせてくる表情が目の前にあった。
「……意外と浮ついたセリフ言えるんですね」
「大学に二年もいれば、それなりにね」
「下着チラチラ見て黙りこくってたの、知ってますよ」
「目敏いね」
それだけですか、と言わんばかりの顔をした紗夜を横目に玄関に向かう。
ついてくる彼女の足取りは、心なしか軽そうに見えた。
ここに入ってきた時のあの思い詰めた表情が頭に浮かぶ。交わす言葉も少なくシャワーを浴びさせ、それが終わればキスを迫られた。
紗夜とあのまま深い関係になるのは、きっと簡単なことだった。紗夜も抵抗しなかったのだろう。
後ろを振り返った。ちょうど彼女の瞳が目の前に来ていた。髪はまだ、乾ききっていないようだった。
「……傘、いる?」
「……? どういう意味ですか?」
「いや、何でもない。気にしないで」
「濡れてる私が好き、とかですか?」
「大胆なセリフが出てくるもんだね」
「ふふ、女性に濡れろ、なんて」
僕もなぜ、このような言葉が出てきたのかわからないが、おそらく彼女の言葉は間違っていないのだろう。
それでも僕の口は、早とちりが過ぎるんじゃないか、という言葉を出す寸前だった。それを遮ったのは、とある彼女の言葉だった。口元には得も言えぬ笑みが浮かんでいた。
薄暗い部屋に、外からの灰色の光が差し込む。
「……最低ですよ、ミズキ」
彼女の青の双眸が光り、サイズのあっていないシャツからは白い肌が覗く。頬から滴る雫、湿り気のある髪、艶の光る唇。
僕を軽蔑するその全てが、ひどく扇情的に見えた。