その廃病院は刈園区の中心街から少し離れたところにあった。剥き出しの鉄材、崩れたコンクリートの壁、割れたままの窓ガラス、ヒビの入った床。焦げたカーテンが地に伏し、あちこちにカルテらしき紙が散らばっている築50年ほどの建物だ。
この廃病院へ訪れる者の大半は肝試しに訪れる若者だ。彼らは昼間にやって来るゆえにこの風景にある矛盾に気付かない。
仮にも病院として機能していたのであれば、こんな有り様のまま運用されることはない。
なぜ鉄材が剥き出しなのだろう。
なぜコンクリートの壁が崩れているのだろう。
なぜカーテンが焦げているのだろう。
聡明な人間が昼間に訪れていれば、これは朽ちたのではなく、何者かに破壊されてこのような有り様になったと簡単に推理出来る。……その理由までは見当がつかないだろうが。
そしてここに立ち入る者がひとり。黒縁のメガネが印象的な黒髪の美少女だ。彼女は胸の中で確かな懐かしさを覚えつつ慣れたように廃病院を進んでゆく。
老朽化あるいは破壊によって崩れたと見せかけられている壁を押すとグルリと回転した。忍者屋敷の仕掛け扉のような機構がこの廃病院にはいくつか存在する。この壁とその周囲だけは分厚い鋼鉄で造られているのだ。
『ラビ、悪いが通信はここまでだ』
「ええ、ありがとう。念のために
『オレにバディを見捨てろと言うのか? それは無茶な話だ。だが、賊敷は呼んでおくさ。おまえが
「そうね。分かっているわ」
その言葉が届いたかどうかは分からない。途中で通信が切れてしまったからだ。
この通路を見ればここを廃病院と呼ぶのに相応しい場所だとは言えなくなるだろう。光を発する電灯が天井には並び、ご丁寧に床近くの壁にすら電灯は設置されている。
通路にはいくつもの扉がある。どれも簡単に打ち崩すことのない出来ないほど頑強だ。扉には数字が書かれたプレートが下がっていた。
ラビは04と書かれた部屋の扉を開く。高級感のある黒革のソファーにふてぶてしい笑みを湛える男性が座っていた。彼は40代後半くらいだろうか。あちこちがほつれたコートを着ており、その中は着崩しが目立つもののスーツ姿であった。
とは言え、彼の特徴は服ではない。左目を覆う黒い眼帯とメタリックな光沢を放つ左腕の義手だ。
彼は懐から煙草の箱を取り出すも、ここが禁煙だったことを思い出し溜め息をついた。まるで海賊のような強面であるが、守らなければならないルールは遵守するタチなのかもしれない。
「よう、半村警部補。もうちょっと遅く来ても良かったんだぜェ? 8ヶ月前に研修を終えたとこなんだ。懐かしい戦場で02と思い出話に花を咲かせたっつっても俺は責めない」
「
「気の利かねェやつだなァ。俺が懐かしさのあまり色んな感情が込み上げてきて思わず涙をこぼすシーンがそんなに見てェのか? 訓練場を弾痕だらけにして偽装工作の手間がかかったってことで俺はこの部屋で初めて始末書を書かされたんだ。……はァ、懐かしい。懐かし過ぎて誰か適当にぶっ壊したくなってきやがった」
「で、半村はなぜ俺とおしゃべりしようなんていう気分になったんだ? 言っとくが、俺も仕事が忙しくてなァ。つまらねェ話題なら帰るぜ?」
「その仕事というのは連続殺人鬼への支援でしょうか?」
「おいおい、突然何を言い出すんだてめェは。刈園区で次々と猟奇的な殺人を繰り返す
宇入はその鋭い眼光をラビに向ける。けれど、ラビはかなりの覚悟を持ってこの場に臨んでいる。その程度のプレッシャーに負けることはない。
「疑問に思ったのは警察の動きが鈍すぎる点です。夜の刈園区を歩き、私はある騒動を起こしました。それなのにパトロールの警官はおろか野次馬のひとりたりとも駆けつけませんでした。
そのとき既に3人もの少女が殺されていたんですよ? 刑事課は威信をかけて捜査していますし、一般市民も過敏になっているはずです。
事件そのものを封殺する情報工作は別班の得意とするところ。刈園区全体をカバーするほど別班の人数は多くないのでどうやって行ったのかは疑問が残りますが……」
ラビは02と共に捜査の進捗を上司に報告している気分であった。これは告発、あるいは糾弾だ。自身が属す組織への背信とも言える。
それなのに全く抵抗感を覚えることなく言葉を続けることが出来た。別班に対する情の無さの現れである。
「偶然かもしれねェだろう? 刑事課の連中が無能なだけで俺を疑われちゃ困るぜ。それに俺が聞きたいのはそこじゃねェ。どうしてそんなことを俺がしなくちゃならない?」
推理の方向性を軌道修正した宇入の言葉に思わぬ感情をラビは抱いた。
何故なら彼女たちはこの方向で捜査を進めることが出来ていないからだ。別班を疑い出したそもそもの理由は
「別班の主な任務は
私の考えでは、この殺人鬼が連続殺人鬼となる前に別班は接触して同盟関係を築いた。殺人鬼に情報を流し、
つまり、
かつて半村キラという青年がいた。特務捜査課最強の
一般市民を守るために存在している警察機関に属す特務捜査課がそのような凶事に及ぶはずがない。ラビがそんな風に考えを狭めることのなかったのは兄である彼の情報を知っていたからだ。
「……まァ、及第点ってとこだな」
宇入は言葉とは裏腹に優しい目をしている。鋭い眼光は鳴りを潜めていた。ラビはどこかホッとしている自身を諌めるように唇を噛み締める。
「分からないことがあります」
「どうやって、なんつう下らない質問じゃねェよな?」
ラビは小さく首を振る。
「どうして私に殺人鬼の捜査と偽り、任務に就かせたのでしょうか。最初から事情を話し、殺人鬼に協力させることも出来たはずです。いたずらに班員同士の仲を裂く必要はありません」
宇入は残った目を細めて「いい質問だ」と笑う。それは上司が部下に見せる顔ではなかった。慈しむような、畏れるような、そんな表情であった。
「俺が無理矢理ねじこんだからだ。敵がいねェと強くならねェと主張して何とかてめェを配置出来た。……答えになってねェってか。そうだな。俺は気に食わなかったのさ。仮にも警察官がよ、何の罪も無いガキを殺すやつをどうして助けなきゃいけないんだ? その計画を邪魔してそいつを殺してやりたいと思うのは普通だろ」
ラビは宇入の言葉に驚きを隠せなかった。これまで仕事で多くの人間を殺してきた宇入がこんないかにも普通の正義感を持っているとは思っていなかった。
だが、これは当たり前のことである。宇入とて好きで人を殺してきたわけではない。部下を守るため、より多くの市民を生かすため、戦ってきた結果であるだけだ。
「殺人鬼を幇助するなんざ、警察官としちゃ有り得ない選択だ。だが、このプロジェクトには別班・
「……自分が選択出来ているなんて思うのは驕りですよ。宇入警部には実質的な選択の余地は無い。あなたはその道を強制されてそれに従っているに過ぎません」
ラビの脳裏に兄の顔がよぎった。父の暴力と母の支配。例え自身が殺人犯となろうが、彼らを殺さなければ死んでいたのはキラとラビであった。
トリガーが不可逆である影響か、キラには殺人による陶酔は無かった。必死に何度も何度も包丁を振り下ろし、穴だらけになったふたりの死体を力なく見つめる兄の顔が焼き付いて離れない。
両親を殺した兄と、兄に両親を殺させてしまった妹。ふたりを保護したのは宇入であったが、そのことをラビは覚えていない。それほどまでに強烈な記憶であったということだ。
「いいや、違うなァ。人生は選択の連続さ。そいつの身に起きるすべての事象はそいつが選んだ結果だ……まァ、赤ん坊のときは除くがな。善行も悪行もどちらでもない灰色の行いも、自分で選択した以上、あとでツケを支払わされる。それだけのことなのさ」
「殺された子たちにもそれが言えるんですか。特務捜査課が助けたせいで死んだ少女たちに、そのご遺族に、あなたはそんな残酷な言葉を投げかけられるんですか!?」
「言える。当たり前だ。復讐者がナイフで飛びかかって来たら寛大に刺されてやる。自分の信念を曲げないという選択をした結果を味わうのもなかなかどうして楽しいもんだぜ」
「殺人鬼の名前を教えてください」
「それは言えねェな。機密事項だ。俺と別班の班長兼特務捜査課課長くらいしか知らねェ」
そう言って宇入は立ち上がった。右手には端末がある。端末に素早く入力し、何らかの命令を下したのだろうか。
『ラビ!緊急事態が起きた!』
「え!?通信のシャットアウトを宇入警部が解除したってこと?」
宇入は拳を構える。
「もし、テメェが殺人鬼の情報を知りたいってうのならば、俺を倒せ。そして」
『紋藤が危ない!賊敷には車を用意させた!急がなければ間に合わないぞ!』
「おまえはどっちを選ぶ?」
「そんなの決まってるでしょう!」
ラビは駆け出した。仕掛け扉を越えて廃病院を進む。その間に02は
廃病院から出て運転席から離れている賊敷を認識し、車に乗り込む。そして、灯花の家に向かって全力で向かっていた。
『トイレというのが引っかかる。
「血を掛ける、あるいは血の匂いを嗅がせる。そうした相手は発狂して生徒たちに襲いかかった。気になるのはこの野咲が怪我を負っていないこと。単純に発狂させたのならばもっと傷を負い、犠牲者はもっと増えていたでしょう」
『操っているのかもしれない』
冷静に分析しているラビではあるが、その胸中には焦りがあった。もし紋藤が発狂していた場合、彼女には別班の訓練場で鍛え抜かれた戦闘術が備わっている。その技術を悪用されるようなことがあれば、それは大失態だ。
そして、紋藤の心は深く傷ついてしまうだろう。紋藤は単なる協力者……もうそんな軽い存在ではない。友でもない。恋人だ。大切な相手を傷付けることだけはしたくなかった。
目的地に到着するや否や、賊敷の車から飛び出し、右手に日本刀を持って野咲家の玄関を蹴り倒していた。すると、ぐらりと脳が揺れる。何度も何度も異能を行使を繰り返してきた慣れによって、ふわふわする精神を強く結ぶ。
「なるほど。
するとナイフを持った紋藤がこちらに飛びかかってきた。彼女の服は真っ赤であった。彼女が流した血液ではないことはすぐ分かる。
ラビは日本刀でナイフと鍔迫り合い。しかし、このナイフはあくまで彫刻用のモノだ。とても日本刀に勝てるわけがない。押し負けた紋藤は追撃しようとするラビに回し蹴りを喰らわして吹き飛ばす。そしてポケットからファイティングナイフを取り出した。
戦うためのナイフは黒く、どことなく威圧感を醸し出していた。
『ラビ、【
「いいえ。体から湧き上がる
彼女はメガネをかけたラビを美しいと思ってくれているのだ。どうせならメガネをかけた状態で無力化する。階段の上にいた
紋藤は苦しそうに呻いている。ラビの体にも
紋藤が獣のような声を上げながらナイフを腰に構えて突進。ラビは日本刀を納刀し、鞘のまま横薙ぎに殴りつけた。しかし、途端に紋藤は素早くしゃがみ、日本刀が空を切ったところをすかさずナイフを刺し込む。後退したラビの服に穴が空いていた。
「よく鍛えてあるわね。紋藤さん」
「ウウウ……!」
「でも、私を忘れるなんてイケナイ子ね」
紋藤は地に伏せるが如き低い態勢からナイフを振りかぶる。狙いはラビの足。ラビ側からではナイフの軌道は読めない。だが、読めないのであれば、途中で強引に止めてしまえばいいこと。日本刀を鞘ごと縦に構えてナイフを完全に防御した。動きが止まる紋藤の腹をめがけて日本刀を走らせ、鳩尾に柄を叩き込む。
紋藤は倒れ、嘔吐する。そして階段を上がる。2階に灯花はいた。ブルブルと震えている。彼女にとって、ラビは埒外の存在だ。女であるのに己の血の力が通じないのだから。
「た、助けてください。紋藤先輩がお母さんを殺して、そしてボクも傷付けられたんス!」
ラビは命乞いをし始める灯花を冷たく見下ろした。その右腕には日本刀が握られている。だが、彼女を刀で斬るつもりはなかった。大量出血させるとこちらに危険があるからだ。
顔を近付けてそして全身の力を入れて首を絞める。
数分で決着は着いた。灯花は死んだ。1階に降りると紋藤はラビに抱きついた。返り血を浴び、手は震え、その表情はいつもの元気さのカケラも無い。
紋藤は操られていたとは言え、間違いなく人を殺したのだ。その感触は未だに彼女を苦しめる。そして最愛の人であるラビにナイフを向けたのも万死に値する行動だと紋藤は嘆く。
昨日、紋藤の家に行かなかった。
今日、紋藤が学校をサボると聞いて強引にでもその中に入ろうとしなかった。
宇入警部に事件のことを話しに行った。別に明日でも明後日でも良かったのに。
野咲灯花を殺害した。だが、あの異能と保身のために嘘をつくような人格では特務捜査課では管理出来ないだろう。
そしてラビは賊敷の車で紋藤を家に送った。紋藤の母の誘いに乗り、泊まることに。慰めるようにして肩を抱き、ラビと紋藤は…………。
人生は選択の連続だ。自分が選んだ道を進み続けること。例え後ろを振り返ったときに死体の山が積み重なっていようとも、後悔の無いように。
「ハァハァハァハァ…………」
“彼”は
“彼”は隠し撮りされた写真を見ている。金髪の少女、紋藤夢与。その隣にいる半村ラビに隠れてはいるが、彼女も相当な美少女だ。
「次はこいつにしようかなあ」
“彼”は嗤う。自分が殺して辱めるためだけに今日まで生きてきた少女たちの人生を、強く嘲笑う。
今回の敵
野咲灯花(16)
【血塗られた薫香】(ブラッド・パヒューム)
自身の血液の匂いを嗅いだ女性を
異能熱で操作する。
基本的にはマニュアル操作で動かすが、
オートパイロットに任せることも可能。
トリガー
出血すると強制発動。
止血すると強制解除。