かんそうください!
ゆっくり息を吸い、目の前に立つ
あたしはギザ歯のおねーさんに買ってもらった鍔の付いた立派なダガーナイフを構えた。桜牙教官はゴムで出来た訓練用のナイフを右手に持ち、ゆらりと佇んでいる。
ここは警視庁の地下区画に存在する
足に力を込めて畳を蹴って低い姿勢からナイフを振るう。狙うのは下半身だ。太ももには大きな血管が通っており、そこを切り裂くだけで人は簡単に致命傷を負う。股間を傷付ければ痛みで立っていられなくなるし、相手の動きは鈍る。
しかし、桜牙教官は最小限の動きで横に回避し、直線になった腕を絡み取り、首にナイフを当てた。「1回目」と桜牙教官が言う。あたしはいま一度死んだということだ。距離を取り、リスタート。
体格も能力も劣るあたしが出来ることは変わらない。けれど、今みたいに安易に攻撃すれば後手を取られて死ぬ。
相手の動きを観察しなければ。そうやって考えているうちに桜牙教官がこちらに素早い動きで接近。バックステップで躱そうとするが、足をかけられて転倒。そのまま心臓を突かれる。ゴムなので痛くない。
「2回目。観察するのは良いですが、止まればおしまいです。さぁ、次」
そうやって「3回目」「4回目」「5回目」と積み上がっていき、50回ほど殺されて、たっぷり汗をかくことになった。デスクワークがあるからと桜牙教官が退出し、あたしは畳の上で大の字になって天井を見上げる。
ダガーナイフを握っていた手が痺れている。
あれからまだ1日しか経っていない。もう立ち直れない傷を負ったはずだった。信じた後輩に裏切られて人間不信に陥ってもいいはずだった。あれだけ死を熱望したのは初めてだったように思う。
けれど、ラビさんが癒してくれた。言葉ではなく、その姿勢で。彼女は結局、あたしの浅慮を一度も叱ることはなかった。あたしはラビさんの歌声を思い出す。
「らーーー」
「Laーーーー♪」
「え?」
思わず顔を上げると白いトップスに赤いフレアスカートを合わせた女性が立っていた。ふんわりとした栗色の髪に強気な目つきがマッチして絵になっている。ニヤリと笑うその口からは特徴的なギザギザの歯がのぞく。
「やぁやぁ、少年。
「ギザ歯のおねーさん……あのう、あたしは女の子ですけど」
「なあに! すべての少年少女は罪を犯せば少年院に行くんだ。ならばきみのことを少年と表現しても差し支えは無いだろう?」
昨日、人を殺してしまったあたしにはとても笑えない冗談だった。微妙な顔をしたと思うのだが、彼女はまるで気にしていないようだ。
「おや、そう言えば自己紹介をしていなかったね。アタシは別班に属す麗しき
「あの、ナイフ。ありがとうございました。軽くて持ちやすいです」
「だろう?」
あたしの感謝に羽常おねーさんはふふんと自慢げに笑う。よく見れば、彼女は茶色のブーツを履いたまま畳に上がっている。礼儀正しい桜牙教官が見れば苦言を呈すだろう。
「ここは落ち着くね。正直言ってデスクなんかより、断然マシだよ。令和の世だというのにあそこの男どもは仕事中も平然と煙草を吸うんだ。アタシのオシャレな服に消えない匂いがつくのは物凄く腹が立つ。きみは将来、煙草を吸ってはいけないよ。
口がさみしくなったらその都度、
けして毒はない。棘があるわけでもない。けれど、その声は雄弁であった。感情が乗っているのがよく分かった。言葉の途中で何度も何度もあたしの顔をチラチラと見ていることからも、その感情の方向性は知れる。
「あのう、もしかしてなんですが、羽常おねーさんはあたしがラビさんと付き合っているのを快く思っていないのですか?」
羽常おねーさんは顎に手を遣り、今度は正面からあたしを見つめてきた。栗色の髪が揺れ、左耳に月の形をしたピアスがあった。
「ははは……そう映ったかい? そうかもしれないね。何せアタシとラビは10年以上の付き合いがある。まさか、こんな風に彼女を盗られるとは思ってもみなかったんだ。告白などせずともアタシとラビの仲は永遠だと考えていた。キスやセックスなどしなくとも、彼女の心を繋ぎ止めていられていると勘違いしていた。情けなくて蒙昧なアタシを許せ、少年。
しかしだね、アタシは諦めていないのだよ。令和の世だというのに同性婚が合法になっていないのは計算外ではあったが、ということはまだチャンスがある。きみが傷付き、倒れ、果てたときにラビの心の中に出来た空白に付け入り、改めて頂戴するとしよう」
つらつらと語られた言葉は本心なのかどうか分からない。ラビさんへの想いを語っておきながら、それはあたしに発破をかけるような内容であった。暗に死ぬなよと言っている。
「あたしは死ぬつもりはありません。もう」
そんな決意を簡単に表す。
「ははは、未来など誰にも分かりはしない。だけどね、少年よ。出来るならアタシはきみと公平なレースがしたいのだ。ラビは大人しく賞品になるような器ではないが、ここでは敢えてこう表現させてもらおう。大切な誰かの心を勝ち取るというのは、砂漠越えの遠征よりも迷宮を攻略する冒険よりも雪原を踏み均す征服よりも、よほどスペクタクルがある。もちろん、
さて、きみはこのレースに命を賭けられるかい? 尽きることのない殺戮の世界に容赦なく踏み入っても構わないと誓えるかい?」
「もちろんです。……でも、むざむざ殺されるわけにはいきませんよ」
羽常おねーさんの手足の動きを観察しながら立ち上がる。黒曜石を削ったかのような闇色のダガーナイフを構え、彼女を強く見つめ返す。
「ははは、断言したね? 良い度胸だ。少年とはそうあるべき生き物だね。きみはアタシの先ほどの発言を覚えているだろうか。
ラビとは10年以上の付き合いがあると言っただろう? この2週間ほど毎日頑張っている程度のきみと別班で長く修羅場を潜って来たアタシが本気の殺し合いをして、果たしてどんな結果が待ち受けているか。そんなことは火を見るより明らかだ」
「未来は誰にも分かりはしないんじゃなかったんですか」
「おやおや、そうだったね。一本取られたよ」
そう言って羽常おねーさんはバンザイをするように手を伸ばし、ぐぐーっと背伸び。どういうつもりなのかは分からないが、桜牙教官に比べれば隙だらけだ。そして「なるほど」と勝手に納得して言葉を続けた。
「演技が上手いじゃないか少年。きみはラビからアタシとその陣営の情報は聞いているんじゃないか? だからこそ、そんな態度が取れる。もうちょっとビビって欲しかったんだけどね」
「ビビっていたらどうしてたんです?」
彼女は斜めに体に掛けているベージュのポーチからスマートフォンを取り出し、パシャっとあたしを撮影する。
「そりゃあ、その無様な姿をラビに送っただろうさ。きみのお姫様はこんなにも弱く愚かで醜く哀しいやつだってね。アタシも溜飲が下がるというものだよ。だけど、そうはならなかった。残念なことだ。……見たまえ、これが今のきみの姿だ。微力でも良いから愛しき人のために命を賭けようとしていて、とてもかっこいい。……ラビほどではないがね。
はぁ……そこで終わっていれば少年は別班なんていう泥舟に乗らずに済んだのにね」
再び羽常おねーさんはギザギザの歯を剥くようにして笑い、持っていたスマートフォンをポトリと畳の上に落とした。
「ウェルカムトゥアンダーグラウンド!
警察手帳も支給されなければ逮捕権も無く拳銃のひとつも借りられない特務捜査課にようこそ。ラビの協力者として組織はきみを認めよう。
オペレーターでバックアップをするか、情報源に徹するか、あるいは現地で
琴城羽常。その
応用としてナイフを揺らし、高周波ブレードにしてあらゆるモノを切り裂くといったものもあるらしい。
弱点は「去れ♪」「見るな♪」「聞くな♪」など、人を操るときには簡単な命令しか出来ないこと。
そのため、基本的に彼女はバックアップ担当だ。ラビさん曰く「戦闘はへっぽこ」なのでここで殺し合いになるとは思っていなかった。普通に異能を発動されたら負けていただろうが。
「羽常おねーさん。質問いいですか?」
彼女は鷹揚にうなずく。
「何かね?」
「なぜ別班は殺人鬼を助けるのですか?」
「ラビから聞いているのではないのかい」
「合理的な
でも、あたしは納得出来ないんです。それはあまりにもハイリスクローリターンではないですか? 特務捜査課の育成によって、殺人鬼は組織を瓦解させるかもしれない。特務捜査課の存在が露見した場合、それまでの責任を強く問われる。そうは考えないんですか?」
「……その意見は概ね正しい。こんなところで言うのもなんだが、アタシも同じことを思っているさ。一部の別班がそれを行うのならばまだしも、特務捜査課全体で殺人鬼をバックアップする形になっているのは異常だよ」
「それなら、羽常おねーさんもラビさんを手伝ってくれませんか」
「前向きに検討しておくよ……。あぁ、もうすぐ時間だね。桜牙教官に見つかるといけない。何故か彼はアタシを目の敵にしているんだ。デスクにいるときはそうでもないのだが、やはり男という生き物は理解に苦しむね。
ではな……少年。プレゼントしたナイフをアタシだと思って大切に扱ってくれたまえ」
そう言って羽常おねーさんはブーツで畳を傷付けながら去っていった。落としたスマートフォンには目もくれぬまま。
彼女は最後まで余裕のある態度を崩すことはなかったが、けしてノーダメージではなさそうだった。桜牙教官はもう戻ってくることは無いことくらい、把握した上で話しかけてきたはず。つまり、彼女は逃げたのだ。
緊張感から座り込む。まだあたしは弱い。羽常おねーさんが言うようにあんなに強気に出られたのはラビさんが「訓練に行けば必ず特務捜査課の誰かが接触してくるはずよ」とまえもって忠告してくれたからだ。
愛しき人にあたしは生かされている。その事実が何より嬉しい。放置されたスマートフォンを見るとあたしの後ろ姿が写っている。隠し撮りだろうか?なんとなく、これが羽常おねーさんが精一杯できる協力のような気がしてあたしはそれを回収した。
バスに乗り、帰宅する。リビングにはぼんやりと灯りがついているのがカーテン越しでも分かる。お母さんではないと知っている。あたしは鍵を開けて玄関で靴を脱ぎ、リビングの扉を開ける。
「おかえりなさい、紋藤さん」
「ただいま、ラビさん」
出迎えてくれたのは我が愛しき恋人だ。彼女はデフォルメされたシロクマが描かれたエプロンを黒いセーラー服の上から身に付けている。美味しそうな肉とジャガイモの匂いがした。
「今日は私の得意料理、熊肉のビーフシチューよ。これから紋藤家に住むから、家の熊肉すべてを使い尽くした贅沢な一品。手を洗って来てねー」
「はーい!」
そうして。待つことおよそ5分。大皿に乗ったビーフシチューが現れた。キラキラした目をしているラビさんと一緒に「いただきます」と手を合わせて、熊肉を口の中に放り込んでゆく。
「美味しいです! 熊肉とジャガイモはとっても合うんですね……ほろほろです」
「そうでしょ。牛肉や豚肉や鶏肉ではこのほろほろ感が上手く出ないのよ。熊肉単体でもいいんだけど、やっぱり野菜が無いと体には悪いから。これでビタミンも採れちゃうわ」
ラビさんにとって野菜とはジャガイモのことだけなのかもしれない。でも、自分の料理にうっとりしている彼女の顔は美しい。けれど、これからあたしの家の台所はラビさんが握るのだ。少しは注意したほうがいいのかな?
「ビーフシチューというならブロッコリーとか玉ねぎも合いますよ」
「ブロッコリーって……紋藤さんったら冗談はほどほどにしてちょうだい。あれは野菜じゃなくて草じゃない。玉ねぎなんか彼岸花の仲間なのだし食べたら死ぬに違いないわ。不死という花言葉は私好みではあるけれどね」
「え?」
「え?」
そこから食卓の場は食育の場と化した。あたしはスマートフォンでウィキペディアやら料理動画を見せ、ラビさんに教え込んだ。彼女は熊肉を頬張りつつ「どう見ても草よ。草は苦いわ」と小学生のようなコメントをしていた。
「あの、ラビさんってその保護されてからは別班の人たちに育ててもらったんですか?」
彼女はあまりにも常識というものが欠如している。熊肉以外の肉は食べていそうだったが、彼女は普通の野菜をすべて草だと認識している。幼い頃は両親に虐げられていたのだからまだ理解出来る。けれど、それ以降はどんなものを食べて生きて来たのだろう。
「違うわ。私を育ててくれたのは
なんということだろう。今までスルーしてきた自身を恥じる。ラビさんにとって野菜とはつらい訓練時代の記憶そのものなのだ。だけど、これからはあたしが歪みを直してみせる。
「ラビさん、明日はあたしが料理する。あたしの料理でラビさんをうっとりさせてみたいの」
「まぁ。嬉しいわ。明日が楽しみね……じゃなかった。実は今日は大切な話があるの」
「なんですか?」
「明日から作戦を開始するに当たって必要なもの。私を強化する兵器よ。これを使う」
とそう言ってラビさんが鞄から取り出したのは緑色と白の蓋がくっついた小さなものだった。
「これはコンタクトレンズ。あたしの異能の弱点は何かしら?」
「え? 【
「もちろんよ。すべての
と、とんでもないことを言い出した。
「え、じゃあ、これまではなんかよく見えない中で相手と戦ってたんですか!? あんなに強力な矢印も適当に使っていたと?」
「それは言葉が悪いわ。フィーリングで、よ」
「言葉しか変わってませんよ。それで、コンタクトレンズをつければメガネを外しても視力は保たれるってわけですね?」
「そう。でも、問題があるの」
「なんですか?」
「コンタクトレンズ……が怖いのよ。私ひとりじゃどうしてもつけられない。だから、紋藤さん。私のコンタクト大作戦、付き合ってくれる?」
「もちろんですとも!」
ビーフシチューを食べ終わり、皿を片付けたあと、さっそくコンタクト大作戦に挑む。
すべては明日からの作戦のため。あたしが囮になるのは怖いが、ラビさんはあたしの命を絶対守ってくれるはずだ。これ以上の犠牲者を出さないためにも、頑張らなくては。
今回の味方
琴城羽常(27)
異能
【私は最凶♪】(ウタイドリ)
異能熱の耐性の無い者を歌によって操る。
ナイフの振動数を上げて高周波ブレードにも出来る。
トリガー
歌を歌うと異能発動可能。
止めると新たな異能は使えないが、
慣性の法則に従ってしばらくは効果が残り続ける。