「俺の正直な気持ちはって言われても正直、言葉にならない。だから纏まりがないかもしれない。でもさ、今の明莉の話を聞いてすごく辛かったんだろうなって思った。月並みなことしか考えられないし、言うことしか出来ていない。嘘臭くて、他人事のように聞こえると思う。だって俺は経験してないんだから。だからその、だから」
ゴクリ。唾を飲み込む。肝心なところで俺は何も言えない。至近距離に迫っているその顔はやっぱり美しい。しかしその表情がまた最初に会った時のように俺への感情など何も向けていないように戻ってしまったような気がした。折角ある程度話をして、そうして家族になれたと思ったのに、また振り出しに戻るのは嫌だとそう思った時には。
気がつけば腕が明莉を抱擁していた。いや、そんな生易しいものじゃない。折れてしまいそうな、そんな華奢な身体を自分自身の手によって強い力で抱き締めた。俺は最低だ。自分を感じてくれるように。何処かへ、いなくなってしまわないように。自分自身のエゴのために。それでも、最低限彼女の為にという言い訳をするためにそっと背中を撫でる。彼女自身が落ち着くと言ってくれていたから。
「お兄様。私は、明莉は貴方がいれば」
微かに感じる驚きと次いで背中にかかる手の柔らかい感触。彼女の顔は見えない。だから何を思っているのか、受け入れてくれてるのかは何もわからない。心臓の音がうるさい。そんなことを思っていたらそれは自分だけのものでは無く明莉のモノも一緒に動いているからだとわかった。前回のようにされるがままで無い事だけは分かり、多少の安堵の気持ちが胸にあった。
死ぬのは怖い、だから生きているのだと。そう言っていた。それはつまり裏を返せば彼女はこの世に何の未練もないということと同義だ。
ずっと感じていたことだ。何処と無く差す影。明莉が闇ならきっとその姉は光なのだろう。話に少し出てきただけで少し憧れと多大なコンプレックスを感じた。母のことよりもずっと。
明莉が一番大変だったとき、誰が彼女の味方をしたのか。自慢である良くできているはずの姉が葬式の時に来なかったのはどうしてだろうか。
答えは簡単だ。だからと言ってそれを責める資格は俺にあるはずもないのだが、ただ一人残された肉親。それにすら見捨てられて明莉はどう思ったのか。やはり姉については近いうちに聞かなければならない。彼女を縛る物としてずっと残っているのだから。
誰も明莉に構わなかったと、そう言っていた。産まれてからずっと。ただの惰性で、生きているのかすらどうでもいいと。嘘や誇張には見えなかった。そんなことを言っても何もならない。
だから、それを克服したときにいや、人としての本能である死への恐怖感を失ったとき、何の躊躇いもなくこの世から旅立っていくのだろう。
そんなこと、許せるはずがない。欺瞞だと思うだろう。綺麗事だと罵られるだろう。しかし、そうだとしても。たかだか会って直ぐの女の子の笑顔を見てしまって。今も俺に抱かれて恥ずかしそうに小さくしている、そんな普通の女の子を見て、感じて、俺はこの娘と絶対離れたくないと思ってしまったんだ。
話そうとして、そうしてすぐ口をつぐんでしまったその姿を見て、ずっとそうしてきたんだなと想像するのは簡単だった。押し殺して、そうして得られる物なんて何もないのに。
自分自身とずっと重ね合わせてしまって嫌になる。でもそんな一方通行だとしても似ていると思ってしまった。その時点で俺にとってはずっとあいつらよりも家族で、妹で。
「明莉は、さ。自分が嫌いなんだよな、きっと。だから自らを二の次にして、自分の気持ちに蓋をしているんだと思った。だからさ、素直になればいいんじゃないかって思うんだ。でもそんな簡単に行く話じゃないってわかってる。だから、俺のワガママばっかりで悪いとは思ってるけど、俺のために生きてほしい。俺には明莉が必要で、なんていうか、明莉は俺にとっての欠けてはいけない、導いてくれる灯りみたいな存在でなんだ」
「ああ、あああああああ!お兄様は。ずっと私が言ってほしいことを、与えてほしいとずっと恋い焦がれて待ち望んでいたことを何度も、何回も言ってくれて。ねぇ、これは夢ですか、質の良すぎる夢だからこそ、早く目覚めて!もしも目覚めないなら」
我ながら照れ臭い、意味の分からない言葉にならない言葉をどうにか言い切った。本音ってきっとこういうものだろう。整えて、取り繕った言葉ではない、魂からの叫びだが、どうにかそれは受け入れてくれるようだ。全身から感じる喜色は決して勘違いではない。
ギュウっと自分の身体が激しく締まる感触。先ほどから感じていた力はさらに強まってきた。首筋からの鋭い痛みが脳に送られてきて、反射的に視線を這わせるとそこには俺へ恍惚とした表情をしながら噛みつく明莉がそこにはいた。
血は流れていて、生命としての本能が危機を晒しているはずなのに俺はそれを心地が良いと感じてしまってる。自分はもう人として手遅れなのかもしれない。
しばらくしてから合図をするでもなく離れた。そうして俺が身勝手な事をしてからずっと見ていなかった、正面からの顔が初めて露わになった。俺から出た血で口許を染め、そうしていいことがあったかのように目尻が下がった安心しきっている様な素敵な笑顔を浮かべている。
それを見て本当なら怖いと思わなければいけないのだろうが、それでも俺にとっては蠱惑的でとても綺麗に見えた。やっぱり笑顔が君は似合う。
「私の願い、お兄様に聞いてもらっても良いですか?」
「勿論、なんでも聞くよ」
即答する。俺は明莉の兄で、そうして家族なのだから。そんなことわざわざ聞かなくてもいいのに。
「ありがとうございます。では言わせていただきます。えっと、なんていうか口に出すとなるとやっぱり恥ずかしいですね」
照れ臭そうにはにかむ、と言ったら良いのだろうか、失われていた年相応のあどけなさを感じさせるようにそう言った。やはりどんなに大人っぽく見えたとしても、俺よりも年下の妹なのだ。俺が守ってやらなくて、甘くしないで誰がそうするのだというのか。
「大丈夫だから。それに明莉が勇気をもって俺に言ってくれるようなお願いを聞けないと思う?」
「えっと、じゃあ」
そんなことを言いながら明莉は自らの手を顔に近づけ、そうして思いっきり指先を噛んでいた。当然血が出る。少量だとしても、明らかに栄養が足りていない様な彼女から生命の源が失われていくのを見てどことなく罪悪感に駆られる。そして次の瞬間に何を言われるかはもう想像がついていた。
「お兄様も私の血、舐めてください」
俺は当然とばかりに、それに従ったのは言うまでも無いだろう。
*
俺が舌を這わせる度にビクッと痙攣をしながら、それでも満足そうな表情を浮かべてくれた。そうして思ったことは血は余り体内に入れるべきでは無いなと思った。鉄のような味がしていて、明莉のだからよかったものの、他人なら吐き気がする。
そうして一連の行為を終えた後、俺たち二人は何をするわけでもなく、ただ互いを見つめ合っていた。やはり今は心地がいい。言葉だけの関係ではない、まさに血の兄妹となれたのだなと、そう思った。
ふと思った。自分が普段当たり前のように生活をしていて、この部屋には明莉がいる以外はいつもと変わりがない。そんな日常と変わらない様な場所でこんなことをしている。客観的に見てそんな自分たちは酷く倒錯的に思えてきて、漸く正気を取り戻した。
そう思ってからの動きは早かった。俺の方は時間が経っているからか、それとも丁寧懇意に明莉が舐めてくれたからかはわからないが既に血はほぼ止まっている。こちらはともかくとして明莉の体調が心配だ。どことなく顔も青白いようにも見える。
すぐに部屋にあったティッシュを取り出して彼女の手に巻く。まだ血が止まっていないのだろう。ドクン、ドクンと心臓の音が手越しに伝わる。自分の時も心臓の激しさが彼女に聞こえていたのだろうか。自分の興奮が付きぬけになってるように思えた。抱き合うようなことをしておいて何を言ってるんだと思われそうだ。
そして、それがあまり終わらない内に再び家に聞こえた音。それは父も帰ってきたことに他ならなかった。最低限、自分たちに着いた血液程度でも取らなければ、流石に何かしらを突っ込まれてしまうだろう。急いで終わらせて向かうことにする。
「すみません、私のワガママのせいでこんなことになってしまって」
「それを言うなら俺だってそうだ。それにさ、家族になるために絶対必要な事だったと俺は思うよ」
すっかり先ほどの妖艶さは身を潜め、再び卑屈な態度に変わる明莉。しかし、その謝罪は必要がない事だった。何故なら俺自身も心からそう思っているからだ。してしまったことに対して後悔はしていない。
「そう、ですか。ありがとうございます。お兄様はとても優しい御方です。今まで私を傷付けない様な嘘を付いてくれたこともあったのでしょう。しかし今回に関しては優しい嘘ではなく本心からのだと私は思えました。だって、こんなに汚い私の血を綺麗な貴方が取り込んでくれたのですから。私も少しは綺麗な存在になれたと、そう思っています。」
柔らかで、穏やかさを思わせる表情を浮かべながらそう呟いた。どことなく儚さを連想する彼女の姿はよく絵になっていて、そしてどこかへ行ってしまいそうな危うさが感じられた。
いつの間にか俺の手には彼女の白魚のごとき、どこか青白さすらも感じるそんな手が重ねられていた。やはり、強い温かさを感じられる。片づけが終わらないな、なんて心の中で苦笑しつつ優先順位を間違えないように俺からもその手を握った。
「そう言ってくれると俺も嬉しい。ありがとう、明莉」
そのまま永遠にも近いような時間を一緒に過ごしていたかった。しかし、何事も終わりはいつも突然来るものだ。今回に関しては予測可能な事であり、その限りでは無かったが。コンコン。控えめなノックが俺たちを現実に引き込んだ。
「宮崎明莉。今後の事を話したい。私はどうでもいいんだが、何故か妻が言うものだから、悟は待っていろ。話すことは話したからさっさと下に降りて来なさい。では」
ドア越しに聞こえる父の声。そうして遠ざかっていく気配。話を聞いて最初に考えたことは何故俺は行ってはいけないのか、ということだった。一応というか、あいつらとも家族なわけだし、これからの事に関しては家族全員で話して然るべきだと思うのだが。
それに明莉だけで行かせてしまって大丈夫なのだろうか。父は普段とあまり変わらない様子のように聞こえたし、母も一旦は落ち着きを取り戻していた。しかしそれにいつ火が付くかは俺には全く予測できないのだ。
昨日の会話から察しても明莉の事をよく思っていないのは間違いないだろうし。ただ、俺を名指しで来るなと言われておいて行くのも。うーん。俺も話し合いに参加して当然と思っていただけによくわからない。
「お兄様、私は大丈夫です。私の今後の話なのですからわざわざ来ていただく必要もございません。きっと私の為にどうしようかと考えていただいてるのでしょうが。自分の身の振り方ですから、安心してください」
痛いほどに握られた手。真っ直ぐこちらを射抜く目線。そんな意志を見せられたら俺には止める事が出来ない。仮に不穏なことにでもなればすぐに駆け付ければいい。わかった。とそんなことを言ったら明莉はすぐに部屋から出て行った。彼女の血で染まったティッシュはすぐそこに落ちていた。
*
とりあえず部屋の掃除をすることにする。そこまで酷いわけではなかったが、所々に血の痕跡があったりする。今更ながら先ほどは勝手に部屋に入ってこなくて本当に良かった。この状況をどう説明しても良くない方向に行くビジョンしか見えなかった。
噛まれた時から少し時間が経って痛みの感覚が戻って来た。普通に痛かったが、その割に傷はそこまで深くはないように思える。大丈夫だとは思うが一応近くにあったウェットティッシュで拭く。ついでに床も。
そういえば明莉にはティッシュは巻いたが、先ほど使った方は使っていない。つまり俺の唾液でベトベトという訳で。そう考えたら自分がやらかしたことは結構酷かったなと思い返した。
そんなことを考えながら作業を続けた。そこまで広い範囲という訳でもなかったので掃除にそこまで時間はかからなかった。今日は水野に唾液付きの箸を差し上げたりと何だか酷い日だなと思った。
手持ち無沙汰になってしまった。そういえば、水野で思い出したがRINEを交換したんだった。別れ際、社交辞令だとは思うがRINEすると言っていた。一応確認してもいいかもしれない。何も無かったら悲しいけど俺から送ってみようかな、そんなことを思った。
スマホは色々あって今はリュックの中にある。雨などの水に濡れた状態で電源を付けるのも良くないと聞いたことがあるので今は切っている。そうして今ようやく起動をした。普段からあまりスマホを使う人間でもないので特に不便では無いのだが。
やけに通知音がうるさい。少し煩わしさを感じつつもアプリを起動すると、え、は?水野からの通知が数十件?
『どもー。もう帰れた?今日は色々お疲れ!私は今帰って来たよ』
『おーい。もしもーし。なんかあった?寝ちゃった?』
『もし無視してるんだったら怒っちゃうよ。ウソウソ冗談。なんてね』
『返信くれなきゃ落ち込むよー。今日約束したよね』
『もしかしてなにかあった」
『ねぇ、大丈夫。今どこ?お家?それとも?』
『お願い。何でも良いから連絡して。不安なの』
『ごめんね。今日は変なことしたよね。明日ちゃんと謝るから』
不在着信 不在着信 不在着信・・・
思わずスマホを手から落としてしまった。理解がいまいち追いつかない。本当にどういう事だ。スマホがおかしくなったのだろうか。そうだ、そうに違いない。俺は拾いなおす。最後まで画面をスクロールすると新たなメッセージが来ていた。
『既読付いたよ。良かった。今何してるの?返信ください』
『ねぇ、何か書いてよ。見てるんでしょ」
既読?よくわからなかった。だが何となく言いようのない不安を感じた。とりあえず明日に直接聞くことにしよう。俺は大丈夫ですとだけ送ってスマホの電源を落とした。