薄暗い地下にある
一人はスク水の上に白衣を一枚だけ纏った女──つまりはオレ、
もう一人は真っ黒なドレスに透明のヒールを履いた女、ヴィルゴである。
「貴方が準備した『カレッジ』を侵入するための策とはなんですの?」
「そんなもん一つに決まってんだろ。お前も見たことがあるはずだぜ」
「?」
『カレッジ』のセキュリティランクは世界最高と言ってもいい。その難易度は人間にはハッキング不可能な領域にある。
しかし、人間じゃなければ何でもいいわけじゃない。どんなに演算力の高いAIを用意したとしても、世界で1番性能の良い『カレッジ』のセキュリティAIに比べれば全て格下だ。
ならば、それを超えるモノを用意しなければならない。
「〈
正確に言えば、それとラグなしで繋がる端末。
オレの体内に打ち込んだ
世界で1番性能の良いAIなんざクソ喰らえだ。
AIなんて前世紀に発明されたモノの性能を上げたからなんだ。全く新しいモノを生み出してこそ最高の『科学』足り得る。
「ま、人の眼による監視もあるからな。そっちはヴィルゴに頼んだ」
「お任せを。監視方法が原始的であるほど
『カレッジ』は同じ大学に所属する者であっても他の研究室を覗くことができないようになっている。つまり、入口から研究室までは直通なのだ。
「…………この先に、黒幕がいるのですわよね?」
「ああ、相手の目的は間違いなく〈
そして、〈ネオアームストロング〉のエレベータは現在稼働していない。
よって、研究室しかあり得ない。
一体この事件の黒幕は誰なのか。
宇宙物理学者、ヤリ・マンコヴィッチ。
建築構造学者、
量子力学者、バキューム・フェラチオンヌ。
誰もが怪しく感じられる、
やがて──
ゴゥン、と。
エレベータが停止する。
研究室まで到着し、目の前に高そうな扉が現れる。
「…………準備はいいか?」
「勿論ですわ。貴方こそ、怖気付いていませんか?」
「言ってろ」
少しの躊躇の後。
自動ドアに手を伸ばす。
安全のため、ゆっくりとドアが開く。
そして────
「────は?」
現実感は全くなかった。
信じたくなんてなかった。
だって意味が分からなかった。
「…………や、り……? ゆー、ぢぇん…………、……バキューム………………?」
でも、だけど。
首に食い込む縄の跡が。
ふらふらと揺れる脱力した
乾いていないズボンの染み、股から垂れ流された刺激臭が。
自動的に起動した生体認証システムによって、瞳に浮かんだ彼らの名前が。
その死を現実のモノであると思い知らせる。
「誰が……、なんでッ……⁉︎」
「
吐き出された独り言に返答があった。
なんてことはない。首吊り死体に隠された先に、そいつは立っていた。
ヴィルゴは初めから気づいていたようだった。
だからこそ無言で、一人だけ臨戦態勢を取っていた。
そいつには見覚えがあった。
そいつは白衣を着た少年だった。
そいつはヤリでも
そして、そいつは吐き捨てるように言った。
「全部
◆黒幕は研究室のメンバーで間違いない。研究室のメンバーは四人とも研究室の中にいる。
◆宗聖司を名乗る少年は、生体認証で宗聖司本人であると証明されている。TSした少年はまだ証明されていない。
◆三人の首吊り死体は確実に死亡している。死体はそれぞれヤリ・マンコヴィッチと
「…………宗聖司が、黒幕だって……?」
「ああ、そうだ。つっても、それはテメェじゃなくて
目の前には、オレよりも
アイデンティティが揺らぐ。オレという存在が信用できなくなる。
「…………、えない」
「あ?」
「ありえない‼︎ ありえるはずがないッ‼︎」
「何が? 何で?」
「だっ、だってッ、オレは何度も死にかけた‼︎ いやっ、ヴィルゴがいなけりゃとっくに死んでたっ‼︎ テメェが宗聖司だって言うのならオレ自身を巻き込む理由がないッ‼︎」
だから、これはきっと何かの間違いだ。
目の前のコイツは立体映像か何かで、こうして話しているのは人工知能による哲学的ゾンビとかだ。
コイツは宗聖司じゃない。オレは黒幕じゃない。
そうだ、そうに決まっている。
だって、そうじゃなきゃ。
「…………はぁ、頭の回転が
「なにを……?」
だけど、現実はいつも非常だ。
そして、目の前の少年は致命的な一言を放つ。
「
時間が、止まった。
そう錯覚するほどに、場を沈黙が支配する。
人の声も、空調の音も、何も聞こえない。
それなのに、自らの心臓だけがうるさく鳴り響く。
「………………………………う、そだ……」
「テメェの名前は宗聖司じゃない。思考停止すんな、初めっから考えてみろよ。
「……それ、は…………………………………」
「生体認証は試したんだろ? テメェの家は、電子決済は、この大学は、一度でもテメェを宗聖司本人だと認めたか?」
「…………………………………………ぁ……」
「
「………………………………………………っ」
「違和感を抱かなかったのか? TS病で肉体が変わったのに、テメェは最初から問題なく歩くことができた。体重・重心・身長・筋肉量・足の大きさ・足の長さが変わっても歩けたのは、テメェの脳に僅かでも体を動かす為の手続き記憶が残ってたからだと思い至らなかったか?」
「…………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………」
言葉が出なかった。
何か言い返したいのに、反論できる点がなかった。
オレは間違っていて、コイツは正しかった。
「TS病なんかじゃない。そもそもアレの感染経路はほとんどが粘膜接触──
「…………ぁ、ああ…………」
「ま、仕方ねぇさ。テメェが馬鹿でもそれはしょうがないことなんだよ。だって、テメェは天才じゃねぇ。天才なのは
「あ、ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッ‼︎‼︎‼︎」
ぽたぽた、と。
ほおをつたう。
なにかが、こわれた。
ちめいてきにこぼれおちた。
「
「冷てぇな、ヴィルゴ。一緒に戦ってきた仲じゃねぇか」
「貴方と、ではありませんが」
声が聞こえる。
だけど、聞こえるだけ。
意味は分からず、耳を素通りする。
「……目的はなんですの? こんな回りくどい事をした理由は?」
「
「…………いえ、それだと辻褄が合いませんわ。黒幕である貴方はその情報を漏らした側……完成を妨げているのではなくって?」
「情報を隠してるっつても、
「……一理ありますわね」
「その上で
誰かが何かを話している。
だけど、もう会話の内容には興味がない。
それを聞いた所でオレには何もできない。
「
するり、と。
オレの鼓膜に優しげな声が届いた。
その声は鈴のように高く、そよ風のように小さく、それでいてハッキリと耳に残る。
「貴方が苦しんでいるの分かりますわ。自己を否定され、全ての過去がまやかしだった。苦しみに共感はできずとも、理解はできます。
「オイ、テメェは何を言っている……?」
「貴方は宗聖司だから天才なのですか? 宗聖司だから優しかったのですか? ……違いますわ。
「そいつはもう立ち上がれねぇ……‼︎ 何処見てやがるッ‼︎ テメェの敵は
「いえ、そもそもの話。
ホンモノの宗聖司なんかどうでもいい。
彼女以外目に入らない。
そして、彼女は胸を張って言った。
「
その言葉に根拠なんてない。
その言葉で証明することはできない。
その言葉には意味も価値もない。
ただ、オレを最大限に信頼して放たれた一言。
一〇〇%の絶対なんてあるはずないのに、彼女はそれをオレに向ける。
全く『科学』的じゃない。人は彼女を愚かだと言うかもしれない。ほんと、どうしようもない。
でも、だけど。
オレはその一言に救われた。
バラバラになった心が、宗聖司として再構成される。
「…………そう、だな。忘れてた」
「何を、言って……⁉︎」
「『科学』は真実を疑うことで発展してきた学問だ。オレは全てを疑わなくちゃならねぇ。それがたとえ、
コイツは宗聖司で、オレは宗聖司じゃない。
「
だから、オレはオレの仮説を主張する。
こっから始まる戦いは命の奪い合いじゃない。
自己の尊厳を賭けた
今からコイツの主張を──『宗聖司ニセモノ仮説』を支える四つの根拠を棄却するッ‼︎
◆宗聖司を名乗る少女はニセモノである。根拠は四つ。
◆根拠の一、生体認証が彼女を宗聖司だと認識しない。
◆根拠の二、
◆根拠の三、女体化後に違和感なく体を動かすことができた。
◆根拠の四、宗聖司は童貞であるためTS病には罹らない。
「そもそも生体認証なんて当てにならない‼︎ TS病は遺伝子ごと書き換えるんだから、それはオレが宗聖司ではない根拠にはならない‼︎」
根拠の一を否定する。
これは初めから何度も言っていたことだ。
目の前のコイツが生体認証で認識されたからといって、認識されなかったオレが宗聖司でないことの証明にはならない。それとこれとは全く別の事だ。
「次に、
「…………いや、それは詭弁だ。心の声なんて客観的に証明することはできねぇ。テメェの心の有無なんざ、側から見たら何も分からねぇ‼︎」
「かもな。でも、これはニセモノが宗聖司になることを可能にする技術であって、オレがニセモノである根拠ではない。たとえ人間の人格をそのまま他者にコピーする技術があったとしてもだ」
根拠の二を否定する。
オレはこうして心の中で考えを巡らしている。
それこそがオレがニセモノでない証明となる。
「だとしてもッ、テメェが女体化してすぐに普通に歩けたことはどう説明するッ? テメェが元から女でもなけりゃッ、そんなの不可能だろうがッ‼︎」
「そうは言えねぇぞ? 記憶ってのは脳以外にも宿るものだ。それは心臓移植のケースからも分かる。それなら、遺伝子が女性に変わったことで女性としての手続き記憶が発生してもおかしくはねぇだろ」
「んな訳ねぇだろッ⁉︎」
「じゃあ、これはどうだ? 大天才のオレが無意識に体に合った動き方を計算してたってセンも考えられるな」
「テキトーすぎる……‼︎ そんなもんッ、どうとでもこじつけできるだろうが……ッ‼︎」
「そうだ、こじつけできでしまうんだ。その程度のことを根拠にしてどうする? それに、他のTS病患者が歩行に苦労したって話は聞かねぇ。意外と一個目の予想が当たってるんじゃねぇのか?」
根拠の三を否定する。
と言うより、これは元から根拠とすら言えない曖昧なものだった。捨て置いていい。
「まだだ……ッ‼︎ TS病の感染経路の話を忘れてんじゃねぇよ‼︎ 童貞の
「テメェこそ忘れてんじゃねぇか?
「…………ッ‼︎」
根拠の四を否定する。
HIV・AIDSを思い浮かべれば簡単に分かる。
性感染症は性行為による感染が主であり、日常的な飛沫などでは感染することはない。だが、血液感染や母子感染など感染経路は一つじゃない。
これを以て、『宗聖司ニセモノ仮説』は棄却される。
「ほんとに貴方が宗聖司だったんですわね……」
「なんだ? テキトーに言ってたのか?」
「いえ、テキトーというか…………貴方が宗聖司でなくても
「別にそれでいいよ。たとえ根拠のない綺麗事であったしても、オレはそれで救われたんだから」
人を信じるのに根拠なんて必要ない。
科学者としては正しくなくても、それが人として正しい在り方なのかもしれない。
「何を全部終わった気でいやがる……‼︎」
「……実際終わった。テメェの仮説は棄却された」
「だからと言ってッ、テメェの仮説が採用されるのは納得がいかねぇぞ‼︎ テメェがホンモノだって決まった訳じゃねぇ‼︎
「なら、トコトンやってやるよッ‼︎」
◆宗聖司を名乗る少女はホンモノである。根拠は一つ。
◆宗聖司を名乗る少年はニセモノである。根拠は一つ。
「テメェが宗聖司って言うのなら、何でテメェはこの研究室にいる?」
「……は? そりゃもちろん、〈
「──
確かに〈
だけど、本当にコイツが宗聖司だって言うのならそんなもの使う必要はないんだ。
「
例えば、テスティス戦。
オレは〈
つまり、〈
それこそが
指紋認証は指紋のコピーを取られたらセキュリティが破られる。虹彩認証だって同じ。パスワードなんて総当たりでも突破できる最悪のセキュリティだ。
だけど、精神認証は破られることはない。だって、精神をコピーした所で出来損ないの哲学的ゾンビにしかならないのだから。
「オレは機材なしで〈
「……ぁ……ッ‼︎」
「この部屋から一歩でも出てしまえば、何もできない
「なっ、ならッ、生体認証が
「んなもん簡単だろうが」
幽霊の正体見たり枯れ尾花。
宗聖司を名乗る少年の
そんな一言を、オレは指を差して指摘した。
「
◆クローンとは、全く同じ遺伝子を持った別個体が作られること。また、
◆クローンとオリジナルには幾つかの差異があるが、遺伝子情報においては完全に同一である。その為、生体認証を誤魔化すことができる。
◆クローン人間の作製はヒト・クローン禁止条約により、国連から規制されている。ただし、肉体の一部のみの複製自体は合法。
「違和感を持ったのは、テメェがオレを
「…………っ、れ……」
「多分、それはテメェが言われた言葉なんだな?
「黙れぇええええええええええええええッ‼︎‼︎‼︎」
クローンが黒幕なんだとしたら全てに納得がいく。
何か特別な陰謀があった訳ではなく、ただオレの研究成果を台無しにしたかった。あるいは、オレの立場を奪いたかったとかそんな所だろう。
「
これで、長かった事件に幕が下ろされる。
だけど、その前に。
隣から待ったがかかった。
「──
ヴィルゴは神妙な顔で考え込む。
まるで、飲み込めない何かが引っかかっているかのように。
「彼は宗聖司と同じ遺伝子を持っていても、記憶や精神は引き継いでいない。
「あ、ああ。そうだけど、何がおかしい?」
「
「────あ」
そうだ、失念していた……‼︎
「研究室のメンバーが、協力者だった……? いいや、違う。
クローン、人為的に産み出された複製人間。
「…………ですが、メンバーの三人は入口で首を吊って死んでいますわよ? そこのクローンに情報を聞き出された後、殺されたというのが正しいのではなくって?」
「ズボンの染みがまだ乾いてすらいないのに? あいつらが死んだのはついさっきだ」
「ならもっと簡単ですわ。クローンの誰かは仲間だった。だけど、ついさっき仲間割れしたのでしょう」
確かに、辻褄は合う。
でも、本当にそうか?
オレの直感が真相は別だと告げている。
「首吊り死体…………ッ、違うッ‼︎ そうだッ、あれはホンモノの死体じゃないッ‼︎」
「紛れもなく本物ですわよ? 生体認証とやらで本人確認もしたのでしょう?」
「
狂気的なトリックに気づいた。
ABC殺人事件と同じ、被害者の中に犯人を紛れ込ませる古典的なトリックだ。
そして、死体となったクローンは精神認証で判別することもできず、生体認証で本人の死を確実に偽装できる。
「あ〜らら、流石に気づいちゃったかなぁ〜?」
そして、
……何となく、そうだとは思っていた。
三人の内、二人は元からの知り合い。
だから、一番親しくないヤツこそに疑いの目を向けていた。
オレはそいつの名前を知っている。
黒幕。諸悪の根源。一連の事件の元凶。
七大学術都市の一つである秘匿機関SECRETに所属している量子力学者。
「
「まったく想定外だぜ☆ ソーセージちゃんっ♪」
◆七大学術都市とは、『科学』の叡智が結集した七つの近未来都市の総称。都市ごとに専門とする『科学』の分野が異なる。
◆
◆
◆
◆
◆
◆
◆
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