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新人トレーナー水瀬の奮闘日記(5月前半〜6月前半)。
「えー、施設の使い方はこれ、使用申請の書類はこれ、コースは……」
新人トレーナーとしてやっていく決意を固め、水瀬は勉強に追われていた。
水瀬は──レースに関してはズブの素人だ。ファンの方がまだ知識を持っているレベルで素人だ。そのため学ぶことが大量にある。設定上は元地方トレーナーなので、それなりの知識があるということで通さなければならない。
レースのルール、関連事項に始まり、トレーニングのことや事務手続き。今はまだ関係のない話だが、有名になればメディア対応も始まる。
「そして、出走手続きは……う。トレーナーの印鑑が必要なのか。どうやって誤魔化すか……いやいや、二階堂に相談するしかないか……」
スイープが授業を受けている間、新人トレーナーは勉強だ。
「しかし、トレーニングなんてどうやって組めばいいのやら……」
頭を抱えていると、辺鄙な部室の扉が開いた。
「邪魔するよ」
「お邪魔します!」
「……課長! 先輩も……」
1ヶ月ほどではあるが、お世話になった職場の先輩たちが来たようだ。
「数日ぶりだねぇ、水瀬くん。職場に顔も出さずに何をしてるかと思えば、トレーナーになったのかい」
「水瀬くん、まさか本当にスイープちゃんのトレーナーになっちゃうなんて……」
「は、ははは……」
やばい。どうやって誤魔化そう。まさか正直に言うわけにはいかない。モグリのトレーナーであるとバレてはならないのだ、絶対に。
とりあえずお茶を出しながら言い訳を考えていると──
「安心しな。別に問い詰めやしないよ」
「え?」
意外な言葉。ずず……お茶を啜る音。
「二階堂のおぼっちゃまが直々にあたしんとこ来てさ、色々勝手なことを言ってきたよ。何か事情があるんだろ?」
「……まあ。浅くない『事情』が」
「やっぱりそうかい。気をつけなよアンタ、あの二階堂のおぼっちゃんには黒い噂が色々流れてる。もしかして、そいつにスイープちゃんまで巻き込まれてるのかい?」
「水瀬くん、危ないことに巻き込まれてるんじゃないかって……先輩は心配だよ」
「スイープのことは……僕が守るつもりです。一応、トレーナーになったので」
「……いいのかい?」
それは、かなり深い部分の意図まで含んだ言葉であるように思えた。水瀬は少し考えて応える。
「『魔法』を掛けられました。トレーナーになるように、と」
「……! ははは、そうだったね。あたしも見てたわ」
「まさか本当に実現しちゃうなんて。いよいよスイープちゃんの魔法も本物かもだよ〜……」
「『レースの魔法』を探しているようです。人生を丸ごと変えてしまうような魔法だと」
「なるほど。そりゃ、期待できるね。本物の『魔法使い』……か。いいじゃないか、俄然楽しみになってきたよ」
「うううっ! 応援してるからね〜!! 何かあったら、すぐに相談するんだよ〜!」
本日の成果:頼もしい後ろ盾が出来た。
そして、本日のトレーニングの時間になった。
「来たわよ、使い魔。言っとくけど、つまんないメニューだったら帰るからね」
「お手柔らかに頼む」
本日のメニューはズバリ、タイムの測定。素人からネットなり書籍なりで調べた結果、まずは現状把握から始めようということで、1000mのタイムを測るところから始めることに。
「なるほど? まあ、理屈は分かったわ。じゃ、コースに行くわよ」
トレセンにはいくつものコースが存在している。この実際の模擬レースにも使われているトラックはいつも人気だ──細かい時間ごとの予約制となっているらしく、今日の昼に急遽予約を入れることが出来た。与えられた時間は30分。
そしていくつかの距離でタイムを測り終え、撤収──
「え? 今日のトレーニング終わり?」
「……ごめん。時間がなくて、計画が立て切れなかった」
「はぁ? ……仕方ないわね、今日はやる気があるからランニングに出てくるわ。もっとちゃんとトレーニング計画立てときなさいよね!」
全く言い返せない。しかし、仕方ないものは仕方ない。
何から初めていいのか分からないのだ。どれを伸ばすべきだ? どうやって伸ばす? トレーニングは体の大きさも関係するのか? ウマ娘に合ったトレーニングはどのぐらいのものだろうか?
目標レースとの関係は? どうやってレースに持っていくのか?
それはちょっと調べて考えた程度でわかるものではない。体系的な知識が必要だ。
水瀬はそれから、寝る間も惜しんでトレーナーの勉強を始めたが、あまり捗らなかった。何が分からないかも分かっていない。
教えてくれる人物が必要だ。しかし……誰にそれを頼む? 水瀬にはコネなどない。
その行き場のない焦りを抱えたまま、しかし日々は進行していく。
そしてある日、スイープトウショウは模擬レースに参加することになった。
( ;∀;)
その模擬レースはまだ未デビュー限定のウマ娘を集めて行われるもので、選抜レースからどれだけ成長したのかを確かめるような意味合いのものだった。スイープトウショウが選抜レースでボコしたウマ娘も出走する。
「今日はよろしくお願いします」
「いやいやこちらこそ! 今日の結果が楽しみですな!」
トレーナー同士の挨拶に水瀬はしれっと混ざって、何気ない雑談をしていた。
「この短い期間でも、選抜レースから随分成長しましたからなぁ。あなたのところの天才少女ちゃんにも負けませぬぞ!」
「はは、お手柔らかに」
「ほっほっほ! ところで、スイープトウショウちゃんは二階堂トレーナーが預かったと聞いていたのですが……」
(え? 何それ聞いてない)
「はっはっは! さしもの二階堂トレーナーも、お子様の相手は苦手だったようですな! どうやって手懐けたのか伺っても?」
(バカで助かった)
今しがたかなりのピンチをくぐり抜けた水瀬。レースの準備は滞りなく進んでいく。
「そういえば、お名前を伺っておりませんでしたな!」
「水瀬です。あなたは」
「おっと失礼。この田中山を知らぬ者がまだいようとは。ほっほっほ!」
(誰だよ。田中なのか中山なのかはっきりしろ……)
心の中で悪態を吐きながらレースの準備を見守った。
「いや、失礼! 見ぬ顔でしたな。新人でおられる?」
「ええ」
「ほっほっほ。新人といえど、手加減はしませぬぞ! ターフではルール無用!」
(いちいち勘に障る……)
そしてちょっと喋った感じ、トレーナーたちはそれほどお互いに知り合っているわけではないらしい。それもそうだろう、相当の生徒数を誇るトレセンでは、トレーナーの数も10や20では利かない。正確な人数は知らないが、200人近くはいると推察される。1人くらい増えても気づかれないのだろう。
「おっと、そろそろ始まるようですな! さあ、手合わせといこうではありませんか!」
緊張の瞬間である──水瀬自身、自らの素人トレーニングが通用するとは思っていない。しかしスイープトウショウには間違いなく才能がある。そう悪い結果にはならないはずだ。
「おっとっと……どうやら、天才少女はゲートが苦手なようですな」
耳を疑った。見てみると確かにスイープがなかなかゲートに入らない。
(ゲートが苦手ってなんだよ)
なんだ。ゲートが苦手……? どういう意味なんだ? さっぱり分からない……。
それは水瀬が知る由もない。スイープトウショウはゲートという空間が大っ嫌いなのだ。スイープがゲートに入るまでにはだいぶ時間がかかった。
そしてレースがスタートし、スイープは当然のように出遅れた。
「ほっほっほ。今回のレース、1200mという短距離。ジュニア期の出来上がっていない体を考えれば、当然この距離になりますな。しかし、スイープトウショウの脚質を考えると1200は短すぎる。まして、トレセンコースの直線はそう長くないですぞ」
(どうした急に?)
「ほっほっほ。一度は敗北の味を知っておいた方が、後々役に立つというもの」
やけに自信たっぷりだ。イラっとしながらレースの推移を見守っていると──段々と水瀬の余裕が無くなってきた。
(……スイープが前に出れていない。あれは……ブロックされているのか? まさか──)
単純な技術だ。進路妨害と見做されない程度に進路を確保し、そもそも前に出させない。これを卑怯とは言わせない──勝つための技術だ。能動的に行われた『それ』は、初見でどうにかできるものではない。
「ほっほっほ」
「仕込みましたね……!?」
「ほっほっほ、何のことやら」
スイープトウショウの対策が練られていた!
なんてことだ──水瀬は自分の考えがずっと甘かったことをここに来て悟った。そんな可能性も考慮せず……。
スイープは最後まで前に出れないまま、後方でレースを終えたのだった……。
こつ、こつ、こつ……。
水瀬もスイープも何も言わないので、足跡だけが代わりに響いている。レースを終えて、部室に戻った。
「……ミナセ、アタシ──」
「スイープ」
スイープの言葉を遮って、水瀬が言う。振り向いた水瀬の表情を見て、スイープは思わず笑ってしまった。
「あっはは! アンタ、なんて顔してんのよ?」
「甘かった──すまない、僕の見積りがずっと甘かった。こんな、結果になるなんて……」
皮を突き破らんと握られた両手、歯を食いしばっている顔。水瀬は──何のことはない。ただ悔しがっていた。それこそ、スイープよりもずっと。
「君なら、勝てるはずだった……! それをさせられなかったのは、全て僕の責任だ」
素人の指導。素人の考え──甘かった。そんなものが通用するはずもなかったのに。
「ふーん……それで?」
「……二度と、こんなことは起こさせない。次も……その次も、その次も、君を無様に負けさせたりしない」
「へぇ?」
「だから……スイープ。君のトレーナーを、続けてもいいか?」
これは決意表明だ。ようやく現実というスタートラインに立った男の、情けない決意。スイープは試すように言葉を紡ぐ。
「なら、約束できる? アタシに──……」
スイープトウショウは──
「もう、こんなに悔しい思いはさせないってっ!!」
ボロボロと涙を流しながら、そう叫んだ。
「……『約束』する」
「本当でしょうねっ!? 嘘ついたら、ぜったいぜったい許さないんだからっ!! ハリセンボン飲ませてやるんだからっ!!」
「『約束』する」
「もう一回でも、アタシをこんなふうに負けさせたなら、アタシの魔法で、アンタをカエルにして、ぜったいぜったい元に戻してあげないんだからっ!!」
『想い』がある。『悔しい』と思う心がある。それはスイープにも、水瀬にも。どうしても揺さぶられるものだ。それはスイープが本気で泣いているからで、水瀬がようやくトレーナーというもの重さを理解し始めたからで。
「──『約束』する! 俺が君を連れていく! 『その場所』まで、必ず!!」
水瀬が叫ぶその言葉。それが反響する。反響して染み込んでいく。
「必ずだ!!」
水瀬はスイープの小さな肩を掴んでそう叫んだ。小さな天才少女がその言葉で堪えきれなくなって泣いた。大声で泣いた。
「うわあああああああん!! わあああああああああん!! わああああああああ!!!!」
その泣き顔を見ないように、水瀬はそっと少女の背中を撫でながら、静かに目を閉じるのだった。
そして、スイープが泣き止んで──ポツリと言った。
「……アンタに魔法、かけてあげる。アンタが、ちゃんと『約束』を守れるように」
スイープの魔法はマジで効果があるので心強い。水瀬は頷いた。
「どんな魔法なんだ?」
「強くなれる魔法。グランマが、本当に大切な時に使うように教えてくれた」
「……ありがとう。頼めるか」
少し泣き腫らして、赤くなった目尻を擦ってスイープが呪文を唱える──
「アルカリウス・アストリアム。『強く』なりなさい! 今よりもっと『強く!』」
それは少女のごっこ遊び。ただの音の羅列。しかしどうしてだろう。その姿は勇気をくれた。
「……強くなった?」
「もちろんだ」
スイープトウショウの『魔法』は、きっと大人になるにつれ失われていくのだろう。だからこそ、『それ』はとても尊いのだ。
「これからそれを示していく」
「……ウソついたら、ぜったい許さないから」
「君に嘘はつかない」
「ぜったいだから。『約束』よ」
「『約束』だ」
結んだ小指。
──新しく重ねた『魔法』。
──それは新しく重なる『呪い』。
( ˊ̱˂˃ˋ̱ )
水瀬が二階堂の部屋を訪れたのは、もう5時を回る頃だった。
「……何の用だ」
残念ながらトレーナーに定時という概念は存在しない。チームを抱えている二階堂も、当然5時や6時に帰れるはずがない。しっかり仕事していた。
「お願いがあります」
「……フン。トレーナーIDの件なら、現在準備中だ。俺はお前と違って忙しい。さっさと帰れ」
「僕にトレーナーの仕事を教えてください」
水瀬は平然と二階堂の前まで歩いて行って頭を下げた。
「さっさと帰れ。二度も言わせるな」
「お願いします」
全く引かない両者──二階堂が立ち上がり、頭を下げ続けている水瀬の腹部を革靴の先で蹴り込んだ。
メキッ!
「ぐ……ッ!」
「何を考えているのか知らないが、お前と俺では人間の格が違うんだよ。俺は二階堂家の長男だ。お前のような愚民とは立っている場所も、能力も全く違う。そんなお前が俺に頼み事だと? 思い上がるのも──」
ドゴッ!
「大概にしろ、バカが!!」
今度は二階堂の右膝が水瀬の鳩尾に食い込んだ。息が吐き出されて呼吸ができない。
「げほ──ッ、かは、ぅ……」
「分かったならさっさとこの部屋から出ていけ。床を汚す前にな」
そう言って二階堂は背を向け、床に転がる水瀬に視線もやらないで仕事に戻ろうとしたが──。
「お……お願い、します。トレーナーのことを、教えてください」
「……まだ殴られ足りないらしいなッ!!」
バキッ!
右の拳がモロに顔面に入った。水瀬は──よろけても、倒れはしない。ふらりと揺れる体にも関わらず、ただ真っ直ぐに二階堂を捉えている。
「お……教えてもらいます……必ず」
「学ばないヤツだ……」
「それは……どうでしょう? 僕がトレーナー資格無しに働いている現状は、当然教育法に違反します。そして……それをさせたあなたも『共犯』です」
瞳に込められているのは『覚悟』。それは手段を選ばないことだ。
「お忘れですか? 僕には失うものなど何もない。しかし、あなたはそうではない」
──少し心臓の鼓動が速くなった。危機を感じているのだ。こんな、何の力も持たないただの男に。
「貴様……俺を、脅しているのか……!?」
「お願いしています」
言外に込められた意図は簡単だ。水瀬がモグリのトレーナーであることなど、調べる気で調べればすぐに分かる。そして──二階堂が水瀬に手を貸した『証拠』がある。
「『中央移籍制度』を使ってトレーナー免許を『偽造』することは、内部の協力がなければ『不可能』です。いくつかの状況証拠と証言を合わせれば、僕はあなたを『告発』することが出来る」
「く……下らん! 俺が関与しているという『決定的な証拠』は無い! 貴様の猿知恵では俺を『告発』することなど不可能だッ!」
「──試してみますか?」
水瀬には失うものなど何もない。しかし二階堂はそうではない──二階堂の背後には名門二階堂家、そして『祖父』の姿がある。僅かな傷でも致命傷になりうる。そして僅かな傷だけでは済まない可能性がある。
「構いませんよ、こっちは」
敵がナイフを構えていて、そして元から差し違える気でこちらをじっと見つめている。得体の知れない『目』で──
その恐ろしさは、きっと体感してみないと分からないだろう。
「……明日の朝、6時にここに来い。貴様にトレーナーの何たるかを教えてやる。ただし、1週間だけだッ!」
「ありがとうございます」
丁寧に頭を下げて、水瀬は部屋を出た。顔を歪めている二階堂を残して。
すっかり暗くなった廊下を歩きながら水瀬は思った。
(流石、スイープの魔法は効くな……)
トレーナーのことを学ぶなら、事情を知っている二階堂が1番手っ取り早い。幸いにも名門の出身だ。たった1週間ということだったが、教えられる知識の120%を吸収してやる心づもりだ。
そして──
翌日。スイープが勢いよく部室のドアを開けると、水瀬は居なかった。
「何これ。メモ? えっと、1週間だけ留守にする? 留守番を頼む……は、はぁーっ!? 何よこれ、使い魔のくせに生意気ねっ! 今度会った時は、ぜったいただじゃ済ませないんだからーっ!」
そして長い1週間が始まった。