「がっ……あぁ……ああぁぁあ……」
やがて、すべての感覚が閉じて、暗闇に沈んでいく。景色は見えなくなって、手足の感覚はない。
貫かれた傷はまさしく
ここにきてついに、自分がこれから、無意味に死んでいくのだと、理解してしまった。
ほんの数秒前まで、こんなはずはないと、自分は無敵だと思っていた。幾日か前には、仲間たちの誰を死なせることもなく、自分の手で護り通せると思っていた。そのための力を手にしたはずだ。
けれど。そのすべてが、最初から、誰かによって仕組まれていたとしたら。
いいや。何かの間違いだ。
――――が、俺を殺す、なんてのは。
信じていたのに。いや、今でも信じている。この現実のほうが間違っている。裏切るはずがない。裏切れるはずがない。こんなのは悪い夢だ。
「やれやれ。おい、おまえのせいで全てがめちゃくちゃだ。どうしてくれる」
何も見えず、身体の感覚も消えていく中で、その声だけがはっきりと聞こえた。
「こうなったら道連れだ。おまえは、私の――」
しかしその声も、次第に遠くなる。
これが、俺の終わりなんだ。怖い。怖い。自分がなくなってしまうのは。
「安心して眠れ。怖い夢を見ないよう、枕元で祈っておいてやる」
▽
眠りから目覚めた、という感覚があったわけでもなく。
気が付くと、彼は暗い一室に横たわっていた。
岩肌の天井と壁。洞窟の中だと思えた。
体を起こしてみると、おそらく目覚めたての状態にもかかわらず、気怠さや体の重さがなかった。むしろ、身体はとても軽い。
あたりを見わたすと、部屋のあちこちに人のいた形跡が見てとれる。机や棚にいっぱいに並べられた、瓶詰の薬液や“学者の道具”。あちこちに散乱した紙は誰かの走り書きで真っ黒。部屋の隅にある大きな円筒は、水槽だろうか。しかし人間一人を入れられそうな大きさだ。
どれも自分の人生には縁遠かったもの。しかし、学者や、高位の星法士の部屋で見たことがあるものだった。この部屋の主もそういった人物だろう。
そう思考しながら、彼はひとつ気が付いた。
その、肝心の、“自分の人生”がどのようなものだったか、思い出せない。
そのまま黙考していても、彼はここにいる経緯を思い出すことはできなかった。そこでひとまずの目的ができる。自らが何者なのかを知ることだ。
彼は、自分が横たわっていた寝台のようなものを降りようと、身体を動かした。
ここでひとつ、己について新たな情報を得る。
見下ろした自分の脚は、腕は、“骸骨”であった。
胴体には鎧、手足には錆びついた籠手、朽ちかけの靴を履いていたものの、それ以外は肉のない骨だった。また、薄く軽いつくりの鎧には裂け目があり、どうやら何者かに刃で貫かれたらしかった。それも切り口からして鮮やかな腕前だ。
『まさか』と、思わず手を持ち上げる。籠手の錆は不快だが、しかし確かめねばならないので、自らの顔に近づけていく。
やがて、こつ、と硬いもの同士のぶつかる“感触”がした。人肌の手ごたえではない。
どうやら自分は男前ではないらしい。彼は嘆息した。息は出なかった。
寝台から降り、身体のあちこちを動かし、歩く。どうしてこのような、筋肉も内蔵も血液もない状態で動けるのか、不思議に思った。そしてそれを不思議に思うのは、自分が“生きた人間”だったからだろうと思い至った。
部屋の主の残したものを、再度検めていく。使い方のさっぱりわからない道具、とても触れようとは思えない怪しい薬液、癖の強い走り書きと難解な内容。やはり彼にとって、この部屋から得られるものは何もなさそうだった。
彼は、この小さな洞窟の部屋にある、唯一の扉に目を向けた。眼球はないものの。
一通り調べたのだから、次の場所へ出ていくのが道理だ。彼はその木製の扉に手をかけようとした。
そして、青い火花のようなものが散り、手を強く弾かれた。
何度か試したが、彼には扉を開けることができなかった。まともに触れられないからだ。
『結界の星法か。』と彼は思った。『今の自分には破れそうにない。』とも。
効力が切れるのを待つか、それとも、この部屋にまだ見つけるべき何かが残っているのか。
じっとしているのは、彼には性に合わないことだった。骸骨は小さな部屋をさまよう。
やがて精査の甲斐あって、道具棚の後ろに、隠されていた狭い通路を発見した。
彼は骨しかないのに、高揚感と、そこからくる心臓の高鳴りを感じた。
通路に進入する。灯りのないまったくの暗闇だが、彼には岩肌の様子もはっきり見えていた。
そもそも眼球もないため、どのようにして景色を認識しているのかは不明だが、しかし暗がりの様子がわかるというのは有利なことである。
通路の高さは、身をかがめる必要があるほど小さい。また、最初は別の出口であることを期待していたが、進んでいくうち、通路には風が通っていないと感じた。
つまり、何かを隠すための部屋。または誰かが隠れるための部屋。彼は、そこにあるものを確かめるべく進む。
そうして、やがてそれを見つけた。
一目で、それがこの洞窟の小部屋において、最も重要なものであるとわかった。
『真っ白な少女』が、岩壁に背を預け、目を閉じていた。
髪の色、睫毛の色、肌の色、身に着けている簡素な服。そういった印象に残るもののすべてが白色で、かつ無地である。
生きているのかそうでないのか。それどころか、現実の存在なのか、幻想であるのか。一目では区別がつかない。白い少女は、まるでそこに置かれた人形のようでもあり、眠っている人間のようでもあり、稀代の画家が生んだ一枚の絵にも見えた。
淡雪のような、薄氷のような。そういった印象であったので、この少女に触れることは
少女のまぶたが、火花が閃くように、素早く開いた。骨の手が止まる。
瞳の色は、これまた白色だった。
「――うわぁ!!! びっくりした!!」
そして、一瞬の間ののち、彼を見つめて、叫んだ。
儚い外見からして、きっと小鳥のさえずりのような、あるいはそよ風のような声なのだろうと思っていたが、少女の発した一言目はこれだった。
『イメージと違う。』と彼は思った。
▽
「失礼いたしました。目が覚めたら、眼前にドクロがいたので、つい」
落ち着いた少女の声の質は、一応、イメージ通りの可憐なものだった。
ふたりが最初の部屋に戻ると、少女は、星法による小さな灯りを手のひらから生み出した。
暗闇でも見えてはいたものの、光に照らされたその容姿を改めて見ると、やはり息をのむほどの美しさ、あどけなさ、いじらしさ、妖艶さというものがあった。
彼は『まさしく、洞窟に隠された宝ではないか』という感想を抱き、次いで『自分は軟派な男性だったのだろうか』と思った。
「ええと、お互い自己紹介といきたいところですが。あなたは、目覚める前のことを覚えていますか?」
彼は『いや』と答えた。
「そう。ならばわたしが知っていることを教えます。あなたは、この『迷宮の最奥』で命を落とした剣士です。その遺体を見出し、こうして蘇らせたのは、このわたしです」
新しい情報だった。だがそれを聞くと、彼の中でさらに疑問が生まれていく。
剣士だったという自分のさらなる詳細は? なぜ少女は自分を蘇らせたのか? そもそも少女は何者なのか?
「ごめんなさい。生きていた頃のあなたについて知っていることは、ほとんどありません。ただ、この地下迷宮を踏破するほどですから、剣士として最上級の人物だったのは間違いないでしょう。超強い、ってことです」
強いかどうかはわからないが、たしかに、身に着けているものからして戦士のたぐいだったのは間違いない。ただ、だとすれば、肝心の“武器”を持っていないことが気になった。
「なぜあなたを蘇らせたのか? 単純な話です。わたしは、この地下迷宮の外に出たい。そのためには、この扉の向こうをうろつく魔物たちを打倒する戦力が必要です。例えば、強い剣士」
少女は手のひらで、彼を指し示した。ダンスを申し込まれた女性のような、淑やかな仕草だった。
「この少女は何者なのか? わたしはこの部屋の主……魔術師によって造られたものです。“花嫁”と呼ばれていました。穴の中で眠っていたのは、魔力を貯め込むためです」
『――なるほど、造りものの生命。』
この世のものと思えない美貌は、こんなところに住み着くような狂気の魔術師が生み出したものだった。彼にとって、少女の語るその出自は納得がいく答えだった。その姿こそが、そのまま説得力となっていたからだ。
「ふふん……。ええ、外見の良さには自信があります。まさに最高傑作です」
少女はドヤ顔をした。
ここで彼には、ひとつの疑問がわいた。さきほどから、少女と己の間には会話のようなものが成立している。骨の身体では声も出ないのに、何故?
「わたしとあなたの間には、魔術的なつながりがあります。念じるように語りかけてくだされば、声として伝わります」
『つながり?』
「はい。その骨身の体は、わたしの送る魔力によって稼働しています。わたしが絶命すれば、あなたは元の動かぬ死体に戻る」
つまり、存在し続けるためには、少女を脅威から守る必要がある。
ならば、自分が何者かを知りたいのなら――、
「現状の話はこんなところですが。……あの、どうでしょう。改めてお聞きします。この迷宮の外へ出るため、わたしを、守ってくれますか」
少女の白い眼が、
大きく、潤んだ双眸を向けられると、胸に何かの感情が生まれる。やはり、生きていた頃は軟派な男性だったのか。あるいは、誰でもこのようにしてしまう魅力が、この少女にあるのか。後者の割合も大きいように思えた。
彼は、頷くことで答えた。
「……よろしいのですか? わたしは、ただ自分のために、死したあなたの魂を縛っているのですよ」
『それで気が咎めるというなら、つけこむようで悪いが、こちらからも条件が……いや、頼みがある』
少女はわずかに首をかしげた。
『自分がどんな生き方をして、どんな死に方をしたのか知りたい。迷宮を出ても、それを知るときまで、この世に留まらせてくれないだろうか』
「構いません。長い付き合いになりそうですね」
返答はすぐに帰ってきた。穏やかな微笑みは、白く清廉な花のようだった。
▽
「じゃあ、えっとぉ……扉の封を解きますけどぉ……大丈夫かな、いけるかなぁ……アイツがいたらちょっとヤバいかも……」
迷宮突破の準備を終え、二人はついに脱出へと挑む。
はずが、白い少女は小部屋の扉を前に、渋い顔で唸っていた。
『アイツ、とは?』
「死ぬほど強い魔物が近くをうろついているんです。何度殺されかけたことか……この扉を封じてあるのはそのためです」
そういった魔物の存在が、少女に死者を使うという選択肢を与えたのだろう。護衛役として打倒しなければならない障害だ。
しかし、武器もない自分にそれを果たせるのだろうか。
「え? 剣がない? え~、あっ、そっかぁ……そうだった……」
少女の渋面がさらに濃くなった。
「いざとなれば秘密の武器を渡しますが、それは奥の手なので……。たしか、この先でいくつか部屋を移動すれば、大昔の武器庫があったはずです。魔術師がやってくる前からあったものですから、いささか古いけれど」
最初の目的地はそこに決まった。
少女は目を閉じ、彼の知らない仕草をしきりに繰り返した。どうやら、扉の向こうに魔物がいないことを何かに願っているようだ。
「では、開きます」
少女が手をかざすと、扉の木目を、青白い光が走った。
そうして扉は、見た目通りの、簡単に開くことができるものに戻った。
「いませんように、いませんように」
扉をほんの狭い隙間ぶんだけ開き、少女は向こう側を覗いた。彼は、倣うようにして、少女の頭上からその隙間を垣間見た。
どうやら、あちら側も魔術師の領域だったようだ。この部屋と同じような、人間の道具が散らかっている。
ただし、整頓はなされていない。非常に荒れていた。
それは、ああいう輩の手によるものだろう。
二人が覗いた大部屋には、一体の魔物が佇んでいた。
人間と似たシルエット。四肢を持ち、二本の脚で地面に立ち、しかし体躯は人の倍ほどもある。太い腕は硬い岩に覆われているが、おそらく内側は泥ないし土。
すなわち、
「ゴーレム? 何故こんなところに」
『ヤツがくだんの魔物ではないのか?』
「ここで見かけたのは初めてです。そもそも自然に発生する魔物ではない。『人間が操る魔物』のひとつのはず……」
『きみと同様に、魔術師の造りだしたものではないのか』
「……そうかもしれませんね」
少女は扉を閉めた。
「それで、その。あのゴーレムは倒せますか?」
『自信がない。やはり何か武器が欲しい』
「では、うまく逃げる方針で」
しばし作戦を話し合い、二人は今後の動きを固めた。
彼が魔物の気を引き、その間に少女は背後を駆け抜け、安全圏まで逃げる。というのが作戦のさわりだ。
扉を開放し、一歩外に出る。少女は、小部屋を出るのはよほど久しいことだったのか、目の前にゴーレムがいるのにも関わらず、感慨深い表情をしていた。
とはいえ、それもすぐに真剣なものに変わる。
彼は少女を庇う位置取りで、数歩前に出た。ゴーレムが反応し、緩慢な動きで二人のほうを向く。
彼は、骸骨は、暗い地下迷宮の地面を走りだした。
ゴーレムの気を引くように、その目前へと躍り出る。ガントレットで守られた右手を握りしめ、拳をつくり、泥人形のみぞおちへと叩きつけた。
そのようなことで、岩の魔物にダメージを負わせられるはずもなく、ゴーレムの身体は揺らぎもしなかった。しかし、『ゴーレムに対し攻撃を加えた』ということが重要だ。
彼は脇を潜り抜け、ゴーレムの右方で臨戦態勢をとった。自動的に敵を排除するゴーレムは、これで骸骨の戦士を排除対象とみなす。
そう造られているはずだった。
「こっちを!?」
ゴーレムは彼を無視し、少女に向かって猛進を始めた。
なぜ、という疑問が生じる。しかし目の前の光景こそが現実であり、彼はひとまず思い付きの理屈をそこにつける。
『この骨の身体は死霊も同然。そして少女は、魔術師に造られたものとはいえ、ヒトである。魔物という存在がどちらを襲うのかは明白だ。』
少女は、すぐに小部屋に逃げ戻ろうとしていたが、よほど慌てたのかその場で足をつまずかせた。魔物の前で尻餅をつく形になる。致命的だ。
彼は、ゴーレムと同様に、少女に向かって走ると、
「ううっ!? う、あ、あれっ」
瞬く間にそこへたどり着き、少女を両腕に抱えた。そしてゴーレムが腕を振るうよりも先に、素早くその場を離脱した。
緩慢な岩の人形は、すぐに遠く後方の景色と化した。
結果として。いとも簡単に出し抜くことができた。『最初からこうしていればよかった』と、彼は考える。
「足、速いんですね」
『そのようだ』
▽
「あ、そこの左の穴! あっちへ」
少女の指示に従い、彼は通路を横道へ進んだ。
はたして、その奥には武器庫のようなものがあった。ゴーレム、その他魔物を警戒しつつ、抱えていた少女を下ろす。
部屋は、魔物によるものか、迷宮の探索者によるものか、倉庫と呼ぶにはいささか荒れてしまっていた。
「だめだー、折れてる。こっちはさびてる……」
散乱した武器の慣れ果てを、しゃがみこんで見つめる少女の背中は、実に小さく丸まっていた。がっかりしているとわかる。
彼は、無事なものを見つけるべく、探索を続けた。
『これが精いっぱいのようだ』
やがて彼は、この武器庫で最もまともな形を保っている『剣』を、二本拾い上げた。少女は形のいい眉を動かし、不満げな表情を作った。一振りは錆が生じており、一振りは、鞘に収まっていたものの、抜いてみれば刃こぼれがひどい。何かを斬ることには使えそうになかった。
「いくらあなたが強くても、こんな剣じゃ……はぁ。当てが外れました」
『仕方のないことだ。はったりにはなるだろう。先へ進もう』
彼は、鞘に納めた剣を腰に提げ、さびた剣は利き手に保持した。それでようやく、戦士といえる出で立ちになる。
緩慢な魔物が相手ならば、逃げるという選択肢ができた。彼にとって、自分が少女を抱えつつ素早く動けることは、新たな発見だった。
逃走という手段。それが通じる相手ばかりがこの先にいることを、彼は願った。
▽
地上を求めて歩き続ける迷宮の旅は、やはり魔物との遭遇は避けられなかった。
次に二人が見た敵は、しかし幸いなことに、先ほど出し抜いたゴーレムと同種であった。もしかすると、同一個体の可能性もあった。
あれなら戦うことなく通り抜けられる。彼は、例によって少女を抱え上げようと、地面にかがんだ。
「!! あれは、まさか」
少女が驚いた声をあげる。その視線の先を追うと、もちろん、ゴーレムが。
いや。
彼は気づいた。少女が見ていたものは、佇むゴーレムの向こう側にある、誰かの遺骸だった。
魔物のうろつく地下迷宮だ。誰かの死体が転がっているのはそう驚くことではない。そもそも、彼自身が何者かの死体である。
それでも少女が足を止めたのなら、考えられる理由は。
『知っている誰かなのか?』
少女は小さく頷いた。
「あのローブは、たぶん……わたしを造った『魔術師』です。そうか、ここにあったんだ」
遠目に見ても、遺骸の状態が悪いことはおおよそ把握できた。そして、誰も弔う者はいない。もしも死者の魂があそこに囚われているとするなら、大変な苦痛を感じているだろう。
少女の声は震えていた。
「……さて。ゴーレムがうろうろしてますし、さっさと通り抜けちゃいましょうか」
『いいや』
彼は立ち上がり、無視するべきゴーレムに視線を運んだ。それからそのまま、白い少女、魔術師の遺骸と、順番に。
自身を造り上げた、ということは、魔術師は彼女にとっての親であるとも言える。ならば、魔術師がどのような人物だったとしても、死体を正しく葬ってやるべきだ。そして彼女はそれを見届けるべきだ。
生前の人格からくるものか、慣習によるものか、ともかく彼はそう考えた。
『あれを停止させる』
「え? でも、そんなこと」
少女が意見を示す前に、彼は動き出した。
さびた剣を右手に疾走する。戦うことを決め、剣を強く握ると、彼の中で何かがよみがえってくる気がした。
右手に返ってくる剣の柄の感触。それは目覚めたときから心にかかっていた
それは、その鉄のような記録は、炎のような記憶は。
戦い方だ。
剣の振り方だ。呼吸の仕方だ。足の運び方だ。魔物と向き合う知識だ。敵を先読みする感覚だ。魂の燃やし方だ。
ゴーレムが岩の腕を振るう。それはこの人形が持つ攻撃手段で、創造主の敵対者や魔物を屠るための武器である。素早い獣を捉える速度、武装した人間を押しつぶす質量は、並の戦士が対抗できるものではない。
しかしそれが、彼にとっては、非常に遅いものに見えた。
巨腕を潜り抜け、彼は剣を振った。どこを斬りつけたとしても、多くが岩に覆われた体は、錆びた刃を通すはずもない。
しかし、泥の肉片が飛ぶ。それは少女の位置からも見え、錆びた剣で岩をも斬り裂いたかに思わせた。
実際には、彼は岩の継ぎ目、泥土の部分を斬っていた。手応えを、あるいは刃の状態を確かめているのか、ゴーレムと距離をとり、己の錆びた剣をじっと見ている。
そうしてもう一度、突進した。
暴れる岩の塊を相手に、一切の手傷を負うことなく。やがて彼はゴーレムの背中に取りついた。
そこに、刃が、深々と差し込まれる。
それで、ゴーレムは停止した。
▽
「……すごい。あの、どうやったんですか?」
物言わぬ人形に戻ったゴーレムに、少女がおそるおそる触れる。やがて完全に動かないとわかると、子供のようにぺちぺちとその岩肌を叩いた。
少女はゴーレムの様子を検分し、傷がほとんどないことに驚いていた。死霊の剣士はこれを、あの一刺しで無力化したのだ。
彼は、動かないゴーレムからうまく剣を引き抜けず、折れてしまった刃を一瞥し、投げ捨てた。
『人型をした
「その理屈は知ってますけど……」
暴れるゴーレムに対し、心臓に刃を届かせるための岩の隙間を見出し、正確に突き刺す。そんな芸当をできる人間は多くはない。
だからこそ、堅牢なゴーレムは、魔術師のしもべとして重宝されているのだ。
『この泥人形は魔術師のものだろう。主を守っていたのだろうか』
「いいえ、それは違います」
少女は凛とした声で否定した。
「ゴーレムが彼を守っていたのなら、こうはならない。アレはたまたまここにいただけです」
二人は、魔術師の遺骸を見下ろした。
来ている衣服、散乱した骨片などを見るに、一見すると魔物に蹂躙されたように思える。
しかし。ぼろぼろの衣服には、刃で滅多刺しにされたような跡があった。どうしてか、彼にはそれがわかった。
この魔術師の死因は、牙や爪をもつ獣か、あるいは刃の武器を持つ死霊。自分と同じような。
そうでなければ……刃を持った、人間。
しかし仮にそうなら、何者が? 迷宮の探索者だろうか。
「持ち物か、それとも、身体に刻んだ魔術でも漁られたのかもしれませんね」
それから少し時間が経つと、少女は遺骸から目を逸らし、口元を押さえた。気分の悪そうな表情をしていて、幻想的な美貌と反して、人間らしい仕草だった。
『火は持っているか?』
「……? 燃料になるものなら、少し」
『彼を葬ってやるんだ。遺体をこんな暗闇に置き去りにしてはいけない』
彼は魔術師の火葬を提案した。ゴーレムを排除したのはそのためだった。
魔物がうろつく迷宮、とくにこの地下迷宮のような、淀んだ魔力だまりが成立しうる場所では、死者はそのまま死霊と化してしまう場合が多い。魂を死体に囚われ、生者をうらやみ、半永久的に暗闇を動き続けることになる。
彼の思想では、それはとくに忌避すべきことだった。
遺体を清浄な火で焼却することで、死霊化は防げる。魂は正しく天の星に還ることができる。彼の中の思い出せない記憶は、そう主張していた。
「わかりました。あなたの言う通りに」
少女は、あの小部屋から持ち出した、小さな荷物入れを探った。
▽
炎が揺れる。遺体を灰にできるほどの火力があるかは不安だが、ともかく二人は、ゆらめく明るい赤に彩られる魔術師のローブを見つめ続けた。
彼は、この魔術師については何も知らない。迷宮の主のように考えていたが、主の死後もゴーレムは動き続けるものだろうか。
魔術師は少女を“花嫁”と呼んでいたという。創造物に対しての呼び名としては変わっている。花嫁とは、魔術師自身の……ということだろうか。
少女は、この迷宮から出たことがないにしては、驚くほど人間らしい受け答えをする。『まっとうに育てられた人間』のような。
魔術師は少女を愛していた? だとすれば、少女のほうは彼をどのように想っていたのか。実際のところ、どのような関係であったのか。
彼は、横にいる少女を見た。
『……そうか。きみにとってこの魔術師は、大事な人間だったのか』
「え? そう、かな。どうしてそう思うのですか」
『そうして泣いているからだ』
少女は、愛らしく造られた大きな目から、そのぶんの大きい涙を流していた。白い肌は、火のせいか、それとも感情のせいか、紅く染まって見えた。
白い指で、自分のしずくをすくい取り、不思議そうに眺める。
「本当だ。なみだ……」
少女は、どうやら生まれて初めてそれを流したようだった。
「そんな部分まで機能しているなんて。我ながらすごいです。この身体は」
そう言って、涙を流すまま笑顔になる。その姿は、やや痛々しく、健気なものに見えた。
彼は錆びた籠手を持ち上げ、少女の穢れのない髪を、頭を撫でようとした。泣いている少女はそうすると落ち着く、という思考が浮かんだからだ。
しかし、そのようなことをされては不快だろうと気が付き、やめた。
「ありがとう。気遣ってくれたのでしょう。それくらい、わかります」
しばらくすると、少女は腕で涙をぬぐった。目元が少し腫れて、幻想的な容貌がやや損なわれている様子は、少女が人間であることの証左に思えた。
彼は少女の言葉を聞き、自分の思考が、どこまで少女に漏れているのか気になった。
火が二人をぼんやりと照らす中で、少女の声だけが迷宮に反響する。
「そういえば、あなたの名前は? いつまでも『あなた』だと、不便です」
そういえば、最も先に打ち明けるべきことを、彼は少女に話していなかった。
それは仕方のないことだ。己の名など、思い出せないのだから。
名は個人を定義するために最も重要な要素のひとつ。つまり、彼はまさに、何も持っていない。それがどうにも、ひどく寂しいことである気がして、彼は名前のことをこれまで言い出さなかった。
「なら、わたしが名前をつけてもいいですか? あなたが、本当の名を思い出すまで」
彼は顔を上げ、少女を見た。
純白の姿は何よりも無垢だ。何もない自分が何者かになるため、護り通すべき存在である、と強く思えた。
「『ウチカビ』、という名はどうでしょう」
聞きなれない響きの名称。
「ええと、たしか……死者を送るための炎の名前です。いま、なんとなく思い浮かんで」
彼と、少女を造った魔術師は、どうやら死の扱いに関して異なる教えを受けているようだった。火葬してやったのは、ある程度正しかったようだが。
『いい名前だ。気に入ったよ』
少女は、顔を紅くして笑った。
「では……ウチカビ。わたしの騎士となり、わたしを守り、この闇を切り開く
ウチカビは、生きていた頃もそうしていたのか、自然な動きで少女の前に片膝をついた。
『承知した』
死霊の騎士ウチカビと、白い少女は、地下迷宮からの脱出を目指す。
先槍をつとめる骸骨の騎士を、白い少女は追いかける。
騎士は懸命に、実直に、誠実に、少女の身を案じ守ってくれる。それは愛情のある行為で、少女にはウチカビの感情の波動が心地よかった。
あまりに心地よくて。思わず、顔を紅くして、地面を見つめて。
そして、ひどく歪んだ笑みを浮かべるほどだった。
少女の肉体を動かしている魂は、『魔術師』のものである。
騎士の背後で、その美しく愛くるしい
才能のすべてを注いで造り上げたこの美貌に、騎士がほだされたように思え、とても愉快だったからだ。
他人にひどい噓をつくのは、彼にとって初めてのことだったが、その成功は、今の肉体の背筋に奇妙な快感を這いあがらせた。
つい、思わず、妙な感覚が走った下腹部を押さえると、騎士からは案じる声が伝わってくる。そういった失態も、少女がひとつ笑顔を作れば、うやむやにできた。そしてその事実が、また魔術師の魂に得難い感情をもたらす。きれいに造った顔が、はしたなくにやける。
もうしばらくは、このまま。“お姫様”をやってみようか。
魔術に傾倒していた彼が、そんな非合理的なことを決めてしまうほどに。
その快楽は、唯一のものだった。