【完結】それでも死にたくないな、と貴方は笑って言ったのだ。 作:しゅないだー
目が覚める。少しくたびれてはいるが、柔軟剤のふんわりとした香りの布団が心地良かった。何日かぶりの柔らかな寝床にもう少しだけ、と寝返りを打った瞬間。
「──っ」
勢い良く跳ね起きて扉を開き、目に付いた階段を降りる。年季が入っているのか、一段降りる度に軋む音を立てるそれに嫌でも慎重になってしまう。聞こえてくる誰かの話し声を頼りに入った部屋には。
「おはよう。よく眠れたか?」
「■■くん、おはよう!」
リビングに当たるであろうそこには、金本さんと心依の姿があった。向こうにあるキッチンでは彼の奥方だろうか、妙齢の女性がかちゃかちゃと皿を洗う音が聞こえてくる。
「……金本さん」
昨夜の記憶を思い出す。確か金本さんに言われるがまま車に乗って、彼の家に着いた筈だ。けれど結局溜まった疲労に抗えず、そのまま寝こけてしまった。
「とりあえず、座って飯でも食えよ。腹減ってるだろ」
机には焼き鮭に味噌汁、白米と漬け物といった和風の朝食が並べられていた。漂ってくる香りはそれだけで食欲を唆り、涎すら垂れそうになる。席に着くと頂きますの挨拶もそこそこに箸を取った。
まだ湯気の立つ食べ物が胃の底からじんわりと身体を温めてくれる。脂の乗った鮭の皮ぎしが白米によく合う。いつぶりだろうか、こんな温かい食事は。
気付けばあっと言う間に完食してしまっていた。熱いお茶を啜りながらほっと一息つく。心依が人懐っこそうな笑顔を浮かべて金本さんの奥方と台所で何か話しているのを眺める。
きっと本来の彼女はそうなのだろう。歳相応に人好きのする性格で、皆に好かれる少女。そんな有るべき姿を
「すみません、寝床を貸してもらった上に食事まで頂いて」
「まあお前の家は複雑そうだからな。家出の一つか二つくらいあるだろ」
事も無げにそう言って禁煙パイポを口にした。新聞を捲りながらテレビから流れるニュースを眺めている金本さんの姿はあまりにも普通過ぎて、何だか今までの激動の数日感が夢だったかのように思えてくる。
「娘も家を出て暫く経つしな。お前と彼女がそうしたいんならもう少し泊まっていってもいいぞ。かみさんもお前らの事気に入ってるみたいだし」
「……」
分からなかった。どれだけ思考を巡らせても、何一つ分からなかった。
「どうして、ここまでしてくれるんですか」
家の為に使ってきた人生だった。
それとは関係無い、唯一自分で選んだと思っていた友人も結局は家絡みで。この大して長くもない人生の中で、自分に近付いてくる人間は皆何かしらのメリットを見出していた。そうでもなければ自分なんかに構う必要がない。目の前の金本さんだってその筈だ。けれど、どれだけ考えても彼が自分を助ける意味が見出だせない。
警察という立場からすればメリットどころかデメリットの方が大きいくらいだ。固唾を呑んで金本さんがどう答えるのか見守る。彼はよく分からないという風に首を捻った。
「どうしてって、また変な事を聞いてくるんだな。大人なら子供が寒い思いしてたり怖い思いしてたら助けてやるもんだろ。それでも納得いかないんならお前が大人になった時に、誰かをそうやって助けてみろ。そうすりゃ分かるよ」
「……そんなものですか」
「人間、案外そんなもんだよ。どうする事もできなくなったら、意地張らずに弱音吐いて誰かに頼ってみればいいさ」
その言葉にふっと肩の荷が下りた気がした。弱音を吐いても良かったのだ。誰かに頼っても良かったのだ。こんな簡単な事に気付けなかったから、きっとここまで来てしまったのだろう。
「すみません、ならもう少しだけお世話になってもいいですか?」
「ええ、大歓迎よお。若い子がいると部屋の雰囲気が華やいでいいわね」
人の良さそうな奥方もにこやかな笑顔でそう言ってくれた。いつまでも甘える訳にはいかないけれど少しだけ安心した。
柔らかなソファに身体を預ける。もし自分が死んだとしてもこの人達なら心依を助けてくれるだろう。
「……金本さんは自分が困ってたら助けてくれますか?」
「いいぞ、困ってる事があるなら言えよ」
「はい、そのうち」
言える訳もない。訳もないのだけれど、そう言ってくれる人がいるだけで満たされていた。
「所でお前、あの子はこれか……?」
そう言って彼はひそひそ声で小指を立ててくる。その古い仕草についくすりと笑みが溢れた。
「さあ、どうでしょうね」
「お前は顔は良いからな。少々陰気過ぎるけどそのうちできると思ってたよ」
どうでもいい会話が、ただ嬉しかった。
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それから数日ほど金本さんの家で世話になった後の事。
彼に我儘を言って最寄りの駅まで送ってもらい、電車で数駅。降りた先でまた暫く歩く。
「ねえ■■くん、これどこに向かってるの?」
「少しな。筋を通さなければいけない人がいる」
記憶を頼りに閑静な住宅街を歩く。少し強くなった日差しに前を行く心依が帽子を被り直す。ふわりと揺れる春物の服は金本さんの娘の物を借りたらしい。楽しげに袖を風に靡かせる彼女を眩しく眺める。どうしても男所帯になりがちな芥屋では彼女にこのような服を着せる事もできなかった。自分の視線に気付いたのか、心依はくるりと振り返る。
「どうかした?」
「いや、似合っていると思って。その服」
「……意外とそういう事言えるんだね」
少し照れたように彼女がはにかむ。本当はもっと違う道があったのかもしれない。こんな風に何でもない時間を積み立てて少しずつお互いの事を知っていく。恋だの愛だのなんてものは、本来そうやって育てていくものなのだろう。
そのまま取り留めもない会話を続けて歩き、目当ての家の前で襟を正す。「少し待っていてくれないか」と心依にお願いして玄関へと進んでいった。
深く息を吸って何の変哲もない家のチャイムを鳴らす。ばくんばくんと心臓の鼓動が煩い。数秒の後、間延びしたような声と共に扉が開かれる。そこから顔を覗かせたのは、少し度の強い眼鏡を掛けた黒髪の女性。ゆったりとしたシャツに袖を通す姿はまだ学生のようにも見えた。
「あら、確か■■君だったよね……? 大きくなったね! っていうかどうしたの、急に」
芥屋千代。自分達と同じ姓ではあるが、呪いや祟り神とは全く縁の無い数少ない人間だ。一般人として嫁入りしたが夫の意向で芥屋との関わりも殆ど無い。自分は結婚式の時に顔を見たのが最後だったと思う。
一言で言い表すならば、錨さんの妻である。
「お久し振りです、千代さん。その……」
やはり、という思いが強かった。きっとこの人は錨さんが今どうなっているかを知らない。あの違明がそんな事をわざわざ伝える筈もないから。多分ここで少なくとも錨さんが戻ってくる事はないと伝えなければ、この人はずっとここで待ち続けてしまう。
「錨さんは、えっと」
言うべき一言が、出なかった。言える訳がなかった。だって錨さんが死んだのは自分のせいみたいなものなのに。まだまだ未来があった筈の二人を引き裂いてしまったのは、こんなどうしようもない自分のせいなのに。
顔を伏せる。そんな事をされても千代さんが困るだけなのに。言わなきゃ。言わなきゃ駄目なんだ。
お前が悪いんだよ。
代わりに死ねば良かったのに。
この女も絶対そう思ってる。
今からでも遅くないよ。
もう疲れただろ。
本当は許してもらいたいだけのくせに。
会いたいな。
頭の中に巣食う七人が苛むように呟き続ける。段々と統合されるように一貫してきたその意見は、最後には自分の人格そのものを喰い尽くすのだろう。でも駄目だ。まだ終われない。
拳から血が滴りそうなくらい強く握り締めた瞬間、ぽんと靭やかな指が自分の肩に添えられた。
「……ううん、大丈夫。分かったから、あの人に何かあったんでしょ?」
「え、あ、なんで」
なんで、と口走ってしまったのを慌てて押さえる。でも、もう手遅れだった。
ほんの少しだけ寂しそうな笑みを浮かべると、彼女は扉を開けて玄関の壁にもたれ掛かった。そして少し震えた口で息を吸って、にっこり微笑む。
「帰りが遅すぎると思ってたんだ。それに錨君はいつも言ってたから。『もし俺の身に何かあったとしたら、多分■■が伝えに来るだろう』って」
そんなの聞いてない。だって錨さんは自分の事なんか気に掛けている訳がなかった。いつも下らない事で怒らせてしまっていたし、迷惑ばかり掛けていて。きさらぎ駅とのっぺらぼうの時だって励ましてもらうばかりで、本当は元々友人だった怪異と対峙しなければならない彼の方が辛かった筈なのに。
愚痴を吐かれているならまだしも、そんな信頼されている訳が。
「彼ね、いつも君の事を褒めてたんだから。筋は良いのに優し過ぎるって、あの人が言えた事じゃないのに。大学時代の頃からずっと『■■とラーメンを食べに行ったんだ、■■が今日はよく動けていた』って本当に君の話ばっかりだったんだよ? 私が妬けちゃうくらいに」
「……錨さんもよく千代さんの事を話してました。普段は仏頂面なのに、千代さんの話をする時だけはちょっと顔が緩んでて。誕生日前は柄でもないのに『……女性が喜ぶような贈り物に心当たりはないか』なんて言ってたり」
ぽたり、と何かが自分の頬を伝って落ちる。悲しいのに嬉しくて。もっと話をしたかった。もっと色んな事を教わりたかった。もっと下らない血や家なんかに縛られずに、あの人と。
「ちょっと泣かないでよ。私まで何だか悲しくなっちゃうじゃない」
震え声でそう自分を励まそうとする千代さんに申し訳なくて、笑おうとするのに溢れてどうしようもなくて。
「本当に死んじゃったんだ、あいつ。馬鹿みたい、沢山物をくれたり私を色んな所に連れて行って楽しませようっていつもあくせくしてたけど。本当に欲しかった物、何にも最後まで分かってなかった」
どこまでも高く広がる空に春一番が吹き荒れる。心配そうにそっと塀の向こうから覗き込んでくる心依に気付くと千代さんは「彼女?」と涙を拭いて聞いてきた。慌てて否定する自分を可笑しそうに眺めると、彼女は心依と一緒に自分を部屋の中に招き入れてくれた。
「聞かせてよ。■■君から見た、あの人の話」
自分が思っているよりも、きっとこの身は多くの人に愛されていた。呪われ、忌み嫌われ、捧げる事でしか誰かの役に立てないと思っていた自分を「そこにいてくれるだけで良い」と思ってくれる人がいた。
もうそれだけで死んでもいいと思うくらいに嬉しいのに。それでも死にたくないな、と喜ぶ自分がいる。
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死んでも良いから貴方との子供、欲しかったんだけどな。
二人を招き入れ扉を閉める前に、宙を高く飛ぶ鳶に千代は目を細めた。どこまでも自由に飛んでいくその鳥に託すように放り投げた呟きは、春の麗らかな日差しに解けるように消えていった。
願わくば、天の上にいる筈の貴方に届くようにと。
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夢を見ていた。
ぼんやりと暗く温かい海の中で漂っているような、そんな夢。
子宮の中を思わせる緩やかな波の中で一つだけ、微かに輪郭を持った何かがある。触れようと思えば触れられる距離にあるそれに、手を伸ばしてみようと思って留まる。
触れてしまえば、何かを捧げなければならない。
それでたとえどんな掛け替えのない物を得たとしても、
別にいいでしょう、と誰かが囁く。本当はどうすればいいか分かっているのに、と誰かが嘯く。怖くないよ、と誰かが唆す。
────自分の名前すらもう、思い出せないのに?
よく知っている筈の誰かに似た顔が、そう言って笑った。
額に付いた汗を拭って起き上がる。悪い夢を見てしまったせいか服全体がびっしょりと濡れていた。布団から出て水を飲みに行こうとした時、ふと足元に落ちている物に気付く。
丁寧に包んでしまっていた筈の蛇神から貰った鱗が、黒く艶めいた光を放ちながら転がっていた。もう答えは分かっているだろう、とでもいう風に。