【完結】それでも死にたくないな、と貴方は笑って言ったのだ。 作:しゅないだー
気怠げにネクタイを解きながら男は呼び鈴のボタンを押した。
歳の頃は二十代半ばといった所だろうか。仕立ての良いジャケットを腕に掛け、腕時計に目をやりながら暫し待つ。
春の麗らかな日差しに照らされているその家は、小ぢんまりとしてこそいるが庭も付いておりどこか牧歌的な雰囲気が漂っていた。奥から聞こえる「はーい」という間延びした声と共に、少し軋んだ音を立てて扉が開く。
中から顔を覗かせた女性は男の姿を認めると、その特徴的な紅い瞳を驚いたように瞬かせた。
「御無沙汰、心依ちゃん。ああいや、芥屋心依さんって呼んだ方が良いかな?」
淡雪のような白髪をふわりと揺らして、彼女は男の戯けた口調に照れたようにはにかむ。
「寅地くんじゃん、久しぶり! 入って入って」
にまにまとその顔を綻ばせながら手招きする女性──心依の左薬指には指輪が微かに光っていた。通された部屋を男は軽く見回す。家具や調度品も決して高価な物ではないが、落ち着きのあるデザインがこの長閑な一軒家にはよく似合っていた。
「一砂くんならお仕事だけど待つ? 夕食一緒に食べていってくれたらあの人も喜ぶと思うんだけどな~」
その名を聞くと彼は懐かしそうに目を細めた。
「ん、お構い無く。仕事だろうなとは思ってたんだけどさ。俺も仕事中でね、近くまで来たからワンチャン顔でも見られたらって感じだったし」
「あー、なんか最近また手強いのが出てきてるんでしょ。ニュースでやってた」
出された紅茶を一口含んで寅地と呼ばれた男はそれを聞いて思い出したように溜息を吐く。ソファに深く腰を下ろして眉間にできた皺を揉んでいる様子からは、拭い切れない疲労感が滲み出ていた。
「手強いって言うか、面倒だな。怪異を集めてはガキに植え付けて回ってる奴がいるんだよ。しかも元災害級の上澄みも混じってて最悪だ、くねくねにコトリバコとか」
それなりに怪異について理解している者であれば青褪める事は間違いないビッグネームを耳にしても彼女にはピンと来ていなかった。
「それって強いの?」
「サシじゃ俺でも勝つ自信は無いね」
「そんなに」
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七年前、芥屋の祟り神が祓われてから怪異はその様相を大きく変えた。
元々増加傾向にあった怪異に対して伊勢の対処が追い付かず、政府が被害を減らす為にパニックを承知でその存在を公開し認めた事が切っ掛けである。
怪異祓いの名家として双璧をなしていた芥屋、その贄自身の手によって当の事態は引き起こされたが。それは当人にとってすら予想だにしていなかった変革を齎したと言えるだろう。
人に憑き、怪事件を起こす。そんな化物が身近に潜んでいると聞き、大多数の民衆は一笑に付した。しかし報道規制が解かれ、実際にその被害を見聞きするようになると状況は一変する。
少しでも隣人の様子がおかしければ怯え、実際に怪異が憑いていようがいまいがお構い無しに密告が横行し、まるで中世の魔女狩りのような有様となった。強引な情報公開によって諸外国とも一悶着あり、国内のみならず国外にも問題を抱える羽目になったが数年を経て漸く事態が沈静化してきたというのが現状だ。
しかしそれに対して怪異は新たな性質を獲得しつつある。
その姿を隠すように、闇に潜るように。己の存在を宿主の体内で維持しながらも、あくまで人にその異能を齎すだけの機構であるステージⅠ。そしてそれに溺れた犠牲者の中で更に力を蓄え、まるで蛹から孵化する蝶のように怪異として暴虐の限りを尽くすステージⅡ。
謂わば"二つの潜伏期間"を経る事で早期発見が以前より困難となっている。
更にそれを後押しするように近年現れ始めた存在が、怪異の跳梁に益々拍車を掛けていた。
幼い頃から
これまで災害と称されてきた『八尺様』『きさらぎ駅』『リアル』といったネット発の怪異すらその身に受け入れる事ができる慮外の怪異に対しての耐性は、人によってはステージⅡに至りながらも自我を保ち日常生活を送っている者もいる程である。
その二つが合わさり、今の日本は表面上の出現数こそ少なくなったものの規模は遥かに強大かつ老獪な手段を取る怪異に悩まされていた。
より正確に言えば怪異の力が明確に"人の悪意"によって振るわれるようになった、と言うべきだろうか。人が人を傷付ける為の手段として怪異が用いられる事すらある。
伊勢を筆頭とした怪異祓いもこの現状には手を焼いており、対症療法的な処置を取るほかないというのが実情だ。
基本的に怪異が憑いてしまえば、もう宿主は助からない。以前は芥屋の手によって早い段階であれば
政府は国民に対して『怪異に憑かれた場合、治療の為速やかに申告するように』という旨を発表したが、名乗り出る者は全体の10%にも満たない。
すぐに殺される事はないにせよ、政府の管理下に置かれ何処かに閉じ込められるか、四六時中日常生活を監視されステージⅡに至った瞬間に処分されると分かってそれを選ぶ者は少ないだろう。
治療する手立てなどない事は誰もが知っている。
よって怪異による被害が表面化した時には、もう既に何もかも終わっている。救われる事は決してない。それはまるで真綿で緩やかに首を絞められるような、息の詰まる閉塞感を人々に与えていた。
素知らぬ顔をして自分の隣に座っている人間が、実は怪異憑きなのではないか? そんな背中にべったりと張り付くような不安を誰しもが抱えながら生きている。
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「……しかしあれから七年ね。まあ一時はどうなる事かと思ったけど何だかんだ丸く収まって良かったよ」
「よく言うよ、私の事殺そうとしてたのにさ」
「別に心依ちゃんが嫌いだった訳じゃない。ただ友達思いなんだ、俺は」
物騒なやり取りとは裏腹に、二人の間には和やかな雰囲気が漂っていた。七年という月日は短くもあり、長くもある。それは殺すか殺されるか、という関係であった二人が紆余曲折の果てに笑いながら談笑するようになる程の時間だ。
「まあ、今は私も友達だもんねー。っていうか寅地くんはさ、そろそろいい人いないの? お兄さんにせっつかれたりしてるんでしょ?」
恋バナしようよ恋バナ、と目を輝かせる心依に対して男はばつが悪そうに首筋を掻いた。
「浮いた話とかないない、仕事と結婚してるから……悪い、ちょっと電話。偉くなるのも考えもんだね、友達とお茶の一つものんびりできないってのは」
喧しい音を立てるスマホを取り出すと、うんざりとした視線を向けながら耳に当てる。
「口裂け女? 女の怪異なら俺じゃなくて薙にやらせた方が早いだろうが、現場判断しろよ現場判断……マジ?
男は慌ただしく紅茶を飲み干すとジャケットを羽織り、席を立つ。その表情は先程までとは異なり、長年追い求めていた獲物を見つけた狩人を思わせた。
「ご馳走様。今度は晩飯食いに来るからさ、一砂によろしく言っといて」
少し不安げな様子の心依に気付くと、彼は打って変わって朗らかな顔でそう別れを告げる。家を出て再び大通りへと向かう足取りは、何処か落ち着きがない。
巣食うもの。
それは電子の海から生まれた新しき怪異の一つ。人の中に棲み着き、他の怪異を歯牙にもかけない異質なまでの実力を持つ。詳しい事は殆ど分かっておらず、一つだけ判明している行動原理はただ宿主を守る事だ。
だがそこに善悪の感情は一切存在しない。自らの住処を守る為だけに同族である他の怪異すら屠る様は寄生虫と揶揄される事もある。
しかし物事の結果だけを見るとするならば。巣食うものは最も優秀な怪異祓いと言えるのかもしれない。
何せそれは敗北を知らない、怪異を殺す怪異なのだから。
芥屋の呪いは解け、神は人に堕ちた。
されど世に人の恐れある限り、怪は尽きる事無く。
という訳で本作の七年後を題材にした新作『死んでもいいわ、と君に笑って言わせるまで。』を明日の夜辺りから毎週やっていこうと思います。
それなりに設定に変化があったり本作のキャラが登場したりもするので、もし良ければ読み返した上で明日からの新作も追って頂けると嬉しいでーす!