【完結】それでも死にたくないな、と貴方は笑って言ったのだ。   作:しゅないだー

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#2 貴女に名前を付けるなら

 

 

 彼女が目覚めたのは帰りの車の中だった。神様というものは車で送り迎えできるという事をこの歳になって初めて知った。

 同じ後部座席の隣に座っていたからか、彼女は毛布に包まりながら自分に尋ねる。

 

「だ、誰……?」

 

芥屋(アクタヤ)一砂(イッサ)と申します。そうですね、これから暫く貴女のお世話をする事になる者です」

 

「そう……ですか……じゃあ、あの、私って誰……?」

 

 自分が『何』なのか、分かっていないのだろうか。どうしたものか、と助手席に座っている当主に目で指示を仰ぐ。言っちゃっていいよ、との言葉に自分の中での整理も兼ねて簡単に洗いざらい説明する事にした。

 

「貴女は神様なんです。それで此方の事情ではあるのですが、自分と貴女は端的に言って相思相愛にならなければいけないようです。頑張りましょう」

 

「なんて?」

 

 当主の心底可笑しそうな爆笑が、車内に響いた。

 

 

 ─────────────────────────────────

 

 

 

 

 一つ。彼女に決して自身が芥屋一砂を喰い殺す祟り神である事を知られてはならないという事。

 二つ。彼女と自分の命を、何を犠牲にしてでも守る事。

 三つ。彼女を愛し、そして愛される事。

 

 

 それが当主から言い含められた三つの『生贄としての芥屋一砂の務め』だった。一つ目と二つ目に関しては然程難しくはない。自分が努力すれば良いだけの話だ。

 ただ、三つ目だけはどうしても己の力だけでは解決できない。というかそもそも人を好きになった記憶という物が、自分には生まれてこの方なかった。どれだけ関係を深めようとも十八になれば全て無意味になるという事実が、気付かない内にそれを忌避させていたのかもしれない。

 

 

 そしてまた彼女について分かっている事も、両手の指に足る程度しかない。

 言葉が問題なく通じるだけでなく、驚くべき事に現代における一般常識は大方頭に入っていた。しかし家族や年齢など自分の事については何も分からないと彼女は言う。記憶喪失の症状にも似ているが、私見を述べれば『忘れている』というよりも端から『欠落している』という方がしっくりとくる。

 

 ただ、話している分にはクラスメイトの女子と殆ど変わらないように思えた。

 見た目で言っても自分と同じ十代後半といった様相だが、正確な所は不明だ。肩まである白髪や透き通るような肌は外国の血が混じっているというよりも、アルビノに近い印象を受ける。

 

 まあつまり、殆ど何も分かっていないに等しいという事だ。便宜上『依代様』とお呼びしているが、本当の名前すら知らない。そもそもそんな物があるのだろうか。

 しかし目下のところ問題は別にあった。

 

「ねえ、一砂くーん。お腹空いたんだけど」

 

「昼餉にはまだ少し早いのですが……」

 

 彼女は二日目にして現代を満喫していた。いや、満喫し過ぎていた。

 炬燵に潜り、自分から召し上げたスマホでYouTubeを見ながら煎餅をぽりぽりと食べている様は色気も何もあったものではない。楽だからという理由で自分の高校のジャージを着ている様は、神性よりは怠惰という二文字の方がよく似合う。

 

「依代様……その、少し行儀が良くないかと」

 

「っていうかその依代様って何? それが私の名前なの?」

 

「いえ、そういう訳ではないんですが。何と説明すればいいんでしょうか」

 

 見るに見かねて苦言を呈するも、どこ吹く風である。

 一糸纏わぬ彼女を抱きとめたあの時から一日。惑う頭で父と共に依代様を自宅へ迎え入れた自分は、何故かその彼女に対して朝からろくろを回し続けている。来た当初は不安げな様子を隠せていなかったが、一晩経つと先程述べたリラックスっぷりを見せつけていた。正しく人間離れした豪胆さという他ない。

 

 元々この屋敷には自分と父しか住んでおらず、部屋は幾らでも余っているという状況だった為に一人増えた程度では問題は無い。家を訪れる者も週に一度、雇い人が掃除などの家事をして去っていくのが関の山。

 つまり見知らぬ少女が突然増えていても、それを気にするような人間はこの近辺には存在しないのが救いだった。

 

 

 それにしても、と顎に手を当てる。

 寝そべって無邪気にけらけらと笑う様はまるで無垢な子供のようだった。神様というのはそういうものなのだろうか。

 疲れたのかスマホの電源を落とすと、彼女はぐるりと寝返りを打つ。

 

「でもさ、君のお父さん酷くない? 『愚息はもうすぐの命ですので、なにとぞ御慈悲を』とか何とかさ。冗談にしても面白くないし。その……愛がどうとかさ……」

 

「いえ、自分は本当に十一日後に死にます」

 

「いや嘘つけ、何でよ」

 

 愛し、愛されろといきなり言われても無理がある。

 そう判断した自分と父は恥も外聞も捨てて泣き落としにかかる事にしたのだが、それもそれで逆効果だったらしい。まあそもそも『自分は貴女に喰われて死にます』と言える訳もない。

 

「こう……余命幾ばくもない難病に罹っているんです」

 

「ピンピンしてるじゃない」

 

 返す言葉もないため、押し黙る他なかった。

 気まずい沈黙が辺りを包むのに耐えられなかったのか、彼女が机を叩いて立ち上がる。

 

「……じゃ、仮にそれが本当だったとして! なんで君のお父さんはそれをにこにこ笑顔で言ってんの! 頭おかしいでしょ! お母さんだって怒るんじゃないの!?」

 

 おかあさん、という五文字は、自分の頭の中では瞬時に像を結ばなかった。数瞬おいてようやく彼女が何を言いたいのか理解する。しかし何故彼女が怒りを露わにするのかまでは、よく分からなかった。

 

「母は何も言いません。自分を産んですぐに死にましたから」

 

 母は怪異と関わりもない、嫁に来ただけのただの一般人だったと聞いている。しかし、芥屋の呪いは血に宿る。

 父に抱かれて赤子という呪いを腹に宿した母は、自分を産み落として一年も経たぬ内に衰弱して死んだ。

 

「仕事の関係で芥屋には金だけは腐るほどあります。大方母も、借金の(かた)に売られてきた一人でしょう」

 

 嫁いで子を産めば死んでしまうような家に、誰が嫁に来たがると言うのだろうか。芥屋の人間は、生まれてくる時に自身をこの世で最も愛してくれる一人を奪っていく。

 

「それに自分は父も可哀想な人だと思っています。芥屋は昔からずっと本家の血と才を至上としてきましたから。それでも生き抜く術だけは教わりました」

 

 父には教える才はあっても、自身で怪異を祓う才がなかった。

 芥屋での資質とは、如何に自分の血に刻まれた呪いを扱えるかにある。自身の身体を蝕まない程度にその封を解き、相手に流す事で怪異を外す。代々練り上げられてきたその技術を怪異と渡り合えるまでに使いこなすには、天性のセンスが必要だった。

 自分が一族切っての才と言われる所以は先祖返りにも似た血に刻まれた呪いの濃さ、そしてそれを自由自在にコントロールできる所だ。

 お前は私の誇りだと言う時の父の眼差しの中に、嫉妬と少しばかりの憎悪が隠れている事に気付かない振りができるようになったのはいつからだっただろうか。

 

「だからという訳ではないのですが、自分は誰かを……一般的にどう愛せばいいのか分かりません。不足や不手際があったら申し訳ないですが、精一杯努力しますので──むぐ」

 

 しますので、まで言いかけた所で彼女が口を塞いでくる。

 

「……いや、重い重い重い! ほぼ初対面の女の子にぶつける身の上話じゃないから!」

 

 今まで女子と接する事を避けてきた過去の自分を恨んだ。自己開示は相手の警戒心を解くのに最適だと何かの本には書いてあったのに。

 

「それにさ、怪異がどうのこうのいきなり言われても信じらんないって。大体私もなんだっけ、神様? 確かに記憶ないけどさ、本当に普通の女の子だし」

 

 もう一つ分かっている事がある。彼女は自分自身が何なのか理解していない。何なら怪異の存在すら認知していないようだ。

 揶揄われていると思っているのか、彼女はしばらく頬を膨らませていたが突然「いい事思い付いた!」と叫んで手を打った。

 

「じゃあさ、私に名前付けてよ。『あのー……』とか『もし……』とか声掛けられるの飽きたんだよね」

 

「自分が、ですか?」

 

「君しかいないじゃん、だって私起きてから一砂くん達三人としか会ってないんだよ。あのイメイっておじさんは胡散臭いしさー、君のお父さんは私見るだけでぺこぺこするしさー。あ、あとイカリさんもいたっけ。あの人もなんか怖いし」

 

 可愛いのを一つ頼むよ、とウインクしてくる彼女をまじまじと見つめる。自分達もそれなりに呼びやすい物でなければ意味はないだろう、となると。

 依代だから依子というのは少し安直だろうか、と暫く考え込む。

 

「では心依(コヨリ)という名はどうでしょうか。心の依り所と書いて、コヨリ」

 

「ふーん……いいね! 響きも可愛いし、心依か。いいじゃん、ふふん。コヨリちゃんポイントをあげよう」

 

「貯まると何かあるんですか」

 

「私の気分が良くなるよ。改めましてよろしく、一砂くん」

 

 それはとても重要な事だ。コヨリちゃんポイントを貯めていく事がきっと彼女と関係を深めてゆく指標となるのだろう。

 

「よろしくお願いします、心依様」

 

 その様付けもどうにかならないかなあ、と頬杖をつきながら彼女はくるくると指で髪を巻く。

 

「まあ愛だの恋だのはよく分かんないけどさ、お互いまだ何にも知らないんだから。あとちょっとで死ぬなんて悲しい事言わないでよ、そんなんで好きになるとか無理だからね」

 

「そういうものですか」

 

 とかく女性というものは難しい。

 

 

 ─────────────────────────────────

 

 

「おい、一砂」

 

 廊下を歩いていると突然後ろから声を掛けられる。振り向くとそこには神経質そうな顔が此方を睨み付けていた。当主から派遣されてきた、自分と心依様への"護衛"の一人だ。

 何故護衛など付ける必要があるのか、と聞いたところ当主には「君達は御馳走だから」とだけ告げられた。正直に言って要領を得ない。

 本家筋の手練れを四人ほど集めたらしいが、自分達の前に姿を現すのは目の前の彼だけで後は常につかず離れずの位置で待機しているという。依代──心依様に精神的な疲労を与えない為らしい。確かに四六時中見知らぬ男達に纏わりつかれるのはあまり気持ちが良いものではないだろう。

 

 

 芥屋(アクタヤ) (イカリ)

 当主である違明の腹違いの弟で、本家の次男に当たる。一族の中でも筋金入りの武闘派で、幼い頃から体術の稽古をよくつけてもらっていた。

 数十人を超える怪異祓いを縊り殺したあの『後ろのメリーさん』を祓った功績で、他家にもその評判は知れ渡っている。

 

 普段は芥屋の主力として全国各地を行き来している彼が、自分達に付きっきりだという時点でほんのりときな臭さを感じるような気もした。単にそれほどまでにこの生贄の儀に力を注いでいる、というだけかもしれないが。

 

「庶流の小童が自惚れるなよ。コヨリなどと馴れ馴れしい、センスの欠片もない名前を付けて悦に入るな」

 

「お疲れ様です、錨さん。もっと良い名を考えろという事ですか?」

 

「変な名前など付けず依代様とお呼びしろという事だ!! 汲み取れ!!」

 

「すみません」

 

 怒られてしまった。怒られてしまったついでに、自分の務めについて何か参考にできる事がないか訊ねてみる事にした。本家筋は他家や政府との折衝もあり、自分達よりは人付き合いに精通している。

 

「あの、差し支えなければ教えて欲しいのですが。錨さんは誰かを好きになった事はありますか?」

 

「ん? 知ってるだろ、俺は既婚者だぞ。当然、妻一筋だ。大学で出会ったんだがな、一目惚れだ。四年かけて口説き落とした時には本当に……もう……」

 

 何かを思い出しているのか、彼は涙ぐんでしまった。

 いつも肩肘を張っているため感じこそ悪いが、この人が意外と親身で話好きだという事を自分は知っている。

 

「けれど、そういえば奥様は一般人でしたよね」

 

 言外に子はどうするのか、と問う。

 

「ああ、俺達は子は作らんぞ。兄貴がいるから血が絶える事もないしな。それにあいつには俺より後に死んでもらわなければ困る。老後を一人で迎えるのは寂しいからな」

 

 傲慢だと思った。その振る舞いは本家の次男坊という立場だからこそ許される。だがそれを貫き通せる程に誰かを好きになれる、という事に対しては羨ましくも思った。

 

「ただでさえ俺達(芥屋)は普通の暮らしなど望めないからな。好きになった女にくらいは、普通の幸せをくれてやりたいだろ」

 

「普通の幸せ、ですか」

 

 参考になったかどうかはともかく、礼を言ってその場を後にする。

 しかし普通とは一体何だろうか。きっとその答えを持ち合わせている者はこの家にはいないのだろう。

 

 しんみりとした気持ちのまま部屋に戻ろうとした時、立て続けざまにLINEの通知音が鳴り響く。一体誰だろうか、と考えながらスマホを開いた。

 

『なんで学校休んでんだあのスタンプは何だ説明しろ根暗野郎、出てこい』

『〇〇駅のマックにて待つ』

 

 昨日友人に今生の別れをスタンプで告げていた事をすっかり忘れていた。何やら怒っているようだ、どうしたものかと考える。行くべきか行かざるべきか、それが問題だった。

 

 

 

 ─────────────────────────────────

 

 

 自分にとっては慣れ親しんだ道でも、どうやら彼女にとっては新鮮な景色らしい。道の草花にまで興味を示しながらのんびりと歩く様は大型犬を思わせた。

 友人に駅に呼び出されている、という事を彼女に伝えると「それは行くべきだ。何なら私も暇だからついていく」という旨の返事が返ってきての事である。特に家の者に待ったをかけられる事もなかった為、恐らく護衛が後をつけているのだろう。

 

「友達は大事にしなきゃ駄目だよ、一砂くんってただでさえ友達少なそうだし。どんな人なの?」

 

「……ティッシュみたいな男ですかね」

 

 寅地(トラジ) (キヨシ)は自分にとってたった一人の親友と言える。

 ピンク色に染めた髪をセンターパートにし、軽薄そうな顔に違わず吹けば飛ぶような軽い男である。

 小学六年生の折に自分と同じクラスに転校してきた事がきっかけで付き合い始めたが、手先が器用で何にしても要領が良い。つまる所、軽くて使い勝手の良い(ティッシュみたいな)男である。

 

 強いて欠点を挙げるなら重度のギャンブル中毒である所だ。未成年であるにも関わらず素知らぬ顔でパチスロ店に(たむろ)し、長期休暇の際には県外の競馬場に遠征してはGⅠレースとやらに敗北しているらしい。

 

 彼には自分の家業について伝えていない。というか言って信じる奴は中々いないだろう。

 正直に言って、なぜ彼が自分にここまで構うのかずっと分からずにいる。ただ、自分も彼の事は嫌いではなかった。

 

 

 駅構内のファストフード店の中に奴はいた。自分達を見つけた途端不機嫌そうな顔でつかつかと詰め寄ってくる。

 

「お前さ……あんな意味深なスタンプ一つだけ残されて、2日も学校来てないお前に対して俺がどんな気持ちだったか分かる!?」

 

「すまん、分からない」

 

「バカがよ。それがお前、いざやって来たら女連れって。大丈夫? 美人局とかじゃない?」

 

「だから言っただろ、今親類が泊まりに来てるんだ。休んでいたのも彼女をもてなすためだ」

 

 自分と彼女を見比べては「似てねえけどな……」と寅地は呟いた。自分でも苦しい言い訳だとは思うが、こういった事は言い張った者勝ちだ。その後も「お前がいない間に学校で〇〇先生のヅラがバレた」だとか「クラスの〇〇がフラレた」だのいつものような下らない雑談に付き合わされる。

 

 本当に心底下らない時間ではあったが、何だか懐かしかった。自分が歳相応の学生と言えるのは、寅地と会話している時くらいだったのかもしれない。

 

「まあいいや、心依ちゃんだっけ? マジでこいつ頼むよ、堅物だからさ。楽しい事いっぱい教えてやって」

 

「うーん、考えとく」

 

 さっき買ったハンバーガーを美味しそうに頬張っている彼女の姿に来て良かった、と初めて感じた。

 

「お前、昔からなんかふらっといなくなりそうで怖いんだよ。何かあったら相談しろよ、友達だろ」

 

 それはできないんだ。そう心の中で謝っておく。

 

 

 ─────────────────────────────────

 

 

 寅地と別れた後、何故か自分達は帰らずに切符を買ってホームで電車を待っていた。どうせだからもう少し遠出しようよ、という彼女のリクエストである。

 彼女をベンチに座らせ、自分は立って辺りを警戒しながら会話のきっかけを探していた。

 

「心依様はどこか行きたい所でも?」

 

「んー、別にない! ないけど一砂くんは私と仲良くなりたいんでしょ? ならそのくらい付き合ってよ、大体あの家息が詰まるじゃん。なんか湿気てるし」

 

「すみません」

 

 まだ退勤ラッシュの前という事もあって、人の数は然程多くなかった。

 あのお友達も心配してるんだし死ぬとか言っちゃ駄目だよ、と改めて釘を刺される。本当の事ですからとはとても言えず、頷いておくと彼女はぽつりと呟いた。

 

「私だって死なれたら困るもん。私、頼れるのが君しかいないんだからさ」

 

 そう呟く彼女の横顔は夕日に照らされて、よく表情が読み取れなかった。

 ただ一言、努力しますとだけ答えた時にぞわりと背筋に嫌な気配が走る。

 すぐにその原因は分かった。

 

 同じホーム、自分達より車両三台分は離れた所にその男はいた。

 

「谺。縺ッ窶ヲ窶ヲ繧? ∩窶ヲ窶ヲ谺。縺ッ窶ヲ窶ヲ繧? ∩縺ァ縺吮? ヲ窶ヲ」

 

 人の喉では発声できないような唸り声、小刻みに震える身体。

 

 恐らく何らかの怪異に取り憑かれている。

 

 迂闊だったと唇を噛み締めるが、今考えるべき事はどういう対策をとるかだった。幸い纏っている気配が薄い事から、このホームのどこかで少し前に取り憑かれたのだろう。

 祓うにしても人が多過ぎる、事後処理が面倒だ。幸いまだ怪異としての特徴が表出する様子もなさそうだったため、ここでは放っておく事に決めた。一般的な怪異であれば取り憑かれて早い者で数時間、遅ければ数日かけて変異する。

 あの男は精々数分前という所だろう。ただ、離れておくに越した事はない。

 

「心依様、とりあえず次の電車に乗り──」

 

「なあ、そこのお二人さんは電車って好き? いやさ、満員電車ってあるじゃん? めっちゃ嫌われてるけど俺は結構好きなんだよね、あれ。どうしてかって言うとさ」

 

 いつの間に座っていたのだろうか。彼女が座るベンチの隣に一人、見知らぬ男が腰掛けていた。ロング丈のグレーのダッフルコートに、緩やかなダークブラウンのスパイラルパーマ。恐らく大学生だろう、新手のナンパの類だと判断して彼女の手を引く。家に帰り着く時間は多少遅くなるが必要経費だ、あの怪異が憑りついている男にも距離が取れる。

 

「行きましょうか」

 

「まあ待てって。最後まで聞いていけよ、寂しいだろ。どこまで話したっけ? ああ、なんで満員電車が好きかって所だった」

 

 馴れ馴れしく話し掛けてくる姿に二人で顔を見合わせる。一刻も早くこの場を離れたい自分達を意に介する様子もなく、彼は一人で喋り続けた。

 

「俺みたいな(なり)してても皆スマホ見てっから、気使わなくていいんだ」

 

 男が此方にその顔を向けた瞬間、否が応でもその異形に気付いた。

 目や鼻、口。およそ人体において顔と呼ばれる部分を構成するパーツが、その男からは全て欠落していた。ある筈の物がない、ただそれだけの事なのに背筋に怖気が走る。その様相を認めた刹那、瞬時に頭の中に駆け巡ったのは一つの怪異について。

 

 

 八尺災害の落とし仔。水無の負の遺産。たった一人の百鬼夜行。

 のっぺらぼうと呼ばれている怪異の姿が其処にあった。

 

 

 隣にいる彼女が怯えたように息を漏らすのを聞いた瞬間、考えるよりも先に左拳が相手の顔を渾身の力で打ち抜いていた。辺りの乗客から悲鳴が上がるが、どうでもいい。続けざまに返しの右をねじ込もうとした時、腹に重い鉛を叩き付けられたような衝撃と共に世界がひっくり返る。

 

「おいおい、初めて会った人には挨拶からだろ? こういう所で親の躾が出るんだよな」

 

 蹴りをもろに喰らったのだと理解した時には迫り上がる吐き気に堪えかねて、その場に血の混じった昼食を吐き戻していた。内臓は傷付いているかもしれないが、恐らく骨は折れていない。まだやれる。

 饐えた臭いのする吐瀉物が付いた口を震える手で拭うと、呆然としている彼女に告げる。

 

「……っ、心依様、今すぐこの場から離れて下さい」

 

「いや、無理無理! 一緒に行こ、置いてけないって!」

 

「早く!!」

 

 声を荒げた自分の姿に一瞬驚いた素振りを見せるも、彼女が急いで構内の方へ走ってゆくのを見送る。異変に気付いた錨さんか他の芥屋がすぐに保護するだろう。がくがくと揺れる足に拳を叩き付け、何とか立ち上がる。

 牽制するように構える自分に対して、相手は興味も無さそうに明後日の方を眺めていた。

 

「女の子には優しくしろよ、少年。大声出して脅かしちゃ駄目だ、まあ咄嗟の判断にしちゃ悪くはない。どうせ近くに他の芥屋が待機してるんだろ? なら百足巫女はそいつらに回収させて、自分は目の前の化物退治に専念。悪くない、悪くはないな」

 

 怪異と基本的に意思疎通が図れる事はない、奴等は本能として人を害する存在だ。だからこそまるで人間であるかのように話し、感情を見せる個体には少なくとも三人以上で対応するのが鉄則とされている。

 それは即ち、相手が宿主の身体を自由自在に使いこなす高位の怪異である事の証明に他ならないからだ。

 

「でもそれじゃあさ、モテねえよ」

 

 自分が視界の端に捉え続けていた、奇声を上げる男をのっぺらぼうが指差す。

 瞬間、男の身体が弾けるように消えた(・・・・・・・・・・)。それと同時に吹き荒ぶ黒く生臭い風に思わず目を閉じる。

 

 

 

 

 再び目を開けた時、すぐに異変に気付いた。まだ上っていた筈の太陽は消え失せ、とっぷりと日が暮れている。駅の外を眺めても黒く塗り潰されたような景色が広がるばかりで、まるで駅ごと何処かに飛ばされたようだった。よく見れば駅自体の構造すらも変わっている。

 

 特に異様なのは、線路やホームのあちらこちらに服を着たマネキンが転がっている事だった。人形は怪異の定番だ。胸騒ぎと共に案内板を確認して、愕然とする。

 

 

 

 

 

きさらぎ
 

 やみ
かたす 

 
  Kisaragi

 

 

 

 

「……最悪だ」

 

 あり得ない筈の駅名が、現代的な案内板に記されている歪さに言い様もない不安感が込み上げて来る。これはまず間違いないだろう。 

 

 自分だけではなく一般人を含めたこの場にいる者全てが今、恐らく怪異の胎の中にいる。

 

 

 きさらぎ駅。

 日本で最も有名なインターネット発のオカルトの一つ。

 ある日普段乗っていた電車がきさらぎ駅、いわゆる『異界』に繋がった……というものであり、そのバリエーションは多岐に渡る。そこで何かに出会ってしまった者、無事に帰れた者、消息の分からぬ者。

 

 昔から語り継がれてきた妖怪や人の口伝てに編まれてきた都市伝説とは違う、電子の海から生まれた現代の怪異。

 

 

 怪異とは人に取り憑く事で初めてその真価を発揮する。

 故に知性が在ろうと無かろうと、出来る限りその宿主を長く維持する為に力を注ぐ。その怪異に適した"形"に人体を変化させていくのもその一つだ。

 

 ただ、現代に生まれた(・・・・・・・)物の中には人の身に到底収まらない力を持った規格外の怪異が存在する。昔から語り継がれてきた妖怪とは違い、その存在が人の身体に受け容れられる前に知れ渡り過ぎたもの。

 電子の海を泳ぐ現代の都市伝説、それらには意志などない。瞬く間に宿主の身体を喰い破り、束の間の『現象』としてその場に表出する。

 故にそれはもはや怪異ではなく────災害の名を冠するのだ。

 

 

 

 のっぺらぼうは芝居がかった仕草で歪んだ時刻表をなぞる。目の前の怪異が『きさらぎ駅』を手引きしたと見て間違いなかった。

 何故、という理由までは今考えている余裕が無い。

 

「さて問題だ、少年。"彼女"は今どこにいるでしょうか? あっ駄目だ、教えちゃいけないんだよな」

 

 こちらに構う事もなく顔に手を当て、一人でぶつぶつと呟いている相手から目を逸らさぬまま辺りを確認する。

 少なくとも十数人はこのホームに、向かい側にいる人達も合わせれば自分一人でまとめ切れる人数ではない。中にはのっぺらぼうを見て腰を抜かしている老人もいる。非常に面倒な状況だった。

 

「いや、ワンサイドゲームも面白くないな。ヒントをやるよ、お前に残された時間は三十分(・・・)だ。さあどうする? 俺を祓うか、あの子を捜しに行くか、此処にいらっしゃる一般人の皆様を守るか」

 

 三十分というのが何を指し示すのかは分からないが、確かに自分がやらなくてはならない事は複数ある。

 

「物事には優先順位がある。よくいるよな、課題放り投げてゲームやったり下らない事で時間を浪費してる奴。ああいうの勿体無いと思うね、俺は」

 

 聞けば聞くほどまるで人間のような口振りに目眩がするようだった。人語を解する怪異を相手にした事は何度かあったが、ここまでの個体はお目にかかった事がない。手汗の滲む拳をもう一度握り込む。

 

「早めに告知してやったんだ、締切は守れよ。人として当然の事だろ」

 

「もうお前は口を開かなくていい。声だけで耳障りだ」

 

 出し惜しみをするつもりはなかった。妨害を防ぐ為に目の前の怪異を一撃で外した後、すぐに彼女を探し出し保護する。最も優先されるべきはそれだ。

 

「いや悪い悪い、喋り過ぎるのは俺の良くない癖なんだ。普段話のできる奴がいないから嬉しくなっちゃってさ。お口にチャックしないとな、まあ口なんて付いてないんだが」

 

 気怠そうに立ち上がる姿は一分の殺気も無い。

 

「笑えよ、のっぺらぼうジョークだぜ」

 

 表情など無い筈の顔が、嘲笑うように歪むのを確かに見た。

 

 

 

 

 

 ─────────────────────────────────

 

 

 

 

 

 駅構内にいた百余人を巻き込んだその一夜は、後世では『きさらぎ災害』の名で記録に残っている。

 その場に居合わせた芥屋家が対応したが、死者一名を含む重軽傷者を多数出してしまった事態は怪異祓いにとってかの『八尺災害』に次ぐ失態だとされている。

 

 その中でも芥屋一砂が取ったある行動は、その場にいた一般人にとって余りにも受け入れ難いものであった。それは後に警察と蜜月の関係であった芥屋が見限られる一因になったのではないか、とも考察されている。

 

 

 夜が今、幕を開ける。

 

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