【完結】それでも死にたくないな、と貴方は笑って言ったのだ。 作:しゅないだー
「……一砂くん? どこ?」
逃げろ、と言われて走り出した筈なのに。
気付いた時には駅ではなく、古びたトンネルの前にいた。伊佐貫と薄っすら書いてあるのが読めたが、中は真っ暗で何も見えない。
線路の上に立っている事から駅の近くにいるのは間違いないと思ったけど辺りを見回しても家の明かりすら一つもない。とりあえず線路を伝って駅まで戻ってみよう、そう歩き出そうとした時。
「ひっ……」
進もうとした方向から急かすように太鼓の音が小刻みに聴こえる。それは段々と近付いてくるようで、どこか心の奥深くにある隙間に入り込んでくるみたいで。ここにいるだけで不安な気持ちが溢れ出しそうになって座り込んでしまう。
逃げろ、逃げろと声がする。
「もうやだ……」
何かに追い立てられるように、ここよりはマシだと信じて暗いトンネルの中に足を踏み入れた。
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心依様を探しに行く事は叶わず、未だ足場の悪い狭いホームの上で自分はのっぺらぼうと紙一重の攻防を繰り広げていた。線路の上やベンチに服を着たマネキンが転がっているのが気になるが、きさらぎ駅と関連づいた話は無かった筈だ。今は考えても仕方ない。
護衛もそれぞれ別の場所に飛ばされたのか、未だ此方に応援に来る気配はない。つまり現状は単独で祓う他ないという事だろう。
「──ッ」
顎を目掛けて放った掌底が虚しく空を切る。
強い。
何度か拳を合わせた時点で、目の前の相手がいつも祓っている怪異とは別格だと理解した。奴等は人の身体に取り憑き、その身体能力を限界を超えて引き出す事ができる。だがそれ故に肉体をコントロールし切れずに、動きとしては狐憑きのように単調になる事が多い。
だが、今自分の前に立つこの怪異は。
のっぺらぼうが顔をふいと逸らす。仮に奴に瞳が付いていたならば、その視線の向く先にはゴミ箱の陰に隠れて震える母子の姿があった。
一般人に手を出されれば対処のしようがない事に気付き、一瞬動きが鈍る。早く逃げろ、と叫ぼうとした時だった。
「余所見すんなよ、妬けるだろ」
瞬間、顔に軽い痛みが走ったかと思えば腹部に相手の拳がめり込んでいた。遅れて内蔵を揺さぶられるような吐き気が込み上げて来る。
「が、ぐ……」
ブラフで気を反らし、左のジャブで動きを止めてからの抉るような右のボディブロー。そう文字にすれば増々その異様さが際立つ。なんで人外がボクシング齧ってるんだ。
嘔吐きながらも放った返しの裏拳は掠りもしない。
「大した事ねえな、生贄くんも。いや、俺が強過ぎるだけだったりしてな」
巫山戯た口調で、その実自らの身体を余す事なく使いこなしている。獣の馬鹿力を持った格闘家と殴り合わせられているようなものだ。正攻法でやっていれば身体が持たないと判断して距離を取り、深く呼吸する。多少の生傷は承知の上で速攻しかない。
「お、やる気になった?」
芥屋の呪いは血に宿るが、普段はそれに蝕まれる事がないように縛り付けている。怪異との戦闘時のみ、適宜呪言を用いて一時的にそれを解き放つ事で奴等と初めて渡り合えるようになる訳だ。勿論呪われた血を身体に巡らせる訳だからデメリットも相応にしてある。
故に並の怪異であれば、呪いを流す為に片手の封を解く程度で済ませるのが定石だ。だがこの相手はそうもいかないらしい。
「……
『怨』とは芥屋家に伝わる、最も普遍的な呪言の一つだ。自らの血に刻まれた怨みを活性化させる事で、呪いを表出させる。そのまま相手を殴ったり蹴りを入れる事で呪いを流し、怪異を宿主から外すのが芥屋のやり方だ。だがこの呪言には怪異を祓う上で無くてはならない副産物が存在する。それが怪異に対抗し得る膂力だ。
封を解いた芥屋の血は全身を駆け巡る。人ならざるものの呪いが掛けられたそれは、肉体への負担と引き換えに人外に近い身体能力を自分達に与えるのだ。あたかも取り憑いた宿主の能力を最大限に引き出す怪異のように。
全身の血液の凡そ六割。これが今、自分が封を解ける最大限。まるで身体中に溶岩が流れているのではないかと錯覚するほど、灼け付くような痛みが走る。脳が沸騰しそうだ。
「絶対身体に悪いだろ、それ。もっと命大事にしてい──」
爪が刺さり血が垂れるまで握り込んだ拳を、真正面から相手の顔に叩き込んだ。先程までとは一線を画す速度のストレートに反応できなかったのか、肉の感触が直に伝わるのを感じながらそのまま殴り抜ける。勢いで吹っ飛び時刻表に激突している姿を見て、やっと溜飲が下がるようだった。並の怪異であればこの一発で宿主から外れる筈だが、相手にその兆候は見られない。
「勘違いするな。自分の命は生まれた時から人を守り、
のっぺらぼうは高い祓いへの耐性を持っている、という噂は本当だったらしい。だがそんな事は関係無い。
立ち上がったのっぺらぼうが、がくりと膝を落とす。その顔はまるで火傷を負ったかのように爛れ、煙を上げていた。
祟り神に呪われた血は外しに使わなかったとしても、それだけで怪異に対して毒となる。宿主の身体から出て行きたくなるまで痛め付けるだけだ。
「あ〜……痛え……やっぱ血が濃いな。当代一の才能ってのは伊達じゃないか」
何のつもりか踵を返してのっぺらぼうが走り出す。意表を突かれ、一瞬反応が遅れた。その先には先程の母子がいる、まだ逃げていなかったのか。
間に合わない。
そう思った時、母が子を突き飛ばすようにして逃がしのっぺらぼうの前に立ち塞がった。
「母親の鑑だな!」
嘲るような口振りと共に奴が母親に触れた瞬間、彼女の顔が中心に向かって音を立てながら渦を巻くように歪んでいく。
「あっ、ぎっ、痛い痛い痛い痛い痛い痛い!!」
母親の断末魔にも似た絶叫が構内に響き渡り、思わず顔が引き攣る。
ぷちん、と何かが潰れるような音を立てたあと彼女は倒れ伏した。僅かに揺れる身体から呼吸をしている事は分かる。
「はい、美人さんの完成」
ふらりと立ち上がったその顔は隣にいる怪異と同様に、目鼻口が溶けたように消え失せていた。そのまま正気を失ったが如く此方に向かって突っ込んでくる。
「っ、お前……!」
顔の無い女に出会った商人が逃げ出した先々でも顔の無い人間達に脅かされ続ける、のっぺらぼうを取り扱った話。
高位の怪異の中には、自らを語る話に紐付いた力を得る者がいる。恐らくこののっぺらぼうは狢を何らかの形で『他者をのっぺらぼうに変える』話として解釈している。
「あ、こんな美人さんだけどちゃんと人だぜ? 酷い事しないよな、人だもんな」
のっぺらぼうの軽口を無視しながら冷静に思考を巡らせる。
掴みかかってくる母親を捌き、三割程度の力で回し蹴りを叩き込んだ。よろけはしたものの大したダメージは入っていなさそうだ。
しかし、その数秒後。
母親の顔面が先程とは逆方向に捻れ、元の顔に戻ったかと思うと意識を失って倒れ込む。どうやら一時的に憑かれているのと同じ状態のようだ。
「お前は外し辛いが、増やした方はそうでもないらしいな」
呪いを流せば戻せるのが分かっていれば十分だ。あの本体以外はそれなりの力で対処すれば人に戻せる。手数を増やされるのは厄介だが、リカバリーは効く。
そう思っていた時だった。のっぺらぼうが愉しげに呟く。
「そろそろかな」
それと同時に、駅のあちこちに転がっていた
きさらぎ駅じゃなかったのか、と思考の処理が追い付かず手が止まる。
「タイムリミットの話したじゃん、三十分って。今回のきさらぎ駅の宿主用意したの俺なんだけどさ、前から気になった事ない? 一つの肉体に二つの怪異を憑かせたらどうなるのか」
背筋に悪寒が走る。
「きさらぎ駅とマネキンの怪。きさらぎ駅が強過ぎてさ、すぐに潰されずに尚且つそこそこ長持ちする怪異を選ぶの大変だったんだぜ」
マネキンの怪。
これといって特定の話を指す訳ではなく、マネキンに関連した話の総称だ。元より人形をモチーフとした怪異は強力になる傾向がある。日常的に見かけるとはいえ、そのサイズや雰囲気はより人間に近しい。いずれもマネキンが勝手に動き出すといった話であり、通常の人形と比べてそのサイズ感からより物理的な恐怖を与えるのが特徴だ。
奴の言っている事が本当なら、何故あれほど早く怪異が表出したのかという理由としても納得が行く。
一人の人間に同時に二つの怪異が取り憑くケースは聞いた事がないが、目の前の相手ならやりかねない。
「でもこのやり方って怪異にも人間にも負担が大きくてさ。この規模だったら持つのは三十分くらいだろうな。十二時の鐘の音で綺麗さっぱり、はいおしまい。シンデレラみたいで綺麗じゃないか?」
三十分経った時どうなるのか、のっぺらぼうの口振りからして想像に難くない。恐らく最悪のケースとしては、駅にいる者を全て巻き添えにしてこの空間ごと消滅する。
今は事態を収めるのが先決だと、近くにいたマネキンに呪いを込めた掌底を打ち付ける。樹木を殴り付けるような鈍い痛みが走るが、構っていられない。
次の個体を外そうと振り向いた瞬間、腕を掴まれる。目を向ければ、そこには外した筈のマネキンが立っていた。
「あー、駄目駄目。人じゃないからさ、外そうとしても意味無いよ。本体叩かないと。それかさ、壊しちゃえば?」
のっぺらぼうの言葉を鵜呑みにするのは癪だったが、咄嗟に全力でマネキンの頭を殴り付ける。頭部が胴体から吹っ飛ぶと流石に動きを停止した。
そしてある事実に気付く。
マネキンも、のっぺらぼうに変えられた人間もどちらも顔が無い。
そしてマネキンもなまじ関節を隠すように服を着ているせいで一目では見分けが付かない。
「躊躇うなよ。その間にもどんどん増やしてっから」
その言葉通り、のっぺらぼうはターゲットをもはや自分に向けていなかった。ホームを飛び回り、乗客達を片っ端からのっぺらぼうに変えている。非常に不味い状況だった。
今、マネキンの怪とのっぺらぼうの二種類が混ざっている。
マネキンに対しては首を折るなど壊して無力化しなければ効果はなく、のっぺらぼうには呪いを流し込んで外す必要がある。そしてどちらが人間であるかを瞬時に見分ける方法は今の所ない。
仮に判別できたとして、それをこの局面で行っている余裕がある筈もない。
詰んでいる。
「本当は分かってんだろ、最適解。殺すんだよ。人だろうがマネキンだろうが首の骨折っちまえば動かなくなるんだからさ」
その言葉と共にいつの間にか背後に立っていたのっぺらぼうに殴り倒される。反撃せんと立ち上がろうとした時、それを圧し潰すように数多のマネキンとのっぺらぼうが自分の身体にのしかかった。
手足すら動かせず、呼吸もままならない。
「期待外れだな、暇潰しにもならない。ワンパターンなんだよ、お前。殴る蹴るだけじゃなくてもっと頭使えよ。挙げ句の果てに甘っちょろい対応しやがって」
前髪を掴まれ、頭を強引に引き起こされる。今の自分では勝てない。となれば出来る事は応援が来るまで時間を稼ぐ事くらいだ。
「……っ、お前は、何が目的なんだ」
「あ? 目的? んなもん決まってんだろ」
芝居のかかった表情でのっぺらぼうはくるくると回ってみせる。
「暇なんだよ。この暇を潰す為なら何だってやるよ、俺は。というかそもそも考えてみろ。芥屋が潰れて喜ぶ奴は山程いるだろ」
血を流し過ぎたのか頭が上手く回らない。肺が押し潰されて息をするので精一杯だった。
「本当になんで時間が差し迫ってからじゃないと選べないんだ? 考えろよ。お前が一番今すべき事は何なのか」
抜け出そうと藻掻いても、指一本も出せそうにない。
「教えてやるよ、生贄くん。お前がこいつらを殺せなかったせいで俺を祓う事もできず、彼女も守れず、結局残った全員も死ぬ」
「殺すなら自分だけにしろ……!」
「あー、もういいわ。喋んな。時間ギリギリになって騒ぎ出す奴が一番みっともない。黙って死んでくれ」
自分の喉に冷たい手が添えられる。
首を折られるのか、絞め殺されるのか。ただ客や心依様が無事に帰る事ができるのを祈りながら、目を閉じる。
それは一瞬だった。
自分の身体にのしかかっていたマネキンやのっぺらぼうが轟音と共に蹴散らされた。何が起こったか飲み込めない自分をよそに、尚も立ち上がろうとする怪異達を縫い付けるように、その手に五寸釘が次々と突き刺さっていく。
「──
その一言と共に、怪異達の動きが止まった。
血を塗り付けた五寸釘を刺す事で呪いを流し、呪言でそれを活性化させる。見覚えのある戦闘法に、安堵から少し涙が滲んだ。
ふわりと翻る藍色の着物の裾が視界に入る。
「顔を上げろ。常に背筋を正せ。立ち居振る舞い一つで彼我の格付けが決まると教えているだろうが」
「……すみません、錨さん」
外しの家系にあって、殺す事を厭わない芥屋家の主力。自分が怪異祓いとして優れているのはあくまで血が濃いというだけだ。
故にその立ち回りも応用力も、芥屋最強という言葉は彼にこそ相応しい。
芥屋錨、その人が立っていた。
「芥屋の名に泥を塗るな。あの三下は俺が相手をしておくからとっとと依代様を探しに行け、お前では相性が悪い」
その言葉通りだった。不甲斐ない結果を晒した事を恥じながら、乱れた服を整える。
「……まあ弱音を吐かなかった事は評価してやる、上出来だ。あと遅れて悪かった」
思わぬ労いの言葉に驚いて足が止まりかけたが、ぐっと堪えてホームから線路に飛び降りる。心依様が何処かに飛ばされているというならば、それは紛れもなくこのきさらぎ駅という怪異の中心である筈だ。
つまり駅そのものではなく線路を歩いた先にあるトンネル、更にその向こう。物語としての終着点であるに違いない。
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顔の無い怪異を前にしても、その男の表情は揺らがなかった。
「寂しかったぜ、錨くん。日本全国津々浦々を巡っても俺の相手がちゃんとできるのはお前くらいだもんな」
「その身体で俺の名前を呼ぶな。虫唾が走る」
「つれない事言うなよ、友達だろ」
その言葉で初めて錨の表情に翳りが差す。だが次の瞬間には再び毅然とした態度でのっぺらぼうを見据えた。
「俺はお前のような怪異など友人にした覚えはない。それなりに目を掛けてきた……弟分が世話になった礼をするだけだ」
「
「その顔で。その身体で。その声で喋るな。疾く死ね」
刃物を構えるように五寸釘を握る姿は取り付く島もなかった。研ぎ澄まされた殺意が彼の潜ってきた修羅場の数を物語っている。
「返してもらうぞ。それはお前の物じゃない」
「落ちてたから拾っただけだ。返したら一割くれんのか?」
その無貌に投げられた釘が突き刺さる。
怪異はそれを引き抜くと、表情の無い顔で笑った。それが開戦の合図だった。
八尺災害。
六年前に起こった怪異による最初にして最大の災害であり、多くの一般人や対処に当たった怪異祓いの命を奪った事で知られている。
当時から警戒されていたインターネット発の都市伝説『八尺様』が、怪異祓い達の想定を超える
八尺様達は東京、大阪、名古屋、福岡の主要都市に侵攻し、未成年者を主に数千人の死者を出した。それだけに留まらず、強大な怪異の瘴気に当てられ多くの怪異が芽吹く現象"百鬼夜行"が発生してしまった事も被害に拍車を掛けた。
御三家を筆頭に分散して処理に当たり、一夜で解決に導かなければ死者は数万人にも及んでいたと言われている。
東京の個体は
京都の個体は当時まだ二十五歳であった現当主、
大阪の個体は封じでは右に出る者はいないとされていた
福岡の個体には九州のみならず、中四国の怪異祓いも応援に駆け付けた。
総力戦の末に討伐する事はできたものの、攻め手に欠けた事から長引いてしまい結果として一般人、怪異祓いの双方とも最も被害の大きい地区となってしまった。
今もその影響は残っており、八尺災害の際に生まれた怪異は通常の物より強力かつ老獪だとして強く警戒されている。
そしてその中でも異彩を放っているのが、のっぺらぼうだった。
怪異としては些か古く、恐れられている訳でもない。その名前や特徴は寧ろどこかユーモラスな印象すら感じさせる。
だが彼が怪異の中で危険視されている理由は、他でもないその宿主にあると言われている。八尺災害の終端に生まれ落ちたそれは、多くの怪異祓いが掃討戦に移る中で一人虫の息と化していた男を見つけた。
その男は八尺様をその身に封じたは良いが、予想を超える反動に衰弱していた。
先に述べた御三家の嫡男、水無蛍蛉である。
本来であれば怪異祓いが取り憑かれる事はまず無い。もし仮に取り憑かれたとしても、周りの人間が迅速に祓うだろう。しかしその場には同じように八尺様をその身に封じた水無の者しかおらず、ほとんどが反動に耐え切れず事切れていた。
不運に不運が重なり、当代切っての才能と人格者だと謳われていた水無蛍蛉は怪異の手に落ちた。
嫡男と主力の家人を失い、あまつさえ新たな脅威を生み出してしまった水無は御三家の中でも無能と謗られ、名家としてもほぼ名前だけの存在となっている。
恵まれた肉体に裏付けられた高い祓いへの耐性、そして怪異の中でも異質なほどの知性と底知れない悪意。その二つがのっぺらぼうを単なる怪異ではなく、脅威に押し上げた。
日本各地に出没しては多くの怪異の種をばら撒き、混沌と化した惨状を眺める愉快犯。
それが、のっぺらぼうがたった一人の百鬼夜行と呼ばれる所以である。
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トンネルを走り抜けた先、二つの人影が見える。一人は少女で……もう一人は男。逸る気持ちを全て力に変えるように、ひたすらに足を踏み込んだ。
「心依様!」
その声に気付いたのか、彼女が振り向く。確かに自分の探し人だ。涙が滲んだ跡はあるが、外傷もなさそうだと安堵する。
側にいる男は正気のようだが、その身体からは怪異の気配が立ち上っていた。見た目もあのホームで奇声を上げていた男と一致する。間違いなく彼が"本体"だ。
「あのね一砂くん、太鼓の音が聞こえてきて、もうわーっ! ってなっちゃって、トンネルに入っちゃったんだけどこの人がいてね、本当に良かったの!! 聞いてる!?」
彼女も大変な事が山程あったのだろう。パニックで言葉こそ縺れていたが何となく意味は分かる。ただ、その前にやらなければならない事がある。
ノーモーションで男の腹に掌底を叩き込んだ。数m吹き飛んだが緊急時なので仕方ない。
「げほっ、ごほっ、何なんだ君ィ!?」
「ちょっとちょっと!? このおじさん普通だよ、乱暴駄目だって!」
「すみません、火急でして。貴方も失礼しました」
そう彼に目を向けた瞬間、頭が真っ白になった。立ち上る気配は一向に薄れない。怪異を吐き戻す兆候も見られない。全力で打った筈なのに。
外れていない。
見立てが甘かった。もうこの男は、怪異が取り憑いているというレベルではない。その肉体そのものと同化している。
「一砂くん……? 何してるの……?」
「何なんだよぉ……助けてくれよ……いきなり顔がないお化けが出てきた次は、知らない少年に殴られて『次は、やみ。次はやみです。お降りのお客様は』
三十分がタイムリミット、のっぺらぼうの言葉が頭を過る。もう時間がない。
自分がやらなければ、心依様が死ぬ。
自分がやるしかないのだ。
怯える男を地面に引き倒し、馬乗りになると固く拳を握り締める。早鐘を打つ心臓を抑えるように深く息を吸う。今から何が起きるか想像できたのか、頻りに身を捩って逃げようとする男を見下ろす。歳は三十を越えているだろう。左手の薬指には指輪が嵌っている。子供だっているかもしれない。
考えるな。
余計な事は考えるな。
自分しかやれないのだ。
そう高く拳を振り上げた。
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一砂が祓ったのだろうか。空間が綻び、急激に不安定になりつつある駅を見て芥屋錨はそう考える。
その足元には右腕を数本の釘で地面に打ち付けられ、這いつくばるのっぺらぼうの姿があった。
「やっぱ強いな、錨くんは。傷一つ付けらんねえ」
「きさらぎ駅も、お前ももう終わりだ。何を企んでいたかは知らんが徒労に終わる。残念だったな」
そう呟いて錨は釘をのっぺらぼうの額に狙いを定めた。
「……ははは」
「何がおかしい」
「俺さ、嘘は吐かないんだ。この世で唯一嘘を吐く生き物は人間だけだから。そんなのと一緒にされるのはごめんだね。でも言うべき事は言わず、言わないでいい事を言うのは大好きだ」
「はっきりと言え」
「あの生贄くんに『タイムリミットは30分だ』って伝えただけだよ。まあ、それは
「……?」
「今回はきさらぎ駅とマネキンの怪を混ぜた。二つの怪異を同時に憑かせたらどうなるか知ってるか?」
その口振りは、出来の良い悪戯を褒めてもらおうとする子供にも似ていた。
「お互いに主導権を握ろうと喰い合って、結局一定時間で消えるんだ。つまり君らがどうこうしなくても勝手に事態は収束する。宿主も無事、駅に閉じ込められてた人も帰る事ができてハッピーエンド。でもさ」
「タイムリミット、って聞いた生贄くんはどういう想像を膨らませるかな? もしかしたらこう思うんじゃないか? 『三十分までに終わらせられなければ自分達を含め、全員がドカン!』とかさ」
「きさらぎ駅は殴って外せるような並の怪異とは訳が違う。本来は宿主の身体と深く同化した後、すぐ喰い潰す。今はマネキンの怪のお陰で成り立ってるようなもんなんだ。だから外しは効かない」
幾重にも重ねられた、悪意の罠。
錨の脳裏に、生真面目ではあるが人を助ける事を是としその仕事に誇りを持つ一砂の顔が過る。
「外そうとしても上手くいかない、あの怪異が言っていたタイムリミットまで時間がない。追い詰められた彼は、守るべき女の子を前にして
「お前は、何がしたいんだ」
人を可能な限り多く害するという怪異の本能に反し、その目的すら読めない。だからこそ対処が遅れたと言ってもいい。
「芥屋が潰れて喜ぶ奴はそれなりにいる。生贄くんが罪悪感に苛まれて喜ぶ奴も、まあいるって事。お喋りは好きだけどまあ、これくらいにしとくか」
そう言うなりのっぺらぼうは、数多の釘が刺さっていた右腕を引き千切るようにして地面から剥がした。咄嗟の事に反応が一瞬遅れ、もう一度捕縛する前に大きく距離を取られる。
「右腕は返すわ。寒くなってきたからな、次会う時まで風邪引くなよ」
友人と同じ声を残して、怪異は闇に溶けるように消えていった。
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これは怪異なんだ。人じゃない。
もう左手の感覚は無かった。ただ握り締めた拳を、潰れた頭に何度も叩き付ける。その度に響く鈍い音と頬に飛び散る血が、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も。
「やめて一砂くん、その人死んじゃう、死んじゃうから!」
縋り付くようにして止めてくる彼女を背中に感じて拳が止まる。止められるなら、止めたかった。けれど今自分には彼女を、多くの一般人を守り通す義務がある。
そっと振り解くと、鼾をかいている男に向き直りまた拳を振り上げる。無意識の内に自分がごめんなさい、と呟いているのに気付く。一体誰に対してかも分からないまま。そしてまた何度も殴り付ける。
何度も。
何度も。
何度も。
気付いた時には、線路の上ではなく元のホームに戻っていた。恐らく怪異を祓ったからだろう。峠を越した事にほっと息を吐き、立ち上がって彼女に手を差し伸べる。周りの乗客もマネキンによって傷付けられてはいるが、少なくとも命に別状はなさそうだ。
「まだ近くに怪異がいるかもしれません。早く離れましょう」
「……」
何故か彼女は怯えたような瞳で自分を見るばかりで、答えてくれなかった。他の一般人も何故か自分の事を冷ややかな目で見ている。張り詰めた雰囲気の中で、一人の少女が自分を指差してこう言った。
「……人殺し」
そう言われて、自分の左手をじっと見る。ねっとりとした血がこびり付いて、まだ微かに震えるそれは紛れもなく何かを殺した手だった。
自分の足元には、顔を判別する事もできないほど砕け散った怪異の残骸がある。そう、これは怪異だ。人じゃない。
パトカーのサイレンが鳴り響いたかと思うと、武装した警官達がホームに次々と降りてくる。その中には見知った顔もあった。
何故だか分からないけど、その人には見られたくなかったのに。人の良さそうな皺だらけの顔が引き攣るのに耐えられなくて、何とか説明しようと足を踏み出す。
「一砂、お前」
「あの、違うんです、金本さん。これは、本当に違って、あれ」
何が違う?
自分が殺したのは怪異だ。
違うだろ。
お前が殺したのは。
ああ、そうか。
十八年間生きてきて、自分は今日初めて人を殺したのだ。
そう認めてしまうと、何だかどうしようもなくなってしまって。
怯える彼女に、憤怒と侮蔑の視線をぶつけてくる彼らに、何と弁解すれば良いのか分からなくて。
膝に力が入らなくなって崩れ落ちる。
何か大事な物を取り零してしまったような気がして、少しだけ泣いた。