【完結】それでも死にたくないな、と貴方は笑って言ったのだ。 作:しゅないだー
神と怪異は本質的には同じで、九日後には今の心依は食い潰される。そんな事がある筈ないと一笑に付せないのは、心の中でそれが真実だと認めてしまっているからだろうか。
「まあもう少しこの辺にいるのは構わないが、九日後には出ていってくれると助かる。そっちのお嬢さんに暴れられるとまず間違いなく俺は勝てないからな」
言葉が耳を素通りする。ぶつけられた情報が頭の中を掻き回して気分が悪い。もし蛇神の言っている事が本当なら、どの道彼女に待ち受けているのは死に他ならない。なら自分は、芥屋は。
「嘘を、吐くな」
そう喉から絞り出す。力が抜けたように隣で心依が腰を下ろしているのが横目に見えた。
「いや、嘘じゃないが……もしかしてこれも言わない方が良かったか? いや、マジでごめん。知らないよりは知ってる方が大抵の事は良いと思ってたんだが。じゃあ、ごゆっくり……」
申し訳なさそうな顔をして蛇神が教会から出て行く。星明かりだけがステンドグラスを通して自分達を微かに照らす。座り込んだままの心依に声を掛けようとして、息を呑む。暗い夜のように濁った瞳が自分を見つめていた。
「ねえ、まだ隠してる事あるんでしょ? もう、顔見れば分かるようになっちゃった」
言うべきか言わざるべきか逡巡するが、もう我慢の限界だった。彼女の為ではなく。もうそれを抱え続ける事に自分は耐えられなかったから。心依にとっては何より残酷な事実を、自分は己が楽になりたいというだけで吐き出した。
「……君は神になって最後に、自分を喰い殺す。それで初めて儀式は完成する。黙っていてすまなかった」
怒るでもなく、悲しむでもなく。諦めたような表情で彼女は頷いた。それを見ているだけで心の奥底を抉り出されるような、味わった事のない感情が滲み出てくる。
「うん、なんとなくそんな気はしてた。あのね、夢を見たんだよ」
その隣にいたのは君じゃない、顔も知らない誰かだったけれど。それでも私はその人の事が好きだったんだって。顔も名前も思い出せないのに、それだけは身体に刻み込まれたように覚えてる。なのにずっとお腹が空いてて。
ぽつりぽつりと彼女は呟く。
「私もそのうち、誰かになっちゃうのかな。次の"私"の夢になって、それで」
そのまま押し黙ってしまう。どうする事もできず、ただ心依の肩に手を置く。その時やっと気付いた。彼女が身体の震えを懸命に押し殺している事に。
「私、死にたくない。一砂くんを殺したくない。でも、どうしたらいいか分からないよ」
すまない、と謝罪にもならない薄っぺらい言葉をただ吐き続ける。
自分はどうすればいい? このまま戻れば、儀式は恐らく上手く行く。自分は彼女に喰われ、芥屋は救われる。けれどそれじゃ心依が何も救われないじゃないか。
逃げる? でも逃げた所で、彼女が神になるのを止める方法を自分は知らない。自分よりも格上の天狗を難なく退けた蛇神が、彼女には勝てないと明言している。なら自分一人で抑えられる訳がない。
彼女に掛けてやれる言葉は何一つとしてなかった。ただ彼女の指先がこれ以上冷え切らないように手を握っている事しか自分にはできなかった。ただ静寂だけが降り積もっていく教会の中で、宛もないまま眠りに就く。
微かに聞こえる寝息と時折自分を握り返してくる手。それだけが、自分達が確かにここに生きていた証だった。
「一砂くん、まだ起きてる?」
「ああ。眠れないか?」
「ううん、そうじゃなくて。私ね、嬉しかったんだ。あの銃を持った二人がいたでしょ? あの子達から私を助ける時に『自分が贄じゃなくてもきっと彼女を助ける。自分は彼女の事が好きだから』って言ってくれたの」
「……」
「私も好きだよ、一砂くんの事。おやすみ」
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朝、小鳥の囀りで目を覚ます。硬い床で寝こけていたにしては清々しい目覚めだと目を擦って、十数秒。
取るものも取り敢えず、ぶち破るように教会を出る。心依の姿がどこにもない。彼女の名前を叫びながら山中を駆ける。心依が何処かに行く理由はどこにもない、用でも足しに行ったのか水を取りに行ったのか知らないがそう遠くには行っていない筈だ。
「おはよう。朝っぱらから元気だな」
岩に寄り掛かって肩で息をしていると蛇神が声を掛けてきた。乱れた呼吸を整えて彼に問う。この山一帯の神というならば何か知っている筈だ。
「心依を、見ていないか」
ああ、見た。行き先も何となく見当がついてる。
蛇神の言葉に安心しながらその場所を問うと、彼はただ首を振った。
「いや、言わないが。あの子も知って欲しくなさそうだったし」
「な、いや、意味が分からない! 数が少ないとはいえこの辺にも怪異が出ない訳じゃないんだろう!? そうでなくても猪なんかと出くわせば十分危険だろうが!」
「だって、あの子死ぬ気だったぜ。ならその選択を尊重してやろうと思うだけだ。大方君を喰い殺すくらいなら、その前に自分で命を絶ってやろうとか考えてるんじゃないか」
全部知っていると言わんばかりに飄々とした顔で告げる彼に、拳を握り締める。悪いのは目の前の男じゃない。彼女に何も告げず、背負わせ続けた自分だ。
「……っ、そこまで分かってるなら何故止めないんだ」
「知らねえよ、神は一個人に肩入れしない。そういうもんだ。それに君にとっても都合良いんじゃないか? このままだと君は死ぬしかない。それがもっと長く生きられるんだ、万々歳だろ。それにあの子はともかく、あの子に憑いてる神は嫌いでね」
死にたくない、と思い始めたのは事実だ。けれど、それは。それでも生きていたいと思ったのは。
彼女が隣にいるからだ。彼女の事をもっと知りたいと思ったからだ。彼女に降り掛かる苦難を退けると決意したからだ。彼女の幸せを、ただ願ってしまったから。
「自分は死んでも構わない。だから彼女の居場所を教えてくれ」
つまらなさそうに蛇神は問う。そんな月並みな答えは聞き飽きたとでも言うようだった。
「教えた所でどうするんだ? 結局君が死のうがあの子の行く末は変わらない」
それは初めからずっと自分に付いて回っていた問題だった。ただそれを考えるのが嫌で、無意識に視界から遠ざけていた。
自分がいなくなったあと、彼女は一体どうなるのか。
「自分は……彼女に贄として喰われる事が、使命だった」
そう言って彼に今までの経緯を話す。自分達が芥屋という怪異祓いの一族である事。怪異、そしてもう一つの有力な一族である伊勢に狙われている事。
「でも、ずっと大事な事から目を逸らしていた。どの道自分が喰い殺された後に彼女がまた百年封じられる事は分かっていたのに。その後の事は考えないようにしていた」
蛇神は何の感情も湛えていない瞳で自分を見つめている。負ってきた咎を過不足なく見透かす裁定者のように。
「芥屋の為に命を使う事は惜しくない。それは今でも変わらない。でも『常に思考を巡らせろ』と教わった。だから必死に考えて結論を出した」
育ててくれた父に。顔も見た事のない母に。鍛えてくれた錨さんに詫びる。自分はこれからどうしようもない罪を犯す。
「彼女には何の咎もない。なら芥屋に正義は無い」
初めて蛇神が笑った。贔屓の野球選手が不調明けでやっとヒットを打った、そんな笑みだった。
「自分は彼女を何者からも守り通すと約束した。怪異からも伊勢からも、なら芥屋からもだ。自分は絶対にそれを違えない」
自分がそこまで言った時、再び彼は口を開いた。
「詳しくは知らないが、それは君……自分の家を裏切るって事になるんだろ? 怪異からも他の人間からも狙われてるのに、更に味方が敵に回る。勝算はあるのか?」
「ない。だからどこまでも逃げ続ける。とりあえず九日逃げ切って、後の事はそれから考える」
そう言い放つと、心底可笑しそうに蛇神は破顔した。
「俺は肩入れできないが……そうだな、じゃあこれをやるよ」
彼は首元に手をやると、何かを剥ぐような動作をした。そしてそのままそれを自分に差し出す。恐る恐る受け取ると、それは朝陽を透かして鈍く光る。
「これは……鱗?」
「君、懐に碌でもない物入れてるだろ。怪異の幼体とかそんな所か、まあ使わないに越したことはない。あれは吐き出そうがどうしようが、確実に少しずつ使い手の精神を蝕んでいく」
心当たりはあった、使用後の頭痛や幻聴だ。これも渡してくれた当主からは特に聞かされていない。
寂しい話ではあるが。彼はやっぱり、自分の事を人ではなく贄としてしか見ていなかったのだろう。
「特に
確かに自分はトンカラトンではない怪異の幼体をもう一つ所持している。トンカラトンは何体かストックがあるが、そちらは正真正銘の使い切りだ。
「そうは言っても、本当にどうしようもなくなったら君は使うんだろうな。だからそれをやる」
そう言って先程渡してきた鱗を指差す。どこか禍々しくも神々しい、それを目にしているだけで細胞の一つ一つがざわつくようだった。
「神を降ろす覚悟があるなら使ってみればいい、君の身体が保つかどうかは知らないが。使い方は同じだ、反動は怪異の比じゃないがね」
ごくりと喉が鳴る。数秒の後、礼を言ってそれを懐に仕舞った。そして改めて蛇神に向き直る。何にしても、どうしても彼に聞いておきたい事が一つあった。
「……貴方が言っている事は恐らく真実なんだと思う。だが、何故貴方がそれを自分に教えてくれるのか理由が分からない。だから、少し恐ろしい」
本音だった。彼が自分達に嘘を吐くメリットはない、だがわざわざお節介を言う道理も無い。人は理解できない物に恐怖を感じるという。それをまざまざと感じる日が来るとは思わなかったが。
神の気まぐれと言われれば、返す言葉もない。だが彼は額に手を当て、言葉を絞り出すように唸った。
「なんで、か? そうだな……まあ俺がそもそも『人にそうあってくれ』と願われて生まれたのもある。この身体の元の持ち主も良い奴だったんだろ。うーん難しいな、まあ一言で言い表すなら」
どこか遠くを見つめながら蛇神は呟いた。
「俺は人間が好きなんだよ。動物の中で何かに縋って、祈るのは人間だけだ。それがたまらなく愛おしい」
あの子はこの先の滝壺だよ、そう言ってある方角を指差した彼に頷く。まだ間に合う筈だと、そう信じてただ険しい山道を再び駆け出す。
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叩き付けるように水塊が絶えず溢れ落ちる滝壺を、心依は座って眺めていた。辺りに散る飛沫でしとどに濡れた彼女の姿は酷く儚く映って、ただ綺麗だった。
「心依」
自分が後ろから声を掛けると、彼女は驚いたように飛び上がる。取り留めのない事でも考えていたのだろう。
「え、あ……ちょっとマイナスイオンでも浴びようかと思って、えへへ」
もう戻るね、と言って自分の横を通り過ぎようとした彼女の手を掴む。湿った手はひんやりとしていたが、それでも芯には確かに熱があった。
「水死はやめた方がいい。最も苦しい死に方の一つだと昔の作家が言っていた」
「へ、変な事言わないでよ。死にたくないって言ったじゃん、私」
もう何かを騙るのも、騙られるのもうんざりだった。誰かを傷付けるのも、誰かに傷付けられるのにも飽き飽きとしていた。十八年間生きてきて大した物を拾う事もできず、なのに大事な物ばかり取りこぼしてきた。
もう下を向くのはいいだろう。
「自分がしたお願いを覚えているか」
「……離れないでいてくれ、ってやつだよね」
沈黙が辺りを包む。それでも今度は心依から目を逸らさない。彼女は誤魔化すように笑みを貼り付けていたが、次第に顔を歪めながら下を向いた。
「っ、でも! どうしようもないじゃん! 私がいたら一砂くんが死んじゃうんだよ!? 痛いのも苦しいのも嫌だけど、私のせいで人がそうなるのはもっと嫌なの! 助けてもらってばかりで、私何もできてないのに」
堰を切ったように心依が言葉を吐き出す。恐怖に身を震わせる事はあっても、それでも彼女は毅然としていた。弱音を吐く事はなかった。それは偏に彼女が人を超越した神だからだと思っていたが、誤りだった。
心依は決して特別な何かではなく。歳相応の少女に過ぎないのだから。
「錨さんも死んじゃって、護衛や運転手さんも死んじゃって、私の周りにいるとどんどん皆死んじゃうじゃん。それでも我慢して生きて、結局最後は私も繋ぎなんでしょ? なら、もういいよ。もうこれ以上誰かが嫌な思いをする前に私一人が死ねばいいじゃん」
半ば自棄になったように、滝壺の方を向く彼女に掛ける言葉はもう決まっていた。自分達は、ここから始まる。
「一緒に逃げよう」
そう言って心依を抱き寄せた。冷たく暗い滝壺から引き離すように。
状況を整理できていないのか、彼女はわたわたと「あ、え、その」と洩らしながら顔を赤くしている。
「行ける所まで行こう。行き止まったらそれはその時考える。自分は約束を絶対に守る」
自分の言葉を聞くと、また冷静さを取り戻したのか冷たい声色で彼女は問を投げ掛けた。自分自身に近付く人間を突き放すように、棘のある口調が飛ぶ。
「意味、分かんない。一砂くん、死んじゃうんだよ? 違明さんだってお父さんだって錨さんだって裏切る事になっちゃうんだよ?」
「好きな女の子一人助けられないなら、今までの自分が全部嘘っぱちになってしまう」
それを聞いて彼女はバカ、とぽつりと呟いた。何度もバカ、と繰り返しながら自分の胸を叩く。次第にそれは安心し切ったような嗚咽に変わりながら、ただ時間だけが過ぎていった。
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傷が癒えていない事もあって、それから三日を山中で過ごした。幸い水場はあったし、教会の中で雨風を凌げる。食べ物も蛇神が魚や山菜などを提供してくれた。
心依は夜になるとよく歌を口ずさんだ。それは聴いた事のない節回しだったがどこか懐かしく心が安らいだ。自分が褒めると彼女は少し照れたように笑って、また歌い始める。それを聴きながら眠りに就く。
本当に取るに足らない短い日々ではあったが。初めて彼女と過ごした、穏やかな時間だった。
出立の日、蛇神は街へ出るのに最も近い道まで案内してくれた。本当にこの山には怪異が少なかったと改めて思う。
彼は自分自身をこの山を守護するものとして生み出されたと言っていたが、そもそも怪異と発生の原理が同じなら宿主がいる事になる。選ばれたのだろうか、押し付けられたのだろうか、それとも偶然なのだろうか。いずれにしても、きっとそれにまつわる物語を自分が知る事はこの先もない。
ふと疑問が生まれる。心依は、彼女に憑く神はどうやって生まれたのだろうか。何を願って生み出されたのだろうか。
そんな事をぼんやりと考えていると、心依にくいくいと袖を引っ張られる。気付けば「本当にこいつ大丈夫か」と言いたげな視線を蛇神にぶつけられていた。
「あ……本当に世話になりました」
「えっと、お世話になりました!」
「いいよ、俺も暇潰しにはなったし。頑張れよ」
それだけさっさと告げると、また彼は山の中に戻っていく。最後まで神らしからぬ気安い男だった。心依と二人で顔を見合わせ、くすりと笑う。ひとまずは道路まで出ようと足を踏み出した時。
地を割って巨大な蛇が頭を覗かせる。隣で音も無く心依が泡を吹いて気絶している。そういえば彼女は天狗戦を見ていなかった。
「最後くらい神様っぽい所を見せてやろうと思ってな。餞別だ」
ちろちろと燃えるような舌を動かしながらよく通る声で蛇は話し続ける。
「ヒントをやるよ、君。呪いも祝福もその本質は同じだ。向ける方向が違うだけで、どちらもそれは何かを願っている」
呪いも祝福もその本質は同じ。真反対のようで、それはどこか腑に落ちた。
「呪いを解けるのは、それもまた別の呪いだけだ。期待してるよ、君らには」
言いたい事は言ったといわんばかりにまた勢い良く蛇は地中に潜っていく。ぽっかりと空いた奈落から、一つ言い忘れた事があったと声が響く。
「俺は人間が好きだが。とりわけ頑張ってる人間は大好きだ」
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ひたすら道路に沿って歩き続ける。行きもそうだったが、この辺りは車通りが少ない。というより全く通っていない。本質的にこの山周辺が人の領域ではないという事を本能で感じ取っているのだろうか。
途中で休憩を挟みながらようやく街に出た時には、既に日が暮れかけていた。それと同時にやっと電波が入り、携帯には無数の当主達からの着信が入っていた事に気付いてげんなりとする。寅地からの『寂しい~』というLINEにだけはスタンプで返しておく。
自分には友人が少ない。というよりも、寅地くらいしかいない。当主が「友達なんか作っても後で辛くなっちゃうだけだよ」と言って、作らないように言われていたから。
だから常に仏頂面、ぶっきらぼうな口調で人から遠ざけられるようにしていた。それでも付き合ってくれた友人は、約束の度にバイトという名の祓いが入ってドタキャンする自分に閉口して去っていった。
なのに寅地だけは、ずっとこんなつまらない自分の側にいてくれた。父も彼だけは黙認してくれていた。
「ちょっと一砂くん、休も……」
「ああ、すまない。どうも自分は人に合わせるのが苦手だな……」
近くにあった公園に入る。もう既に日没を告げるチャイムが鳴ったからか、子供の姿はなかった。ブランコに腰掛けてゆらゆらと揺れている心依に自販機で買った缶ジュースを渡す。
喉が渇いていたのか、夢中になって缶に口を付ける彼女を眺めながら自分はある重要な問題について考えを巡らせていた。
即ち、今晩をどこで過ごすかだ。
芥屋からも逃げる以上、家に戻る訳にはいかない。金は多少ある、だがホテルは……ホテルはなんか色々と不味い気がした。心依の護衛であるからには、一晩であろうと彼女から目を離すのは良くない。
ただ同室、同室は年頃の男女としてはそれも非常に良くないのではないか。悶々と考えを巡らせていると、肩に手を置かれる。
何の気なしに振り返ったそこには。
何も映し出さない無貌。吸い込まれてしまいそうな虚無。
のっぺらぼうの姿があった。何故か片腕は無くなっているが。
心依に離れているように目で合図する。彼女は緊張したように唾を飲み込みながらも、そっとブランコから降りて物陰に隠れた。だがのっぺらぼうは彼女に興味を微塵も示さなかった。
「なあ、どこ行ってたんだ? いや、お前はどうでもいいわ。錨くんはどこだよ?」
どう答えるべきなのか、正答が分からなかった。とりあえず嘘を吐くメリットは今の所ない。
「……錨さんは死んだ」
「お前が見つからなかったからさ、他の芥屋探して聞いたんだよ。何かいきり立ってたけどちょっと優しく聞いたらすぐ教えてくれたんだよな。でもそいつも『錨は死にました』って、何人聞いても皆そうとしか答えないんだ」
早口で捲し立てる姿には平時の余裕は無い。刺激しないようゆっくりと距離を取りながらも、相手からは目を離さない。
「嘘を吐くなよ、死ぬ訳ないだろ。あいつは俺が殺すんだったのに、ああもう黙れ、煩い」
ぶつぶつと呟きながら頭を掻き毟る様子は、きさらぎ駅での飄々とした彼とは全く様相が異なっていた。気付けばもうとっぷりと日が暮れており、頭上には数多の星が光る。人通りは不自然に掻き消えていた。
「錨くんはあんなに強いんだから、でも僕を助けてくれなかっただろ? 違う、うるっせえなあ!!」
────ずっと違和感があった。
のっぺらぼうの宿主は水無の跡継ぎ、そして錨さんの友人だったと聞いている。だから奴が錨さんについて知っているという事自体はおかしくない。だが怪異は定着すれば宿主の人格を食い潰す。なら何故、のっぺらぼうはこれほどまでに錨さんに執着しているのか。
のっぺらぼうは決して強力な怪異ではない。そして水無は己の身体に怪異を封じる事で祓ってきた、謂わば耐性持ちだ。自分が思うに、本当は。
彼は喰われ損ねたのではないか。心を喰い荒されながらも、死ぬに死ねなかったのではないか。怪異を憑かせた時に苛まれる幻聴や頭痛。それがより極まってそこから逃げられなかったとしたら。
彼に残された選択肢は、狂う他になかったのだとしたら。
「お前、本当はのっぺらぼうじゃなくて。水無蛍蛉じゃないか?」
目の前の怪異の動きが止まる。かと思えば、かたかたと不安定に揺れ出した。
「黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ」
藪をつついて蛇が出たらしい。明らかに様子がおかしくなったのっぺらぼうを蹴り飛ばして距離を取る。
「錨くんなら僕を殺してくれる殺せ犯せ奪え汚せなんで助けてくれなかった僕から出ていけよ誰だよ俺は顔がない顔がない返してくれよ全部返せ錨くんは死なない僕は誰も殺してない」
変質していく。もう目の前の相手はただののっぺらぼうではない。前に戦った経験から搦手無しの1vs1なら決して勝てない相手ではない事は分かっている。
ただこの様子のおかしさ、そして騒ぎになった時に芥屋や伊勢に発見されるリスクを考えると戦り合うのは愚策だろう。
そう一歩後退りした時。
何かが自分の頬を掠めた。数秒経って、切れた皮膚から血がつうと垂れる。目の前の怪異が放った拳だと気付いた時には、もう逃げられる段階ではない事を理解してしまった。
そっと懐の小瓶に手を伸ばす。
「心依! 耳を塞いでろ……!」
トンカラトンの使用もやむ無しと考えた瞬間。
突然のっぺらぼうの身体が突然裂けた。
「助けてくれよいつになったら終わる錨くんが死ぬ訳ない……は?」
呪詛のように譫言を呟いていたのっぺらぼうも痛みで気を取り戻したのか、困惑している。それと同時に彼の身体から噴水の如く血が吹き出した。人であれば頸動脈に当たる部分を、鋭い刃物で断ち切られたのだろう。のっぺらぼうが地に倒れ臥す。
いつの間にか、近くにもう一人誰か立っていた。
「外せない怪異は刈るしかないのにさ。やっぱお前、優しいよ」
その青年はギターケースを背負い、手には一振りの刀が握られていた。まだべったりと血糊のついたそれは月明かりを反射して鈍く輝いていた。それが自分と同じ高校の学ランと妙に乖離していて、まるで今漫画かアニメの中に入り込んでしまったのだと錯覚してしまうようだった。
寅地清。
自分のたった一人の友人。
数日前の彼とは全く異なる雰囲気を纏いながらもその顔は、その髪型は、確かに自分の知っている寅地だった。
「なあ一砂。頼むから心依ちゃん置いてどっか行ってくれないかな。それでお前が芥屋に追われるようになるんなら、俺達が絶対に守ってやるからさ」
「……何、言ってるんだ。お前何か変だぞ、寅地」
「俺の名前は寅地清じゃない。でも名乗ったらもう戻れなくなる。分かってくれないかな、これで」
駅でマネキンを壊した芥屋でない誰かの存在。あの時、寅地も確かに駅にいた。
電話が掛かってきた後にタイミング良く襲撃してきた出雲。あの電話で位置が分かっていたとしたら。
ずっと見ていたのだ、きっと。
「お前、全部嘘だったのか」
それに答える事もなく、寅地は下を向いた。
「トラジってそれさ、本当は名前じゃなくて渾名なんだ。今何時、はいトラジってね。可愛くて結構気に入ってんだ」
ギターケースを肩から外し、地面に置く。見かけからは想像できないような鈍い音が地を揺らす。中に何が入っているのか想像もつかない。
「どうしても駄目か? お前とはダチでいたかったんだけど」
その声色は嘘を言っているようには思えなかった。
「神様っつったって怪異と変わらない。百年にも渡って数百人はいる芥屋に力を与え続ける化物なんて核みたいなもんだ。それが人の形をして歩いてる。何かあったとして、お前に止められる保証はないだろ」
「そりゃ呪いが強けりゃお前らの力も強くなるかもしれない。でもな、それってハイリスクのギャンブルなんだよ」
黙っていると、寅地は水を得た魚のように更に喋り続けた。まるで自分の説得は必ず届くと信じているかのように。
「お前は聞かされてないかもしれないが、百年前に芥屋の人間の四割が死んでるの知ってるか? 祟り神を封じるのに費やしたコストだ。それが今年は違明、あのイカレ野郎が当主なんだろ」
「怪異を使っての人体実験、芥屋に少しでも害があると見做せばすぐに排斥、でも口は立つし能力だってある。そんな奴があの手この手で百年前よりずっと祟り神を強くしてる、もし芥屋で抑え切れなかったら一般人にも被害が出るんだぞ」
一般人に被害が出る、と言われても不思議と自分の心は凪いでいた。
「好きとかじゃないんだよ、頭冷やせ。大体おかしいだろ、家がどうとかさ。そんなもんの為にお前が死ぬ必要なんてねえだろ」
苛立つように、何かに縋るように。彼の語調はどんどん荒くなっていく。それはどこか、祈りにも似ていた。
「一砂が責任を負う必要なんてない。彼女が人でなくなる前に俺達が楽に終わらせてやる。これは仕事だけど、友達としてもお前の為に言ってる」
一息に喋ったからか、微かに寅地の呼吸が乱れる。期待するような眼差しで見つめる彼に、自分は既に決まっている答えをぶつけた。
「……確かに自分が死ぬ必要はないかもしれない。だが、心依が死ぬ必要もない」
言葉を交わす度に、これが夢ではないと痛感する。お互いにそれが分かっているからこそ、これ以上もう言葉で解決する事はない。
寅地は諦めたように顔を曇らせた。
「まあ今更こんな事言っても信じてもらえないと思うけどさ。俺、何だかんだ楽しかったんだよ。小学生の頃からお前と馬鹿やってるの」
「奇遇だな、自分もだ」
そう言うと彼は何かを言おうと口を動かそうとした後、顔を歪めて押し黙る。そのまましばらく下を向くと、全てを吹っ切ったように寅地は顔を上げた。そこには最早何の感情も読み取れなかった。
「じゃあ、そろそろやるか。俺もお前も、死ななきゃ止まらないだろ」
そう言って寅地は手に下げていた刀を再び構えた。その動作はあまりにも流麗で、見惚れてしまいそうになる。彼もずっと修練を積んできたのだろう。自分と同等、もしくはそれ以上に。
「名乗れよ」
目を逸らさず、そう言い放つ。
「……初めまして、芥屋一砂。怪異祓いは伊勢が次男坊。
伊勢虎時。
もう何年もの付き合いになるのに、自分は目の前の友人の名前すら知らなかった。それが何だか可笑しくて、哀しくて。
多分お前も、自分と同じなんだろう。やらなければならない事に縛られて、やりたい事が見えなくなる。そうでなければそんな顔をする筈がない。
「そしてさようなら。お前らの逃避行はここで終わりだ」
「いいや、自分達は更に先へ進む。そこを退いてもらう」
無表情を貫く寅地に不敵に口角を上げてみせる。最期くらいは笑って別れたいから。