【完結】それでも死にたくないな、と貴方は笑って言ったのだ。 作:しゅないだー
伊勢からの連絡を受けた後、芥屋一鼠はほっとしたように息を吐いた。息子と巫女が突如消息を絶ち、護衛と運転手の死体が見つかってから数日経っての事であった。
携帯の電源を落とし、暫く考え事に耽る。本当にこれで良かったのだろうか。これから先、芥屋はどうなるのだろうか。しかしその淀んだ瞳は暗い達成感に潤んでいた。
少しの間身を隠し、その時が来たら一砂を迎えに行く。そう考えをまとめた彼が夜の闇に溶け込もうとした時。
「いや……本当に気付かなかった。ずっとそうやって爪を研いでたんだね。感服するよ」
襲撃を避けるため別の場所に潜伏していた筈の当主、芥屋違明の姿がそこにあった。確かに別れた筈だと一鼠は心中で歯軋りしながらも、袖に忍ばせた小刀をそっと手に添える。
「……何がでしょうか? そんな事より違明様、どうしてこんな所に!? 危険ではないですか」
早鐘を打つように鳴る心臓を胆力で抑え込み、白を切る。だが違明はただ首を振った。その表情は残念そうでもあったが、ほんの少し興味深そうな風にも取れる。
「よく考えてみれば君しか情報を漏らせる人はいなかった。一砂君の動向を誰よりもよく知っていて、人間関係まで管理できる。君が僕に内緒で彼に許した友人が、まさか伊勢の次男坊とはね」
もはや一鼠の言葉に答える事もなく。彼の咎を一つ一つ暴くように、ゆっくりと言葉を紡いでいく。
「理由が知りたいな。金かな? それとも何か嫌な事でもあったのかな?」
本当に心の底から分からない、そんな違明の口振りに彼は
「私と、一砂から。妻を奪っただろうが……!」
十八年にも及ぶ芝居に幕が下ろされる。しかし違明は眉をほんの少し上げただけだった。
「ああ。一砂君が産まれる時に、母体に
飴女。
子育て幽霊とも呼ばれる古い怪異であり、夜な夜な飴を買っては自分が遺した子供にそれを与え育て続けた逸話がある。
産女。
姑獲鳥とも書き、死んだ妊婦が化けたものとされる。先の飴女ともルーツが似通っている怪異であり、両者の共通点は
「一族の中で落ちこぼれだった君だからこそ、平凡な恋愛結婚ができたんだと思うけどさ。それじゃ駄目なんだよ。普通じゃ駄目なんだ」
芝居がかった調子で手振りを交えながら話し続ける様に罪悪感は一切感じ取れなかった。
「愛されるほど呪われて産まれるなら、もっと
小刀を振り翳して飛び掛かった一鼠を体捌きのみでいなし、地面に叩き付ける。地面に落ちた得物を蹴飛ばすと、嘲るように彼は続けた。
「だけど君は誤った。本当に奥さんが望んだ事を考えるならもっと早く一砂君を連れて逃げ出すべきだったし、彼に本当の事を話しておくべきだった。芥屋に復讐したい、そんな情が君の唇を噛んで耐えるような十八年を無駄にしたんだ」
殺意が形となったならば、一鼠のそれは違明の身体を幾重にも刺し貫いただろう。だが、そんな事は起きない。
「息子にすら悟られないようにステレオタイプな父を演じて。全てを台無しにできるよう頑張って立ち回ったね。でも一砂君の事を考えるならさっきも言ったように彼を連れて逃げるべきだったし、芥屋に復讐したいなら一砂君を殺すべきだった。そっちの方が楽だろう?」
ただ淡々と事実を述べられ、一鼠は顔面を蒼白にしながら押し黙る。
「何にしても中途半端だったんだよ、君は。あれもこれも、と手を出して。結局君が成せた事は何一つとしてないまま今日が終わる」
違明は小瓶に入れていたある怪異の幼体を取り出すと、何の躊躇もなく飲み込んだ。
音を立てて形を変えてゆく相手に、一鼠は諦めたように項垂れた。
「君と違って、僕のやる事は最初から一貫してる。飛び切り
芥屋一鼠。
庶子の出であり
だからこそ、それはあっさりと摘み取られてしまう物であったが。
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山を七巻き半には到底満たないが、それなりの広さである公園を覆い尽くすようにそれは鎮座していた。蠢く多肢は一つ一つが人の腕のような形をしており、視界に入れるだけで不快感を覚える。
グロテスクな下半身とは対照的に、もはや人ならざる者としか形容できない程の妖艶な雰囲気を漂わせながら心依──否、百足巫女は伊勢虎時を見下ろしていた。
だが、そんな彼でさえ出せたのは「これは無理だ」という身も蓋もない結論であった。
元々が神と称される怪異である大百足に、現代怪異の中でもトップクラスの実力と危険度を誇る
「もう、人がどうこうできるものじゃねえだろ」
そう口に出してしまった瞬間、心が折れそうになる。それでも彼が震える手で刀を握り直したのは。百足巫女の足下に倒れている一砂に目を向けると、大百足と姦姦蛇螺についての知識を総動員する。
大百足の伝承通りならこれが効く筈だ。
虎時は緊張で乾いた口から何とか唾を吐いて刀に塗り付けた。俵藤太は矢に唾を付けて射た事で百足を倒すに至った逸話がある。
力押しが困難であるなら、まずはその怪異の逸話に則って打開策を探す。そんな祓いのセオリーに従って彼は深く息を吸うと、飛んだ。そのままの勢いで百足を思わせる下半身に刀を突き立てる。硬い外皮を刺し破り、柔らかい肉を抉る感触があった。いける。
どれほど強大であろうとも、どれほど底が見えなくとも、刃が通るなら殺せる。
しかし、彼が培ってきたそんな哲学はいとも簡単に打ち砕かれた。
貫いた筈の刀身が、何故か弾き出されている。傷痕に目を向ければ、そんな物はどこにもなかった。
「──は?」
今度は目を離さぬように刃をもう一度叩き付ける。違和感の正体はすぐに判明した。確かに傷は付く、だがそれ以上の速度でその箇所を再生していた。
規格外。月並みではあるが、そんな表現しか浮かばない。
「核でもぶち込めってか」
軽口を叩き続ける事でしか己の平静を保てない事を自覚しながらも、まだ彼の心は折れていなかった。
百足の肢からぽとり、と雫が垂れる。それは地面に垂れ落ちると、ぶすぶすと煙を上げた。人の腕を思わせる肢がまるで虎時を指差すようにゆっくりと動き出す。その瞬間、彼は背筋に氷柱を差し込まれたような悪寒に身震いした。
数多の死線を潜り抜けた事によって培われた勘が、竦む身体を強制的に動かす。咄嗟に近くに嵌っていたマンホールの蓋を引き上げると盾のように構えた、次の瞬間。
猛烈な衝撃に盾代わりの蓋ごと虎時の身体は吹き飛ばされ、宙を舞う。
「っ、あ、化け物が……!」
呻きながら身体を起こす彼の瞳に映ったのは、百足巫女が再び何かを自分に向けて撃ち出す姿だった。それを転がるようにして何とか避けると、再び刀を握り直す。
飛沫が掛かった箇所が火傷したように焦げている事から、何らかの毒液を高圧に圧縮して飛ばしていると推察できる。受けたマンホールに目をやれば、既にぐずぐずに溶けて奇怪なオブジェのようになっていた。
「……斬っても意味無し、受ければ死ぬ、無茶苦茶だろ」
自分は失敗した。
彼は薄々それを感じ取っていた。躊躇せずに心依ちゃんを殺していれば。出雲に任せず、時間が経つ前に自分でケジメをつけていれば。
これは己の甘さが招いた失態であり、ならば自分の手で決着を付ける。幸いにも百足巫女の攻撃は脅威だが、避けられない事はなかった。そして万が一の為、一定時間が経てば応援が駆け付けるようになっている。とりあえず手数を増やしてからだ、虎時がそう気合を入れ直した時。
百足巫女は歌うように口を開いた。
それはもはや人の言葉ではなかったが。何故か彼にはその漢字も、読みも脳髄に直接流し込まれるように理解できた。
その瞬間、突如視界が真っ赤に染まる。全身を走る激痛に立っていられなくなり、地面に転がって嘔吐いた。何も見えないが口の中に広がる鉄錆びた味からそれが血液だと分かる。目から、鼻から、口から、全身の穴という穴から搾り取るように出血が止まらない。
再び彼が霞む視界を取り戻した時には、まるで鎌首を
ああ、死ぬのだ。
もはや立ち上がる気力もなく、虎時は目を閉じる。潰されるなら頭がいい。痛みを感じる間もなく一瞬で逝ける。全てを薙ぐ、風を切る音がした。
何故だろうか。まだ生きている。ゆっくりと彼が目を開けるとそこには。
自分を庇うように立ち塞がり、胴体を刺し貫かれている一砂の姿があった。毒液で肉が焼け焦げる悍ましい臭いが辺りに漂う。
「あ、え、お前、何やってんだよ……!」
死に体の身体を奮い起こすと、肢を引き抜かれてゆっくりと倒れる友人に縋り付いた。
「病院、救急車、早く、誰か、誰かいないのかよ!!」
パニックで呂律もろくに回らないまま叫ぶ。百足巫女は自分が傷付けた相手を視認すると違う違うという風に首を振り始めた。終いには涙を流しながら自らの身体を地面に叩き付け始める。
「大、丈夫。自分は、大丈夫だ」
一砂はそう声を掛けると、立ち上がって百足巫女の元に歩いていく。地に伏せて泣き続ける彼女をそっと抱きしめて大丈夫だと囁き続ける。母親にあやされて眠る赤子のように、巫女の動きが止まった。数分の後、その巨体はまるで霧に溶けるかの如く。
辺りを覆っていた百足は掻き消え、一糸纏わぬ姿になって寝息を立てる心依と一砂だけがそこに残されていた。
「……どうして」
自分は間に合わなかったのだと、虎時の瞳から涙が溢れる。自分の問い掛けを「何故庇ったのか」だと思ったのか、彼は膝の上で眠る心依の髪を撫でながら答えた。
「心依に人殺しをさせたくない。出自はどうであれ、今の彼女はそうであるべきだ。それに」
振り返ったその顔は、先程の鬼気迫った表情ではなく。学校で、帰り道で、いつも遊んだ場所でよく見せていた照れ笑いだった。それがどうにも虎時にはやるせなくて。
「お前は友達だ。それで十分だろ」
「馬鹿が……! お前、分かってるだろ!!」
胴体を穿たれた筈の傷が、既に完治している。それはもはや人では有り得ない。虎時の怒気を孕んでいた声が、次第にか細く震えていく。
「俺、本当にお前を助けたかったんだよ。余計なお世話って思うかもしれないけど、でもお前と一緒に大学行きたかった。本当なんだ」
虎時の瞳に映っていたのは、時折七つにブレる一砂の姿だった。人ならざる治癒速度とそれが指し示すのは一つしかなかった。
怪異の乱用による定着。遅かれ早かれ、彼の精神はトンカラトンと七人ミサキに食い潰される。それは彼自身が選んだ末路ではあったが。
「ごめん、ごめん」
突っ伏して、許しを乞う友人の肩に一砂は手を置く。もういいのだ、そう言わんばかりに。
芥屋一砂は人ではなくなってしまった。
たったそれだけの事実だが。伊勢虎時の心を折るのには十分だった。
少しだけ暖かくなった夜風が、彼らにとって最後の春の訪れを告げていた。
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どれくらい時間が経っただろうか。
酷く頭が痛む。人でいたいのなら使うな、そう言っていた蛇神の言葉の意味が今ではありありと分かる。
殺すしかないよ。
なんで助けなきゃいけないの?
全部放り出して遠くへ行こう。
彼女のせいでこうなったんだ。
寅地は元々友達なんかじゃなかった。
誰も自分を好きじゃない。
会いたいなあ。
頭の中に、
今こうして思考を回している自分が、本当に芥屋一砂なのか。そんな事すら確信が持てなくなる。裸体の心依に自分が着ていた上着を羽織らせ、起こさないように背負った。
「……どこ行くんだよ」
座り込んだままの寅地が此方に目をやる事もなく、そう言った。もうその声色に険は無かった。
「行ける所まで」
ただ一言、そう返す。普段通りのトーンで話せただろうか。
「あっそ」
彼は俯いたまま呟くと、裾を払って立ち上がる。抜き身の刀を一振り掴んだが、それはすぐに鞘に収められた。
「伊勢はもう降りる。兄貴にも無理だ、あれは。両腕あったらまだ分かんなかったけど」
「そうか。元気でな」
交わす口数は少ない。それでもどこか自分の心は晴れやかだった。本当はずっと後ろめたく思っていたのかもしれない。全てを語る事のないまま、黙って姿を消す事を。
「……諦めるなよ。絶対足掻けよ、最後まで」
ああ、と答えてやりたかった。でもそうすれば、こいつは期待してしまうから。
だから何も答えずに此処を去る。自分はただ、お別れを言いたかったのだ。
そう一歩踏み出した時、何処からともなく声を掛けられる。
「男子三日会わざれば何とやらって言うけれど。よく仕上がったね」
当主、芥屋違明の姿がそこにはあった。
何故か血に濡れた着物で満面の笑みを浮かべながら近付いてくる彼に、一歩踏み下がる。彼が自分達の元を訪れる理由は一つしかない。迎えに来たのだ、自分を贄にして心依を封じる為に。
「もう、やめましょう。こんなの間違ってる、彼女が犠牲になる必要なんてない」
初めて当主にそう反抗した。庶子が本家に歯向かうというタブーを犯したにも関わらず、不思議と自分の心は落ち着いていた。
だが彼は怒り出す事も無く、寧ろ感慨に目を潤ませている。
「本当に立派になったよ。でも、君は全国に数多くいる芥屋に連なる者達を見捨てるのかい? 僕らにとってこの力は生命線だ。一人の尊厳なんかの為に、それを無碍にするなんて。まあ、それに」
疲れ果てたように眠る心依を彼は指差す。
「実際に見て分かったでしょ? 今回はあくまで負の感情に晒されて暴発した、謂わば前座。六日後には彼女の意思に関わらずああなる。そして規模は今回の比じゃない。詰んでるんだよ、もう」
そこまで言った後、違明は寅地に視線を向けた。寅地は既に刀を構えて臨戦態勢に入っている。
「ん……君が伊勢の次男坊か。ここで殺しておいた方が後々の為になるかな?」
「調子乗んなよ、おっさん。何の自信か知らねえけど、多勢に無勢っての理解してから喋れよ」
その言葉の直後、辺りを取り囲むように黒スーツの集団が集まってきた。恐らく伊勢の手の者が他にも潜んでいたのだろうが、思わずゾッとする。
しかし彼は大して困った様子も無く、肩を竦めてみせた。
「困ったな。これだけ多いと骨が折れる、おーい」
間延びした声で何かを呼ぶ。何故か無性に胸騒ぎがした。
「──イカリ」
肉が腐り落ちるような。吐き気を覚えそうになる強烈な腐臭が鼻を突く。
次の瞬間、暗がりから飛び出した獣を思わせる何かが端にいた伊勢の喉を裂いた。
咄嗟の事に反撃の姿勢を取れないまま、更に数人が急所を噛み破られて崩れ落ちていく。その勢いのまま硬直して身動きの取れない自分に、それは襲い掛かってきた。
「待て」
自分に噛み付く寸前、その言葉で怪異は動きを止めた。肉が絡み付いた糸切り歯まではっきりと見えるようだった。裂けた箇所から血が滲むほど大きく開いた口から饐えた臭いが漂ってくる。
「錨、さん」
思わず言葉が漏れる。目の前に突き付けられる事実を、脳が理解を拒んだ。
その乱雑に伸ばした髪は。ぼろぼろになってこそいるが、懐かしい匂いのする藍色の着物は。思わず吐き戻しそうになるのを堪える。
「死人憑き、ゾンビ、
やっと理解した。目の前の芥屋違明という男は、善悪で動いていない。倫理観の枷も、愛情の鎖も備わっていない。ただ、芥屋を強く存続させる為だけに力を注ぐ化け物。
芥屋の怪物だ。
「……なんで。なんでお前は!! そんなに家が大事なのか!? 肉親よりも!! 誰かが泣いて傷付いていても!! そんなあやふやな物の為にどれだけ犠牲にすれば気が済むんだ!!」
そう違明に殴り掛かった瞬間、錨さんだったものに片手で掴まれ投げ飛ばされる。起き上がろうにも痛む頭のせいで碌にまっすぐ立てない。
どうせ自分には何もできないだろう。
錨さんとお揃いだ、やったね。
もう楽になればいい。
いつも大事な物は取りこぼしてからそうだと気付く。
人間の振りはやめろ。
化け物と化け物でお似合いじゃないか。
帰りたい。
「……っ、黙れ黙れ黙れ!!」
鳴り響く声を振り解くように、何度も地面に頭を叩き付ける。
それを満足そうな様子で眺めると違明は踵を返した。もう用はないと言わんばかりに。
「最後の日に迎えに来るね。心依ちゃんと沢山思い出を作って、どうか楽しんで。それが次の彼女の呪いになるから」
それだけ言うと、彼は寅地達を指差して「喰っていいよ」と錨さんだったものに囁いた。犠牲者が出ている事から明らかに彼らの士気は下がっている。肝心の寅地も大分消耗している。なら自分が止めなければ。萎える気持ちを抑え付けて拳を握りしめた時。
怪異の横っ面を誰かが思い切り殴り飛ばした。ぐちゃりと音を立てて頬の肉片が削げ落ちるが、あっという間に再生していく。
「錨くんを、こんな雑魚と一緒に、すんなよ」
もはや虫の息であった筈なのに。息も絶え絶えののっぺらぼうがそこに立っていた。片腕は千切れ、全身を乾いた血で染めながらもまだ立つ姿は表情こそ見えないが鬼気迫っていて。
「……面倒だな。ここは退こうか」
伊勢とのっぺらぼうを交互に見たあと、そう呟いて彼は怪異を連れて姿を消した。途端に緊張の糸がぷつりと切れる。まだのっぺらぼうも伊勢の集団も残っているのに、違明があの場を支配していた事の証左と言えるだろう。
のっぺらぼうが足を引き摺りながら何処かへ去っていくのを止める者は誰もいなかった。もはや彼を脅威として見做すには、あまりにもその後ろ姿が哀れだったから。
あの怪異もですけど芥屋を逃していいんですか坊っちゃん、などと声が聞こえてくる。どうやら大多数の伊勢は自分達をこのままみすみす行かせる気はないようだ。
「黙れ。こいつらに手を出したら俺が殺す」
行けよ、と寅地が首をしゃくる。
ありがとう、と声に出さず呟く。唇の動きを読んだのか、彼は困ったように笑った。その笑顔を刻むように脳裏に焼き付けると、歩き出す。もう振り返らなかった。
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橋の下でうたた寝していた所を、着信音で叩き起こされる。何度となく耳にしたそれに答えるかどうか数秒逡巡し、結局出る事にした。強く吹き付ける風の音がどうにも煩い。
「一砂か? 今、何してる?」
「……ご無沙汰です、金本さん。何って……家で課題をやってましたよ」
そんな筈がなかった。寅地達と別れた後、行く宛もなく彷徨った果てに雨を凌げるよう橋の下に腰を落ち着けるのがやっとだった。
血塗れの自分と半裸の心依を不審に思わずに泊めてくれる場所がある訳もない。未成年である自分が歯痒かった。
ちっぽけだね、君は。
どうしてこんな思いをしなければいけないんだろう?
どうせまた裏切られるよ。
金本さんが自分に何をしてくれる?
電話を切れよ。お前の事なんか誰も好きじゃない。
もう死んじまえよ。
お腹が空いたな。
「嘘を吐くなよ。風の音が轟々聞こえてんだ、外だろ。どこ居るか言ってみろ、迎えに行ってやる」
金本さんの声で正気を取り戻す。時間が経てば経つほど、自分自身の思考が削られるような。そんな嫌な感覚で満ちていた。
疲れで頭が回らなかったのか、それとも誰にも身を寄せる事もできないこの状況で心細かったのか。気付いた時には今いる場所を、彼に告げていた。別に期待はしていなかった。誰かを信じ切るには、少々疲れ過ぎてしまったから。
だから十数分の後、型落ちの乗用車に乗って本当に彼がやってきた時には思わず目を疑った。
「おいおい、服もろくに着てない女連れて深夜徘徊ね。遅めの思春期って所か? 乗れよ」
もうどうにでもなれ、と心依を起こさないように抱き上げると彼の言う通りに車に乗る。乗り心地はそこまで良い訳でもなかったが、草地に比べれば天国のようだった。心依を後部座席に寝かせ、自分は助手席に座る。降り出した雨がぽつりとフロントガラスに落ちるのを見て、改めて金本さんに感謝した。
走り出した車はもう人通りの絶えた道路を往く。煙草を燻らせながらハンドルを握る金本さんに尋ねてみる。
「あの、どこへ行くんですか」
「俺んちだよ。かみさんはいるがまあ気にせんだろ、ガキ二人をこんな天気で野宿なんかさせられるか」
何を喋っていいか分からず、どうして自分に電話を掛けてきたのか尋ねた。
「質問ばっかりだな。伊勢から警察に情報統制するように指示があってな。まあ怪異絡みだろうが、何となくお前の事が気に掛かっただけだ。なんか面倒な事になってそうだが一晩くらい泊めてやるよ」
「……自分は人殺しですよ」
「知らねえよ、それだったら今の俺も規則破りで懲罰もんだ」
沈黙が流れる。どうしてこの人は仕事で少しばかり付き合いのあるだけの自分を、こんなにも気に掛けるのだろうか。
「眠いなら、寝てていいぞ。腹も減ったろ、家に着いたら飯と味噌汁と……晩の残りくらいしかないが、食って風呂入って寝ちまえ」
寝ている時だけは頭の中に響く煩い声も聞こえなくなる。でもこの古びた車に染み付いた煙草臭さがどうにも懐かしくて。
「もう少しだけ、話していていいですか」
「ああ。学校の話でも何でもすりゃいいさ」
助手席のヘッドレストに頭を預けながら、取り留めもない話を続ける。この間友達と食べたラーメンが美味しかった事。学年末テストが思ったより取れていた事。近所の野良猫が少しだけ自分に懐いた事。それすら途切れた時。
「生きてりゃ、言いたくない事の一つもできるだろ。もしも言いたくなったら、それはその時に聞いてやるよ」
ああ、自分は。こんな一言で救われるのだ。そう気付いた。
ずっと、誰かに気に掛けて欲しかったのだ。
深い泥のような眠りが脳をぐずぐずに溶かしていく。それに逆らわず目を閉じる。今くらいは何も考えずに眠りたい。