妹ノ下雪乃さんとのラブコメは間違っていない。 作:kuronekoteru
六月も中旬になると、じめじめとした梅雨の様相が次第に強まってくる。暑い程に燦々と輝いていた太陽も顔を覗かせる機会がすっかり減ってしまい、空にはどんよりとした灰色の雲が常に付き纏っていた。
最後にまっさらな青空を見たのは何時だったろう。そう思い悩んではみるのだが、特に気にしてもいなかった空模様なんかより、思い返されるのはここ一ヶ月の出来事で──。
五月末に行われた中間試験、雪乃の勤勉で愛らしい家庭教師振りのお陰で成績も幾分か上がっていた。あの由比ヶ浜ですら、ぎりぎり平均点を取れなかった教科……の方がまだ多いのだが、それでも以前よりは目に見えて上昇したらしい。
誠に雪乃様様なご本人は、相も変わらず学年一位の成績を叩きだしていた。
テスト返却が終わった頃に行われた職場見学は、何故か葉山が同じグループに入ることになった所為で、クラスの殆どの連中が一緒の企業を希望する事態に。
もう中学時代の社会科見学と何ら変わりはなかったのだが、彼が選んできた企業は文句の付け所がない程にエンタメに富んでいた。大手の電子機器メーカーの製品内部構造の展示は男心を擽って仕方がない。一番に目を輝かせていたのは、同行していた平塚先生だったが……。
他に変わったことは、戸塚と連絡先を交換したこと、川崎が遅刻をしなくなったこと、そして何時の間にか奉仕部にエアコンを始めとした生活家電が幾つか設置されていたことくらいだろうか。
奉仕部がどんどん快適になっていくので、人付き合いの悪そうな川崎ですら偶に部室へとやって来ることがある。勿論、体裁としては雪乃への勉強に関する質問をしに来ているだけ。
そんな日々を過ごしていた、ある土曜日の朝のことである。
「──おい、小町……、今年もやるみたいだぞ!」
「なっ、何ですと……? 絶対にスケジュール空けとかなきゃ、……って今日じゃん、早く行くよ!?」
珍しく早めに起きた俺は、雪乃謹製の朝御飯を食べた後に青い鳥系SNSをぼけーっと眺めていた。流れてくるのは今期アニメの感想やラーメンの画像、尊み溢れる百合百合しい二次創作イラストが主なのだが、ふと目に留まったのは開催される度に行っていたあるイベント。
画面に表示されている情報を見て、小町は目も口も大きく開けて大喜び。そのままパタパタとスリッパを鳴らしながら、洗濯物を干している雪乃の下へと駆け付けた。
「ゆきねぇゆきねぇ、今年もわんにゃん博やるってー!」
「にゃんにゃん博…………。兄さん何しているの、早く行きましょう」
聞き間違えなのか、噛んでしまった言い間違いなのかはさて置き、珍しい雪乃のはしゃいだ様相に俺の口角は自然と上がっていった。わんにゃんだろうが、にゃんにゃんだろうが構いはしない。何故なら、私がそう判断したからだ。
「じゃあ、さっさと準備して行くか!」
「うんっ、小町も四十秒で支度するよ!」
比較的静かな雪乃を間に挟んで、俺と小町は胸の前で拳を握って頑張るぞいのポーズで宣誓の言葉を放つ。兄妹三人揃ってかなりの動物好きなので、皆が皆テンション高めに浮かれていたその時、ガチャリと音を立てて寝室の扉が開かれた。
「……おい、バカ兄妹。朝っぱらからうるさいぞ」
寝室という名の混沌から這い出てきたのは、ぼさぼさ髪に今にも床へと落下しそうな眼鏡を携えた母親の姿。ワーカーホリック気味の両親が土曜日朝に家に居るなんて稀であり、俺と小町は久しぶりに隈の深い目元をぼけーっと眺める。
だから、いち早く反応したのは比企谷トライアングルの中心に位置した雪乃であった。
「お義母さん、折角の休日にごめんなさい……」
「雪乃ちゃんはうるさくしてなかったでしょ。寧ろ、いつもご飯ありがとうね。それに本当に可愛い、…………好き」
母は感謝の言葉を口ずさみながら近付き、腕を広げたかと思えば突然の抱擁。雪乃は「きゃっ」と、猫好きらしい小さな叫び声を上げるが、本当の猫みたく暴れることはせずに大人しくされるが儘になっていた。
「すいません……。すいません序でに、三人で出掛けるから今月分の小遣いを下さい」
「別に構いやしないけど、あんた本当に気を付けなさいよ?」
「言われるまでもなく分かってるよ。二人を危ない目に遭わせるなって言いたいんだろ……」
両親の小町への愛情は恐ろしい程に深い。末っ子で女の子というのもあるのだろうが、雪乃と共に家事をこなしてくれるわ、明るく可愛らしい笑顔を見せてくれるわで小町は比企谷家の宝の一つとして扱われていた。
もう一つの宝を大事そうに抱えながら、母親は彼女らにするような慈しみの瞳を俺へと向ける。そこに巫山戯た雰囲気は無く、小さく吐いた溜息の後にぼそっと言葉を溢した。
「はぁ……、あんたの心配をしてんのよ」
「えっ、母ちゃん……」
「もし小町や雪乃ちゃんに怪我でもさせたら、うちと雪乃ちゃんのお父さんにあんた絶対消されるわよ?」
「……おい、純粋に俺の心配をしろ」
ちょっとばかし熱くなっていた目頭が急激に冷めていく代わりに、今は惰眠を貪り続けているであろう親父に苛立ちを覚えてしまう。母親と共に働いて養ってくれていることに感謝が尽きることはないが、可愛い妹達が俺に懐いている様を見る度に為にもならない小言を垂れてくるのは勘弁して欲しい。
近付いてくる女は美人局だと思って気を付けろと口煩く言ってくるのだが、赤の他人なんて気を付けるまでもなく気になったことすらなかった。
ただ、重々しい程の説得力がある『働いたら負け』は効いているからやめて欲しい。愛する二人を養おうという俺の気力を削いでくるのはやめろ。
「ちゃんと手を繋いでいくから心配しないで大丈夫だよー。だから、三人分のお昼ご飯代もちょうだい!」
「はいはい、財布取ってくるから待ってなさい」
小町に催促されると、母親は名残惜しそうに雪乃から手を放して寝室の方へと離れていく。漸く解放された雪乃はホッと一息を吐いて少し乱れた髪を整えていた。
再び音を立てて扉が開かれると、出てきた母親の手には複数の紙幣。野口さんが四人と諭吉様一人が指の間に挟まってゆらゆらと揺らめく。
「はい小町、お昼ご飯代と交通費で四千円ね」
「わーい、ありがとうお母さん!」
俺が以前に昼食代を請求したら五百円だった筈なのだが、小町からお願いすると一人当たり倍額になる。これは比企谷家の謎の仕組みの一つであり、理由は未だに解明されていない。
そして、もう一枚を貰うために手を差し出したのだが、諭吉様は俺の手の上に降り立つことなく素通りしていった。
「はい、雪乃ちゃんにはお小遣いね」
「……えっと、もう今月分は両親から振り込まれているし、お義母さん達からは受け取らないって決めていた筈でしょう?」
「…………なら、これは八幡のお小遣いだから受け取って」
「おい待って」
人の小遣いを自由に使える資金として扱う母親に文句を放つ。毎日ご飯も作ってくれるし、さっきも洗濯物を干してくれていた雪乃に貢ぎたい気持ちは痛い程に分かるのだが、俺が痛手を負うのは勘弁である。
雪乃も俺の小遣いなら構わず受け取るなんてこともないため、差し出されている諭吉を両の手で押し戻そうとしながら、未だに愛らしい困った表情を浮かべていた。
「あのね雪乃ちゃん、これは八幡のお小遣いを始めとした家計を管理する練習になるのよ?」
「……それはどういう意味?」
雪乃は母親が言っている意味が理解出来ずに首をこてんと横へ傾ける。俺も全く分からないので彼女とは反対方向に首を傾けていった。
「あの子は財布の紐が緩いタイプだから、将来は雪乃ちゃんが紐やら手綱やらを握ってくれると助かるわ」
「その、仰っている意味はよく分かりませんが、一先ず練習として受け取っておきます……」
眼前で俺の小遣いが母親の手から雪乃の手へと渡っていくにも関わらず、俺の心中は存外に穏やかであった。色々と言い訳を見繕ってはいるが、結局は雪乃に貢ぎたいだけなのだろう。親父も母さんからとは別に小町に小遣いを渡しているしね。
俺は満足そうに部屋へと戻る母親にそっと耳打ちをする。表向きには済んだ俺の小遣い受け渡し、それを雪乃には内緒でちゃんと渡してもらう為に。
俺は分かっていますよと、余裕の笑みを拵えて再度請求すると、振り返った母親の顔には心底呆れた顔。
「はい? だから雪乃ちゃんに渡したから、使う時に必要額だけ渡してもらいなさいよ」
「まじかよ……」
まさか、俺に擬似的なヒモ体験をさせることで、俺を穀潰しに仕立て上げるつもりだろうか。社畜の両親だからこそ、子供には同じ苦しみを追従させない為の精一杯の愛情かもしれない。いや、絶対に違うな。
俺は幾分かの不便さと、若干の浮き立つ気持ちに身を委ね、「さらば諭吉」と心の中でそっと呟くのだった。
* * *
イベント会場である幕張メッセまではバスに乗って約十五分の短い旅。会場内は多くの家族連れやペット連れの人々で賑わいを見せていた。
連れているペットは小型大型問わず犬が多いのだが、中には猫を抱えている方もいるため展示だけでなく擦れ違う愛猫にも雪乃は注意が持っていかれる。
「…………にゃー」
その様な空間だから、離れてしまわぬように小町は雪乃の右手をささっと取る。もう片方の手は俺が軽く添えるように握った。昔は小町が真ん中であったが、雪乃の方向音痴が発覚してからは立ち位置が入れ替わっている。
右に見える楽しそうな横顔には、真っ直ぐに下ろした黒髪に隠れる普段のおさげではなく、耳の上の高い位置で結んだ可愛らしい尻尾のような束が踊るように揺れ動いていた。小町側からも同じ踊りが見えていることだろう。
高校生にしては少々稚い髪型ではあるが、雪乃はこのイベントでは昔から毎度変わらずに続けていた。大変に似合っていて可愛らしいのもあるが、揺れ動く二つの尻尾を見た猫が興味を持ってくれるのが嬉しいらしい。
「あっ、お兄ちゃん、今年はポニーの乗馬体験できるみたいだよ!」
「ポニーも良いよな……出来ればサイドテールもして欲しい…………」
「…………にゃー」
「ねぇ、お兄ちゃん聞いてる?」
催促する小町の示し先に目をやると、そこにはポニーの乗馬体験が出来るブースがあった。一回五百円と有料ではあるのだが、かなりの人気のようで長蛇の列が形成されている。
千葉市の動物公園に行けばもう少し安い価格で乗馬可能ではあるのだが、こういったイベントの場で乗れる機会は少ない。他にもウサギやモルモットのような小動物と、蛇を始めとした爬虫類に触れ合えるコーナーも用意されていた。
「取り敢えず、ちゃんと回るのは雪乃の猫欲を満たしてからにするか」
「そうだね、今年は特に酷いもんね……」
「…………にゃー」
その後、俺たちが真っ先に向かったのはペットの展示即売会のブース。昔に我が家のアイドル猫ことカマクラに出会った思い出の場所でもある。
手前にある犬ゾーンを一旦スルーして、辿り着いた先には世界の多くの猫種に溢れた猫の楽園が待っていた。長毛種、短毛種問わずに色とりどり、多種多様な猫が集合している光景は圧巻で、雪乃だけでなく俺と小町も息を吞んで眺める。
だが、動き出した雪乃によってリール代わりの腕が引っ張られていくと、間もなくその世界に俺たちは入り込むことになる。簡単には抜け出すことの出来ない、そんな夢の世界に──。
「……この子、もふもふで可愛い」
「お兄ちゃんほんとにもっふもふだよ、ラグドールだって!」
人語を取り戻した雪乃と共に小町は愛らしい子猫達を思う存分にもふっていた。何処かへ行ってしまう心配もありはしないので、雪乃の両の手は猫と触れ合うために解放されている。
二人に大好評のラグドール、俺も目の前でごろんと寝転がる子猫を優しく撫で回していく。ぬいぐるみを意味する種名に相応しい大人しさと触り心地が堪らない。これは雪乃も小町も絶賛する訳だ。
きっと、帰ったらカマクラに嫌な顔されるのだろうと分かってはいても触れてしまいたくなる。飼い猫って他の猫の匂いを付けていると不機嫌になるのよね。嫉妬しているみたいで可愛い。猫みのある雪乃も偶には嫉妬してくれたりしないかな、なんて馬鹿げた妄想をしてしまう。
…………それにしても、かれこれ一時間以上もふり続けているんだよなぁ。
「あのー、そろそろ昼飯にしないか?」
「うん、実は小町もお腹空いてたからいいよー」
二人に声を掛けると、小町が早速に振り返って笑顔で賛同してくれる。だが、もう一方の雪乃は徐々にもふる手を緩めてはいるけれども、なかなか振り向いてはくれない。
気持ち良さそうに目を細めるラグドールの頭を最後にひと撫でし、非常に名残惜しそうに雪乃はその手を離していった。
「…………ええ、続きは昼食を取ってからにしましょうかね」
「今年はにゃんにゃん博になりそうだね……」
小町は諦めにも似た表情を浮かべると、雪乃の手を取り入口の方へと歩き出す。俺は二人の仲睦まじい姿を眺めながら、その背中をゆっくりと追いかけていった。
来た道を戻る途中、先程はスルーしてしまった犬で溢れるエリアへと再び足を踏み入れると、小さな嘆声と共に小町が指を差したのは遠くに見えるのぼり旗。
「あっ、犬のトリミングだってー、……猫はしてくれないのかな?」
「猫は基本的には自分で毛繕いを行うから、人の手で行ってあげるのは定期的なシャンプーと爪切りくらいで充分よ」
「おー、確かに小町たちがカーくんにしてあげてるのはそれくらいかも」
然も自分もやっているかのように口にしているが、その凡そ全ては雪乃が一人で行っていた。俺も代わりにカマクラの爪を切ろうとした経験はあったけれど、散々嫌がられて顔に傷を負っただけで終了。雪乃の膝の上では大人しくされるが儘になっているのにね……。
それにしてもカマクラさん、雪乃の膝上でゴロゴロ甘えては爪を切ってもらえるし、風呂場ではシャンプーもしてもらえるわで贅沢が過ぎる。前世では世界でも救ったのだろうか。
俺も徳を積んで来世は猫になるべく、全能である永久欠神を目覚めさせるべきかを検討していると、トリミングを終えたばかりのミニチュアダックスフントが欠伸交じりに歩いてきた。リードが壊れてしまったのか、その首には付けるべき線が無ければ飼い主も見当たらない。
「あら、あの子はもしかして……」
その犬は雪乃の方を見るや否や、ばうばう鳴きながら一目散に駆け出してくる。何事もなく彼女の足元まで無事に辿り着くと、雪乃も小町もその小さな頭を撫でるために足を折り畳んでいった。
俺は急ぎ彼女らの前に立ち、周りに対して番犬のようにガルルと威嚇する目付き。ショートパンツの小町は兎も角、雪乃はスカートなのだから気を付けて欲しい。
俺の威嚇など気にもせず、逃げてきた犬は雪乃の足元でごろんと転がり二人に好き勝手に撫で回されていた。余りにも懐き過ぎている気がするが、やはり世界一可愛い妹達に対してだからだろうか。来世は猫じゃなくて犬になるのもありかもしれない。
「──ごめんなさい、サブレどこ行っちゃったのー?」
酷く焦ってはいるが耳馴染みある聞き慣れた声、その主は忙しない足音を響かせながら俺たちの方へと近付いてくる。音の方に視線を投げると、明るい桃色混じりの茶髪で結われたトレードマークのお団子が揺れていた。
「おーい、この犬の飼い主って由比ヶ浜か?」
「あっ、うちのサブレです。ありがとうございます……ってヒッキー?!」
「……あら、やっぱり由比ヶ浜さんのお家の子だったのね」
そこに立っていたのは、我らが友人の由比ヶ浜であった。彼女の手には繋がれていないリードが強く握り締められていたが、飼い犬の存在をその目で確認すると表情と共に次第に緩んでいく。
「ふぅ、ゆきのんもありがとね。何だか首輪が壊れちゃったみたいで、リードが…………って、あれ?」
由比ヶ浜は二人と同じようにその場で屈み、雪乃への感謝の言葉を口にしている途中で違和感に気付き疑問の声を上げた。一つは恐らく雪乃の見慣れない髪型であろう。耳にした声から雪乃だと分かってはいたのだろうが、実際にその様相を目に入れるとポカンと口をあんぐり。
そしてもう一つは、彼女にとっては面識のない人物がそこに居たからに違いない。
「あっ、どもども。小町は小町と申します」
「えっと、由比ヶ浜結衣です。多分妹さん、だよね……? えっ、どっちの?!」
由比ヶ浜は完全に戸惑い切っており、首をぶんぶんと振っては俺と雪乃を交互に見やる。
定義上は俺の妹なので、どちらのかと言われたら俺の妹であろう。雪乃の妹でないかと言われたら異を唱えたくなるが、仔細を説明する訳にもいかない。
小町もその辺りは充分に把握している筈だが、念を押してアイコンタクトで気を付けろと指示をする。小町は俺の視線を受け取ると、こくんと首肯をして可愛らしい敬礼ポーズを決めた。無言でも意思疎通が図れるのだから、兄妹の絆って素晴らしい。
「小町はゆきねぇの妹です♪」
「おい、小町さんや?」
──訂正、全く伝わっていませんでした。
「へぇ、ゆきのんの妹さんだったんだ、すっごく可愛いね。今日のゆきのんもびっくりするくらい可愛いけど」
「えっと、……ありがとう、由比ヶ浜さん」
「えへへ、小町もありがとうございます!」
由比ヶ浜はあっさりと二人の間に溶け込み、みるみるうちに女性三人で華やかな姦しい会話を楽しみ始める。雪乃からある程度の話を聞いていた小町は、由比ヶ浜をまるで旧友だったかのように受け入れ懐いていた。
お互いの自己紹介を済ませると、由比ヶ浜は肩に掛けていた犬用のキャリーバッグにサブレを抱え入れて立ち上がる。続く二人の様子から、どうやら彼女も一緒にお昼ご飯を食べることになったらしい。
四人で纏まり再び入口へと向かう最中、前を歩いていた由比ヶ浜は歩く速度を落とすと、ひょっこり俺の隣に並び歩く。彼女の山の麓ではサブレも身体の力を抜いてリラックス状態。やはり来世は犬にしようかしら。
「……小町ちゃん、あんま似てないけどヒッキーの妹なんだってね」
「おう、正真正銘の俺の妹だぞ」
小町がちゃんと俺の妹宣言をしてくれていたのは喜ばしいのだが、そもそも余計なことを言わないで欲しかった。由比ヶ浜が正解するにしても、誤解するにしても、事態がややこしくなる可能性だってあっただろうに。
しかしながら、今日の状況がもう既に立派な別解を突き付けていたことを、続く彼女の言葉によって否が応でも気付かされてしまった。
「ふふっ、もう家族ぐるみの付き合いなんだねー」
由比ヶ浜は明るい声色で揶揄うような言の葉を投げ掛けてくる。だが、嫌味でも何でもなく、彼女から見た当たり前の感想なのだろう。小町が俺の妹であろうが、雪乃の妹であろうが決して変わりはしない唯一つの事実。
「…………まぁ、そんな感じかもしれん」
由比ヶ浜は羞恥に塗れた俺の返答を聞き終えると、エールの言葉と共に俺の肩を優しく叩いて満足気に二人の方へと戻っていく。小町は帰ってきた彼女とサブレを熱烈歓迎するように楽しそうな笑い声を響かせていた。
一方、雪乃は歩みを止めて俺の顔を薄目でまじまじと見つめてくる。その頬は僅かばかりの膨らみを帯びていた。
「……ねぇ、二人で何の話をしていたの?」
やがて立ち止まっていた雪乃に追い付くと、彼女は俺の隣にずいっと歩み寄って耳元で囁く。今日も今日とて世界一可愛い横顔が近くなり、纏めている髪束の一つが二の腕にビシビシと当てられて擽ったい。
彼女の質問に別に大した話ではないと答えるも、俺に対する細められた視線も可愛い頬も戻りはしない。どうしたものかと考える合間、俺は誤魔化すように前方で笑い合う二人に視線を向けていった。
視線の先では、いつの間にやら小町と由比ヶ浜が仲良く手を繋ぐ光景が映し出される。入口付近は人が多いので、きっと小町がいつもの癖で手を伸ばしたのだろう。
ただ、元気の有り余る小町が大きく腕を振るので、まるで大型犬の散歩のような絵面になってしまっている。
「あんな感じで首輪も外れたんだろうな……」
小町のあまりにも大きな動きに由比ヶ浜の肩が心配になり始めていると、俺の手甲には体温低めな細い指先がちょこんと触れていた。方向音痴な彼女が離れると迷子になってしまうのは必死なので、悩み迷うことなく手を差し出して受け入れていく。思えば、雪乃から求められたのは初めてかもしれない。
自然と上がってしまう口角、隣からは浅く息を吐く小さな音。
その吐息が余韻へと移り変わる頃、二人の手から距離という名の隔たりは音と共に消えてしまった。彼女から伝わってくる温度は平時よりも幾分か温かい。
理由を確かめるように見つめた自身の手には、柔らかな彼女の指が一本一本丁寧に織り込まれていた。
「────これなら、そう簡単には外れないでしょう?」
そう口にして揶揄い上手の悪戯な笑みを向けると、雪乃は先導するように腕を引っ張り前を歩み始める。引かれる俺はただ呆然と、上機嫌に揺れ動く二つの尻尾を眺めることしか出来はしない。時折見せてくる彼女の小悪魔的な行動には連戦連敗、負けっぱなしである。
いつしか、会場の人混みに紛れて歩く二人の立ち位置は忽ち逆転していた。それは道標にしていた小町たちを雪乃が見失い、あからさまに壁へと向かい始めてしまったから。それが、雪乃が前から隣へと移動してきた理由。
俺が前に出たのは、気付いてしまった所為。今日に限っては隠れることの出来ない彼女の耳が、これまた見たことも無い程に赤く染まっていることを。
唯一無二の弱点に恥じらう彼女のことを微笑ましくなって、気が逸って、守りたくなった。そんな当たり前の理由。高鳴る鼓動は、喧騒に掻き消されて聞こえはしないから。
今はただ、熱い程に火照った、離れることのない貝殻を引き続ける。
前回に引き続き、評価やここすき、ご感想誠にありがとうございます。
自分でも気に入っている文章を評価してもらえて嬉しかったです。