白いワンピースを着た長髪の女性が両手を垂らし、悠然と立っている。その佇む姿を見て、一目で女性が異常であると分かるだろう。
白いワンピースでは嫌でも目立つ大小の血の染み。女性の長髪は長いという言葉では足らない程に伸びており、背丈を超えて立っている地面にまで達しており、巣のように女性を囲う。
女性の顔に皮膚は無く乾いた筋組織が露出しており、鼻は削がれて無く、唇は削ぎ落されて歯が直に見え、落ち窪んだ眼下には血走り濁った三白眼が殺意の色を宿している。
一目で女性が異常と書いたが、まず常人では彼女の存在に気付かないだろう。
彼女は幽霊。Sトンネルという心霊スポットに住まっていた人に仇なす悪霊である。
しかし、今の彼女は捕らわれた存在であり使役される立場。彼女を使役するのは各地で悪霊を捕獲している寳月夜宵。
そして、Sトンネルの悪霊が呼び出されているということは、捕獲すべき悪霊が現れたということ。
Sトンネルの悪霊の前に立つのは二メートル近い身長のある男の幽霊。上下に黒のスポーツウェアを着ており、衣服越しでも分かるように腕や脚の太さが一般成人の倍近い太さがあった。生前かなり体を鍛えていたことが窺えた。
胸や腹などに幾つもの穴が開いており、穴からは煙のような光が立ち昇っている。
Sトンネルの悪霊が伸ばしている髪が別の生き物のように蠢き出す。攻撃の前兆。それに対し男の霊は相手に対して体を横向きにする半身の構え。左手を伸ばし、反対に右手は引く。堂に入った構えは明らかに格闘技経験者のそれである。
構えだけ見れば一分の隙も感じられない見事なもの。生前、身に沁み込む程に鍛錬を摘んできたのは分かる。
構えだけ見れば男は霊であっても悪霊には感じられないかもしれない。だが、洗練された構えとは裏腹に男の顔はだらしなく緩んでいた。頬を限界まで吊り上げたことで開いた口からは涎を垂らし、目は糸のように細まり、顔に深い皺を浮かび上がらせる。満面の笑みを通り越して醜悪な表情であった。
男の霊は興奮していた。Sトンネルの悪霊を前にして。ただし、相手が女性だから興奮しているのではない。これから行う自らの行為を想像して昂っているのだ。
男の霊は摺り足でジリジリと距離を詰めていく。Sトンネルの悪霊の髪が威嚇するように波打つ。
その様子を夜宵と顔を蒼くした幻燈河螢多朗は黙って見ていた。夜宵は持ち前の冷静さで男の霊を観察する為に黙っているが、螢多朗はいつもの如く霊同士の戦いに圧倒されて声を上げられない状態になっていた。
男の霊の爪先が髪に僅かに触れたとき、Sトンネルの悪霊の攻撃が開始される。
地面に垂らしていた髪が何本もの束となって伸びる。触手のように動く髪の束に対し、男の霊は地面を滑るような軽やかな足捌きで難無く躱してみせる。
伸ばしていた左手に髪の絡まろうとする。男の霊は素早く左手を引き、その攻撃を空振りさせると前方へ跳躍してSトンネルの悪霊との間合いを一気に詰めると槍のような前蹴りでSトンネルの悪霊の腹部を貫いた。
男の霊は笑みを更に深めるが、Sトンネルの悪霊も嗤う。次の瞬間、Sトンネルの悪霊の体が髪となって解け、男の霊の背後へと移動し、頭部から伸ばした髪で男の霊の四肢を締め上げた。
男の霊の自由を奪ったと思い、Sトンネルの悪霊はニヤリと嗤う。そのとき、男の霊の四肢が一気に膨張して巻き付いていた髪を強引に引き千切った。
Sトンネルの悪霊が驚く最中、男の霊は振り返ると同時にタックルを仕掛け、Sトンネルの悪霊の胴体にしがみついたまま地面に押し倒す。
そこから先は流れるような動きでSトンネルの悪霊の上に跨り、マウントポジションをとる。Sトンネルの悪霊も反撃しようと髪を伸ばすが、それが届くよりも早く男の霊の振り下ろしの拳がSトンネルの悪霊の顔に打ち下ろされた。
肉を打つ打撃音。それは鈍く、水気を含んだ音をしている。
おっ……おおっ……おうぉ……。
男の霊から漏れ出す呻き、もとい喘ぐ声。打ち付けた拳が震えている。
Sトンネルの悪霊は殴られた状態のまま反撃を行おうとするが、男の霊はすかさず拳を叩き込み無理矢理中断させる。
おおおおおおっ!
男の霊がヒートアップし、何度も何度もSトンネルの悪霊の顔を殴り続ける。殴る度にSトンネルの悪霊の体が痙攣したように跳ねる。
「うぅ……」
生々しい男の霊の暴力に螢多朗は嫌悪感と恐怖が混ざり合った声を出した。夜宵は目を逸らすことなく冷静な眼差しでその行為を見ていた。
やがて、Sトンネルの悪霊は動かなくなると男の霊は跨ったまま体を弓なりにして全身を震わす。暴力行為の果てに興奮の絶頂に達していた。
これこそが男の霊の本性。その生前は十人もの人間の命を奪った殺人鬼であり、しかも犯罪史でも類を見ない素手による連続殺人であった。
男は至って普通の家庭に生まれた。小中学校も真面目な性格と言われ、クラスの中心的人物として頼られていた。
変化の兆しは高校に入ってから。男はそこで体格の良さから格闘技を勧められ、習うようになった。
真面目な性格も合わさり男はメキメキと実力をつけていった。大会でも優秀な成績を残せる程の逸材であった。
そして、そのときは訪れる。切っ掛けは女性がたちの悪い酔っ払いに絡まれている現場に遭遇したこと。男は言葉で酔っ払いを宥めようとしたが、酔っ払いは耳を貸さず終いには逆上して道に落ちていた大きめの石を拾って男へ殴り掛かってきた。
男は身に染み付いた動きにより反撃の拳を酔っ払いの胸へ叩き込んだ。その結果、酔っ払いは心不全を起こして呆気無く亡くなった。
幸い目撃者が多数居た為に男の正当防衛が認められたが、この事件は男の精神に大きな歪みを生み出してしまった。
男は知ってしまったのだ。人に本気の暴力を叩き込む快楽を。そこから先、男は転がるように堕ちていった。
ターゲットを見つけ、人気の無い場所へ連れ込み、殴り殺す。下は十にも満たない子供。上は八十を超える老人。老若男女問わず撲殺した。
しかし、そんな男にも年貢の納め時が来た。目撃者により通報され、警察に追われた。
男はそこでも抵抗し、警察官二名に重傷を与え、更には警察官一名を殺害している。
男は止む無く射殺され、撲殺魔としての人生に幕を下ろした。今から十年程前のことである。
そして男の霊──撲殺魔の悪霊は死して尚、己の欲を満たす為に暴力を振るい続けている。
(あのレベルでも勝てないとは。相当な数の霊を喰らってきたということ)
霊として特殊な能力が無い代わりに非常に高い戦闘技術を持つ。生半可な霊ではSトンネルの悪霊のように圧倒されてしまう。
(あの子を使う)
かなりの問題児だが、確実に勝てるという勝算があった。
その前にSトンネルの悪霊から離さないといけない。夜宵はまだSトンネルの悪霊を消滅させる気は無い。
パーカーの内側からビニール性の袋を取り出す。中には白い粉末──塩が入っていた。
夜宵は走り出し、その最中に袋の中の塩を掴み取る。そして、殴ることに夢中になっている撲殺魔の悪霊の背目掛けて塩を撒いた。
ぎゃああああああっ!
撲殺魔の悪霊は絶叫を上げ、Sトンネルの悪霊から跳び上がるようにして離れると地面の上で背中に手をやりながら転げ回る。清められた塩は悪霊に対して強い効力を持つ。撲殺魔の悪霊は熱湯か強い薬品を浴びせられたかのような反応をしていた。
撲殺魔の悪霊がのたうち回っている間に夜宵はたぬきのぬいぐるみを辛うじて消滅を免れたSトンネルの悪霊に押し当てる。
Sトンネルの悪霊は吸い込まれるようにたぬきのぬいぐるみの中へ入っていった。
清めの塩の効果が切れたのか撲殺魔の悪霊は愉悦に満ちた表情を一変させ、憤怒の表情でこちらを睨み付ける。傷付けられたこと、愉しみを邪魔されたことへの憎悪をこちらへぶつけてくる。
夜宵は涼しい顔でそれを受け流しながら新たなぬいぐるみを取り出した。黒い注連縄で縛られたデフォルメされて可愛いらしくなったフランケンシュタインの怪物。
夜宵は注連縄を外しながらその名を呼ぶ。
呪って──
ぬいぐるみのどす黒い粘液が溢れ出し、積み重なって人の形へなっていく。
『無為転変の呪霊』
悍ましい気配と共に姿を現したのは、意外な程に人間らしい姿をした霊であった。
くすんだ水色の長髪の先を結び、黒いローブを纏っている。端正な顔付きをしているが、顔を含めて手足など見える部分が継ぎ接ぎだらけになっているので不気味さの方が際立つ。
呪霊と呼ばれたそれは吞気そうに背伸びをしていた。
「うーん。解放されたのは久しぶりだ」
螢多朗が想像していたよりも軽い口調であった。霊特有のおどろおどろしいものではない。しかし、何故だろうか。見た目はそれ程怖くない筈なのに螢多朗は今まで以上に冷や汗と震えを起こしていた。
呪霊はそんな螢多朗に気付き、視線を向ける。水色と灰色のオッドアイ。螢多朗の反応を見て、端正な顔付きに似合わない品の無い厭らしい笑みを浮かべるので螢多朗はますます恐怖する。
「余所見をしない」
「はいはい」
夜宵に叱られると薄ら笑いを浮かべたまま撲殺魔の悪霊の方へ歩いて行く。足取りは散歩のように軽く、構えている撲殺魔の悪霊など意に介していない。
やがて、呪霊は相手の間合いに入る。
「じゃあ殺し合おうか? 人間らしく悪霊らしく」
撲殺魔の悪霊の返答は顔面を打ち抜く無言の正拳突き。
呪霊の体が仰け反ったところで刈るような下段蹴りが足に入り、膝が真横に折れる。そこから止まることなく胴体、脇腹、脚、喉などに突きや蹴りを容赦無く叩き込む。暴力を中断されたことへの鬱憤を晴らすが如く。
呪霊は撲殺魔の悪霊の前でただ殴られるだけのサンドバッグと化していた。
悍ましい存在だとは分かっていても一方的に暴力を振るわれる様に螢多朗は恐怖と同情を覚えてしまう。尚且つ切り札として投入された呪霊が圧倒される光景にこのままでは負けるという不安を抱いていた。
「や、夜宵ちゃん……」
「安心して。あの子は遊んでいるだけ」
「え……?」
螢多朗が呪霊の方をもう一度見る。あれだけ暴力を浴びせられていた呪霊は全くの無傷であり、負わされた筈の傷が全て消えていた。
「人を殺すことしか考えていない悪霊らしい良い暴力だったよ。でも、それだけじゃあ俺の魂には届かない」
嘲笑する呪霊に撲殺魔の悪霊は叫びながら拳を突き出す。翳された呪霊の手が拳に触れる。その瞬間、拳は捻じれ、絞られ、元の十分の一の細さへ変形させられる。
紐のようになった己の腕に少しの間呆然とした後、撲殺魔の悪霊は絶叫を上げた。
「『無為転変』」
「え、えっ……?」
「それがあの子の呪い。あの子は魂そのものを知覚でき、触れた魂の形状を好きなように変えることが出来る」
今のように腕を変形したり、自身の傷を消して元の姿へ戻るということも可能。そして、変形させたものは呪霊が直さない限り二度と元には戻らない。
元に戻らない腕にパニックになる撲殺魔の悪霊。その間に呪霊は目の前まで移動していた。
「殴られて少し思い出したことがある。何か殴られるのって凄くムカつくんだよね。俺、前にそういう経験があったのかも」
何かを思い出すように虚空を見詰めながら無事な方の肩に触れる。今度は質量を無視して何倍も腕が膨らみ、撲殺魔の悪霊は立っていられなくて仰向けになって倒れた。膨張はそれでも止まらず、やがて表皮が裂け出して中身が露出する。
内側の圧によって裂けていく痛みに絶叫を上げる撲殺魔の悪霊。呪霊はそれを悪意ある笑みを浮かべながら眺めている。
幼い子供が昆虫の手足を捥いで遊んでいるかのような残虐さ。見ているだけでどす黒い気持ちになる。
「や、夜宵ちゃん……あ、あの悪霊は……一体何……?」
普通の悪霊とは何かが違うことを直感で感じ取り、声を震わせながら訊く。
「あの子も特待生。そして、正確に言えばあの子は悪霊じゃない」
「あ、悪霊じゃない……!?」
あれだけ悍ましい気配を放ちながら悪霊ではないことに驚く。
「あの子は呪いそのもの。人が人を恐れ憎むことで生まれる力に形を与えられた存在──精霊や神に近い──人間の恐怖と憎悪の腹から産み落とされた。それ故に呪霊」
「そんなものが……!?」
人が成ったものではなく多くの人々の負の感情から誕生した存在だということに驚く。
「あの子は何かしらの理由で名前と記憶を失っている。それが戻るのを手伝うという契約で協力してくれている」
時折、今回のように強い悪霊と戦わせる。相手の魂の形を捉えること。死という極限まで追い込まれることで自らの魂の輪郭を認識すること。そうやって失われた記憶と名を甦らそうとしているのだ。
「ねー、どうするー?」
呪霊の方から呼び掛けてきた。いつの間にか撲殺魔の悪霊の両足が固結びにされている。これにより四肢が使い物にならなくなる。
呪霊は夜宵の指示を仰ぐ。一応は言うことを聞くつもりはある様子。
夜宵は新たなぬいぐるみを出し、死に掛けた芋虫同然の這うことすら出来ない撲殺魔の悪霊へ問う。
「食われるのと助かるのどっちがいい?」
選択肢の無い二択。通常ならば選ぶのは助かる道だろう。
……たい
「?」
……もっと殴りたい……殺したい……肉を骨を潰す感触を味わいたい……悲鳴を聞きたい……か細い声が途切れる刹那を聞きたい……俺はもっともっともっともっと殴り殺したいぃぃぃぃぃ!
選ぶことはせず呪詛を思わせるような汚らわしい本音を叫び続ける。
「……まだ足りない」
明確な上下関係を刻み込むにはもっと折る必要がある。
「お前は食わない……お前は壊す」
瞬き一つせず、声に一切の淀みもなく冷酷に告げると夜宵は呪霊に目を向けた。
「徹底的にやって」
「りょーかい」
呪霊は嗤い、両手の指を組んで印を結ぶ。
「お前の悦楽の為に散っていった者たちの死を知れ」
重瞳に浮かぶ色はどこまでも冷たい。
「因果応報。この言葉の意味を身を以って味わうといい」
呪霊が何かを唱えると周囲から黒い手が無数に伸び、呪霊と撲殺魔の悪霊を囲んで黒いドームを形成する。
「あ、あれは……?」
「あの子だけの領域」
◇
「やっぱイカレてるね、あの子」
外界と隔離された呪霊だけの領域で愉しそうに言う。
手、手、手。繋がれた手と手が結び合い、囲い、閉ざす。友愛の印である手を繋ぐという行為がかくも悍ましく見える。
幼い体に不釣り合いな静かな狂気。悪霊を捕え、悪霊を飼い、悪霊を喰らわせ合い、また悪霊を捕える。それを独りで考え、実行するなど呪霊からしてもイカレているとしか言いようがない。
「だからこそ──」
強い興味が惹かれる。あの幼い腹の中にはどれほどの狂気で染まっているのか。そう思うだけでインスピレーションが刺激される。
「それにしてもあいつも中々イカレているね」
呪霊は螢多朗にも興味を持っていた。霊を恐れて震えあがっていたが、その目には恐怖以外の感情もあった。本来恐怖に向けるものではない好意、愛のようなもの。
「あんな目で見られたの多分初めてだよ」
類は友を呼ぶとは正にこのこと。
「──さて」
未だに芋虫のように蠢いている撲殺魔の悪霊を見下しながら気色悪さが増した笑みのまま話し掛ける。
「言う事はちゃんと聞かないとね」
インスピレーションを刺激してくれたおかげで色んな方法が思い付く。
膨らます。縮める。生やす。増やす。削る。埋め込む。裏返す。伸ばす。捩じる。潰す。破る。付ける。裂く。千切る。
これはデモンストレーション。いつか夜宵の腸の色を見る為の。
それまだ人らしく、悪霊らしく、狡猾に牙を隠し、研いでいく。
暫くして呪霊が創り出した領域が消えた。そこに残っていたものは呪霊と、どれだけ言語が豊富でも表現出来ないナニカであった。
呪術廻戦より真人を出しました。
人の言う事を聞くような奴ではありませんが、そこは色々と弱体化しているということで。