「こ、これって……」
詠子は自分が窮地に追い込まれていることを悟る。手に持つ唯一の光源である懐中電灯が照らすのは先の見えない一本道の通路。振り返って来た道を照らすとそこにはやはり暗闇で果ての無い通路が見えるだけ。
「螢君……夜宵ちゃん……!」
愛しい恋人と頼れる従姉妹の名を呟きながら詠子は事前に夜宵から手渡されたホワイトタイガーのぬいぐるみを抱き締める。
彼女は二人に置いていかれた訳では無い。つい先ほどまで共に行動をしていた。しかし、懐中電灯の光が一瞬消え、点いたときには二人は居なくなり、詠子も無限に続く通路に立たされていた。
(もしかして、引き離されたのは私の方……?)
孤独という恐怖に冷や汗が流れる。そのとき、詠子の栗色の長い髪がふわりと動いた。
「ひっ!」
悲鳴を上げ、詠子は振り返る。誰かに髪を触られた。だが誰も居ない。すると、またも詠子の髪が撫で上げられる。
「いやっ!」
詠子はその場に留まれなくなり走り出す。先の見えない通路を全力で走り続ける。しかし、走っても走っても同じ光景が流れるだけ。内部は明らかに外から見たときよりも広くなっている。
(ずっと同じ! ループしてる!)
霊現象に囚われているのを理解するが、それでも走る足を止めることが出来ない。
全身に熱が溜まり、汗が噴き出す。両足に疲労が溜まり、詠子の足は意思とは無関係に止まってしまった。
「はぁ……はぁ……はぁ……!」
乱れる呼吸。肺が痛い。肺が限界まで稼働しているので喉の奥から血の匂いが漂う。
そこに追い打ちをかけて来る髪撫で。
「きゃあっ!」
背後に向け、反射的に振り払おうとしたとき詠子は触れてしまった。最も不快感を覚える生温かい感触。
鳥肌が立てながら詠子は振り返る。今度は消えることなくそこに居た。
蛇のように長く伸びた胴体。そして、伸びた胴体から余すところなく生える無数の手。ムカデを彷彿させる異形の体を持つのは女か男かも分からない顔付きをした悪霊。
長く伸びた髪を垂らしながら怖気が走る笑みを浮かべて詠子を頭上から見下ろしている。
「……っ!」
恐怖のあまり喉が引き攣り、声すら上げることが出来ない。ムカデの悪霊は無数にある腕のうちの一本を伸ばして詠子の頬を撫でた。
伝わる生温かさ。撫でる手付き。どれも嫌悪感しか湧かず、それが詠子の恐怖を一時的に紛らわす。
「いっ、……いやあああああっ!」
詠子は再び走り出す。疲れて走れないなどと言っていられない。ムカデの悪霊に捕まれば何をされるか分からない。ムカデの悪霊からは明らかに情欲の念が発せられていた。
走る詠子。背後から迫る気配。そして聞こえてくるノイズのような笑い声。
(遊んでいる……!)
その気になればすぐに追いつくことが出来る筈なのにムカデの悪霊は一定の距離を保ったまま詠子を追い続けている。詠子が恐怖し、必死になって走る様を笑っている。
弄んで楽しんでいる。悪霊の悪意を詠子は感じ取っていた。
(なら、このまま逃げ続ければ時間を稼げる!)
詠子もただ恐怖に翻弄され続けているだけでない。聡明な彼女は逃げている間は少なく本格的に襲っては来ないと予測する。
獲物を嬲ることに楽しみを見出しているので、追い回している内は詠子の命は保障される。
詠子が出来るのはなるべく時間を稼ぐこと。そうすれば夜宵たちが何か打開策を見つけて助け出してくれる。
詠子は夜宵たちに絶大な信頼を寄せていた。
(走れ! 私……!)
詠子は夜宵たちを信じて走り続ける。果ての見えない一本道を。
しかし、希望を抱いてしまったのが不味かった。
「──えっ?」
足を何かに掴まれ、詠子は転倒する。強かに体を地面に打ち付けたことに悶えながらも自分の足を見た。地面から生えた手が詠子の足首をしっかりと掴んでいる。
いつの間にか近くにいたムカデの悪霊が笑みを消し、冷めた表情で詠子を見下ろしている。
詠子の誤算はムカデの悪霊が恐怖の感情に敏感であったこと。怯えながら逃げる詠子の感情の中に恐怖以外のものが混じっていることを正確に感じ取り、戯れを止めて一気に仕留めることに決めたのだ。
ムカデの悪霊の胴体から夥しく生える手が詠子の首へ向かっていく。
「い、いやっ!」
詠子の白く細い首にムカデの悪霊の手が触れ、締め上げる。
肉の絞られるような音。しかし、それが鳴っているのは詠子の首からではない。彼女が持っているホワイトタイガーのぬいぐるみから発せられている。
詠子の身代わりとなってぬいぐるみの首が細く絞られていく。このままぬいぐるみの首が千切られるかと思われたとき──
ヒュン
カチン
──詠子の耳に二つの音が入り込む。一つ目は風切り音。目では追えない何かが通り過ぎていく。二つ目の音は詠子も知らない音であった。固い物同士が軽く当たったかのような音。
直後、詠子の首を締めていたムカデの悪霊の腕が斬り飛ばされる。
──ギャアアアアアアアア!
突然のことだったのでムカデの悪霊は一拍置いた後に絶叫を上げた。
解放された詠子は急いでムカデの悪霊から離れる。そのとき、詠子のポケットが細かく震える。中に仕舞っていたスマホが着信を告げている。
表示された名は螢多朗。詠子は急いで通話に出る。
「螢君!」
『詠子!』
第一声は互いの名。お互いが無事であることを安堵する。恐怖が薄れ、瞳が涙で潤む。
『詠子! 今何処に!?』
「分からないの! すぐ傍に幽霊が!」
『ええっ!? 詠子! 早く逃げるんだ!』
そうしたいのは山々だが、霊現象に囚われている以上逃げ道は断たれたに等しい。すると、スマホの向こう側で『代わって』という夜宵の声が微かに聞こえた。
『詠子』
「夜宵ちゃん!」
霊に精通した頼もしい従姉妹の声に潤んでいた目から涙が流れる。
『詠子は必ず助けるから』
「……うん! うん!」
幼いながらも力強い言葉。その言葉に詠子も勇気が湧いて来る。
『ぬいぐるみは持ってる?』
「う、うん! 私を守ってくれたよ!」
『それなら行けるかも……』という夜宵の呟きが聞こえた。
『詠子。今からその子を呼ぶ』
「えっ!?」
『相手が敵意を向けて来るのなら、そっちを攻撃すると思う。でも、呼んだら必ずその子から離れて。少なくとも三メートル以上。そして身を低くして』
それは即ち三メートル以内に居たら危険であることを意味する。
『そしてもう一つ──』
夜宵は詠子にある忠告をする。
『……いい?』
「──やって、夜宵ちゃん!」
恐怖は今も心の中に燻っている。しかし、それを乗り越える程の未知なる恐怖への好奇心、探求心が決断を後押しする。
『──分かった』
詠子は夜宵の指示に従い、スマホとぬいぐるみを床に置いて急いで離れる。
斬って──
スマホから聞こえる夜宵の声がぬいぐるみに内に宿る虎を起こす。
『魔人虎ノ眼』
ぬいぐるみから溢れ出る赤黒い液体。床に溜まったそれはせり上がり、障子の形となる。障子に映り込む人の影。それは後ろから見ている詠子にも正面から見ているムカデの悪霊にも同じ光景として見えていた。
障子が開く。そこに立つのは袴姿の男性の霊。腰には二本の刀──打刀と脇差──を差し、毛根から毛先まで白く染まった長髪を後ろに撫で付けている。
「さ、
詠子の呟きに袴の霊が反応し、詠子の方へ振り向く。
深い皺が刻まれた初老の顔付き。しかし、その目は何処に向けられているのか焦点が定まっておらず、口は半開きとなって舌が飛び出ており、端からは涎が垂れている。手の指が不規則に動く様は蜘蛛の蠢きそのものであった。
「ひっ!」
悲鳴を出してしまった。呼び出された霊は正気ではなく意識が曖昧な状態であることが一目で分かる。
同じくムカデの悪霊もまた老人の霊に戸惑っていた。警戒をしていたが実態は正気ではない耄碌した老人。急にこんなものが現れれば悪霊とて困惑する。
しかし、いつまでも戸惑っている訳では無い。この老人の霊には腕を一本切り落とされている。その痛みと傷を癒す為には老人の霊を貪る必要がある。
ムカデの悪霊の複数ある手が老人の霊へ伸びていき、その身を引き裂こうとする。
老人の体が一瞬ぶれた。
「──えっ?」
──声を発したのは詠子。刀を抜いていた老人の霊の姿を見て思わず出て来たもの。
ギャアアアアアアアアッ!
叫ぶはムカデの悪霊。伸ばした手が全て切り落とされていた。いつ斬られたのか、ムカデの悪霊すらも目視出来ていない。詠子もいつ振り返ったのか。いつ刀を抜いたのか全く見えなかった。
刀を振り抜いた老人の姿を見て詠子は二つ気付いたことがある。老人の霊は刀の柄を撒折り曲げた人差し指と中指の二本で挟んでおり、まるで猫科動物の爪を彷彿とさせる。剣術に対して特に知識の無い詠子でも独特と言わざるを得ない握り。
もう一つは刀を持つ右手。老人の右手は何指と呼称すべきか分からないが、指が一本多かった。多指症という身体的特徴の持ち主である。
老人の霊はムカデの悪霊の二度目の攻撃を受けて相手を敵と認識したのか、ムカデの悪霊に向き直る。
そして──
◇
「詠子……!」
螢多朗はここには居ない恋人の身を案じながら焦る。
全ては一瞬のこと。行方不明者が出るという心霊スポットである廃屋の中に入った瞬間に隔離された。
夜宵が言うに廃屋そのものに悪霊が憑いているらしく自分たちはむざむざと相手の腹の中に入ったに等しいとのこと。
「夜宵ちゃん……大丈夫だよね……?」
「……分からない」
「そんな……!?」
断言してくれない夜宵に悪かった螢多朗の顔色は更に悪化する。
「あの子はムラが多い」
夜宵が言うあの子はホワイトタイガーのぬいぐるみに宿る霊。夜宵曰く、憑いている霊は江戸時代を生きたとある士の霊であり、元々は夜宵が偶然見つけた『虎殺し』という曰く付きの刀に憑いていたとのこと。
『虎殺し』の所有者は刀を咥えた虎に斬られる悪夢を見る。目覚めると斬られた箇所に蚯蚓腫れが出来ており、それを不気味に思い手放され転々と所有者を変えていき、最後には夜宵の下へ辿り着いた。
霊の姿は例外を除いて死んだときの姿を引き継ぐ。この霊も例外を洩れずに姿を引き継いだが、年齢を引き継いだことで霊に影響を及ぼす。
「正直、意思疎通は難しかった」
士の霊の意識は三つのパターンがあり、一つ目は完全に正気を失った曖昧な状態。二つ目は正気と曖昧の中間な状態であり、自分の間合いに入った者を容赦無く斬るという最も危険なパターン。三つ目は正気を取り戻した状態であり、夜宵はこの状態の士の霊と交渉した。
質が悪いことに如何なる状態であっても剣の腕は衰えておらず、無双と称される程の冴えを見せるとのこと。
「そ、それって大丈夫なの!?」
説明を受けて分かったことは、思っていた以上に詠子の身が危険だということのみ。
「なるべく早く合流を──」
夜宵の言葉が途切れる。そして、螢多朗の身にも変化が生じる。
「な、何だ……これ……!?」
上手く息を吸えなくなり、心臓が早まる。空気が粘度を帯びたかのように息苦しい。悪霊の恐怖とは違う経験したことのない外部からの圧により螢多朗の自律神経が乱れていく。
夜宵は唯一人何が起こっているのかを把握していた。
「──
◇
右手で猫科動物のように柄を握りながら刃先を左手で摘まむ。既存の剣術のどれにも該当しない構えをしたとき、空気が軋んだ。
(か、構えた……!)
夜宵の事前の忠告に従い、詠子は可能な限り身を伏せる。埃の匂いが漂う床に這いつくばるように。衣服が汚れようとも構いはしなかった。
詠子は身を伏せながらも老人の霊から目を離すことが出来ない。凄まじい殺気は忌避感を与えると同時に引力も生み出す。詠子の意識は殺気の引力に引き寄せられている。
ムカデの悪霊は構えた老人の霊に狼狽えるような仕草を見せるが逃げる様子を見せなかった。内にあるプライドのせいか、或いは逃げるという選択すらも塗り潰してしまう殺気の圧によるものか。
どちらにもムカデの悪霊は留まるという最悪の選択をしてしまった。
再び軋む音が鳴る。音は砕ける寸前まで奥歯を噛み締める音。
『い……』
今まで黙っていた老人の霊が初めて声を出す。
『い、伊良子……!』
地獄の鬼ですら逃げ出すような怨嗟に満ちた声。聞く者の肝が一気に冷える。名の通り老人の霊の瞳が猫科動物の如く拡大される。
『やってくれた喃……! やってくれた喃……!』
構えが老人の霊の中に眠る屈辱の記憶を呼び起こす。このことはムカデの悪霊とは一切関係無い。
老人の霊の中の消し去ることが出来ない記憶を引き金にし、構えから放たれるのは無双と謳われた流派の秘剣。
左手が刃先から離された瞬間に全ては終わっていた。
詠子が見たのは振り抜かれた後。ムカデの悪霊と向き合っていた筈の老人の霊はいつの間にかムカデの悪霊に背を向け、人差し指と中指の指先で柄の端を挟んでいる。
何が起こったのか分からないという表情のままムカデの悪霊の首から頭が落ち、そのまま消滅してしまう。
見る者は流れ星の始まりを見ることは叶わず。斬られる者は流れ星の終わりを見ることは叶わず。
役目を果たした老人の霊の姿が消えていく。
「あの!」
消える間際に詠子は声を掛け、老人の霊の眼が詠子に向けられた。
「ありがとうございました!」
礼を言い、頭を下げたとき老人の眼から曖昧さが無くなり正気の色を宿す。
『──』
女性と思わしき名を呟いた後、老人の霊はぬいぐるみの中へ返っていった。
「詠子!」
「──螢君!」
直後、霊現象が解除され隔離されていた詠子を螢多朗が見つける。
「無事で良かった」
「夜宵ちゃん! ありがとう!」
助けてくれた従姉妹を抱き締める。
「再会は嬉しいけど早くここから出よう。危ない」
「え? まだ悪霊が?」
「違う。あれ」
夜宵が壁を指差す。壁には黒い線が描かれている。
「あれは?」
「嘘……もしかして……!」
螢多朗は気付かないが、詠子は何かに気付く。壁の線は途切れることなくずっと続いており、向かい側の壁にも同様のものがある。
老人の霊の意識は曖昧故に刀の間合いすらも曖昧と化す。つまり刀の間合い以上のものが斬れるのだ。
「崩れるかもしれない」
廃屋は秘剣によって斬られ、辛うじてバランスを保ち乗っかっている状態となっていた。
シグルイから虎眼先生の登場。
正気を失っているときは危なく、正気のときも苛烈でパワハラ気質ですね。
作中では片手で数える程度の人情しか見せていませんが好きなキャラです。