Flos qui in fine vanitatis floruit 作:霜山美月
見渡す限りの人、人、人。
川の流れのようにとめどない、時々枝分かれしながら行き合う市民たちを眺めていた。
人通りの多い場所に不安がないと言えば嘘になる。
アリウス自治区から逃れ、拠点を転々としながら一日一日を生き延びるのに全力を尽くす日々。なぜそこまでする必要があるのかといえば、いつアリウスの残党と出会うかわからないというのに加え、エデン条約調印式襲撃の件でヴァルキューレに指名手配されているためである。
キヴォトスにおける正義と不義、その両方を敵に回してしまった私たちが陽のあたる場所で生活を送るのは難しい。ただ、学校も中退に等しい扱いの身かつ住所不定でありながら、職に就くことができた点は確かな成長だ。
もし仮にヴァルキューレによって身柄を押さえられてしまったとしても、超法規的権限を持つシャーレ所属の先生の力をもってすれば、恐らく何らかの取引を経て自由を与えられるだろう。根拠は語れないけれど、そんな確信がある。
だが、どうせ先生が助けてくれるからと人任せになるのは違う、と思う。きっと気が遠くなるほどの面倒な処理を押し付けられることになるだろうし、世間の目だってある。何より、それでは私は先生のくれた問いに答えられない。
……頭の中ではわかっていても、逸る気持ちを抑えられないことくらい私にだってある。
あの時は常にマスクを付けていた上に別働隊として動いていたし、顔までは割れていないだろうという無計画さで繰り出してきた先はトリニティ自治区の大型ショッピングモール。
もう少し外見を工夫することができればよかったのだけれど、私にお洒落に関するノウハウはない。付け焼き刃の知識はとっくの昔に忘れてしまった。
経験があることとすれば、アズサに似合う花を見繕い、彼女が無抵抗なのをいいことに着飾らせていたことくらい。たとえ願ったとしても、普通の女の子が欲しがるようなものが手に入りなんてしなかっただろうし、今更何も思わないのだけれど。
いつも通りのすっぴんに、いつも通りの服装。
意識の低さが露呈しているのはさておき、重要なのは待ち合わせの方だ。
店内、大きなツリーのオブジェが設置された吹き抜けのエリアで、ツリーを取り囲むベンチのひとつに腰掛けながらモモトークの画面を開く。
何気ないやり取りの跡をスクロールするだけでも笑みが溢れてしまいそう。最後に受信した『今行くね』の一言が、私の中に立ち込める退屈さを取り払ってくれていた。
それから十分ほどして、彼は現れた。
人の間を縫うように、時折ぶつかりそうになって頭を下げながら、駆け足でこちらへ向かってくる姿がこの距離でもはっきりと視認できた。
眼鏡を掛けているのにも拘わらず、数メートルほどの距離まで接近してようやく私の姿に気付いたらしい彼は、慌てて笑みを浮かべながら小さく手を振り、私の目の前で停止する。
彼もまたいつも通りの癖っ毛の下から、隈のできた生気のない眼差しを覗かせ、いつも通りの白衣のようにも見える真っ白なロングジャケットを羽織っていた。
「おはよう、先生」
ベンチから立ち上がり、肩で息をする彼に微笑みかける。
呆れてしまうほど特別感のない、なのにちょっとだけ特別な日の挨拶。
今の私たちには、これで十分。
彼の呼吸が落ち着くのを待ちながら、その端正な顔立ちを見上げていた。
「ごめん、アツコ……ちょっと用事に時間かかっちゃって」
「ううん、まだそんなに待ってない」
先生は私の知る誰よりも多忙だ。
いつもあちこちの学園を飛び回って問題の解決に奔走しているらしいし、シャーレのオフィスにいる時も大抵の場合は山積みされた資料かパソコンの画面と睨み合いをしている。その上、まさに今の私のように生徒の我儘にも付き合っているのだから、息付く暇もない日々を送っているのだ。多少の遅刻も容認できないほど、私は理解のない生徒ではない。
「でも、急にどうしてショッピングモールなんかに? いつもは人の多いところは避けてるのに」
「私、覚えてるよ。私が元気になったら遊んでくれるって言ったのは先生の方」
「私が……? そんなこと言ったっけ」
それでも、せっかく手に入れた今この時間を手離したくない。
きっと骨休めにもならないだろうけど……私にとって充実する時間が、彼にとってもそうであるようにと願って。
「『私はアツコがもっと元気な時に会いたかったよ。せっかく会えたのに遊びにも行けないでしょ』」
「あー……それは言葉通り、純粋に元気な時に会いたかったねってだけで、特に約束の意図は――」
「先生には、今の私は元気そうに見えない?」
今となってはその肩書きも意味を為さなくなってしまったけれど。
お姫様は、ちょっぴり我儘なくらいがちょうどいい。
一字一句違わずに先日の発言を掘り返され、悪戯めいた上目遣いをその身に受けた先生は、やがて諦めたように肩を竦めて破顔した。
「アツコには勝てないなぁ……今日はどこ行きたいの?」
「……あっち。行こう、先生」
了承を得たところで、指さした方向へ歩き始める。
進む先はどこだって構わない。実を言えばもう一番の用事は済ませていて、その成果はパーカーのポケットの中にしまわれている。今はそれに手を伸ばすまでの時間稼ぎというか……先生を私の隣に繋ぎ留める理由にしたくて、まだ言及するには早いと判断した。
つまるところ……これはデート。
普通を教えられることなく育った私が、普通の生徒を模倣する練習と称して、先生の時間を独占するための言い訳。
敏い彼はもう察していて、私に任せてくれているだけなのかもしれない。自分の意思を持つことのなかった私が、どこへ連れて行ってくれるのだろうと期待して。
「こういうところはよく来るの?」
「ううん、初めて。だから……楽しみ」
最初に立ち止まったのは、チェーン展開されている衣料品店の前。店の外へ向けられて貼り出されたポップの価格表示を見るに庶民向けの比較的安価な品揃えらしく、トリニティの制服を着た客もちらほらと見受けられた。
ヒヨリの愛読する雑誌に掲載されていたようなブランド物でこそないけれど、衣服に関する審美眼を持ち合わせていない私にとってはどちらであっても大差ない。むしろ、これまでの人生で最も懐の潤っている今は、購入を検討できる分、身の丈に合った選択肢に軍配が上がる。
軽く頷いて店内へ向かうと、先生も何も言わずに斜め後ろからついてくる。
商品の印象に温かみを持たせるためか、オレンジがかった照明に照らされる店内に一歩足を踏み入れれば、視界がありとあらゆる衣服で埋め尽くされた。
目眩がするほどあまりに豊富な品揃えの中を進み、控えめに見回しながら店内を物色する。インナー類にアウター類、パンツにスカートにワンピース、帽子にソックスに小物など……手を伸ばそうと思えば届くものはたくさんあるけれど、どれを手に取るべきかの判断がつかない。前提として、お洒落そのものに対する見識も欲求も、私にはないのだ。
「どれが似合うかな」
「アツコは何が欲しいの?」
「……わからない。なんとなく、来てみただけだから」
「うーん、私もレディースとなるとねぇ……そうだ、ちょっと待ってて」
先生は思いついたかのように手を打って私の傍を離れると、数十秒後には店員を引き連れて戻ってきた。
「この子に似合う服を見繕ってくれませんか?」
「こちらのお客様ですね! かしこまりました、どうぞこちらへ」
ちらりと先生の目を見ると、彼は微笑みながら頷いた。欲を言えば先生に選んで欲しかったけれど……まぁ、先生も同じ服を着ているところしか見たことがないし、こういったことには無頓着なのだろう。
試着室まで通されるや否や、店員は次から次へと商品を運んでくる。
特に希望はなかったから店員を困らせてしまうのではと危惧していたが、彼女はむしろ心底楽しそうに様々な形式の衣服を運んできた。カジュアル系、ガーリー系、ストリート系……言っていることはほぼ理解できなかったが、心からこの仕事が好きで相手をしてくれているということだけはわかった。
採寸され、着せ替え人形にされ、カーテンを開ける度、先生はまるで自分のことのように喜んでくれた。後半は当人である私よりずっとテンションが高かったような気がする。それは喩えれば、近所の子供の成長を喜ぶような、そんな反応だった。
「あれ、買わないの? 似合ってたのに」
「どれが一番いいのか、結局わからなかったから」
小一時間にわたって続いた着せ替えショーの末、元の服装に戻って試着室を出た私の発言に、先生は不思議そうに小首を傾げた。
店員には申し訳ないけれど、もとより欲しいものがあってこの店に来たわけではないし、着てみた上でも何が一番欲しいのかまでは決められなかった。強いて言えば、先生が褒めてくれたものは全部等しく手に入れたいけど……当然、そんなお金があるはずもない。
「まずは見た目からって言うんだって。変わりたい自分に、一歩近付けたりしないかなって思っただけ」
精神論を鵜呑みにするつもりはないが、変わるために自分にできそうなことだったらなんでもやる。
だから真っ先に目に付いたこの店に来てはみたものの、やっぱり私は私自身がわからないまま。
それを聞くと先生は顎に手を当て、しばらく考える素振りをして。
「すみません、彼女が最後に着た一式、購入させてください」
「かしこまりました! 裾上げいたしますので少々お待ちください~」
聞き間違いだと思った。でも、店員は間違いなくにこやかにそれと対になる返答をして、試着室横の入口からバックヤードへ潜っていってしまった。
「先生……?」
「あれからアツコも頑張ってくれてるってことは私にもわかるからね。ご褒美のプレゼントってことで」
彼はカードを取り出しながら、疲れ切った目と不釣り合いな笑顔を浮かべる。
そんな、先生には既にたくさんのものをもらっているのに。これ以上施しを受けてしまったら、一体どうやって恩を返していけばいいのだろう。
遠慮がちにその顔を見上げると、彼は私の胸の内を知ってか知らずか、視線から逃れるようにくるりと踵を返す。
「ちょっと時間かかるかな。そこで座って待っていようか」
「……うん。ありがとう」
言いたいことは色々あったはずなのに、湧き上がる言葉の数々をまとめられなくて、口をついて出たのはたった一言の感謝の言葉だけ。
先生はそれだけで満足といった風に、再びにこっと笑って備え付けの椅子の方へ向かっていった。
先程の店員が衣類を携えて戻ってきたのは、それから十分と少しした頃だ。
薄紫色の襟付きシャツと、黒を貴重としたニット素材のカーディガン。花柄刺繍のレース生地が可愛らしい膝丈のフレアスカートと、防寒を意識した厚手のタイツに厚底ショートブーツ。
最後には私がスカートの柄に好意的な反応を示したのを見て用意したのか、何らかの花を象った赤や紫のヘアピンにヘアゴムなどの小物まで。
いくら庶民向けとはいえ、これら全部となるとそれなりの金額になるのではと内心恐れを抱いている間に、受け取った先生は手早くレジを通して精算を済ませてしまった。
紙袋を受け取って店を出た後、先生からそれを受け取ろうとすると、「手が塞がっちゃうでしょ? 私が持つよ」と申し出を拒否された。新しい玩具を買ってもらって我慢のできない子供ではないから、粘ることはせずに彼の厚意に甘える。別に持ち歩くことは苦痛でもないのに、そういったさり気ない気遣いが彼のずるいところだ。
でも、受け取ろうとして今更気付いたのだが、私には別の問題もあった。
「……拠点の移動の時に荷物になるから、持ち帰れないかも。それに、汚したくもないし」
「あー……ごめん、そこまで考えてなかったな」
如何せん衣食住すべてが壊滅的な暮らしをしている身だ。高品質な衣を手に入れたところで、それを管理できる住を持ち合わせていない。
仮拠点にしている廃墟の劣悪な環境に置いてしまえば、せっかくのプレゼントも劣化してしまう。
「だから」
解決する方法がひとつ、既に私は閃いていた。
一度言葉を切って、後に続けるのはちょっとした頼み事。
「シャーレに置いてもいい? そうすれば、先生に会う時だけ着られる」
この上なく合理的で、最善な提案。
それを聞いて、彼は小首を傾げる。
「……外に出掛ける時に着られないと意味ないんじゃない?」
「いいの。先生が見てくれるなら、それでいい」
そう……それで構わない。
汚さなくて済むから、壊れなくて済むから。何せ生活が生活だ、可能性を淘汰していく理由ならいくらでも思いつく。
だからこそ逆に、お洒落に浅学な私がどんな時にその服を着たいと考えるか――ポジティブな理由を自分自身に問えば、返ってくる答えは決まり切っていた。
――少し見た目を変えたくらいで、変わりたい自分にすぐなれるわけではない。
言われなくてもわかっている。そんなに楽に片付く問題なら、私だってここまで悩んじゃいない。
けれどもしこの先、先生にもらったもので私が少しずつでも変わっていけるなら。
その姿は誰より先に、先生に見て欲しいから。
楽しい時間は早く過ぎ去るもの……アリウスにいた頃は到底理解の及ばない通説だった。これを初めて体験できたのも先生のおかげだ。本当に毎回、先生は色々なことを教えてくれる。
時刻は昼を大きく過ぎ、気付かぬ間におやつ時だ。広大な店内を歩き回っていることもあって、少し小腹が空いてくる。
昼に食事をしたのはチェーンのハンバーガーショップだった。先生は私のイメージに似合わないと言っていたけれど、別にまったく興味がないわけではなかったから。
それにもうひとつの理由は、先生が私に気を遣って選んでくれようとしたレストランよりずっと価格もお手頃だったためだ。これだけ施しを受けてしまっている現状では説得力もないかもしれないが、私も少しは自分で払えるというところを見せていかないと。
きっと先生が選んでくれた店でも満足ならできたと思うけれど、今回の選択で予期しない新しい発見もあった。一度ジャンキーな味の衝撃を知ってしまった私は、今後もこちらへ通うことになってしまうだろう。
「そろそろ少し休憩する? ちょうどそこにクレープ屋とかあるみたいだし」
他にも書店、雑貨店、CDショップや最初から買う予定のない家具屋まで練り歩いて……特に何かするわけでもなく、ただ先生とふたりきりの時間に浸りながら一階から二階のフロアにかけての店舗巡りを制覇した時、彼は私の顔色を窺うように言った。
空腹を耐え忍ぶ生き方をしてきた私にとってこの程度は些細なことだし、お腹の音が鳴ったわけでもないのに、どうして彼には伝わってしまうのだろう。……多くの生徒に好かれている先生のことだから、単にこういった場面に慣れているだけだろうか。それもそれで、私の知らない先生の一面を見せられているようで複雑な気持ちになる。
「うん。ちょうど小腹が空いてきたところだった」
「よし、じゃあ行こう」
なんだか面倒臭い子の考え方をしてしまったような気がして自分に嫌悪感を抱きつつも、表には出さないようにして蠱惑的な提案に同意する。
そこそこ客のいるクレープ屋の列の最後尾に並び、程なくして自分たちの番が訪れると、各々注文を済ませて横に捌けた。
数分後に先生が受け取ったのは、ホイップとチョコレートソースのみのスタンダード寄りのクレープ。数日前にカフェで食べた味が恋しくなった私は、それに加えていちごがふんだんに盛り付けられたものにした。
贅沢な甘い香りの宝庫を落としてしまわないように両手で持ちながら、近くのベンチに腰掛ける。そしてまずは一口、かぶりつこうとして――静止した。
小さな幸せをまさに今享受しようとしている私を踏み止まらせたのは、数日ぶりの再会によって目を覚ました、私の中のちょっとした悪戯心。
「先生、はい、あーん」
「……え?」
自分も一口食べようと口を開けた先生が、隣に座る生徒にクレープを突き付けられてぽかんとする。
これは本で読んで憧れていたシチュエーション。ただ自分の手で食べさせるだけの行為に何の意味があるのかわからない。わからないからこそ、試してみて、知りたい。
「……あの、アツコ?」
「あーん」
「えっと、私は自分のがあるから、それはアツコが――」
「あーん」
「わ、わかった、わかったからっ」
困惑する先生の口に半ば強引に押し込むと、彼は観念したように口を閉じた。
困り眉で咀嚼する彼の顔をまじまじと見つめながら待つこと十数秒。居心地が悪そうに視線を逸らしながら、彼はごくりと喉を鳴らした。
「……美味しいね。いちごの甘酸っぱさとチョコソースの相性が絶妙」
一言食レポを付け足した彼は、気恥ずかしさを誤魔化すように指で眼鏡を押さえた。
いつも頼れる大人として振る舞う先生が、初心な反応をするのも珍しい。そんな顔を見せられたら、私の悪戯心も加速してしまう。
「先生、私にもあーんして」
「いや……私のはいちごがないくらいで、アツコのとほとんど変わらないけど……」
「早く、あーん」
「ええ……」
シャーレに泊まった時はしてくれなかったのに、場合によっては意外にも強引に押し切れることを今この瞬間学んだ私は、先生の手で差し出されたクレープに齧り付く。もちっとした生地を噛み潰せば、ホイップクリームとチョコレートソースの二重の甘味が口の中に広がった。
いちごのような酸味のアクセントこそないけれど、このままでも極上の味であることに変わりはない。
「……どう?」
「ん……美味しい」
「ならよかった。ここの店、私は好んでたまに来るんだけど、甘すぎて好きじゃないって子もいるんだよねぇ。今思い出して、もしアツコもそっち側だったらどうしようかと思ってたから」
「ううん、私は好きだよ」
自然に取り繕おうとしているのがかえって透けて見えている先生がそうまくし立てるのに対して、私は率直な感想を述べるだけに留めた。
先生が好きなものを私が好きにならないはずがないから、言い訳のような気遣いは杞憂でしかないのに。
「とっても甘くて……本当に、好き」
その味とは別の胸焼けしそうなほどの幸せが、私の心を満たしていく。
中毒になってしまいそうなくらい甘くて、なのにどこかちょっぴり苦しくて。ずっと味わっていたいのに、ずっと浸っているのは耐えられない猛毒のような幸福。
顔を合わせる度に強くなっていく、不安定で不明瞭な感情の正体はまだわからないままだけれど。
先生が隣にいる今は目の前の幸福にだけ集中したくて、彼の歯型が残るクレープにかぶりついた。
――そんなこんなで、このショッピングモールに来てもう四時間が経つ。
小腹も満たしたことだし、さて行動再開といきたいところでもあるが、ベンチから立ち上がろうとした私をポケットの中の異物感が引き止めた。
……いけない。このために多忙な先生から暇な時間を聞き出して、どうにかこうにか今日という日を設けたのに、一緒にいられることが楽しくてつい浮かれてしまっていた。
ポケットの中に手を突っ込み、触ってその形を確かめる。これは私が初めて先生に贈る、日頃の感謝の気持ちを表したもの。
私の正体を知る治安維持組織に見つかるかもしれない危険性を無視してまで先生をここに呼んだのも、今朝方手に入れることのできたこれをすぐに先生に渡したかったからだ。
「先生。あのね」
ふたり分のクレープの包み紙を捨てるべく席を外してきた彼が戻ってきたタイミングで、私はその顔を見上げながら立ち上がる。
特に意識したつもりはないのだが、妙にかしこまった雰囲気になってしまった気がして、少し気恥ずかしくなりながらも。
「これ……私から先生に。いつも、先生にはもらってばっかりだから、お返ししたくて。花じゃないのは、私らしくないかもしれないけど」
意を決して取り出したのは、ラッピングされた手のひらサイズの長方形の箱。初めてもらった給料もほとんどこれのために消えてしまったが、先生に贈れるのであれば後悔はない。
「これは……?」
「ふふ。開けたらわかるよ」
どうしてだろう、プレゼントを渡すだけなのに、心臓がどきどきする。誰かにものをあげた経験は……アズサの制服に花飾りをあしらったことくらいならあるけれど、あの時だってこんな気持ちにはならなかった。
驚きを隠せずにいる先生の顔つきを見守る――ただそれだけの瞬間は、とても長く感じられた。
この瞬間が、ずっと続いてほしいとすら思った時。
「――ひったくりです! 捕まえて――!!」
――人混みの中でもよく通る叫び声がした、その直後に。
(ちょっと駆け足かも)