Flos qui in fine vanitatis floruit   作:霜山美月

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進捗ダメです(意訳:進捗ダメです)


Dulce momentum / 甘いひととき

「もう行くの? まだ熱が下がったばっかりだし、もう少し休んでいったって――」

「私は大丈夫。今日はやらなきゃいけないことことがあるから」

「……本当に? 何かあったらすぐに連絡してね」

「ありがとう。……一晩、お世話になりました」

「うん、またいつでも来てね」

 

 私はシャーレのビルの玄関口でぺこりと一礼すると、踵を返して歩き出す。五歩、十歩、二十歩と進みながら何回か後ろを振り返る度に、先生がこちらへ向けて手を振ってくれていた。

 口元に笑みが零れるのを感じつつ、目指すのは最寄りの駅の方面。目的地に着く頃には太陽も天辺に昇っていることだろう。あれだけしつこかった残暑が夢だったかのように寂寥感のある晴空の下、二色のイチョウの葉を弄ぶ涼しい風を背に受けながら、ただひたすらに歩き続けた。

 

 やがて駅に辿り着くと、携帯をかざして改札を抜け、私を待っていたかのように丁度いいタイミングで到着した電車に乗り込み、手近な空いている席に腰掛ける。通勤通学と昼休みの間の時間だからか、十分余裕があるくらいの乗客率だ。

 私は出発する電車の車内アナウンスを聞き流しながらポケットの携帯を取り出し、誰もが愛用しているトークアプリ、モモトークのアイコンをタップした。

 開くのは履歴順でその一番上、直近で会話を交わした相手とのトーク画面。ずっと連絡を寄越さなかったくせに、昨日突然慌てたようにメッセージを飛ばしてくるような、心配性なのか何なのかいまいちよくわからない友人との会話が並んでいた。

 

『姫! 身体は大丈夫か?』19:09

『今、ミサキから連絡があった。姫が高熱で倒れたと』19:10

『シャーレにいるらしいな。しっかり眠って休んでくれ』19:10

『あと、体調を崩すのは免疫力の低下、つまり寝不足や栄養不足だ』19:11

『ミサキのことだから心配はないと思うが、何を出されても好き嫌いはしないように』19:12

『辛いようだったら言ってくれ。用事を投げ出してでもそっちに行く』19:14

『アツコ?』19:20

『充電切れか?』19:22

『(不在着信)』19:25

『見る余裕もないほど辛いのか……?』19:26

『(不在着信)』19:28

『(不在着信)』19:29

『ヒヨリから返信があった。とりあえず大事には至っていないということで、了解した』19:41

『ゆっくりおやすみ、姫』19:42

『おはよう。すごい通知』8:19

『姫! 身体の調子は?』8:19

『だいたい大丈夫。心配してくれてありがとう』8:23

『今日も用事があってそっちには行けそうにないが、』8:24

『今日、会いに行くね』8:24

『何かあればすぐ呼んでくれ』8:24

『待て、何を言ってる』8:24

『姫』8:26

『ちょっと相談があるの。何時頃なら会える?』8:30

『体調は大丈夫だから。今日いる場所を教えて』8:30

『……わかった。正午過ぎにはゲヘナの市街地にいる。場所は後で送る』8:31

『あと、仕事先の人も一緒にお願い。会って話がしたい』8:31

『どういうことだ? 誰に聞いた?』8:32

『ひみつ』8:34

『なんなんだ、一体……』8:35

『(地図を転送)』10:04

 

 たった半日で数週間分かと見紛うほどのログを残したトーク画面に失笑してしまう。確かに『私たちは家族だ』とは言ったが、一般家庭の親目線だとしてもこれはさすがに気にかけすぎではないか。彼女の中での私の認識は、遠い昔の日のままアップデートされていないのかもしれない。それでも心配してくれること自体は嬉しいし、温かい気持ちになれるのだが。

 

『今、そっちに向かってる。時間通りには着くと思う』11:10

 

 私は追加で一文を打ち込み、送信されたのを確認してから画面を閉じた。

 窓の外で流れる景色は、気付けば見知らぬ街並みに変わっている。だいたいアリウス自治区の外へ出ること自体稀だったのだ、ゲヘナ自治区への道のりなど知るはずもない。

 だが、たまにはそういうのも悪くない。知らないことを知っていけるのは、何より楽しいことだから。

 

 そうして停車と発車を繰り返し、途中で乗り換えも挟みながら賑わう街並みを眺めること数十分、電光掲示板に流れた文字を見て降車した。

 お昼時ともなれば、当然駅内に行き交う人の数も明らかに増えている。私は人の流れに身を任せ、改札を抜けて外へ出た。

 

『了解。店内で待っている』11:44

 

 地図アプリの確認がてらにふとモモトークを起動してみると、たった今新着のメッセージを受信したところだった。私は『了解』とだけ返信して再び前を向く。

 方角と距離を確認したところ、目的地は思ったよりすぐ近くだった。

 

 たくさんの店の看板が立ち並ぶ通りをすたすたと歩き、立ち止まったのは一軒のカフェの前。

 個人経営だろうか、見たことも聞いたこともない店名だ。店の前におすすめメニューの小さな看板がひとつちょこんと出ているものの、それ以外に客寄せを意識したような装飾や工夫は見られない。強いて言えば木造建築感を前面に押し出したアンティークかつ高級感ある雰囲気が魅力的だが、若者向けを意識したかのような明るい色彩の店に挟まれた姿はさすがに浮いている。

 

 本当にここで間違いないかともう一度モモトークを開き、送られてきたリンクから地図アプリに飛べば表示されるのは先程見た店名。

 会社の人も呼んでくれたとのことだから、それに相応しい場所として選ばれたのかもしれない。私は入口のドアを押し、ギィィ……と年季の入った音を立てながら中へ足を踏み入れた。

 

 店内は開店中のプレートを再度確認したくなるほどに閑散としていて、常連客が好みそうなカウンター席でさえ無人だった。マスターと思しき人物が「いらっしゃいませ」とこちらへ目配せした後はほぼ無音で、控えめな音量で流れているはずのクラシックが聴覚を完全に支配し始めるほど。何とも言えない居心地の悪さを感じていると、ギィ、と木製の椅子に体重をかけるような音が奥から聞こえた。

 

「……姫。こっちだ」

 

 声の聞こえた方向を見れば、入って右奥の四人席に、ひとり客が背を向けながら座っている。

 私はその人物の方へ向かい、彼女の顔を見た。

 

「風邪は本当に大丈夫なのか?」

「もう元気。サッちゃんは心配しすぎだよ」

 

 滑らかな黒髪ロングの上にいつも身につけている黒いキャップ。

 優しささえ威圧感で包み隠してしまう青く鋭い眼光。

 私たちアリウススクワッドの元リーダー、サッちゃんこと錠前サオリが、手持ち無沙汰にしながら私を見上げていた。

 

「……約束通り、相手は呼んでおいた。もう十分もすれば着くだろう。だが、どうしてそんなことを……」

「その人たちが来たら話すよ。サッちゃんも、理由も聞いていないのに頼まれてくれてありがとう」

「私は訊いた。姫が答えなかっただけだ。……まぁ、姫が私に頼むということは、何かしら事情があるのだとは思っているが」

 

 サッちゃんは諦めたように首を振る。数週間ぶりに会う彼女も相変わらずのようだ。

 しかし、私は直後に違和感を覚えた。向かいの席に腰かけようとしながらも、目線の先は彼女の手元に。

 

「サッちゃん、注文は?」

「仕事先の人間が来てから頼む。それと、姫はこっちだ。上座は上の立場の人間が座るからな」

「上座……?」

「入口から遠い方が上座、反対が下座。ビジネスマナーの基本だ」

 

 彼女は座りかけた私の手首を掴み、自分の左隣に目配せする。

 上座……下座……ビジネスマナー……? 聞いたことのない言葉だ。彼女は私の知らないところで新しいことを勉強しているのかもしれない。私も置いていかれないように、帰ったら調べてみよう。

 とりあえず指示に従い、彼女の隣に腰掛ける。カフェに来ていながらテーブルの上が物寂しいのは不思議な気分だが、今は彼女の言う通り我慢だ。

 

 それから十分ほど、サッちゃんと他愛のない話をして時間を潰していると。

 

「……姫。約束の相手だ」

 

 カランカランと響くドアベルの音の陰で、サッちゃんが私の耳元で囁く。足音からして、ひとりではないらしい。一体どんな人たちなのだろう。

 私があの人たちを呼んでもらうようサッちゃんに頼んだのは、彼女の紹介で私も働かせてもらえないか交渉するためだ。学生の仲間で立ち上げた会社と聞いているから、実入りは期待できないかもしれないけれど、住所不定でまだ学生扱いになっているのかどうかも怪しい私を雇ってくれる職場なんて、自力で探そうと思ったら何ヶ月かかることか。同じ立場のサッちゃんがお世話になっているのであれば、このチャンスをものにしないわけにはいかなかった。

 

 そして、その交渉相手がついに私たちの正面に姿を現す。

 赤いリボンを結んだワイシャツにスリットの入ったタイトスカート、値が張りそうな革のファーコートに足元はハイヒールと、仕事のできる女性オーラをこれでもかと纏った赤髪の少女。彼女は私を品定めするように目を細め、やがてふっと不敵な笑みを浮かべながらコートの内ポケットに手を突っ込んだ。

 

「話は聞いているわ。便利屋68(シックスティエイト)、代表取締役社長の陸八魔アルよ。よろしく頼むわね」

 

 取り出したのは一枚の小さな紙切れ。その表面には、確かに彼女が述べた通りの社名と本人の氏名、更に肩書きや連絡先等々が記載されている。社長……つまり一番偉い人が直々に足を運んでくれたということだ、何としてでもここで話を通さなければ。

 

「あはは、そんなに畏まらないでいいって。ほら、これ私の名刺~」

 

 名刺と呼ぶらしいその紙切れを受け取るべきなのか躊躇して見つめていると、横入りしてきた手が社長と自身の名刺をまとめて私の手の内に押し付けてきた。

 便利屋68室長、浅黄ムツキ――渡された名刺にはそう書かれてある。役職には疎いが、この場にいるということは社長に次ぐナンバー2なのだろうか――フリルやらスリットやら改造の施された制服にアズサ以上に小さな身を包み、左側で結い上げた長い銀髪を揺らす彼女は、陸八魔社長を奥に押しのけながら着席した。

 

 やはり仕事をするともなると外見の印象が重要視されるのか、ふたりとも奇抜で目立つ服装をしている。おかげで私から見た第一印象は、極悪非道で冷酷な判断も辞さない社長、可愛らしい笑顔の裏に未知数の狂気を孕んだ室長というところに落ち着いた。実際、上からの指示だったとはいえエデン条約調印式でのテロ作戦を主導したサッちゃんをも抱き込んだのだから、それくらいであってもおかしくはない。

 

「で、そのマスクは何? ファッション?」

 

 椅子に座るや否や、頬杖をつきながら室長がそう問いかけてきた。一瞬何のことかと思ったが、自分の顔に手を当てようとしてすぐに気付く。

 

「姫……」

「忘れてた。ごめんなさい、室長」

「私はムツキでいいよ。姫ちゃん、よろしくね~」

 

 便利屋68室長……改めムツキは、マスクを外した私の顔を見て満足げに微笑み、前のめりになりながら私の手を握ってぶんぶんと振る。場を和ませようと振舞ってくれているのかもしれないが……私の『家族』にはいなかったような、距離感を掴みかねる性格の少女だ。

 

「改めて紹介する。彼女は秤アツコ、私の幼馴染だ。……とにかく、まずは注文を済ませよう」

「そうね。マスター、いつものをお願い」

「ん? この店そんなに来たことあったっけ」

「い……言ってなかったわね、実は前々から通っていたのよ! えーっと、いつ頃からだったかしら……」

「あー、わかった! 最近、応募の話が出てから妙にお昼頃いなくなるなって思ってたけど、予行で来てたんでしょ。社長として、落ち着いて商談できる場所は知っておかなきゃだもんね?」

「さ、さて……何のことだか……?」

 

 逸らした視線が図星であることを語っている社長は、誤魔化すようにひとつ咳払いしてから、改めて私の方へ向き直った。

 今のやり取りに鑑みると、先程述べた私の見解は過大評価というか、警戒心が産んだ偏見だったのかもしれない。たまに目にする表現を引用すればそう、アットホームな会社と言うべきか。

 しかし油断は禁物。私は決意を胸にまっすぐ彼女の目を見つめ返す。

 

「初めに説明しておくけれど、私たち便利屋68は、依頼主から受けた依頼を達成していくことで成り立っている会社よ。人探しに飼い猫探しのような単純なものから、それこそこんな場所では言えないようなことまで……成功報酬のためなら何だってする、いわゆる『何でも屋』ね」

 

 社長は目を細め、いかにも悪そうな笑みを作りながら言う。なんだか企業説明会にでも来た気分だ。……体験したことはないけれど。

 ただ、そんなことは今はどうだっていい。私が求めているのは、その次に続く問いかけだ。

 

「それで……秤アツコさん。確認だけど、あなたも、私たちと請負契約を交わしたいのよね?」

「うん」

「姫……!?」

 

 すると、右隣のサッちゃんが驚いた声を上げた。言っていなかったとはいえ察しはつくだろうに、大袈裟な反応だ。

 

「既に契約している幼馴染を通して私たちに会いたいだなんて、理由はそれくらいしか思いつかないもの。もちろん歓迎するわ! 私たちは人員を確保して事業を広げられる、あなたたちはビジネスパートナーとして安心して仕事を受けられる。まさにWin-Winの関係ね!」

「そうそう、アルちゃんが騙されないでちゃんとした仕事を持って来れたらの話だけどね!」

「なっ、何よ、その含みのある言い方は……!?」

「だってさぁ、先月も大きい依頼もらえたのに、報酬ちょろまかされた挙句、事務所爆破して全部パーにしちゃってたじゃん。いっそのこと、期待の新人サオリちゃんに任せてみてもいいんじゃない? いい仕事取ってきてくれるかもよ?」

「くっ……失敗は失敗として学んだもの、次は大丈夫よ! 便利屋68、新体制で汚名返上してやるんだから!」

「お客様、店内ではどうかお静かに」

 

 ムツキがからかい、社長が瞳を燃やす中、割って入ったマスターが彼女たちを諌めながら人数分のコーヒーカップを並べていった。

 挽きたてのコーヒーは湯気が立ち、甘酸っぱい重厚な芳香が漂っている。常飲しているわけではない私にはそれぞれの味を感じ分けることはできないだろうが、市販品と一線を画す品質であることは香りからして明らかだ。先生にインスタントコーヒーを淹れる機会は何度かあったから、その程度は私でも断言できた。

 

 向かいのふたりが慣れた手つきで各々注文したコーヒーを味わうのを見て、私もそれにならおうとした時、隣のサッちゃんが視線を落としたままぼそっと言う。

 

「……姫、どういうことなんだ。説明してくれ」

「私、今、お金が必要だから」

「ミサキとヒヨリはどうした? ミサキなら食べ物くらいは調達してくれていると思っていたが、何故急に――」

「ううん、そうじゃない。これは私の問題。私が、私の手で、私のしたいことのために稼がないといけないの。たとえサッちゃんが止めても、私はやるよ」

「姫……」

 

 まだ何か言いたげなサッちゃんの言葉を遮るように、私は卓上のシュガーポットを手元に寄せる。

 私たちは幼馴染だ。わざわざ口にせずとも、私に対して過保護な節がある彼女の言いたいことはわかる。

 アリウススクワッドのリーダーを務めていた彼女の指示はいつも正しかった。彼女の適切な判断に従ってばかりだった私だけれど、今回の件ばかりは譲れない。すべては、先生にお返しをするために。

 ひとりだけシンプルなカフェオレを注文した私は、それ以上答えるつもりはないと身をもって示すかのように、ティースプーンで砂糖を掬っては甘いミルクの香りの中へ一杯、二杯と放り込み始めた。

 

「うわぁ、姫ちゃん、ちょっと入れすぎじゃない? 胸焼けしそー」

「……そう? 先生はこのくらいが好きだった。だから私も、これが好き」

「……あぁ~、なるほど。この前、悪戯のつもりで大量に砂糖入れたのに無反応だったの、そういうことかぁ。じゃあ次はハバネロかな」

「何してるのよ……」

 

 ティースプーンでかき混ぜると、溶けきらずに底に溜まった砂糖がジャリジャリと鳴る。激務に追われる先生は度々カフェインを欲してインスタントコーヒーを淹れていたが、その実甘党な彼はいつもミルクと大量の砂糖を加えていた。初めて見た時は目を疑ったものだが、これがなかなかどうして癖になる。

 先生が好きなものは、私が好きなもの。だから、これを飲むと心が落ち着く。

 ふーふー、と吐息で少し冷ましてから、砂糖漬けのカフェオレを口に含む。口内に広がる甘さとそれに包まれる微かなほろ苦さが、私の思考をよりクリアにしていった。

 

「いつでも準備はできてる。私は何をすればいい?」

 

 カップをソーサーに置き、ゆっくり息を吐いてから問う。

 すると、社長は軽く首を横に振った。

 

「正式に依頼を受けてくるのはこれからよ。でも……私たち便利屋68のモットーは、『お金をもらえば何でもする』。危険な仕事だってあるかもしれないわ。秤アツコさん――あなたに、その覚悟はあるかしら?」

 

 彼女が返した質問は、便利屋68と契約を交わすことにあたっての再確認。

 ちらりと目だけで横を見ると、サッちゃんはコーヒーカップに視線を落としたままでいた。もう止める気はないということらしい。

 なら、ここは彼女の寛容さに甘えさせてもらうのみ。

 

「大丈夫、腕に自信はある。私にできることなら何でも言って」

「……ふふ、あなたの活躍を期待させてもらうわ。ちなみに社会人として聞いておくけれど、失敗した時や困った時はどうすべきかわかってる?」

「……仮に捕まって拷問されたとしても、絶対にあなたたちの情報は吐かない。痛いのは慣れてるから」

「それはさすがに助けを呼んでくれていいわよ……と、とにかく、報告・連絡・相談はお願いね……?」

 

 社長は冷や汗をかきながらコーヒーの水面を揺らす。体験したことのない採用面接を意識して誠心誠意働くことをアピールしたつもりだったが、何か間違えたのだろうか。

 ともかく、交渉は成立した。第一目標はクリアだ。

 そうしてようやく、口を噤んでいたサッちゃんも話に割り込んでくる。

 

「姫は、昔から私が教育担当として面倒を見てきた。実力の程は保証する。次の仕事も、先輩として私から指示を出そう」

「ええ、そうしましょう。縦割りができるといよいよ会社らしくなってくるわね!」

 

 何やら嬉しそうな社長は、残りのコーヒーをぐいっと呷って屈託のない笑顔を見せた。まだ出会って数十分だというのに、私の第一印象など見る影もない。

 一方、彼女の隣でカプチーノをちょびちょび啜っていたムツキは、ふと思い立ったようにスマホを取り出すと、その画面を見るなり社長の二の腕をつっついた。

 

「アルちゃん、そろそろ時間。今日こそは取引先にちゃんと話つけてこなきゃ」

「あら、もうそんな時間なのね……行くわよ、ムツキ、サオリ。マスター、この子におすすめのケーキを。この場のお代は私が持つわ」

 

 まだそれほど経っていないというのに、彼女らは次の予定が入っているらしかった。これが会社に勤める社会人というものなのだろうか。私も働き始めれば先生と会える機会が減ってしまうのかと思うと心寂しい。一般的な学生は今頃学校にいるはずだから、元々私が異端なだけなのだが。

 社長は壁に立てかけていたスナイパーライフルを手に席を立つ。その際にマスターへ呼びかけた一言を飲み込めず、私は思わず繰り返した。

 

「ケーキ……?」

「これから頑張ってもらうんだもの。仕事の件は明日にでも連絡するから、今のうちに英気を養っておきなさい?」

「アルちゃん、先月の電気代払ったっけ?」

「い……いいでしょこのくらい、誤差よ誤差」

「ふーん……ま、ロウソク灯して生活するのも雰囲気あって私は好きだけどね~」

「ちゃんと払うわよ! ……今日もらう仕事が上手くいったら」

 

 若干心配な情報が聞こえてきたような気がしたのはさておき、会社の下で働こうと試みるのは初めてのことだが、器量があるいい社長に出会えた。教えてくれたアズサにも感謝しなければ。

 

「……ありがとう、社長」

「お返しは仕事の成果でお願いね。……あと、私のことはアルでいいわ。それじゃあ、また明日」

「まったねー、姫ちゃん」

 

 社長――改めアルは後ろ手を上げてレジカウンターへ向かい、ムツキも手をひらひらと振りながら立ち去った。

 アルの携帯を翳された電子マネー決済用の機械がエラー音を吐き、すかさずムツキが代わりに支払っていたのはいまいち格好がついていなかったが、ああいう抜けているところも含めて、彼女は社長として社員に愛されているのかもしれない。そうでもなければ、高校生による会社の経営なんて続けられているはずがないのだから。

 

 ふたりが店を後にするのを見届けていると、隣のサッちゃんがコト、と空のコーヒーカップを置いて立ち上がった。

 

「……姫。まずは依頼の件が確定し次第、連絡する。明日はいつでも出かけられるよう準備しておいてくれ」

「了解。また、サッちゃんの指示で動けるんだね」

「まさかこんな形になるとは思っていなかったが……まぁ、よろしく頼む」

「うん。こちらこそ、よろしく」

 

 ゲヘナとトリニティを破滅へ追い込まんとするアリウススクワッドではなく、陸八魔アル社長率いる便利屋68のメンバー……というか、下請けとして。

 彼女の口ぶりからして一筋縄ではいかないかもしれないけれど、これは私が決めた道への第一歩だ。

 

 席を後にするサッちゃんと入れ替わりで、真っ白なホイップクリームで装飾されたショートケーキがテーブルに置かれる。嗜好品と縁のない生活を送っている私には、それはまるでひとつの芸術品のようにも見えた。

 銀のフォークで真っ赤ないちごをつつくと、甘酸っぱい香りが鼻腔をくすぐる。それを口の中へ放り込んで咀嚼すれば、瞬く間に小さな幸福が広がり、嚥下すると間もなく霧散していった。

 

 ひとつひとつの幸せは刹那的だ。それ故に虚しいと言い訳をしては逃げていたこともあったけれど、あなたがくれた幸せだけは、ずっと私を突き動かしてくれている。

 だから、今の私は決心できるのだ。

 教わった憎しみに応えるためではなく、いつも私を喜ばせてくれるあなたのために。

 不器用な私なりに頑張ってみるから、もう少しだけ、待っていてください。

 

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