Flos qui in fine vanitatis floruit 作:霜山美月
アリウスにいた頃は、夜の訪れは任務開始の合図に過ぎなかった。
悪い大人に支配された自治区で、洗脳された生徒たちに従いながら、ともに長い時を過ごしてきた少数精鋭部隊・アリウススクワッドは、主の望むままに身を賭して働く。
当然すべてというわけではないけれど、作戦開始の狼煙が上がるのは、大抵の場合は市民の寝静まった夜だった。
自分の在り方に疑問を抱いたことはなかったし、考えもしなかった。自分の行動の何が正しくて、何が間違っているのかも。
すべては虚しいものである――何度もそう教わった私には、思考も、言葉すらもすべてが無意味だった。
私が初めて希望を夢見たのはいつだっただろうか。自由を望んだのはいつだっただろうか。
今となってはもう思い出せないけれど、私が昔のように虚しさ以外の感情を自覚した時、いつもその目に映っていたのはアズサの姿だった。
日に日に大きさを増していく疑念は、アズサが見せてくれた花のおかげで確信へと変わり、終いにはあの戦いを経て私を決断へと導くに至った。自分の在り方すらわかっていないのに、彼女のようになりたいと心のどこかで願う私がそこにはいたのだ。
もう、夜は虚しいものではない。辛くも悲しくもないし、目を背けるのさえ諦めながら身を投げ出していく必要もない。
だから、これでも足取りは以前よりずっと軽やかだった。
なんだか、『
履き慣れたショートブーツが心地よい音を鳴らす。ちらと目線を上げてみれば、上弦の月が薄い雲に見え隠れしていた。
空が暗くなるのも日に日に早くなってきたものだ。
つい数ヶ月前まではまだ昼間の陽射しが残っていたような時間なのに、今日この日はすっかり立ち並ぶ店の明かりと街灯、街中を走り抜けていく車のライトだけが抵抗を続けていた。指名手配されている私たちが外を出歩くことを考えれば、そんな些細な変化さえかえって都合がいいとも言えるが。
色の判別のつきにくくなったコンクリートのタイルの上を歩きながら、前に一度通った道を辿る。前回は明確に往来が多かったものだが、そろそろ夕飯時が近付いてきていることもあってか、飲食店の少ないこの通りの人の流れは落ち着いていた。
他には、人が減れば会話の密度も低くなり、すれ違う人々の話が耳に入りやすくなったりといった変化もある。あの映画面白かったねだとか、今日の夕飯は何にしようだとか、もうちょっと厚着してくればよかっただとか、そんな他愛もない――でも、私にとってはちょっと憧れるような、普通の会話。
それらを聞き流しながら私が足を止めたのは、周囲に似合わずアンティーク調にデザインされた外観の店の前。
急に冷え込んだ夜風に吹かれ続けていてもいいことは何もない。大体、来てしまった以上は引き返す選択肢もないのだ。マスクを外しながら右手でドアを押し、ドアベルを鳴らしながら中へ足を踏み入れれば、別世界のように暖かな風が吹き抜けた。
年季の入った木製の椅子と机、店内に漂う香ばしい香り、控えめな音量で再生されるクラシック音楽。
今日も今日とて客の姿は……いや、カウンター席に何人か座っていた。どうやら私の思い過ごしだったようで、常連客とはどの店にもいるものらしい。
グラスを磨きながら「いらっしゃいませ」と声を掛けてきたマスターに軽く会釈をして、迷わず奥のテーブル席へ進む。
最奥の壁際席に、彼女はいた。退屈そうに携帯をいじり、ホットミルクを啜りながら……私が来たことに気づくと、カップを置いてにかっと笑う。
「ここ、夜はバーになるんだって。言われてみれば、マスターもその方が似合ってるもんね?」
そう言って彼女はカウンターを指差す。
今しがた見かけたカウンター席の客はカップではなくグラスを傾けていたし、中の液体も透き通っていた。単に他のメニューもあるのだろうと予想していたが、店自体が形態を変化させていたらしい。
……が、多分、そんなことはどうでもよくて。
「こんばんは、ムツキ。……上座はこっちだよ」
「ん? 別に気にしなくていいじゃん、そんなの。とりあえず座って、ね?」
便利屋68の室長、浅黄ムツキがテーブルの上を指先でトントンと叩くので、私は昨日調べた知識を一旦胸の奥にしまい、大人しく腰掛けることにする。
ギィと音を立てて椅子に体重を預けると、私より座高の低いムツキが上目遣いで目を合わせながら微笑んだ。その笑みは一見可愛らしいのに、やはり瞳の奥に得体の知れない何かを映しているようで気が気でない。その不思議さを含めて、彼女の魅力と言えるのだろうが。
今日の昼、私は雇われの身として、便利屋68のメンバーとともに債権回収の任務を遂行した。
道中は色々あったけれど、結果として初仕事は成功に終わった。おかげで便利屋68には成功報酬が入り、給料問題も一時的にだが解決しそうとのことだった。
情報不足によって事前に立てた作戦は出鼻を挫かれ、覆面水着団――もといアビドスの対策委員会が現れなければどうなっていたかは想像に難くない。
私にできたことといえば、偶然居合わせた対策委員会の一員であるセリカを、ヘリコプターの奇襲から守れたことくらいだ。
そんな仕事終わりで暇を持て余していた私を、目の前に座るムツキは直々に指名してこの店へ呼んだ。他の社員の姿はない。ここにいるのは、私と彼女だけだ。
「とりあえず何か飲む? あ、お腹は空いてる? ほらこれ、ディナーもあるんだって。おいしそー」
「大丈夫。この前と同じ、カフェオレだけで」
「それだけ? ……あっ、そっか」
ムツキはラミネート加工されたメニュー表を置いてぽんと手を打つと、隣の椅子から大きくはみ出すようにして置かれたバッグの中身をがさごそと漁る。そして取り出した茶封筒を、私の方へ向けて差し出してきた。
宛名が書かれていなければ封もされていない。郵送の考慮なんてされていない、ただ目的物を手渡しするためだけの器らしい。
「じゃーん、これアルちゃんから。今回のお給料だって」
「私、まだ一度しか働いてないよ」
「新人のモチベーションアップのためなんだってさ。姫ちゃん痩せてるんだもん、これで美味しいもの食べなよ」
「……うん。ありがとう」
ムツキに押し付けられた封筒の中を覗けば、中には何枚かの紙幣が入っていた。普通の人にしてみれば決して大きな額ではないだろうが、私にとっては貴重な第一歩だ。
私が便利屋68で働きたいと思った理由は、ただ純粋にお金を稼ぎたかったから。
なぜお金が欲しかったのかといえば、そのお金で、形に残るモノを先生に贈りたかったから。
一般生徒の手が届かないほど高額なものを欲さない限りは、これだけあれば十分足るだろう。
まだ、肝心の買うものが決まっていないわけだけれども。
「よーしっ、何食べよっかな~」
再びメニュー表を手に取ったムツキは、上から順に流し見しながら唸っている。私も真似してもう一枚用意されていたメニュー表を取り出してみるが、そこに書かれていたのはドリンク類と軽食の一覧だった。
しかし、首を捻ってぺらりとそれを裏返してみれば、その他の食べ物にカテゴリ化されたメニューが現れる。パスタ類にピザ、オムライスにカレーライス……選り取り見取りの料理の数々が、写真を通じて私を誘惑した。あまりに選択肢が多すぎて目移りしてしまうほどの、宝石のように具現化された幸せが、誤魔化すのにも慣れてしまった私の食欲を刺激する。
「今日はせっかく姫ちゃんとふたりっきりで話せるんだし、奮発しちゃおっと。うちも普段は貧乏でさ、一杯のラーメンを四人で分け合ったりしてるんだよ? 信じられる? ま、楽しいからいいんだけどさ~」
彼女はけたけたと笑いながら、「見てよこれ」と携帯の画面を突き出してきた。
映し出されていたのは一枚のセルフィーで撮影された写真で、外側に便利屋68の面々の顔が並んでいるのはいいが、問題は中心に鎮座している一風変わったタワーのようなオブジェ。それが大量の麺と野菜によって丼の上に高く建設された一杯のラーメンだと気付くまでには少々の時間を要した。
「ここの大将がいい人でね、今でもよく行くんだよ。世の中優しくしてくれる人ばっかじゃないからさ、お腹が空いてどうしようもない日もあるんだけど。そんな生活の中で美味しいものに出会っちゃうと、自分でもびっくりするくらいやる気になれるんだよね~」
ムツキは「ここ、セリカちゃんのバイト先だから、姫ちゃんもちょっと負けてくれるかもね?」などと付け足す。困窮した生活の中でいきなりこんなに脂っこくてハイカロリーなものを摂取してしまうと、身体が驚いてしまいそうなものだけれど……そこまで語られないのは、四人で分け合うことでどうにかなっているからだろうか。
「美味しいものを食べると気分が弾む。気分が弾むと普段よりお喋りになる。たまにはそんな日もあっていいでしょ? まだお酒が飲めないってところだけ惜しいけど」
携帯をポケットにしまい、肩肘で頬杖をつきながら、ムツキは視線をメニュー表に戻した。
彼女が提示した例ほど極端なものは食べたことがないから、その意見が正しいのかは判断できない。とはいえ、ここで追及する必要もないだろう。それはきっと、今これから証明されるのだから。
「んー、今日はお肉の気分。ハンバーグにしよっかな。姫ちゃんは?」
「……、私も同じのでいいよ」
「気、遣ってない? 好きなもの頼んでいいんだよー?」
「好きかどうかはわからないけど、気になるのはどれも同じだから」
写真に映る料理はどれも私の目を引き、等しく私を引きつける。
こんなところで迷っていたら、いつまで経っても注文できない。そう判断しての合理的な選択だった。
「……まぁ、姫ちゃんならそう言うか」
一瞬目を伏せたかと思うと、次の瞬間には何事もなかったかのように。
「マスター、注文お願いしまーす!」
「お客様、店内ではどうかお静かに」
マスターに諌められるムツキと一緒に、手早く注文を済ませた。飲み物はもちろん、先日と同じカフェオレだ。
このカフェ兼バーはマスターがひとりで経営しているのか、カウンターの中から人は消え、その奥へ繋がっているらしい厨房から物音が聞こえ始める。料理ができるまでの退屈な時間を、ムツキの話に相槌を打ちながら待つことになった。
まだ、ムツキとはほんの数日の付き合いだ。
彼女について知っていることといえば、ゲヘナ学園の生徒で、便利屋68の室長で、確かな実力のある生徒で、おちゃらけた態度のくせにどこか読めないところのある子……それくらいの認識しかない。
自分のことも、ずっと一緒にいた家族のことさえよく知らなかった私が、出会ったばかりの彼女を理解できるはずもないのだけれど。それでも構わないというように、彼女は滑らかに喋り続けていた。
どれくらい経ったのかは定かではないが、やがてその時が訪れた。
ふたりの目の前に置かれたのは、真っ白な平皿に盛り付けられたハンバーグ。香り豊かなデミグラスソースと彩り鮮やかな温野菜も相まって、写真を通してよりずっと魅力的なものに思えた。
「うわぁ、おいしそ~! いただきまーす!」
それを受け取るや否や、ムツキは話を中断してすぐさまナイフとフォークを手に取り。
「……んふ~、最っ高。アルちゃんたちにはちょっと申し訳ないことしたかな?」
咀嚼して飲み下した後、頬を押さえながら言葉に反して悪びれもなく言う。この時ばかりは純粋に幸福を堪能している彼女に気抜けしながら、私もカフェオレのカップを置いて代わりに食器へ手を伸ばした。
見よう見まねで肉塊を切り分け、溢れ出る肉汁に唾を飲みながら口元へ運ぶ。
ぱくり、一口頬張れば、強烈な牛肉の旨味が口内に広がり、ソースにも含まれる玉ねぎの甘味がそれを包み込んだ。芳香な香りが鼻から抜け、遅れてピリッとした香辛料が舌を刺激する。
贅沢から程遠い生活を送ってきた私には、この感動を表現するための語彙を持ち合わせていなかった。
この瞬間、確かに腑に落ちたことといえば。
美味しいものを食べると、気分が弾む――彼女の発言がまさにその通りであったことくらいか。
「コーヒーもお酒も、こんなに美味しいご飯だって出せるのに、どうしてお客さん少ないんだろうね。もったいなーい」
素朴な疑問を口にしながら、それと入れ替わりで肉の欠片をぱくぱくと小さな口へ放り込んでいく。
一口ごとに口角を上げて存分に味わっている彼女は、どこにでもいる育ち盛りな普通の生徒にしか見えなかった。
どうしてムツキは私をここへ呼んだのか。
他の社員も連れずに一対一で対面しているのか。
手元にあるのは、途中式も書きかけのまま、感覚的に導き出した憶測だ。
それでもきっと彼女は、私が話を切り出すのを待っている。
「私、ムツキが言ったことを考えてみた。自分で考えて、行動もしてみた。ムツキが私に何を望んでいるのか、まだ答えられるまでにはなってないけれど……それを聞きたくて、呼んだの?」
「くふ、姫ちゃんは真面目だね」
身を呈してセリカを庇ったのは、誰に命令されたわけでもない私自身の選択であり、私自身がその瞬間にしたいと思ったこと。私が理解を諦めていた、本当の自分が起こした行動のひとつであることは確かだ。
周りも、自分のことさえも見えていなかった私を『殻に閉じこもっていた』と表現するなら、今日の選択を経た私は、その表現から脱したと言っても過言ではないのではないか。
でっち上げた論理のその先を見越しているのか、ムツキは唇の端を紙ナプキンで拭いながら笑う。
つい数秒前までの、ハンバーグにありついている『普通の』生徒という印象も、ソースと一緒に拭い去られてしまう。
「別に、そんなに難しいことじゃないって。私はただ、姫ちゃんはポップコーンみたいだな~って思っただけ!」
「そのたとえは、もっとわからなかった」
「んー、正確には今はできあがる前の、ね。姫ちゃん、全然自分のこと話してくれないんだもん。あえてうちで働きたいだなんて、絶対普通じゃないのに」
彼女はわざとらしく唇を尖らせながらナイフを置く。
自分のことを話さない……?
そんなことを言われても、元来、私は――いや。
……そういうことか。
「もっと簡単で単純だよ、深く考える必要なんてない。あ、姫ちゃんに助けられたっていうのはセリカちゃんから直接聞いたんだけどね。あの子を助けるか見捨てるか、姫ちゃんは悩んだりした?」
ムツキの言葉も徐々に遠くなっていく。
夢想だにしなかった話だ。
始まりは何年も昔、部外者であった私が、サッちゃん、ミサキ、ヒヨリの三人と合流して間もない頃のお話。
戒律の守護者、ユスティナ聖徒会の血統――ロイヤルブラッドの末裔である私は、マダムの計画した儀式の生贄となるべく育てられてきた。
顔全体を覆うマスクによって表情を隠され、声を出すことすら許されず、手話以外のあらゆるコミュニケーションを禁じられた。
希望を持たせることなく、世のすべては虚しいものであると、教育するために。
けれど、どうして私だけがそれほどまで徹底的に希望を潰されていたのかは、今になってみると不可解だった。
声を出すと戒律の守護者のような、人ならざる者を呼び起こしてしまうから? ううん、本当のことはわからないけれど、もしかしたらもっと単純な理由なのかもしれない。
もう戻れない、遠い日の記憶だけれど。
アリウスによる教育が始まる前、初めて友達と呼べる存在ができたあの頃の私は。
今のムツキに負けないくらい、夢見がちでおしゃべりな子だったから……とか。
「……ちょっとだけ、わかったかも」
私自身、そんな自覚はなかったのだ。
いつの間にかそれが当たり前になっていたから、それが自分なのだと受け入れていた。
だから、つい最近になってまた声を出すようになっても、何不自由なく事を進められている気がしていた。
変わりたいと願い始めた今の私が、まさか望まず変わり果てた後の姿だなんて。
ムツキが私の過去を知るはずもない。
彼女の助言で思い当たる節を見つけられたのは偶然に過ぎない。
なのに、どうしてこんなにも見透かされているように感じるのだろう。
彼女は最後の一欠片を口の中へ放り込み、飲み下すと唇の端を舐める。
その視線は交差しているはずなのに、瞳の奥はどこか遠くを望んでいるようにも見えた。
「ちゃんと火さえ用意してあげれば、ポップコーンは弾けられる。隠していた本当の自分を、自分のやりたいことを表に出せるようになるの。私の幼馴染も、まさにそうだった。姫ちゃんもきっと、内なる自分を曝け出せるようになるって思ってるよ」
「……どうかな。私、今の自分のことなんてよくわからないのに」
「大丈夫。今回は特別に、私が火付け役になってあげるから」
向こうのカウンター席の彼と同じような所作で、冷めてしまったただのミルクをぐいっと呷ると。
「何てったって私は今、美味しいものを食べられて気分がいいからね! もし姫ちゃんにその気があるなら……姫ちゃんの中で燻ってること、ムツキちゃんがなーんでも聞いてあげる」
身を乗り出しつつ右手を伸ばして私の頭を撫でながら、屈託のない笑みを浮かべた。
……浅黄ムツキという少女は、本当にどこまでも掴みどころがない少女だ。
隙あらばアルをからかう悪戯好きな性格かと思えば、事ある毎に気に入らないものを爆破しようとする過激な一面もあり、今こうして他人の心の内に足を踏み入れるようなふりをしながら、その実に丁寧に道標を立てていくだけの器用な芸当もやってのける。
心地のいいくすぐったさを感じながらされるがままになっていた私は、何を言い返せばいいのかわからず、答えを求めて横目で窓の外へ目を向けた。
うっすらと反射した自分の顔。
別に物悲しげだとかやつれているだとか、そんな様子は見受けられず、些か表情の乏しいようにも見えるけれど、それも含めていつも通りの私、いつも通りの秤アツコという人間。
背景に描かれた日に日に物寂しさと虚しさを増していく季節の物影は、それでもまた別の価値を見出すべくもがいている。
「……お客様、店内ではどうかお静かに」
再三繰り返されるマスターの諫言に対し、ムツキが不満げに返事する声が聞こえる。
ガラスに映る幼稚で口下手でちょっぴり我儘な少女は、わずかに口元を綻ばせていた。