許してくだひゃい
彼女がトイレに爆走して行ったあと、部屋に一人取り残された僕は、さっきの会話を
「教え方が上手い……か」
丸付けを済ませたテキストをぼんやりと眺めながら呟く。
そんなつもりはなかったけど、彼女があそこまで言うならそうなんだろうか。
「うーん……」
でも、教えるだけならシャアの方がずっと上手い。これだけは自信を持って言える。
僕も、昔はよく彼に課題を手伝ってもらったものだ。
「……」
……課題だけじゃないか。
もっと色んなことを手伝ってもらったし、助けてもらった。
少し目を閉じるだけで、瞼の裏に彼との様々な思い出が浮かび上がる。
あれは小学二年生の時。これは五年生の時。どれも昨日のことのように思い返せる。
「……うん」
納得させるように、小さく頷く。
謙遜なんかじゃない。すごいのは他のみんなで、僕にできることはそのお手伝い。
……それで良いじゃないか。
そうして、次第に僕は思考の海へと沈んでいった。
◆
僕の幼馴染は、よくできたやつだった。
誰よりも真面目で、誰よりも優しくて、誰よりもかっこよくて。
賢くて、運動もできて、性格も良くて。
絵に描いたような善人。そんな人間だった。
困っている人がいれば迷わず手を差し伸べて、その人が一人で立てるようになるまで支えてくれる。
そんなことが平然とできて。それが当たり前だと思っていて。
彼のことを尋ねれば、誰もが口を揃えて言うだろう。
――「良いやつだ」と。
僕だけでなく、みんなが彼を慕っていた。
僕も、慕われて然るべき人間だと思っていた。
彼の周りにはいつも多くの人がいた。
彼は交友関係も広く、他の学年にも友達がいたりした。男子も女子も関係なく、みんな彼のことが好きだった。
僕も彼のことが好きだったし、同い年ながらも尊敬していた。
そんな彼が親友と言ってくれることを誇らしく思ったりもした。
……元々僕はこんな性格だったわけじゃない。昔の僕は、今よりもっと不真面目で適当なやつだった。
誰かに勉強を教えることなんてしなかったし、そもそも課題を期日までにちゃんとやるような人間でもなかった。
夏休みの課題だってまともにやらず、いつも最終日になって彼に泣きついていた。
今思えばどうしようもない悪ガキだったが、彼はそんな僕にも寄り添って手伝ってくれた。
結局、僕は彼の優しさに甘えていたんだと思う。
……でも。
いつだったか、僕は気付いた。このままじゃダメだと。
彼は、すごいやつだった。
同級生だけでなく、先生からの信頼も篤かった。成績だって良かったし、それも当然のことだった。
だからこそ。
僕が。こんな僕が。こんな不真面目な人間が――。
――彼の側にいたら、彼が悪く言われるんじゃないかって。
いつしか、そう思うようになった。
嫌だった。
それだけは、僕のせいで彼が悪く言われることだけは嫌だった。
だって、彼は真面目で、優しくて、かっこよくて。
本当にすごくて、素晴らしいやつなのに。
それなのに、ただ僕が隣にいるだけでとやかく言われるなんて……かわいそうじゃないか。
彼は何も悪くないのに。悪いのは僕なのに。
だから、僕は変わることにした。他でもない彼のために。
勉強を頑張った。宿題も必ず出すようにした。
人に優しくした。誰かが困っていれば、僕ができる限りの手助けをした。
大人になろうとした。もう誰かに迷惑をかけることがないよう努めた。
彼の隣に相応しいように。
彼の隣にいても恥ずかしくないように。
彼の隣にいることが許されるように。
……彼の親友でいられるように。
僕は、変わろうとしたんだ。
◆
結果として、僕は変われたと思う。
労を厭わずやり続けた勉強の成果は、成績の向上という形で表れた。そうして、今日みたく誰かに教えられる程度には成長できた。
人助けもして、それなりに頼られるようになった。少なくとも、僕はクラスでは『優しい人』として通っているらしい。
迷惑も……かけてはいないつもりだ。
彼にも、他の誰かにも。
……いや。
「つもりだったんだけど……」
この身体になったあの日、僕は両親と彼に助けられ、同時に散々迷惑をかけてしまった。
あんなことがあったんだし仕方ない、不可抗力だったんだと言ってくれたが、僕の中には後ろめたさが残ったままだった。
「……」
思えば、さっきもそうだった。
力が弱くなったことをすっかり失念して、結果的に彼女に机を運ぶのを手伝わせてしまった。
『お姉ちゃんを頼るのは妹の特権だよ?』
彼女はそう言ってくれたけど、他に方法があったんじゃないか?
持ち運ぶのが無理なら、転がしていけば僕一人でも……いや、無茶に運んで机を倒してしまって、もし彼女に怪我でもさせてしまったらいよいよ迷惑どころの話じゃない。
「……なんだかなあ」
誰かに迷惑かけることなく、彼の隣にいられるような立派な人間。それを目標にしてこれまで頑張ってきたのに、この身体になってから迷惑をかけっぱなしだ。
「……ダメだ」
両手で顔を覆い、頭を振る。
一度思考がマイナスに傾くと止まらなくなるのは僕の悪い癖だ。
いつまでもウジウジと悩んでいても仕方がない。一旦このことは忘れよう。
そう結論付けて、思考の海から浮上する。
見れば、まだ彼女は戻ってきていないようだった。
机の上に置いてある時計を確認すると、時刻は午後二時四十五分。彼女がトイレに行ったのが二時半だから、もう十五分も経っていることになる。
さすがにちょっと遅すぎじゃないだろうか。
「大丈夫かな……お姉ちゃん」
部屋を出て行った時の彼女の表情を思い出す。
顔色は悪く、顔も歪めていて、なんだか重病人のような風貌だった。
「……」
あの時はトイレくらいで大袈裟だなあ、と思っていたが、もしかしたら本当にどこか悪かったんじゃないか。
そう思うと一気に心配になってきた。
杞憂かもしれない。でも、それならそれで構わない。何かあってからでは遅いのだから。
居ても立ってもいられなくなり、立ち上がってそのままドアを開けて廊下へと飛び出す。
その足で階段まで一気に――。
「――あれ? 唯ちゃんどしたの?」
「どうしたの、そんなに焦って」
声がした方向に顔を向けると、そこには彼女と母が並んで立っていた。二人とも不思議そうな顔で僕を見ている。
「なに……してんの」
脳内が混乱を極める中で、なんとか声を捻り出す。
なんで? トイレに行ったんじゃなかったの? いつからそこにいたの?
そんな疑問を乗せて問いかける。
「……」
「……」
心底訳が分からない僕をよそに、二人は顔を見合わせて何やら意思疎通をしている。
そして、二人してゆっくりと近づいてきた。
「え、なに」
「唯ちゃん」
「う、うん」
彼女が僕の目線に合わせて屈み、まっすぐこちらを見つめてくる。
あまりにも深い真紅の目に、思わず吸い込まれそうな錯覚を覚える。
「……あなた」
「ひゃい」
「下着、着けてないでしょ」
「……へ?」
飛び出してきたのは、思いもよらない言葉だった。
……下着?