マリオン・ウェルチは”夢”を見る。
それはある男を通して望む外界の風景であり、目にする事はできようとも触れる事能わず。空気に溶け切らぬ人々の体臭を嗅ぐ事も、食物の味覚に想いを馳せる事も出来ない。
例えるならば、テレビ・モニター越しに見る情景だ。
視覚を頼りにしたものとはいえ、様々な情報をマリオンに
孤児として拾われ、かつては養父と慕った男の研究を協力、今に至るまで見た事が無いモノばかりが誘惑し、蒼い海に沈んだ彼女の惹きつけて止まない。
そうした中でマリオンは自身と外を隔てる窓であり、無自覚に外意からの遮蔽物となって彼女を守る男へと、意識を向ける。
獅子を髣髴させる灰色の蓬髪に、同色の双眸は如何なるものに研磨されたのか鋭く、その風貌も獰猛な肉食獣のように締まった、二十代半ばに見える男性。
ジオン公国軍佐官の軍服を身に纏い丁寧に刺繍されたマントを羽織った彼は、斯くも一軍の長と言える風格で自らを囲う人々と言葉を交わし、従わせていた。
幾人もの、様々な人種の大人達が灰色の男を訪ねては何事かを話して去って行く。
ただ、言葉が耳へ届かない蒼い世界に囚われている少女は、彼らの声が聴こえない。
その代り、伝わるのだ。
一人一人が想い抱く感情、内なる言の葉が。思惟ともいうべきそれが、彼らの身から透けて見えるのだ。マリオンも明確に言語化できない情報の一辺ではあるが、そのニュアンスを掴み取るには申し分ないものであり、齢十五に満たない少女を特別視させる能力の一片でもあった。
これはつまり、言語を介さずとも意思疎通が可能ということ。
例えるなら磁石のようなもので、度合いの強弱もあれば反発、読み取る事が出来ない人も居た。
それは感受性の強い人だったり、意志が頑なな人、思考が他とズレている人だった時もある。
尤も、彼女が経験した事は程度はあれど一方的に思考を読むもので、両者の間に意志が通い伝わった試しはない。
実験を重ねても、これだけは上手く行かなかった。
結局は断念し、別の研究を進める事になったのだが――その記憶は、思い出は信じていた人達によって、裏切られ汚されてしまった。
自分のようなチカラをもった人間は、きっとシアワセになれないのだと。
事が終わった後に、諦観の海に沈んだのはいつだったか。
誰も触れない。誰も近寄らない。誰も傷つけたりしない。
蒼色の世界へ
――――マリオン・ウェルチは、己の思考へ浸る。
わからない。
分からない。
解らない。
判らない。
誰も踏み込めない世界へ行って。痛みも苦しみも熱さも無い場所へ去って。その後は……?
考える事もせずに、思考を眠った状態にして、只々過ごしていたのに。
冷たい蒼い世界に訪れた、同じ色なのに温かい波を放つ、自分を傷つけた人達と同じ男のヒト。
どうか、教えて欲しい。
どうして、アナタは身近な人にバケモノ扱いされないの。
どうして、アナタはわたしと同じ人の考えを読めるのに、心を閉じないの。
どうして、アナタはイタクテクルシイノニ、その場所で笑っているの。
妬ましい。アナタが妬ましい。
同類の癖に。人の意志を解せる化物の癖に。
相手の醜い部分を耳では無く心で聞いているのに、歪まないアナタの心の在り方が妬ましい。
アナタ自身を見てくれるヒト、支えてくれるヒトに守られたアナタの存在が妬ましい。
「わたしは」
羨ましい。アナタが羨ましい。
本当は怖い癖に。誰かを失う事が、傷付く事が人一倍怖い癖に。
傷ついても立ち上がる、折れない心根を持ったアナタが羨ましい。
自分がおかしいと自覚しているのに、排斥を恐れず人の輪に居続ける覚悟が羨ましい。
アナタが求め、アナタを求めている人達が、帰る場所が在るアナタが羨ましい。
「どうして」
手を伸ばせば、触れる距離にアナタは居る。
一歩進めば、此処から離れられる場所にアナタは居る。
それはとても優しい距離で、それはとても残酷な位置。
優しさに触れれば、わたしは還れる。苦しい肉の世界へ。
そうして、アナタはわたしを理解する。
わたしが
研究素材と言われたわたしを、アナタがどう救うのか先が読めてしまう。
一人の人間ができる裁量を越えてしまうアナタは、疎まれ悪意ある人に苛まれる。
純粋なあの人は敵意に敢然と立ち向かう事はできても、その身にへばりつく悪意に心が耐えかね潰れてしまう。庇護者である故に逃げる事もできず、鋭い爪牙で打ち破ろうとも立場が邪魔をして揮う事もできず苦悶の内に倒れてしまう。
自分に嘘をつけないから、つきたくないから。
手放す、見捨てる事ができない、正直で強欲な人だから。
そして、アナタは―――――。
そうなる、なってしまう一端に
だから、わたしが目覚めないことは、きっと良い事で。
其処に在る人達は、自分のような人間も受け入れてくれると。
何故か確信さえ抱かせる、優しい獅子が統率する群れで。
蒼い世界の少女は灰色の男の背中に、滴さえ零れない泪を落とした。
「どうして、この場所に居ないんだろう」
少女が意識を閉じる頃に、男が何か気付いたように振り向き、目を細めた。
――――――。
マリオン・ウェルチは、夢を見る。
優しい眼で見守る蒼い獅子が、日だまりの下へ連れ出してくれる、都合の良い夢を。
寒い色である此処とは違う、蒼い魂の獣を支える輪の中へと溶け込む、温もりに包まれた夢を。
傷つける男性に期待しない少女は、暖かい夢を見たかった。
◇
「これで、良いのだろうか?」
執務席に座り緊張した面持ちで通信を切ったガルマ・ザビ准将は、正面に立つ二人へ尋ねた。
「満点とは言い難いものですが、一先ずはよろしいかと」
「難攻不落と言わしめたパナマ。其処を叩くならば、戦力は過剰なくらいが丁度良いものです」
ゲラート・シュマイザー少佐が頷き、その隣に居るランバ・ラル大尉が捕捉する。
両者とも歴戦の勇士足る軍人であり、優れた指揮官でもある。輝かしい大功を戴こうともこれを制し自らを律するガルマにとって、経験に裏打ちされた彼らの言と、齢を重ね低く耳朶に残る声は如何にも頼もしく、万の軍勢を得るに等しい。
以前から話し合いの場を設けていたシュマイザーに、新たにキャリフォルニア・ベースへ配属となったラルを迎えてのこの三者会議は今回が初めてではない。
夕方、深夜帯にのみ開かれるこの会議は対諜対策が施された上に、一部の人間しか知り得ない。シュマイザーが部隊長を務める、闇夜のフェンリル隊は基地近郊の巡回任務に就いているし、腹心のみで構成されたラル隊も、現在は支給された機材と装備の総点検中である。
二人ともこの会議は部下にも黙っているか、近しい者のみにしか明かしていない。ラルでいうならクラウレ・ハモンがそれに当たる。
空は既に夜の帳が下り、人工物の光が闇夜に浮かぶのみだ。
その時刻にガルマは地球攻撃軍を管理下に置く実姉、キシリア・ザビ少将へ連絡を取っていた。
内容は十月上旬に予定される侵攻作戦、第三次パナマ攻略部隊の戦力増強の打診である。
遠く離れた宇宙で三兄、ドズル・ザビ中将が停滞した戦況とその現状に苦心するのと変わらず、末弟であるガルマも地上部隊が南米へ侵攻する糸口を掴めずにいたのだ。
三月に発令された地球降下作戦以降、領土を失い挽回できずにいる連邦軍と、何割かの緑溢れる大地を占領したものの人員や物資不足から足を止めてしまったジオン軍。
六月に各地の戦線が停滞し、両軍が膠着状態に入って三ヵ月が過ぎようとしている。
ジオン軍が地球の重要拠点とする北米、キャリフォルニア・ベースの司令官であるガルマはこの現状を打破するには一度地球から退くか、足を止めず南米を攻略するかの二つの選択肢しかないと、独り結論を出していた。
モビルスーツの情報解析が済んだ、連邦軍の新兵器の脅威に想像の中で苦しむ彼が視野狭窄に陥っていたことは否めない。
しかし、現実味がある恐怖に踊らされていたわけではなく、現状出来うる対策に権限が及ぶ限り枝葉を広げていた。
そうした中で、理解ある相談役を得る事が出来たのは、正に僥倖であった。
「パナマ陥落は、ジャブロー攻略の橋頭堡以外に重要な意味を持ちます」
シュマイザーが手に持ったリモコンを操作し、執務席の壁に設置されたモニター・パネルに北米と南米を繋ぐ要衝、パナマを表示した。
衛星軌道上から読み取った情報では、砲撃や爆撃により地形が穿たれては歪み、森林は消失したか薙ぎ倒され、自然が形作った流麗な湖の岸辺は無秩序に変形され拡張すらされていた。
土着した動植物の生命を奪った各映像に入る、朽ちた兵器の数々が戦場の悲惨さと等しく散った人命を物語る。
それらを見た二人の古強者は巌の下に隠したのか、表情を動かさない。
ガルマは生来穏やかな気質であった為に瞳を揺らがせはしたが、自らがこの事態を作った一軍の長と自認しているだけにその感情を恥じ、また悔やんだ。
「橋頭堡以外の意味。それは敵本拠点を追い詰めた以外にもある、ということか」
「その通りです。我が方に二つ、敵方にも二つあります」
ガルマが細い顎に指を当て考察を開始すると、シュマイザーはまるで生徒へ問題を提示する教師のように、手に持ったリモコンで南米大陸を指した。
その様子を眺めていたラルが「ほぅ。面白い考えだ」と笑い、その言葉を聞いたシュマイザーは「使わない手はないだろう」と返した。
「そのために、東アジアに居る倅を呼ぶのか」
「キシリア少将からせっかく借り受けた戦力だ。有効に使うのが礼儀だろうさ。
メルの坊やも嫌とは言わんだろう。戦場において遊撃戦力の重要性を理解してくれるし、効果的な戦術だと頷いてくれる。好む好まざる関係なしにな」
「まず、好かんだろう。倅はキサマが言うほど物分りが良い部類ではない。
アレも自分を理解しているから、後方指揮を執るべき佐官の身で前線に身を置いているのだ。
シュマイザー、キサマも分かっている筈だろうに」
「個人を分かってはいるが、戦況を打開するに有効ではある。
趣味で戦線を変化させるなど、愚者の極み。整える時間を稼ぐのに幾つの人命と装備を浪費させる積もりだ? 今回の作戦が失敗すればパナマ攻略は不可能になる。そうなればジャブロー陥落なぞ夢のまた夢だ。これ以上防衛戦力を割く事はできないし、将兵の士気も然りだ。
ラル、これは我が軍が前に出る、最後の機会だよ」
「……これだけの戦力が揃って、余裕なし、か」
大きく息を吐いたラルは北米と南米を繋ぐ要衝、パナマへ目を留めた。
ジオン軍北米領内にあるキャリフォルニア・ベースを始めとした各基地より矢印が引かれ、始点は違えど最終地点は同じである。
北米方面軍司令ガルマ・ザビの権限に於いて発令される第三次パナマ攻略作戦は北米の各基地、部隊より選出され大攻勢に転じる為の狼煙だ。内在する反ジオン組織や潜む連邦軍部隊を無視し、南米へ渡る道を作る。
占領したとはいえ完全に北米を掌握していない現状において、一見愚挙と思われるであろうこの行動を暴走と断じるには、実は中々に難しい。
部隊を率い前線に赴くシュマイザーは守りに徹すれば良い時期ではないと感じ、この作戦を英断と見ている。
同じく前線で勲功を重ねたラルも補給線の綻びが生じている現状で、各戦線が破綻する前に進撃し連邦軍へ大打撃を与えることへは賛成している。
作戦に同意しているシュマイザーとラルの間に確かな温度差があるのは、遊撃戦力として抜擢された幾つかの部隊が担うその目的に因る。
彼らもその中に入っているが、主力部隊や補給支援部隊以外抜きん出て戦力を有する一つの部隊が、今回で三度目となるパナマ攻略作戦の是非を問う事になる。
既に二度攻略に失敗している要衝、パナマ。
第二次パナマ攻略戦から参加しているシュマイザーは、攻め入り撃っても討っても続々と現れ、退けば押し寄せ、但し兵力は変わらずに在る連邦軍パナマ基地に、拭えない畏怖を抱かされた。
まるで、性質の悪いホラーゲームのようだと。
「出来うる限りの事をやり、各員が己が責務を全うするしかない。
戦争を終結させようにも、パナマを突破しなければ、我々はジャブローに辿り着けない。
……私も、面倒を見ていた子を難所に配置するとは、思いもよらなかったさ」
「いや、わしがつまらんことを気にしたせいだろう。忘れてくれ。
既に一端の軍人となった男だ。いつまでも子供扱いは失礼というものだな。
配置については、追って報せてくれ。
大事な作戦前に不備があっては不味い、わしは点検に抜けが無いか確認に回ってくる」
「わかった。後日開かれる作戦会議で話を詰めたら、連絡する」
「そうしてくれ。
ガルマ様。戦場ではこのランバ・ラルに、”進路確保を任せて下され”」
作戦とは別にある考察をしていたガルマは、向き直り退出の声を掛けるラルの言葉に、懐かしさを覚えた。
「うん……蒼い獅子を育てた青い巨星の働き、期待させてもらおう」
スルリと出た自らの声に驚き、子と比べられて怒るかとも思ったがそんなことはなく。
「はっは!
では、失礼いたします」
笑うのは自信に溢れた軍人。いや、武人を世に送り出した漢もまた、一人の武人だった。
踵を返した背中には、立ち昇るような戦意をガルマへ見せる。
(ドズル兄さんに似た、でも何処か違う感じだ。何だろう。何が違うんだろう。
……やはり、私には”友”が必要だ。
この感じを掴むためにも。そして、目標を追い駆け続ける為にも)
ラルが抜けて行った空間をじっと、意志を込めた瞳で見つめたガルマは久方ぶりの邂逅を遂げるだろう友人を求めた。しばらく見ない間に彼は何処まで研鑽したのか、その彼に自分はどう映るかを想像し、気が逸ったのか緊張まで心身を走る。
「……フッ」
武者震いのように震えた青年に、シュマイザーは口角を少し歪めた。
それは嗤ったのではなく、先達者が次世代の若者へ期待して後事を託す、その顔に似ている。
何故ならば、誰彼の希望をその双肩に負う男が成長を止めてはいなかったからだ。
ジオンの将器は、己を知り拓こうと道を歩む。
其れが家の為では無く、共に戦う皆の明日に繋がると信じて。
◇
「随分と機嫌がよろしいですね」
「うん? そうかね?」
基地内を移動する中で、ジェーン・コンティは前を行くダグラス・ローデンに尋ねた。
辞令を届けた彼女からしてみれば憤る事は有れど、今の彼のような含み笑いする問題ではないと感じていたし、ダグラス自身に落ち度が無かったが為に尚更であった。
何よりも、ジオン公国の軍人とはいえ彼がザビ家の指示に諾々と従う姿に彼女は戸惑っていた。ジェーンはダグラスの秘書官ではあるが、実態はキシリア・ザビがダイクン派に属すダグラスを警戒して付けた監視役である。
その彼女自身がザビ家に対して良い感情はもっておらず、ダグラスが何か企んでいようとも余程疑わしい動きさえしなければ見逃す積もりである。
今回の辞令を受ける前から、ジオン軍の本国サイド3より遠く離れたこの地球で彼が何らかの行動を起こすかもしれないと考えてはいたが今日までそうした素振りは一切なく、部隊総指揮官として采配を振るって来たのだ。
忠実に任を遂行しているのに、彼はその位置を動かされる辞令を受けたのだ。
栄転ではないことは明らかだろうに、当の本人が毛ほども気にしていない。
むしろ、したかった事に後押しでもされたかのようで、ダグラスの表情は明るかった。
「ふふっ。後方で楽が出来る、等と思わないでもないがね。
あちらは子飼いの部下を上にする事でこちらを牽制、動きに制限を掛けようとしているかもしれんが、私個人としては今回の話は渡りに船というものでな。
彼は働き過ぎなので、首に縄でも付けておきたかったくらいだ。前々から座っていた席を譲渡したかったし、私よりも上位の命でそうせざるを得ないのだから断れんだろう。
幾ら嫌がろうと渋ろうと、上官の意向じゃあ聞くしかあるまい?」
「……そうなのですか? 私にも相談くらいはしてほしかったのですが」
「いやぁ、悪い悪い。これを職務放棄と取られては敵わんからな。彼と私だけで事を進めたかったのだよ。尤も、今日に至るまで平行線ではあったがね」
皺が目立つ顔に愉快、と表現する初老の指揮官がカラカラと笑う。
その様子にしばし呆気に取られていたが、彼女もクスリと表情を綻ばせた。
「お嫌でなければ、次は私も混ぜてください。人を説得するのには自信がありますから」
「ああ、構わないとも」
二人が外へ出ると晴天の空、木々が彩る緑よりも隊員達が築いた大行列を目の当たりにした。
が、人の密集した光景に驚かず二人は近寄る。すると姿に気付いた少女が飛び跳ねては小さな手を振るい、良く通る声で招かれ二人はまた笑った。
「まったく。あの子も現金になったな」
「四日前に比べ元気になられましたね。良いことです」
二人は優しい気持ちで自分達を呼ぶ少女を見つめ、大行列に加わる。
「さて。後は待とうじゃないか」
指定席が無いこの人だかりで、ダグラスは一人の観客になり先に集った彼らを見やる。
彼らは、ある人物の登場を待っていた。
九月の半ばも終わろうとしているが、彼らの住まう地は密林の蒸れた風を吹かしては、じんわりとした汗を体感させてくる。ただ湿気を運んでくるだけではなく、土の匂いと樹木の息吹を感じさせる香りで包んでは去って行くのだ。生きている実感はすれど、体感温度は留まる事を知らない。
普段ならば、暑さに軍服を緩め肌を覗かせる女性へ熱い視線を送る彼らも、この日ばかりは本能に唆されずに、ただ待っていた。
整地したばかりなのか、余分なものが一つも無いグラウンドに述べ三〇〇余名が整列している。
彼らの前に有る艦は、光の当たり具合で金色にも観れるザンジバル級機動巡洋艦を始め、砂色のギャロップ級陸戦艇が複数並び、名実共に艦隊の様相を呈していた。
力強い鼓動を発する艦隊は、言葉無く眼下に在る彼らを睥睨し、彼らもまた睨み返す。
両者の睨み合いがこれからの船出、戦いへの不安と興奮を物語っていた。
「傾注!」
学校にある朝礼台に似たものの上で、若い士官が大人しい外見に似合わぬ怒声を放ち、皆の注目を集める。
ざわめきこそすれど、騒がず動く彼らをさざ波と称するのならば。彼らの視界に映る人垣は、さながら岩石の如く微動だにしない。
過日の現地徴用により軍属となった彼らが憧れと、僅かだが其処へ確かに込められた嫉妬の視線を浴びせ、またその身に受けるのはジオン公国軍が正規軍人達である。
ある種の敵愾心と取れる無数の眼に晒されながら、やはり将兵達はただの一人も動じず、むしろ誇らしげに胸を張る。その日々に揉まれ色褪せた軍服の方が、パリッとした真新しいものより数段も格好良く思えてしまうのは、如何なる技法を使ってか。
「部隊長殿より、挨拶がある。清聴せよ!」
他の軍人より背丈も小さく、少女と間違えそうな童顔の士官は真横に身を引き、背後から現れた
土を踏み締め、湿気を含んだ軍靴が鳴る。
その自然体ながら堂々とした一歩一歩に、かの姿を視界に収めた者は固唾を飲み、集った全員がある感情を共有していた。
「多忙の時に、まずはご苦労」
見る者全てに獅子の鬣を髣髴させる、灰色の蓬髪を風に踊らせ。
「耳聡い者は既に聞き及んでいるとは思うが、改めて告げる」
刃物の如く鋭利ながらも、何処か暖かみを残す不思議な灰色の双眸は、彼の下へ集った一人一人の瞳を覗き込むかのよう。
「我々の新たな戦地が決まった。北米と南米、大陸間を繋ぐ要衝。パナマだ」
その声が耳に障ることは無く、かといって小さくも無く。幾つもの緩衝がある空間を縫うように伝い、響いては跳ね。力強さと心地よさを同居させた肉声が、皆の耳朶を打つ。
「南米は連邦軍が総司令部ジャブローの地。敵は死にもの狂いで我々ジオン軍の突破を阻止せんと立ち塞がり、銃火が止まぬ日々が続くだろう」
腰の後ろに回していた手を緩やかに目の高さまで掲げ、
「だが、我々は行く」
ギシリ、と握り込んだ拳を軋ませた。
「何処へ赴こうと常と変らず。やるべき事もまた同じ。
我々は進軍を務める一振りの槍であり、敵を討つ矢玉であり、陣を打ち崩す騎馬隊だ。
そして、戦場では
これは単純な戦力では計れない、我々だけの強みであり、また責務である」
かの人を見上げる将兵達は、朗々と語る男の姿をしかと視る。
基地内に流れる噂では、先日の出撃で生死の境を彷徨ったとされ、瀕死だとも囁かれた。
それが根も葉もない噂であると言わんばかりに獅子が部隊章の由来、部隊設立の発端である人物は衰え、病み上がりとは到底思えない存在感と覇気を発しては二の足でしかと立っている。
「だが間違えてはならない大事なことが一つある。敵を恐れる事は恥ではない。
敵を知る上で最も重要なことは恐れと、それを乗り越える勇気だ。恐れを知らない蛮勇は無駄死にを招く、不要なもの。我々は戦いに往くが、死にに行くのではない。
兵法曰く、敵を知り己を知れば百戦危うからず、と云う。敵を知るということは、敵の恐ろしさを正しく理解し、勇気をもってこれを打倒することだと思う」
そう言って、大佐の階級を示す軍服に身を包んだ男は地平線にでも挑もうとするのか、獣じみた獰猛な笑みを張り付けた。
「再度、告げる」
穏やかな中に戦意を感じさせた声の質を変えて、男は視線を戻しある一点に置く。何処かで誰かが身動ぎをしたのか有象無象の中で、艶やかな黒髪が揺れた。
一呼吸ほどの”ため”を作り、
「いざ、パナマへ! 難攻不落を我々が仕留めに向かう! 全軍出撃せよ!」
大空に拳を突き上げた男が、咆哮を上げる。
それが伝播したのか、全将兵が拳を空へ突きあげ追従の怒声を迸らせた。
「パナマへ!」
「友軍を援けに!」
「おれ達がパナマを落とすんだ!」
「連邦の野郎どもを蹴散らしてやる!」
「やぁってやるぜぇ!」
其処に新参や古参といった隔たりは無く、只々視界に収める男と戦地を駆ける者の眼であった。
膨大な声量と足踏みで大地を揺らす今の彼らに、出身や経歴等といったものは関係が無く。
各艦の機関部から漏れ出る駆動音が、まるで獣の唸り声にも似て。
獅子と称される男と、それに従う者達が新たな戦地へと向かう。
数分前までこの場に渦巻き、身に巣食った不安と興奮を昂揚に変化された者達の中で、
「中々腹に響く声じゃないか。悪くないね」
静観していた彼女は世に流れる人物ではなく、今其処に居る個人を見た。
風に踊る黒髪の下、その貌を歪めたものは好戦的な色合いが強く。されど齎した人物を憶え刻むには申し分は無いと、弧を描いた鮮やかな赤い唇が称えた。
「――――っ」
思い思いの雄叫びが咲く”群れ”に背を向け、乗艦するザンジバルに足を進める男は地面が
周囲の人間は今後世話になる艦を見上げているのだろうと、そう思っていた。
彼が間を置かず歩き出し、昇降タラップへ向かったから。
その後も滞り無く動き、艦隊指揮を執る姿を見たから。
補充兵や部隊人数が膨らんだが為に空きのモビルスーツが無いどころか足りないと聞き、整備中の愛機を何とかして使える状態にできないかロイド・コルト技術大尉に頼み込み、素気無く断られ落胆する、いつもの彼を目撃したから。
だから、男の状態を正しく知っているのは、一握りの人間だけで。
「それはまた……よくこの時間まで立っていられたね。嘔吐感も酷かったろうに。
君達も大佐の様子に良く気付いたね。それに運び込むのは大変だったんじゃないかな」
医務室の主、軍医ヘンリー・ブラウンは診察したメルティエの症状と来るまでに処理した仕事量に目を細め、続いて任意では無く強制連行した彼女達の行動力を讃えた。
「しんどそうに顔色悪くしてるんだもの、丸分かりでしょ」
ベッドに横たわり気分が楽になったのか、静かな呼吸だけ漏らす男を見つめるキキ・ロジータは呆れたように息を吐き、医務室に入っても変えずにいた仏頂面から力を抜いた。
「ちゅう、いえ、大佐の表情が硬かったのでもしやと思い……本当に悪かったんですね」
一先ずは安静にすれば問題ないと聞き、ほっと安堵するユウキ・ナカサトは「困った人です」と眠り始めた様子に眦を下げた。
「本当にね。脂汗かいてる癖に空調の所為にするなんて。子供じゃないんだからさぁ」
問答から始まり、遂には此処へ連れて来たアンリエッタ・ジーベルは苦しい言い訳をしたザマに嘆息する。そうして彼を眺めながら、自己管理ができないならこっちも考えが有ると睨んでやる。
「常のメルなら躱せた。それが当たるという事は、躰に力が入らない証拠」
他の誰でもなく抵抗した彼の意識をすぱっと奪い、運び易くしたエスメラルダ・カークスは半眼で淡々と言う。私は怒ってるとばかりに、射抜かんばかりの視線である。
「では、自分はこれで」
艦に慣れようと通路を歩いていたデルは、目の前で倒れる上官に驚き駆け付けたが下手人である彼女らの動機を知り、此処まで運ぶ役を買って出たのだ。
「ありがとう、軍曹。悪いけどこの事は内密にお願いね。必要だったとはいえ、上官に手を上げちゃったからさ」
分かっています、と首肯したデルは静かに退室していった。
強面で寡黙ながらも頼れる人員に、アンリエッタは「ああいう人は貴重だね」と語り、ユウキも「話を理解してくれる人は貴重ですね」と同意した。
一部始終を見ていたヘンリーは、部隊戦力というより理解者として信頼されるデル軍曹を不憫に思ったが、自分も同じような立ち位置に居る事に気付き苦笑した。
「今日は今の点滴が終えたら帰っても大丈夫だね。
ただ、こういう事が多発すると士気にも関わるだろうし、大佐を定期的に診ないといけないね。前々から無茶して此処のお世話になってた常連さんだし」
「うん、それはもう。此処にいる僕らとメルと良く話す人で様子を見るようにする。目が届かない場所で倒れられたらって思うと、気が気じゃないよ」
「首に縄を付けたい心境」
「それは……気持ちは分からなくもないけど、やり過ぎじゃない?」
「大佐の威厳を損ねることはできません。……あの人は自然体で居てくれるのが良いんですけど」
談議に熱を入れ始めた女性陣から離れ、壮年の軍医は健やかに眠る青年を診た。
「本当に、ウチの親分は大変だ」
休まる暇がない、というのはこの男に似合う言葉だろう。
せめて、今しばらくは良い夢を。
「おやすみ、大佐」
そして、一日も早い復帰を。
”群れ”のリーダーが居ないと、彼らが寂しがるだろうから。
閲覧ありがとうございます。
新型機が出ると思った? 残念、大佐に昇進して指揮権譲られた蒼い人でした!
メルティエの乗機は既にある機体なので、しばらくは変更ないと思います。思います!
他の人物が何に乗るかは、予想しながらお待ちください。
作者から言える事は一つだけ。
そして、読者の皆さんも思うことの一つ。
「
では、次回もよろしくお願いしますノシ