坂之下風華……。
……たしかそんな名前が事件の記録にあったような気もするけど……あんまり印象になかったな。
結局、宿泊客の一人ってだけだったし。日高君の他に泊ってた人対の牙殻って人の方がよっぽど記憶に残ってる。
「坂之下、風華……」
「……お姉ちゃんもやっぱり、信じられませんか?」
折川がすがるような目でこちらを見てくる。
その目としっかりと視線を合わせながら、夜桜は静かに頭の中で思考を回し続けた。
仮に坂之下風華という人が真犯人だとして、素人が殺人現場の部屋に一歩踏み込んだ時点で何かしらの証拠は残る。いくら何でも、狭い旅館の客室内にある証拠を警察が見落とすとは思えない。
それに、明確な理由がある女将さんとは違って坂之下という人物には動機が見当たらない。
そして何より……
(マオさんって心と記憶を読めると言っていた。……つまり結城ちゃんが見たのと
夜桜は顎を手でさすりながら深く考え込む。しかし納得のいくような答えが出ない。
不安げな顔をする折川に対し、夜桜は優しい声色で問いかけた。
「一応確認なんだけど、マオさんは結城ちゃんの記憶を確認してるんだよね?」
「は、はい。後から記憶を見てもらったんですが、何かの間違いとか、勘違いとか……」
「間違い、勘違い……うーん……」
『何かの間違い』に『勘違い』……?
……折川結城が見たことはとても単純である。
窓の反射越しに坂之下風華が殺害現場に入っていく姿を目撃した、というだけだ。そこに大きな間違いや勘違いが介在する余地があるとは考えにくい。
例えば、実は坂之下がただ自室に帰っていく光景を、折川が勘違いしたとか……。
……いや……それはないか。
折川旅館は彼女の生家だ。窓に映る反射の景色を何度も見ているとも言っていたし、部屋の間取りを勘違いするなんてポカミスをするはずがない。
マオさんは一体、何が『間違い』だと言うんだろう?
夜桜は眉間にしわを寄せつつ、努めて優しい声を作る。
「結城ちゃん。もう一度だけ、マオさんに代わってもらえないかな。具体的にどのあたりが『間違い』なのかを直接聞いてみたいの」
「……わかりました」
夜桜の問いに、折川は深く頷く。
そして静かに瞼を閉じ、一瞬の硬直のあと、再びその身からおどろおどろしいオーラを放ち始めた。
しかし二度も同じ相手に怯えるほど夜桜の胆力は甘くない。
片膝を突いて彼女と視線を合わせながらも、力強い言葉を口から発した。
「…………」
「マオさん。きっと中から、私達の会話と思考の両方を聞いていましたよね?」
「……うむ……まあな」
気まずげな声と共にマオはそっと視線を逸らす。
思考を読める自分がなぜ追い詰められているのか、とでも言いたげな表情だ。
「単刀直入に聞きます。結城ちゃんの記憶は、彼女が言っていることは、なにか間違っているんですか?」
「…………」
夜桜は無言のマオの目をしっかりと見据えながらそう言う。
……実は夜桜の頭の中には、マオの言う『間違い』とやらに一つだけ心当たりがあった。
それは、『そもそもそんな記憶はなかった』ということである。
自分の生まれ育った旅館で実の母親が殺人を起こした。しかも客をもてなすはずの女将が宿泊客を殺すという恐ろしい事件である。小学生の彼女にとっての精神的なショックは計り知れない。
だから、唯一の一般人であった坂之下風華が真犯人であるかのような記憶を
これはまったくありえない話ではない。
何度か挨拶を交わした程度の関係しかない人物が自殺したとき、『もしかしたら自分に非があったかも』と過剰に思い込んでしまうような人が社会には一定数存在する。人の死とは普通の人の心にそれだけのダメージを与えるものなのだ。
特に年幼い小学生の彼女なら、心を正常に保つために偽の記憶の一つや二つを作ってもおかしくない。
そして……この予想が当たっているなら。
結城ちゃんの精神を守るために、マオが詳しい事情を話さずひたすら間違いだと言い張るのも納得が――――
「――――いや、
…………。
……え?
「いや、じゃあ、間違いなんかないじゃないですか。坂之下さんって人が殺害現場に入っていったのを結城ちゃんは見てるんですよね?」
「うむ……。いや、だが、こう……間違っておるのだ」
「え? その、間違いだと思った具体的な理由を伺いたいんですが」
「うぅぅうむ。とにかく間違いとしか思えんのだ!」
「はい……?」
……ま、参ったな。
まさかここまで論理性がない回答が返ってくるなんて。
マオさんは自分で魔
「筋は通っておらんかもしれんが……。その、坂之下風華には動機がないだろう? だから間違いだと、な?」
「でも現実に、結城ちゃんはその人が殺害現場に入るところを見ているんです。それも被害者が殺害された予想時刻の直前にです。『間違い』と言い切るのは早計すぎますよ」
「むむ……むぅ……」
マオは頬に冷たい汗を垂らし、腕を組む。
口からは『ぐむむ』という唸り声に近い言葉が漏れ出していた。
必死に言い訳を考えているようなその姿に、夜桜は目を細める。
そして無意識のうちに、少しだけ強い口調になりながら声を発する。
「……どうして、その坂之下という人を庇うような言葉ばかりを言うんです? お知り合いでもないのでしょう?」
「知り合いではないし、庇うというつもりはないのだが……。儂はどうにも、その坂之下という人間が、殺人なぞ犯すような輩には思えなくてな……」
「結城ちゃんの記憶を読んで、その人が殺害現場に入った光景を見たのにですか?」
「それは、そうなのだが……」
煮え切らない様子のマオに対し、夜桜がさらに目を細める。
そして強い口調のまま言葉を続けた。
「マオさん、あなた洗脳か何かを受けてるんじゃないですか? 裏社会に蔓延する魔法にはそういう類のものもあると聞きました」
「洗脳も魅了も受けておらん。人間の魔法など儂に通用するものか」
「ならもっと問題ですよ」
ぎゅっ、と眉間にしわを寄せて眉を吊り上げる。
「私はまだ17年も生きていない若輩者です。それにマオさんとはさっき初めての会話をしたばかりで、本来あなたに偉そうに物を言える立場ではないと承知の上で言います」
「…………」
「マオさん、あなたがどういう考え方をしているのかは私には分かりません。でも……結城ちゃんはとても悲しんでいると思いますよ」
マオがどうしてそこまで坂之下に有利なことを言うのか分からない。
しかし……。
「その坂之下風華さんという人は、結城ちゃんよりも信用できる人なんですか? 結城ちゃんの必死の訴えを切り捨てるほどの人物なんですか?」
「…………」
「ずっと一緒にいる人格にすら拒絶されるのは、心が壊れそうなくらいに辛いことです。……マオさんは、本当にそれでいいんですか?」
「っ……」
夜桜の言葉を静かに受け止めていたマオ。
何かを思い悩むように、苦しそうに目を逸らす。唇の隙間から覗く歯は割れんばかりの力で食いしばっていた。
「……結城と代わる」
「わかりました。……偉そうなことを言って、すみません」
「いや、お前の言っていることはすべて尤もらしい。おかしいのはきっと、儂の方だ……」
尻すぼみの声を吐き、マオがぎゅっと目を閉じる。
そして一瞬の硬直のあと、彼女が放っていた魔王の雰囲気がふっと家の中から消えた。
「……あ。どうでしたか?」
宿主である折川結城の意識が戻り、目が開く。そして開口一番にマオのことについて尋ねてきた。
夜桜は心の中に残るやきもきとした感情を飲み込み、折川に言葉を吐く。
「うん。少し違和感は残るけど、もう大丈夫だよ」
「……あの、どうですか? やっぱり私の見たことって間違いだと思いますか?」
「……ううん」
心配げな声色の折川。
それに対し、夜桜は落ち着かせるように優しく彼女の頭を撫でた。
「断定的なことは言えないけど、やっぱり旅館での事件にはおかしなところがあると思う」
「……!」
「でも結城ちゃん。その事件の真相を探るのはかなり危険だよ。できることならあまり関わらない方がいい」
坂之下風華に関するマオの様子は確実におかしかった。
そもそも、日高君すら坂之下という人物に対して何らかの異変を感じていたかは怪しい。もし坂之下が変だと気づいていたなら、私にも共有してくれているはずだから。
日高君が坂之下の異様さに気づいていないということは、もちろん日高君の中の人格たちも気づけていない……。
ピュアホワイトと真正面から打ち合ってた人格すら気づけなかった、ということだ。
……坂之下風華。
正体は分からないが、得体のしれない不気味な人だ。
ここに来てその名前を知ることができてよかった。警戒すべき人物を先に知れるのはとても大きい。
夜桜は地面に突いていた膝を上げ、玄関の扉に手を掛ける。
そして肩越しに折川の方へと振り返った。
「それじゃあ本当に帰るね、結城ちゃん」
「紗由莉お姉ちゃん……」
「もし坂之下って人について何か分かったら教えてあげる。だから、危険なことはしちゃ駄目だよ? 例えマオさんが居たとしてもね」
最後ににこっと口角を上げた笑みを見せてから、扉を開ける。
そして扉を完全に閉めたあと、顔から喜色を消してキッと鋭い顔つきに変えた。
(坂之下風華……。渦島製薬と榊浦の関係……。折川旅館で殺されたのは渦島製薬の社員……)
頭の中で情報を整理する。
段々と情報というパズルのピースが揃いつつあるのはわかるが、どうにも組み立て方がわからない。
(あともう少し、情報があればな。いやでも、まずは日高君の救出を優先しないと……)
夜桜はやるべきことが目の前に積み重なっていくのを感じながら、折川邸を後にした。
――――夜桜が去ってから、およそ10分後。
玄関口に立ちつくしたままの折川に対し、マオが後ろから話しかけた。
『……結城よ』
「どうしたの?」
『今まで……すまなかったな』
マオは腕を組んで尊大な態度を崩さないながらも、折川の目をじっと見つめた。
そして普段の明るい声色とは裏腹に、重く真面目な声で言葉の続きを紡ぐ。
『よく考えれば、どちらを信ずるべきかなど思案する必要もなかった。儂には人間の心と記憶も読めるのだからな。なのに、儂は何をうだうだと言っていたのだ』
「…………」
『坂之下風華、だったか。儂はなぜか奴を怪しいとは思えぬ。だが……』
そこでマオは一度覚悟するように生唾を呑み。
一拍の間を空けたあと、よく響く重い声で言った。
『結城、お前は正しいことを言っている。あの事件にはまだ明かされていない『
「! マオ……!」
『重ねてすまなかったな、結城。今までお前の言葉を理由なく突っぱねていた儂を許してくれ』
「いいよ、全然いいよ……!」
マオの言葉に折川がぱぁっと顔を明るくした。その瞳の端には微かに涙も滲んでいる。
それを見て、マオは気恥ずかしそうだが何処か晴れやかな表情を浮かべながら、ぽりぽりと頬を人差し指で掻く。
『この年になって人間に教えを受けるとはな。……だが、悪い心地ではない。夜桜女史には感謝するとしよう』
「もう……マオってばまた偉そうなこと言って!」
『ククク。魔王たる者、少しくらいは尊大でおらんとな』
二人で一緒になって少しの間笑う。
そうして1、2分が経過したころ、折川は胸の前できゅっと両手を握り、首を上にあげてマオの顔を見た。
「マオ。この場で
折川の真剣な面持ちと、『取引』という言葉。
魔族にとって取引とは特別なものである。一度交わした取引は魔族のプライドにかけて必ず守るし、相手が守らなければ殺害すら厭わない。
魔族の王である魔王ならばなおさら取引は厳格に守るし、相手にも守らせる。
マオは折川の真剣な目つきに、自身も真面目な視線を送り返す。
『いいだろう。魔王アルベール・ガイアスト・サッドロームが聞き受ける。内容を申せ』
「……やっぱり私、お母さんの事件の真相を知りたい。すごく怖いし、
その言葉を聞き、マオは静かな声色で言葉を返す。
『あの事件の真相を知りたい、か。夜桜も言っていた通りかなり危険な匂いがするのでな。重い代償になるが良いのか?』
「……うん。大丈夫」
『ふっ』
結城の言葉に、マオが口の端から息を漏らすように笑う。
そして背中に纏うマントを手で翻しながら、リビングの方に踵を返した。
『そこまで言うなら良いだろう! 代償はリビングの机に置きっぱなしのケーキ二つで手を打ってやる!』
取引の内容は締結された。
そうなればマオも取引は必ず守る。魔族の王たる魔王のプライドにかけて、だ。
……かなり面倒な取引内容なのに代償が軽いのは、マオのちょっとした罪滅ぼしでもある。恥ずかしいので口にはしないが。
照れ隠しのためか仰々しく歩くマオの背中に、見透かしたようにくすくす笑う折川が声を掛ける。
「……紅茶は良いの?」
『ならばそれも貰っておくか』
「ふふ、はいはい」
――――翌日、午前4時。
「……ここが……折川旅館跡地……」
夜桜は日の出前の闇に潜むように、木々の隙間から折川旅館跡地を眺めていた。
数か月前まではこじんまりとした一階建ての旅館があるだけの青々しい山々だった。
しかし今は多くの重機が木々を切り倒し、茶色い地肌が視界一面を覆っている。そして元々折川旅館が建っていた場所には、元の旅館よりもさらに巨大で四角いコンクリートの建物が建立されていた。
午前4時だと言うのに、建物の周辺は眩いライトで照らされて真昼間のようだ。
施設員が使用する出入り口は見えるが、窓や看板と言った気の利いたものはなく、件の建物が一体どういう施設なのか判断できる情報はどこにもない。分かるのは渦島製薬所有の建物ということだけだ。
……つまり。
目の前の建物のことを詳しく知りたいなら、実際に中に忍び込むしかないということである。
「…………行くしかないか」
夜桜は目元以外を覆うマスクを顔に被り、建物の中への潜入を開始した。
最近満足に書ける時間が少なくて乱文気味になってて悲しいです
でももうすぐリアル多忙なのが終わりそうなので、そうしたら投稿頻度が上げられるかもしれません。上がらなかったら察して下さい。
-Tips-
マオの取引の代償がクソ甘いのは折川結城だけ。