もう何年も前だけど、未だに色褪せる気配を見せない記憶。
……私の父は口にするのも憚られるようなクズで、闇金から信じられない金額を借りた後、私と母に借金を押し付けて姿を消した。
当然、闇金の取り立ては私たちの所へやってくる。
法の庇護が通用するような相手でもなく、私と母は毎日ひもじい思いをしながら、お金を何とか返していた。
だけど、向こうは利子率だなんだと理由を付けて、月に取り立てる金額を段々と吊り上げてくる。
これは成長してから分かった話だが……。
私と母の容貌は貧相な格好をしていても分かるほどに優れていた。それで、借金額を不当に吊り上げていき、返済が出来ないことを理由に私達を水商売……それもかなりヤバい裏の方に堕とそうと画策していたみたいだった。
―――そして、迎えた夏のある日。
とうとう母は借金返済のためのお金を捻出できなくなった。一ヵ月に30万円も返済しろだなんて余りに馬鹿げてる。
母はしわくちゃの札や汚れまみれの小銭を混ぜた20万円を差し出すのが精いっぱいだった。
20万円を乱雑に奪った取立人は、母を思い切り怒鳴りつけた。
「てめぇ、10万も足りねェじゃねえかよ!!」
「い、一ヵ月に30万も返済なんて無茶です……! 最初はもっと少なかったのに……!」
「お前のクソ亭主が借りた金だろうがよ!!」
男の太い腕で、細木のような母が思い切り殴られた。
夜中の公園だというのに、取立人は一切遠慮することがない。まあそれもそうだろう。この辺りは家なしのホームレスが住む場所、警察の巡回なんて滅多な事がない限り来ない。
気味の悪い笑みを浮かべる男が言う。
「前から言ってたけどよ……借金返済できなかったらどうなるか、分かってるよな?」
「……どうか、娘だけは、お願いします……!」
「娘も一緒に決まってんだろうが!!」
そういって、男は私の腕を引っ張った。
中学生だというのに余りに細すぎる私の体では、その力に勝てるわけがない。それでも全身を蟲がはい回るような生理的嫌悪を感じ、思い切り抵抗した。
「嫌ッ! やめて!!」
「うるせぇな、大人しくついてくりゃ……いいんだよッ!!」
男が再び拳を振りかぶる。その狙いは私。
思わず目をギュッと閉じて、身をこわばらせた瞬間。
「―――いっったああああああ!! ……でござる」
声変わり前の、少し幼さの感じる声が大きく響いた。
腕を掴んでいた手はいつのまにか外れていて。閉じていた目を恐る恐る開くと。
私よりも小さい……小学校の5、6年生くらいの男の子が、取立人の前でわざとらしく頬を押さえていた。
取立人が振りかぶった拳を戻しながら叫ぶ。
「あァ!? 何の用だ、関係ねえガキは消えろ!!」
「いいや関係はあるでござる。貴様は拙者の事を殴り、この体を傷つけた! この代償はとんでもなく高くつくでござるぞ!!」
「当たってねぇだろうが、感触がなかったぞ!!」
「……忍法・スリッピングアウェーを使わせた代償は高くつくでござるぞ!!」
そう言って、そのおかしな口調の男の子は足を大きく後ろに振りかぶった。
「行くぞぉ! 忍法・土目潰しィ!」
「チッ!!」
取立人が地面から飛ぶ土を警戒し、両腕を下に向けて交差させる。
その瞬間、男の子がポケットから取り出したライムを握りつぶし、取立人の眼に投げつけた。果汁の目つぶしだ。せこい。
「ぐあッ!?」
「まだだァ!! 振り上げた足はまだ生きているぞッ、忍法・金的!!」
勢いを衰えさせることなく、取立人の股間に吸い込まれる足。プチッという嫌な音が聞こえた。
「まだ止まらんぞ! 忍法・一本チ〇ポ背負い投げ!!」
二本もあったら怖いよ。
男の子はすぐに足を戻し、身をかがませながら180度回転しつつ、取立人の足の間へ滑り込む。
そのまま右手でつぶれた股間を握り、左手で足を崩して、男を顔面から地面へ突っ込ませた。
ピクピクと痙攣する取立人を見下ろしながら、ビシッと片足立ちの意味不明なポーズを決める男の子。
「取るに足らぬ雑魚であった……でござる。
……とと、そうではなかった。貴様ァ、よくも
取立人の懐をまさぐり、先ほど母が渡した金と、他の人物からも取り立てたであろう金を奪い取る男の子。
それらを全て小さな手で「ひーふーみー」と数え終わった彼は……取立人の首根っこを掴み、思い切り引っ張り上げた。
「貴様、全然足らんでござる!! もっと出せ!! 棒も潰すぞ!!」
「そ、それ以外……な……ない……」
「何ィ!? ならば貴様のアジトに連れていけ!! 根こそぎ奪……取り立てるでござる!!」
そう言って、男の子は取立人をずるずると引っ張り、どこかへ去って行った。
母と私は目の前で起きたことが上手く理解できず、ポカンとしたままだったが。
翌日には取立人の所属していた闇金のビルは、もぬけの殻となっていて。
来月も、再来月も、そのまた次の月も、取立人が姿を現すことはなかった。
何があったのか詳しくは分からないけど、これはきっと、あの男の子がやったんだろうと分かっていた。
あの子が誰だったのかは分からない。
きっと良い人物でもないんだろうけど、私と母を、どうしようもない理不尽から救ってくれたのは事実だ。
私よりも小さなあの男の子は紛れもなく、私を闇から救い上げてくれた正義の
色褪せる事のない記憶の中で、彼が自ら名乗った『
いつの日か、あの男の子に再会できることを信じて。
私は今日も黒いスーツを身にまとうのだった。
その時ふと、時間確認の為に点けていたテレビに目が行く。
……懐かしいお菓子のCMがやっていた。貧乏な頃、おなかを満たすのによく食べていた奴だ。不思議と気分が明るくなっていたのも覚えている。
あの男の子と出会って生活が改善してから、食べなくなったんだっけか。
……なんだか、久しぶりに食べたくなったな。
今日はちょうど暇がある。時間を見て買いに行ってみよう。
――――――
俺がよくバイクで訪れる巨大デパート。
以前警察と暴れ回った商店街から客が居なくなった原因であり、あそこで店を持つ者から多少の恨みを買っている。
だが普通に生活する高校生の俺としては、商店街よりも多彩で色々な専門店が揃っているデパートの方が何かと利用しやすいのが現実だ。それに陰キャ気質ぎみの俺には、デパートとかデカいチェーン店の店員と客のちょっとドライな関係の方が性に合う。
まあそんなデパートも最近、ネットショップに負けかけているらしいが。ビジネスの世界の争いは激しいな。
バイクを駐車場に止め、中に入る。
このデパートは地下1階と地上4階の合計5階建てで、建物の端から端まで優に400メートル近くはある。
駐車場は地下と地上に2つ。出入り口は1階と2階に3つずつ。
1階から4階まで吹き抜けになっている箇所が幾つもあり、そこから上を見上げると、なかなかに爽快な景色が見える。けどここから上を見上げてぼけーっとしてるとおのぼりさん丸出しでちょっぴり恥ずかしい。
入ってすぐの所にあった施設内マップを見る。
「えーと。駄菓子屋は……マジか、4階のかなり奥だな」
最上階の最奥から手前側に遡って2つ目……そこに目的の駄菓子屋があった。
よく来るのに駄菓子屋があるなんて聞いた覚えがないなと思っていたが……そんなに奥の方にあったのか。そりゃあ見たこともないわけだ、用もなく最上階の最奥付近なんて行かないし。
さっさと歩き、エレベータで一気に4階まで行く。
ただ一番奥まで歩くだけなので迷うはずもなく、キョロキョロとそこら辺の店を眺めながら歩いていると、すぐに到着した。
「おお……」
思わず声が漏れた。
デパートの中は近年の技術向上からか、猫の顔がプリントされた自走型のロボットが何かの荷物を運んでいたり、店の看板が飛び出すホログラムだったりと、SF小説のような近未来化を遂げ始めている。
だがこの店は、小学生の頃に通い詰めた駄菓子屋を過去からそのまま切り取ったような風貌をしていた。木製の看板と赤いのれん、カラフルな菓子が棚いっぱいに敷き詰められ、ブーンと機械音を上げる冷蔵庫がアイスを冷やし続けている。
人によっては古臭いと思うかもしれないが、俺はこの雰囲気は結構好きだ。
ノスタルジー……って奴だろうか。
のれんを押しのけ、中に入る。
ここに来たことはないが、幼いころの記憶を呼び覚ます懐かしい光景に思わず息を呑……む事はなかった。
駄菓子屋という子供の楽園に似つかわしくない、黒いスーツをカッチリと着た小柄な女性が立っていたからだ。
戸棚の方を黙って見つめているだけにも関わらず、身が震えるような剣呑とした雰囲気を放っている。正直言って近づくのがちょっと怖いくらいだ。
アレが本物のバリキャリウーマンかと適当な事を考えながら、彼女から見えない場所まで移動する。
こっち側の棚にお目当ての駄菓子がないかと探し始めた時、レジの奥側からひょこりと女性が顔を覗かせた。彼女は目を見開き、大きく口を開けてよく通る声を出す。
「はっ……貴方は!!」
「? ……あ」
レジから聞こえた声に、思わずそちらを振り返る。
その顔には非常に見覚えがあった。
「フッフッフッ……少しぶりですね!! まさか、名探偵たる私の表の姿を発見するとは、貴方にも探偵の素質が……!!」
「……就職おめでとうございます」
「あっハイ」
彼女の名は
黒髪を肩の辺りで整え、丸眼鏡を掛け、この駄菓子屋の名前がプリントされた深緑色のエプロンを身にまとっている。
以前の恥ずかしい探偵姿よりもよっぽど落ち着いている格好の坂之下さんはカウンターに手を置き、口を尖らせた。
「あの事件の後、親から『真面目に働けよお前』と想像を絶するガチギレをされまして。仕方なく、探偵業の合間にここの店員を務めている訳です」
「はぁ……そうですか」
「1階に彼女もいますよ!! 折川
おい、何でそんなに集まってるんだよ。
あの温泉街からこのデパートまで結構距離あるのに。そんな偶然ある?
困惑を隠しきれないまま、俺は彼女の言葉に答える。
「まあ、そうですね。後で行ってみます」
「フフフ。では善は急げという事で、日高
「全然違います。えっと、この駄菓子なんですが……」
そう言って、スマホに表示されたお目当ての駄菓子の画像を見せる。
しょぼんとした彼女はそれを見てすぐに、俺の背後を指さした。
「ふむ。『ハッピーサラミ』はあそこの棚ですね」
「ああ、ありがとうございま……」
黒スーツの小柄な女性が思いっきりこちらを見ていた。
しかも坂之下さんが指さす先は、まさにその女性の目の前。つまり、彼女の真横に行かなければその駄菓子を手に取る事が出来ない。
「さ、ちゃっちゃとどうぞ!! 名探偵の私はレジ業務もあまり失敗しません!!」
あまり?
覚悟を決め、黒スーツの女性の横に並ぶ。彼女は顔をこちらに向け、俺の顔を下からガン見してきている。怖い。
右手を伸ばして、『ハッピーサラミ』が入った籠に手を入れ、わしづかみにする。その時、チラリと彼女のスーツの左の胸元に金色のバッジが付いているのに気が付いた。
黒い二重らせんが2つ、交差するように重なっているマーク。一体どういう意味が籠っているのだろう。少なくともこんなバッジをつけている人を俺は見たことがない。
「……年齢も大体合ってる……」
離れる瞬間、彼女がそんな事を呟いたような気がした。
だが俺はそれ以上関わり合いになりたくないので、さっさと坂之下さんの所に持っていき、会計を済ませる。
店から出る時も彼女は俺の事をガン見し続けていた。
別に何もしていないのに、なんだか悪い事をしてしまった気分だ。
店を完全に出て女性の死角に入った瞬間、俺はエレベーターに向けてダッシュした。