「ジェットスーツ、起動……!」
低く呟く牙殻。
彼の着込んだ黒スーツに、ぼうっと淡い紫のラインが浮かび上がった。どうやら服の下に何かを着込んでいるようだ。ジェットスーツという仰々しい名前からろくでもない物という事だけは分かる。
「くッ!」
道術を声で掻き消すような身体能力お化けとはマトモにやってられない。
キュウビは全身に防御の術を纏いながら背後に飛び下がる。俊介より少し上くらいの身体能力の彼女だが、軽化の術の恩恵もあり、10メートルほど飛ぶことができた。
だが10メートルなど、牙殻にとっては余りに短すぎる距離だ。
鋭い呼気を吐き、たった一歩強く踏み込んだだけで、キュウビの眼前にまで距離を詰めた。
「ぬおおおっ!? 陰術・
間一髪で術を発動させるキュウビ。
牙殻の拳が彼女の体を捉えた瞬間、まるで幻でも殴ったかのように拳が空を切った。彼女の体は色のついた霧のように霧散し、牙殻の体に纏わりつく。
これは自身の幻を攻撃した者をカウンター拘束する技。
普通なら術者の技量も相まってそうそう解けるものではないが、牙殻は一瞬でその拘束をぶち壊した。純然たる腕力で超常の技を打ち破ったのだ。
だがキュウビとて間抜けではない。
あの男とやり合うのに自分では荷が重すぎるのは分かっている。故に、牙殻が拘束された一瞬の隙に他の者へと体を渡した。
『すまん、頼んだのじゃ!!』
「フフフ。本日2度目ですね、まさかこんな事になるとは」
エンジェルに体の主導権が渡った瞬間、キュウビが自身に掛けていた顔変えの術がポフンと解けた。突然エセ大道芸人のような恰好をした男が現れ、牙殻は一瞬目を剥いたものの、すぐにナイフを構え直す。そして素早く俊介の体を操る彼女に斬りかかった。
どんな名匠が研いだ刃物でも、大抵の場合エンジェルには傷をつけられない。
だが彼女は自身に迫るその小刀の刃を見て、回避することを選択した。元々の世界で見た超振動する刃物……それよりもはるかに高い威力を込めているのが感じ取れたからだ。
右半身を後ろに下げて小刀を回避し、牙殻の顔面にカウンターの拳を叩き込もうとする。
だが彼女の拳は真横に弾かれ、そのまま左側頭部に蹴りを当てられてしまった。規格外のタフさを持つエンジェルだが、それでも少しクラッとしてしまう威力の蹴りである。
そんな隙を見逃すわけもなく。
牙殻はエンジェルの胸倉を掴み、そのまま通路の奥へとぶん投げた。50メートルほど飛ばされた所で壁に手を突き刺し、ブレーキを掛けて着地する。
紫色の光を軌跡にし、牙殻が床や壁や天井を縦横無尽に飛び回りながら近づいて来た。近くにあった一人掛ソファーを投げるが全く当たる様子がない。
壁の中の厚い鉄筋を数本引き抜き、束ねて彼の刃を受け止める。
ギチギチと金属が擦れ合う音が響く中、牙殻が叫んだ。
「さっきの蹴りで沈まないとは……!! お前、何者だ!? さっきの脆そうな美人魔法使いとは全く
「知る必要がありますか?」
「そうかよ……! 一応言っとくがな、今降伏しないといい加減痛い目に遭うぞ!!」
お互いに足に力を込めて飛び下がり、距離を取る。
「ダンケルク、
牙殻が持つ小刀が紫色に光り、それを勢いよく振り抜く。
通路の空気が意思を持ったように渦を巻いて動き出し、彼の前方に3つの竜巻が発生した。床から天井まで伸びる小さな物だが、人を巻き込んでズタボロにするには十分な勢いだ。
「まったく、本当に人間ですか?」
エンジェルに向け、引き絞った矢のように放たれる竜巻。グングンと距離を詰めて来るそれらに一切臆することなく、豪腕の一振りで掻き消した。どちらも大概人間離れしている。
「多少強いだけのちょいワルポリ公だよ!! 給料も安いしなァ!!」
掻き消された竜巻の背後から、牙殻が小刀を構えて突進してきた。先ほどよりも圧倒的に動きが速くなっている。
エンジェルは振り下ろされた小刀の峰を手の甲で弾いた。しかし彼は弾かれた瞬間に手の中で小刀を翻し、再び斬りかかって来る。
1秒目で10回。2秒目で50回。3秒目で120回。
異常とも言える速度で斬撃回数が増えていき、やがてエンジェルは防げなくなって……左腕の肌の表面を刃が走った。傷は浅いが、プシッと噴き出した鮮血が空を舞う。
「!!」
空を舞う血を、エンジェルが信じられないといった表情を浮かべた。
やがてその表情には強い憤怒が浮かび、空気を捩じり切るような音を鳴らす右の怪力拳を牙殻に放つ。常人ならたとえ指先に当たっても衝撃で全身の骨を砕くほどの威力だ。要するに物理法則を無視しかける程の一撃である。
「うおやべえッ!?」
―――ガァァアン!!
彼はその拳を受け流した。全身に痺れが残るような威力だったが、怒りで粗雑になった攻撃を弾くのはそこまで苦ではない。
拳を受け流され無防備になったエンジェル。牙殻はその胴体に袈裟切りと逆袈裟切りを放ち、止めに顎を膝で蹴り上げた。
エンジェルの頭が弾かれ、数歩後ろに後ずさる。
胴体と左腕の傷からは血が流れている。死に繋がるほどの傷の深さではないが、彼女の逆鱗を更に刺激するには十分すぎた。エンジェルが地獄の底から響くような低い声を出す。
「てめェ……全身バラバラに砕いてドブネズミが飲むスープの具材にしてやるよ」
「おいおい、丁寧な口調が崩れてんぞ。流石に余裕がなくなってきたか?」
「……あら。フフフ、いけませんね。ちょっと冷静じゃなくなってきたみたいです」
彼女の敬語口調は生まれつきではない。俊介を必要以上に怖がらせないために使っているだけなので、偶に気を抜きすぎて崩れることもある。
しかし、怒りで口調が崩れるというのは余りいい兆候ではない。怒りは力を強くするが、冷静さを欠かせる。
スピードで負ける相手に冷静さを失うなど、殺してくださいと言っているようなものだ。
怒りを鎮めようと深呼吸する。……だが、ついぞ鎮められなかったエンジェルは、やむなく他の人格との交代を選択した。
一瞬の硬直。人格変更の合図。纏う雰囲気が一遍に変化する。
『申し訳ありません。私ではこれ以上、厳しそうですので。無責任ですね』
「
エンジェルが体を譲ったのは、絡め手が上手いニンジャであった。
彼と同じくらい絡め手が上手いのはハンガーだが……彼女はロープがある事が前提なので、何もない今の状況ではニンジャの方が強い。
そして何故ダークナイトがニンジャを見ているかと言うと。
『自分が出れば一瞬で終わるのに』と考えているからだ。勿論、出て来ていい訳がない。
一気に雰囲気が変わった目の前の男を見つめる牙殻。
「あ? おいおい、さっきから雰囲気が変わりすぎだろ……」
初めは美人の魔法使い。2回目は殺意ムンムンの怪力マン。3回目の今は……陽気そうに見えてその実、何を考えているか分からない。
「ん? 待てよ、雰囲気が変わる……硬直、人格変更……」
牙殻は最初、美人の魔法使いか、怪力マンのどちらかが主人格だと考えていた。
それならば主人格1人と異世界からの人格1人の計2人。だが今の目の前の男は……明らかに3つ目の人格が出て来ている。
どこかマトモでない……犯罪者っぽい雰囲気。知雫と翠を倒すほどの実力者。複数人格。
それらから導き出した答えは。
「――――『
「は? 怪人二十面相? 拙者は由緒正しくはない忍者でござるよ」
「大物だとは思ってたが、ここまでとはな……! 悪いが本当にぶった切る気で行かせてもらうぜ……!!」
「なっ、タンマタンマ! 拙者、さっきの怪力女みたいに頑丈ではないでござるぅ!!」
牙殻が小刀を構えて走って来るのに、ニンジャは怯えた様子を浮かべる。
そして牙殻の顔が1メートル前後まで近づいてきた時――ニンジャは咄嗟に顔のネックウォーマーを外し、口から勢いよく血の霧を吐いた。目つぶしが完全に決まる。
「なッ!?」
こっそり隙を見て、左腕から流れる血を啜って口に含んでいたのだ。口の中に液体が入ったまま声を出すなど、忍者に掛かれば朝飯前である。
辺りに散らばった砂埃をパンパンと手で叩いて巻き上げ、更に視界を阻害する。
「更に! 忍法・眼球潰しの術!!」
わざとらしくそう叫ぶニンジャ。
牙殻は目が見えぬまま辺りを警戒し――自身の股間に迫る攻撃を、左手で受け止めた。
「ハハハハ、丸分かりなんだよ馬鹿が!!」
その瞬間。
彼の体が突然強い力に押され、踏ん張ろうとしたが何かに足を引っかけられ、勢いよくその場から吹っ飛ばされた。この冷たくて服が重くなる感覚は……水だ。
「忍者とは環境を利用するものでござる。お前みたいな怪物に真正面から戦う訳ないでござるバーカバーカ!」
ニンジャの手には、未だ勢いよく水を吹き出す消火ホースが握られていた。
彼は眼球潰しと仰々しく叫びつつ、こっそり屋内消火栓の前まで移動していたのだ。数秒と掛からずにホースを取り付け、牙殻の足の近くに丁度ずっこけるように糸を張り、水を噴射した。それだけだ。
吹っ飛ばされた牙殻は、デパートの1階から最上階まで繋がる吹き抜けから下の1階へと落ちる。
「では拙者、撤退するでござる! バイビー!!」
自分が劣勢になった瞬間、即座に逃亡の一手を取れる。それがニンジャの強みでもある。実際、この状況では逃げるのが最善手だ。
尤も、簡単に逃がしてくれるとは限らないが。
2階の床をバラバラに斬り裂きながら、ずぶ濡れの牙殻が1階から飛び出して来た。
「俺の事コケにしてんのかぁ!!」
「ひぃ~っ!! 拙者、ガチンコバトルは苦手なんでござるぅ!!」
ニンジャが踵を返して、近くの店舗の中へ逃げ込んだ。
そこはキラキラと眩しいほどに輝く貴金属が並ぶジュエリー店だった。ショーケースに入った高級そうなネックレスや指輪が並んでおり、2人の男が駆け込んでいくには余りに場違いすぎる場所である。
「忍法・
「アホか窃盗になるだろ! つーかそれ忍法じゃなくね!?」
ニンジャがショーケースを肘で壊し、中にあった高そうな指輪をぽいぽい投げつける。牙殻はそれを小刀で弾きつつ、天井間際まで飛び上がってニンジャに襲い掛かった。
「忍者は泥臭く! 忍法・スライディング!!」
ずざざざ! と音を立てながら床を滑り、牙殻の一撃を避ける。
追撃を忍法・寝返りで回避し、そのまま立ち上がることなくブリッジをして、地べたを這いずる虫のように手足をカサカサと動かして店内を逃げ回った。
「拙者、忍法・拘束抜けの為に柔軟運動は極めたでござる! 見るでござるよ、この虹のように美しい形のブリッジ!!」
「お前気持ち
牙殻が肺の中に空気を溜め、ジュエリー店を咆哮で丸ごと吹っ飛ばした。
店舗内の貴金属は全て吹き飛び、廊下に散らばる。
同じように廊下に吹っ飛んだ、高そうなネックレスをじゃらじゃら首に引っ掛けたニンジャ。どうやらブリッジで逃げ回る最中にちゃっかりくすねていたようだ。
牙殻の方を指さし、憎らしい声で叫ぶ。
「フハハ、忍法・賠償金! このジュエリー店への賠償金で貴様のちんけな給料は
「何ッ!? おい、嘘だろ?!」
勿論嘘である。せいぜいちょっと減るくらいだ。
ニンジャが牙殻に大きな精神的ショックを与えた所で、再び逃げ出す。逃亡途中に砂埃を巻き上げ、視界を阻害しておく事も忘れない。
5秒ほど動きを固めていた所で、牙殻が顔を上げた。
「―――はッ! 給料は一先ずどうでもいい、待てやコラ怪人!!」
逃げ出したニンジャを追いかける。
幸いにも、彼は出血している。砂煙で視界は阻害されているが、その跡を辿れば追いつくことなど造作もない。
牙殻は自身の素早さに物を言わせ、その血の跡を追いかけていき。
「……は?」
なぜか、ジュエリー店の前にまで戻ってきてしまっていた。
確かに血の跡を辿っていたはずなのに。
腕を振って煙を全て晴らす。が、先ほど辿っていた血の跡は何処にもない。ジュエリー店から出口の方へ血の跡が続いているだけだ。
「まさか、いつの間にか、
攻略不能の迷路、解き明かすことの出来ない暗闇に足を踏み入れているような感覚がする。
それは過去、警察の資料庫にある
迷宮入り事件の常習犯、ニンジャ。
彼が一体、どうやって牙殻を煙に巻いたのか。それを解き明かす事が出来ないからこそ……彼は史上最悪の殺人鬼と呼ばれるほどに至ったのだ。
「ヒャッホー! このネックレス、超高値で売れるでござるぅ!」
まあ。
当の本人は止血を終わらせ、既にバイクを走らせて。
ジュエリー店から盗んだネックレスを大事そうにポケットの中へ閉まっているのだった。
―――人格犯罪対処部隊最強の男、牙殻。
人格犯罪者から恐れられる彼の強さは、正に何もかもを薙ぎ倒すその身体能力にある。
エンジェルは知雫の仲間であった人物を2人、軽々と倒した。
牙殻は、そんな彼女を無傷で退かせるほどの実力者なのだ。
……ただ勘違いしてはいけないのは。
普通、牙殻と出会った人格犯罪者は……抵抗する間もなく拘束されるのだ。もし抵抗できたなら、その人物はかなりの手練れ。
しかし。
結果的に牙殻が無傷だったとはいえ、怪人二十面相は彼と戦闘を行えた。
しかも劣勢になった瞬間、牙殻から完璧に逃げおおせた……。まるで逃亡の痕跡を消すのに慣れているかのようで、依然として怪人の行方は全く掴めない。
これらを全て単独で行った。
それだけで、怪人二十面相の異常さはありありと分かる。
警察は今回の事態を鑑みて、怪人二十面相への警戒度を更に上げる。
そして人格犯罪対処部隊へ、『怪人二十面相に対し
――――勿論。日高俊介はこのことを知る由もない。
20日に投稿すると言ったのに、投稿できなくてすみません。
牙殻の設定を強くしすぎてどうやっても俊介君の体が真っ二つになり、それのせいで何度も書き直しました。時間が掛かってしまったのは牙殻が原因です。
これで頭も賢かったらホントにどうしようもなくなっちゃうヤバいヤバい。