白い空間の中、2人の男が向き合っている。
1人は浮遊人格統合技術の開発者、榊浦豊。もう1人はおかしな人格が中に居る事以外は平々凡々な男子高校生、日高俊介。
2人きりで対面するには身分の格があまりに違いすぎる。だが事実として、俺は榊浦豊と向き合っていた。
彼が握手の為の右手を差し出したまま、優しい声色で空気を響かせる。
「おや、握手は出来ないかい? 手は洗ったよ」
「……っ、いや、何言ってんだ」
何もかも意味が分からない。
どうやってこの白い空間に来たのかも、なぜ俺の名前を知っているのかも、そもそもこの空間は何処なのかも。
彼が手を引っ込め、俺の顔をじっと見る。
「ふむ。若干の動悸に瞳孔の開き、目の震え……。困惑で頭が回らないといった所かな」
「っ……ここは何処だッ……ですか」
「白い空間」
そんなこと見れば分かるわ。
次第に冷静さが戻り始め、粗暴になっていた口調を丁寧なモノへ修正していく。
「……本当に、ここは何処なんですか? 白い空間とかそういう曖昧な事じゃなくて」
「ふむ、状況を理解して完全に冷静さを取り戻すまで14秒か。凄いね、君の年なら1分は取り乱していてもおかしくないよ。素晴らしい精神力だ、目を見張る」
質問に答えろや。
本当に榊浦美優と話している時を思い出す。他人の話よりも自分の考えと言葉を最優先させるところが特に似ている。
榊浦豊が腕時計から視線を外し、こちらを向いた。
「それで、ここが何処か……だったかな?」
「はい」
「ひみちゅ♡」
ピクリと、下瞼が怒りで震える。
秘密にするのはまだいい。けど『ひみちゅ』って言い方はなんなんだ、顔面ぶん殴るぞ。
目の前の男が実に楽しそうな笑い声を上げる。
「アッハッハ! 呼吸が深くなった、怒りを鎮めようとしている証拠だ! 面白いねえ!」
「チッ。じゃあなんで俺の名前を知ってるんですか?」
「うん、まあそれならいいだろう。答えてあげようじゃないか。
―――『
瞬間。榊浦豊の雰囲気が一気に変わる。
先ほどのおちゃらけた空気ではなく、全身に鉛を括り付けられているような重い空気だ。……いや待て、本当に体が重くなってッ―――!
膝から全身が崩れ、その場に這いつくばる。
腕を支えにし、顔面が地面と衝突するのだけは避けた。
「ッ、一体どうなって……!」
「私は君の事を随分前からマークしていたんだよ。
顔が上げられないほどに体が重い。
視界の外から榊浦豊の声だけが静かに聞こえてくる。
「だがまあ、自分の高校で星野?君を半殺しにしたのは失策だったね。おかげで君の正体を掴めた……。警察の介入は邪魔だったから防いだけどね」
「グ……っ」
「私は優秀な人間が大好きだよ、複数人格持ちの日高俊介君。君の中には一体何人いるんだい?」
殺人鬼を呼び出そうとするが、誰も外に出てこない。
一体どうなってるんだ、こんな状況なら絶対に誰か1人くらいは出てくるはずなのに……!
「答えてくれたら嬉しいんだけどね。まあ、いいだろう」
その瞬間。フッ!と、体から重みが消える。
腕の力で一気に立ち上がり、目の前の榊浦豊に思いきり殴り掛かった。こいつは何かヤバい、榊浦美優とは比べ物にならないほど危険だと俺の勘が叫んでる。
だが、俺の拳は彼の研究者らしからぬ太い腕で簡単に受け止めれられた。
そのままもう片方の腕も掴まれ、完全に動きを固められる。
彼が俺の瞳をまっすぐ見据えながら、静かな声色で言った。
「今日出会ったのは本当にアクシデント。だがこれを伝えておく良い機会でもあった。人格犯罪対処部隊に君の殺害許可が出たんだよ、日高俊介君」
「は……!? 殺害許可?!」
「ちなみにだが、これは私の仕業ではないよ。警察の上層部からの命令に見えて、実はもっと他の所……複数人格持ちの死体をサンプルとして欲しがる機関からの圧力だろう」
榊浦豊が俺の腕を離す。
その場から数歩後ずさり、目の前の男を強く睨んだ。彼もまた冷静さの籠った目で俺を見つめ返す。
「必死に生きたまえ、日高俊介君。保護してほしければ研究所に来てもいい。死体に興味はないが、複数人格持ちの生きたサンプルは大歓迎だ」
「ふざけんな!! クソ……! こんな所に突然連れてきて、俺にこんな事教えて、何がしたいんだよお前!!」
「1つの肉体に多くの人格……それでもなお正常な『複数人格持ち』の事が知りたいんだ。私の目標の為にね」
榊浦豊が踵を返し、俺に背中を見せる。
そのまま足を進めて、遠ざかっていく……かと思いきや、すぐに足を止め、肩越しにこちらを振り返った。
「日高俊介君」
「何だ……!」
「あの派手な舞台に立ち、下らない挨拶をする私を見てどう思った?」
「……別に。浮遊人格統合技術の注射の中身がアレなのに、優秀な人物がどうのこうの言ってるのには『ふざけんな』って思ったよ」
彼が一拍、息を呑んで言葉に隙間を空ける。
「君はもし。絶対に成し遂げたい事があったとして……でも自分の力では成し遂げられそうになくて。そんな状況にあったら……どう成し遂げる?」
「誰かに頼る」
というか、非力な俺にはそれしか出来ない。
この間の夜桜さんを連れての警察との追いかけっこが良い例だ。あんなもの、殺人鬼達の力を借りなければ絶対に成功しなかった。
だけど、優秀な人間に拘る榊浦豊にとって俺のこの答えは気に食わないかもしれない。自分が優秀な人間ではないと一番に認める答えだからな。
そんな俺の言葉を肩越しに聞いた榊浦豊は、静かに顔を前に向け。
「……私は君の事がますます気に入ったよ。日高俊介君」
「何だって?」
「引き続きデートを楽しみたまえ。私はいつでも見ているよ、未来ある青年」
―――瞬間。
真っ白い空間から、元の華美な集会場に視界が切り替わった。白から黄金への急激な色の変化に付いて行けず、思わず目を閉じる。
強く目を閉じ続ける俺の様子に、夜桜さんが心配そうな声を出した。
「どうしたの日高君?」
「お、俺……どこに行ってた!? この集会場から何処かに行ったりしなかった?!」
「? 日高君はずっとここに居るよ?」
ずっとここに?
馬鹿な、あの白い空間で少なくとも数分間は喋っていたはずなのに。
色の変化に目が慣れて来たその時、ポン!と肩が背後から叩かれた。
咄嗟に振り返ると、そこにはエレベーターに向かって歩いていく榊浦豊の姿があった。振り返らぬまま、右手をこちらに向けて振っている。
「……」
追いかけることはしなかった。
気になることは多いが、ここで突っ込むことの危険さは計り知れないからだ。
榊浦豊がずっと前から俺のことを知っていた事。
人格犯罪対処部隊の殺害許可。
そして……複数人格持ちの俺が関係する、榊浦豊の目標について。
殺人鬼達とよく話し合わなければならない内容も多い。
昔から思ってる、平穏に暮らすなんてのが馬鹿みたいに遠い目標に思えてくる。一般男子高校生に訪れるには余りに危険すぎる日々が目の前に待っていることがありありと分かる。
でもこれは。
きっと殺人鬼達と一緒に暮らすと決めたその日から、いつか訪れることが決まっていた運命なんだ。今まで頭では理解していたものの、心の奥底で理解できていなかっただけ。今日、榊浦豊から一方的に話を聞かされて……一端の覚悟は決まった。
「マッドパンク、他の皆を呼んできてくれ」
『ん? ……ああ、分かった』
これからどうすれば良いかなんて全く分からない。何から手を付ければ良いのかも分からない。
けれど……俺は1人じゃない。ちょっと壊れてる奴ばっかりだけど、荒事に関してはこれ以上なく長けた殺人鬼達がいる。
いつになく真剣な面持ちをする俺の顔を見て、夜桜さんが再び心配そうな声を出した。
「日高君? どうしたの?」
「夜桜さん。悪いけど……俺はもう帰るよ」
「そうなの? じゃあ私も帰るよ」
夜桜さんが優しく俺に微笑みかける。突然帰るなんて言い出した俺に付き合ってくれるなんて、本当に優しいんだな。
その笑顔を見て……彼女だけは、危険な事に巻き込みたくないと思った。
(都合のいい夢だったんだな)
犯罪者を内に抱えた俺が、幸せな未来を歩む彼女の人生に関わろうとしたのが土台おかしかったんだ。今日、デート紛いの物を出来ただけでも奇跡みたいなもの。
「……ごめん」
「何? 何で謝るの?」
「俺、そんなに楽しい会話とか出来るほど器用じゃなくてさ。今まで夜桜さんと頻繁に関われてたのが人生最大のラッキーだったってだけでさ。だから……」
顔を伏せる。
そしてすぐに、ぎこちない笑顔を浮かべた。
「きっと幸せな人生が待ってるよ、夜桜さんには。俺なんかが関わっちゃいけないくらいのさ」
「な、何言ってるの……?」
彼女の肩を掴み、顔を近づける。
集会場の中央から聞こえる美しい歌声が会場中に響き渡っていく。多少の声なら簡単に掻き消されるほどの、高く透き通るような声だ。
夜桜さんの耳元に口を近づけ、本当に小さな声で。
「さようなら」
そう呟いた。
彼女が糸の切れた人形のように全身から力を抜く。
近くの椅子を引っ張り出し、そこに彼女を座らせた。椅子から倒れないように、体勢を整える。
『いいのか?』
「……ああ。夜桜さんだけは絶対に危険な事には巻き込めない」
『その選択が、本当に俊介の為になるのか分からないよ……私には』
「俺の為じゃあないさ」
俺の側でそう言ったのは、サイコシンパスだ。
耳元に口を近づけた時に体を変わり、極力魅力を抑えた声で、夜桜さんの意識を落としてもらった。これなら声中毒になって精神が壊れる心配もない。
「キュウビ、右腕」
『……わらわとしては断る道理はないが、その』
「いいからやってくれ」
彼女に頼んだのは『記憶封じの術』。
といっても、それは完全な物ではない。強力な暗示程度の物で、きっかけがあれば思い出してしまう物だ。記憶を完全に消し去ることは出来ない。
封じ込めたのは俺に関する記憶。
これで、俺の事は一切関わりのないただの男子生徒と思うようになる。学校で俺の姿を見かけたって何とも思わないだろう。
「……バクダン。何処にいるか分かんないけどさ、バラさないでくれよ。数ヵ月前の何でもなかった関係に戻るだけなんだからさ」
夜桜さんの体を見つめながら、小さく呟く。きっと俺の言葉を聞いているだろう。
もしここでバクダンが夜桜さんと体を変わったら、そっちも記憶を封じるつもりだったけど……。まあバクダンなら、危険な俺と関わらない事が一番の利だとしっかり判断できる。封じなくてもさしたる問題はない。
「行くか」
殺人鬼達にそう呟き、美しい歌声を背中に浴びながら、集会場から出るエレベーターへと向かった。
バクダン「ファッ!? 何してんねんコイツ!!」