禪院家は呪術界で最高の影響力を持つ御三家の一つ。その本家ともなれば、京都でも一、二を争う大邸宅だ。家そのものを文化財に登録しようという話が持ち上がり、観光客に来られても困ると禪院家側が(色々と手を回して)拒否したくらいである。
前世ではむしろ貧乏気味だった徹からすれば、実家ですら老舗旅館に泊まり続けているようで慣れるのに苦労したのに、禪院家はもはや理解の外側である。
とは言え(京都人らしく嫌味たっぷりではあったが)それなりに歓迎され挨拶を済ませた後、父に「後は大人の話し合いだ。お前は遊んでいなさい」と言い付けられた徹は、まさか他人の家で術式の練習をする訳にもいかず禪院家内をぶらついていた。
(何か楽しいな、こういうの)
客間以外の部屋に入らない=廊下を歩き回る分には構わないと許可も貰っているので、徹の人格は未だ10歳そこそこの身体に引っ張られて1人探検を楽しんでいるのだった。
行けども行けども終わらない廊下、最早何部屋あるのか想像もつかない部屋数、遠くに見える離れと、廊下から良く見える立派な日本庭園。行く先々には如何にも高そうな調度品が嫌味にならない程度に飾られており、文字通り住む世界の違いを感じさせる。
(……おっ)
好奇心のままに周囲を観察していたからか、徹はその時知らず知らず感覚が鋭くなっており、100メートル近く離れた場所のわずかな呪力の流れを察知した。
なお、この時点で放出された呪力はほとんどゼロに近く、御三家である禪院の家人たちですらほとんどが気づいていなかった程である。徹が自らに課す厳しい鍛錬と、持って生まれた呪力センスの賜物であった。
「なんや君。
果たして、彼の向かった先は広けた中庭のような場所。
地面に転がされている少女と、それを足蹴にしている高校生くらいの和装の男。一般人が見れば顔をしかめるかその場で止めに入るだろう絵面が広がっていたが、徹はそれよりも、下手人の男の方に目が行った。
和装の男が「おもろいもん見つけたわ」という目で徹を見やった瞬間、徹は戦慄した。
彼は直感的に呪力を知覚する特異体質の持ち主。故に、眼前でニヤついている男の体内を整然と循環する呪力が解る。
この手の力が川の流れに例えられることはままあるが、それで行くなら和装の男のそれは完璧に造成された人工河川だろう。やっていることの下衆さのせいで一瞬侮りかけたが、間違いなく術師として一つの高みにいると理解させられた。
呪力量はさほどでもないが、徹がこれまで見て来た中でもトップクラスの呪力制御。恐らく術式も相応に複雑、または繊細な操作を求められるもので、彼はそれを使いこなしていると見た。
恐らく父より強い。徹はそれを初めて目の当たりし、内心気圧されていた。
「空閑徹です。父のご用事に同行しています」
一瞬考えて、徹の出した答えはこう。自分一人では最悪の場合があると考え、牽制に家の名前を使った。
「ほーん……ああ、そういや今日何とか言う田舎モンが挨拶来とるんやってな」
ニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべながら、男は徹の事情を諳んじて見せる。わざとらしくそう言えばなどと言ってはいるが、恐らく最初から知っていたのだろう。
「ああ、自己紹介もまだやったな。禪院直哉、特別一級術師や」
高専所属ではない一級相当の人材に与えられる、特別一級の称号を目の前の男は口にした。示威効果を狙っての事だろうが、既に手練れと認めている徹にとっては予想通りでしかない。
「特別一級術師が……何故、女の子をいたぶっているんですか?」
「ご挨拶やなぁ。訓練や訓練」
答える直哉の笑みは崩れない。
実はこの日、男――禪院直哉はすこぶる機嫌がよかった。と言うのも、
「俺は"炳"の筆頭候補、そこのカスは"灯"に入りたて。センパイとして、下のモンには稽古つけてやらんとな?」
という理論立てにより、好きな時いたぶれるおもちゃを二つも手に入れたためである。
「せやからこうして可愛がってやっとんねん。なぁ、ありがたいやろ? 真依ちゃん」
言いながら、直哉は地面に転がっている少女――真依の髪を掴んで持ち上げる。
「ぁ、ひっ……」
「なんや、聞こえへんやったんか? こらもうちょい叩き直した方がええかもな?」
直哉の笑みがより酷薄になると、途端に真依がびくりと震え、生傷と泥だらけの顔を媚びるように歪める。
「っ、いえ! あ、りがとう、ござい、ます……」
「聞こえとるんやったら早よ返事せえやカス」
言い放ち、真依を再び地面に投げ捨てる直哉。
「ひぎゅっ!」
「ふはっ、なんやその声。おもろいやん、もっぺん出してみ? ……っとと、君まだおったんか。まあそう言う訳で、俺らは仲ようやっとるだけやから、気にせんといてな」
直哉の言い分を受けて、徹は感情を揺らすでもなく言い放った。
「……そう言う事でしたら」
「なんや物分かりええやん」
「僕も混ぜてくれませんか?」
言ったとたん直哉がガクン、と大袈裟にのけぞって見せるのが徹の目に映った。京都とは言え関西人、流石にノリがいい。
「はぁ? 今言うたやろ、身内向けの訓練や……って……」
直哉の言が途中で勢いを失っていったのは、徹の身体を巡る呪力の不自然なまでの静かさに気づいたから。
一流になるほど、全身をよどみなく呪力が流れるため呪力から行動を読みづらいとされる。徹のそれは、10代にして歴戦と形容するに足るだけの修羅場をくぐって来た直哉から見て、臨戦態勢と気づくのに今までかかるほどのもの。
「いつからそうしとったんや」
「呪力を感知した瞬間からずっとです」
「……なるほどな。いくら煽ってもピクリともせぇへんからどんな冷血野郎かと思とったが、ずーっと隙を窺っとったんやね」
そん年でようやるわ、と呆れたように吐き捨てる直哉だが、口ぶりはさっきまでよりも明らかに弾んでいる。
「けどええの? 年の割にはやるようやけど、どうせ呪力操作の一芸特化やろ。ガチでやり合ったら君ボコボコにされんで?」
「確かに勝てはしないでしょうけど……殺し合いになりますよ?」
そしたら困るのは直哉さんでしょ?
すました顔で言ってのける徹を、直哉は真顔で見つめたまま数秒。直後、堪えきれないといった風に噴き出した。
「はは! せやな! 幾ら俺でも術師殺しの責任は負いたないし、第一客人殺してもうたらおとんにどつき回されるわ」
徹は、この短時間で直哉の性質をある程度見抜いていた。
転がっている少女には「カス」呼びだったのに、徹には「君」だったこと。自分の強さにプライドを持っていること。「炳」の組織内ではやっていけているらしいこと。
それらを総合するに彼は悪人で、「下」とみなしたものに対してはとことんまで辛辣だが、同時に強いものには敬意を払うタイプの人間であると、徹は判断していたのである。
「君、お名前何て言うん? ゴメンな、さっきまでは覚える気ぃなかったんよ」
「空閑徹です。直哉さん」
「徹君か。覚えたで。したら――」
瞬間、直哉の姿が掻き消える。
徹は持ち前の感知能力を総動員して、姿ではなく呪力の流れを捉える。
(手を触れることが発動条件――ここ!!)
その刹那、徹の右肩にポンと何かが触れ――なかった。
(コイツ!?)
知ってやがった。
最小限の動きで直哉の手を避けた徹とスカした右手を見て、認識を改める。
禪院の相伝が1つ、投射呪法は、事前に24fpsで作った動きをその後1秒間トレースする術式。来るのが解っていれば、呪力の動きを追えばある程度動作に予測がつく。
「後は手足からの呪力放出で最低限動ければ、ギリギリですが回避可能と見ました」
禪院家には相伝がいくつもあるが、次期当主確実と言われる直哉のそれは(相伝持ちとして宣伝したこともあり)既に呪術界に割れている。眼前の男が直哉と名乗った時点から、徹は頭の中で対抗策を模索し続けていたのだ。
その中で最も簡単な手段、「ヤマカンでタッチを回避」という荒業を、主人公の呪力感知と読み、そして精密な呪力操作に任せてやってのけたのである。
「……確かに、こら真面目にやると殺してまうわ」
すれ違いざまのタッチをスカされ、しかし速度を活かして背後に回り込んだ直哉はと言えば、不機嫌を隠そうともせず徹を睨みつけ。
「はぁ、止めや止め。術師同士で殺し合いなんぞアホらしい。飯食い行くわ。後は好きにせぇ」
結局、折れた。
スタスタとその場を後にする直哉を尻目に、徹はここに来て初めて意識を女の子……真依の方に向けた。
「無事……ではないよね」
服の上からだがざっと見る限り、顔を含めた全身に打撲やら切り傷やらがあり、古傷の多さから日常的に行われているものと思われた。
「……」
視線に気づいたか、ぐったりしていた真依がこちらに視線をよこす。
直哉の時と違って怖がる様子はない。しかし虚ろな目には光がなく、単に諦めているだけのようにも見える。
「これは……あんまりやらない方が良いんだろうけど……」
一瞬の逡巡の後、徹の右手のひらに淡い光がともる。
それが真依の顔と背中を包むと、生傷のほとんどが簡単に消えて行った。
「こ、れ、術式……?」
「反転術式。本当は使えるの黙ってるんだ。内緒だよ」
呪力を知覚できる関係上、それを反転させ正のエネルギーとする反転術式についても高い熟練度を持つ。東京高専の家入のように重傷から一気に治すことなどは難しくても、多少の擦り傷切り傷や打ち身を治すくらいなら今の精度でも可能だ。
「………」
真依と呼ばれた少女は喋らない。あるいは目の前の、年の近い男の子があの直哉を退けてしまったことが受け入れられずにいる。
徹は、この人物が幼き日の禪院真依であると感づいている。故に迂闊なことは喋らない。しかし放っておくわけにもいかず、その場には不思議な沈黙が流れる。
やがて、ただ寄り添っている徹に焦れたのか、真依が問いかけた。
「なん、で、たすけてくれたの」
「…………普通、女の子が蹴られてたら助けに行くと思うんだけど」
「それだけ?」
「だけって言われても……何でだろう。勿体ないから?」
脳裏に浮かぶのは、あの日の夏油のこと。
非術師の醜悪さに愛想を尽かした彼だが、先ほどの直哉とは色々な意味で正反対だ。
「もったいない?」
「そう。あの直哉って人、折角強いのにやることが弱いものいじめってのはなんか、勿体ないなって」
それは、夏油の進む道を変えられなかった後悔からくる代償行為のようなものだったかもしれない。
或いは、自分に原作の出来事を変えられるかという実験だったかもしれない。
或いは、夏油にこのことを話せたらまた違った道もあったかな、という叶わぬ期待だったかもしれない。
自分でも分からなかったが、何かそういうごちゃごちゃした感情があって、どうにも直哉のような在り方が良いものとは思えなかったのだ。
「……そう」
望んだ答えではなかったのか、真依はピンとこないような顔をしている。だが続く言葉で、彼女ははっとしたように目を見開いた。
「父さんが言ってたんだ。術師は個人で完結した生き物だって。だから、僕は嫌いなものと喧嘩するし、好きなものは守るよ」
周りの反応や呪術規定等、参考にすべき方針はあっても、結局最後は自分の好悪で敵味方を区別するほかない。
「法」や「道徳」が絶対的な価値基準となり得ない呪術師ならではの考え方と言えた。そう言う意味では徹も、既に呪術界に適応していると言える。
「じゃあ、今お怪我を治してくれたのは?」
「僕がそうしたかったから。あと、できるから」
真依の中で、同い年くらいの少年はヒーローになった。
「……あなたみたいな人、初めて見たわ」
自分のような忌み子にも分け隔てしない。
どころか、積極的に傷を治して優しく接する。
心無い言葉をぶつけてこない。否定されない。
偶然とは言え、禪院では逆らえる者のほとんどいない、権威の化身のような存在である直哉から守ってくれた。
何より禪院の旧弊的な価値観に縛られていなくて、自分で道を決める強さを持っている。
「あの。えっと、ありが――」
少しだけ赤らめた頬で言おうとした言葉は、しかし新たな闖入者によってかき消されてしまった。
「おいコラァ!! うちの妹に何してんだ!!」
「うわっ!?」
禪院真希。女子ながら炳の下部組織、躯倶留隊に所属する戦闘員である。
「お姉ちゃん! この子は……」
「よし、お姉さんも来たみたいだし僕ぁ失礼するね!」
「ちょっと!?」
弁解を試みる真依を尻目に、一件落着とばかりに逃げ出す徹。
真希の常軌を逸した身体能力と地の利を相手に互角以上の逃走劇を演じた彼は、合流後の父親の追求に「知り合った女の子と鬼ごっこをしてた」と何食わぬ顔で答えるのだった。
「…………また、会えるかな」
「ん? 何か言ったか?」
「ううん、何でもないよお姉ちゃん」
禪院直哉
この時18~9歳くらい。特別一級術師。禪院の相伝持ちで体術も出来るので、常識の範囲内では最強格。逆に言えば、そこから逸脱している"アッチ側"の連中には逆立ちしても勝てない。
禪院真依
この時9歳くらい。等級なし。ここではくくる隊でゴリゴリに鍛えている姉の煽りを食って"灯"に放り込まれ、かわいがりという名のイジメを受けている。どういう訳か、今回の一件以降いじめ・陰口が激減しているらしい。
空閑徹(とおる)
この時10歳くらい。等級なし。既に呪力操作だけなら一級レベルさえ追い越しつつある。他の部分はまだ未熟。
空閑徹大(てつひろ)
徹の父親、この時30歳くらい。一級術師。空閑家ではぶっちぎり最高戦力だが、禪院で言うと扇以上直哉未満くらいの強さ。地方にしてはかなり頑張ってる方。