騒乱。甲高い悲鳴。山積みに積まれたガラクタがド派手は音を立てて崩れ落ちる。背後に狂乱を作りながら、けたたましい音のアーチを潜り抜けてまだ年端もいかない少女は路地裏を駆け抜ける。文字通り、それはまさしく疾走だった。道を塞ぐ人を、バケツを塩化ビニールのパイプを音もなくすり抜ける一陣の風。だが時々背後を振り返る顔には苛立ちが浮かんでいた。
「しつこい……」
再び正面の角を一瞥し、少女は更に加速する。あわや壁に激突せんとする寸前で猫のようなしなやかさを見せ、壁を足場に向きを変えた。加速に加速を重ねてその速度は既に公道を行く自動車を超えている。常識ではあり得ない速度域にまで少女を加速せしめたのは、少女が無意識に発動する咒式の効力に他ならなかった。
それでも、
「振り切れない……!?」
敵の脚は圧倒的である。生まれてこのかたここまで追随されたことは一度もないというのに、背後からの嫌な予感が絶えることなく付きまとう。あれは拙い。一ヵ月前辺りからか急に付きまとうようになった影、殺された両親の周りに幽かだが漂っていた匂い。そういう尋常でない気配がないまぜになって背後から追いかけてくる。
もっと速く。頭に浮かぶ焦燥のままに周囲に咒力の燐光を浮かべ、少女の脚はこれまでにないほどの加速を見せようと筋肉を撓ませた。
時が凝固する。コンクリートの弾みを足の裏に感じながら、瞳は遥か先を見据える。だからこそ、そいつの異常さは際立っていた。
加速した感覚の中に、静止した塵芥の中にするりと黒い影(そいつ)は滑り込んでくる。使い古され、色褪せた合成革の戦闘コート。陰鬱な抜け殻のような目の若い男。
ぶつかる、かもしれない。あまりにも意外な角度で現れたのだ。あまりにも気配無く――――――、
「っ!」
衝撃はなかった。
一瞬心地いいくらいの無重力に私の体は捉えられ、たん、と足を揃えてアスファルトの上に着地する。
この男……。
この少女……。
咄嗟に拿法で絡めとった少女にタオローは息を呑んだ。妹が生き返ったのかと思う。戸惑いながらこちらを見つめる眼差しに、目が霞み鼻の奥がぬちゅぬちゅと音を立てる。裏路地の生臭い何とも形容し難い悪臭が、その時だけは桃園の香りに変わっていた。
「助けて……、追われているの!」
とはいえ、息を切らせてコートの裾を掴む手にタオローは僅かに逡巡する。この少女はタオローの妹ではない。それはあまりにも明白で、どうにも覆し難い事実だ。どころか血縁の関係すらない路上ですれ違っただけのいってしまえば赤の他人である。
信用なんてもちろん出来ない。友人との約束とどちらを優先すべきかなどと、問うも愚かなことなのだろう。
だというのに、どうしようもない躊躇いが心の中で渦巻いている。
そうして、敵が空から降って来た。
タオローの迷いなど無視して肉体はその場で最適な動きを取る。少女に氣を流し自らの肉体の一部へと認識を書き換え、その場から飛んで逃げる。強化猫の敏捷さで行われた一連の動作は、たとえ攻勢咒式士であったとしても捉え切れるものではない。
大地を砕く一条の殺気。巻き上げられたアスファルトの礫片が左右のコンクリートにぶつかるその0、001秒の内にタオローは抜刀を終え、構えを取っている。粉塵の向こうで相手もまたタオローを油断なく睨みつけ、対するタオローは静謐、切っ先を僅かに揺らし呼吸を図る。
「手前、邪魔すると痛い目を見るぞ!」
警告の重厚な発声で相手の練度が知れた。少なく見積もっても11階梯はあるだろう。破壊と本人が同時に来たことから近接戦闘を得意とすることも判ぜられた。
「見れば年端もいかない少女だ。なぜお前ほどの咒式士がこんな少女を追う?」
「そいつは話せねえ。こっちにはこっちの事情があるからな。けど手前よぉ」
じろりと、好戦的な目で顔面刺青をした男はこちらを睨む。
「それを聞くってことは、少女を大人しく渡す気はねえんだな?」
タオローは少し視線を泳がせて、答えた。
「当然だな……」
返答に男の口の端が歪む。退屈な追跡戦に飽き始めた男は、戦いの口火を待ち望んでいたのだ。
「バカが……正義感を振り回しやがって」
とたんに男の肉厚の体を滞留する殺気が、タオローにその矛先を向ける。
200歳級の竜もかくやという圧力を前にこぉ、とタオローは緩やかに導引した。
戴天流の呼吸法が怖気を振り払い、増幅された咒力が幾重にもタオローの体に強化咒式を張り巡らせる。左右には壁がある路上、相対する男の大剣に左右の薙ぎはなく、また壁を粉砕して強引に来られても、先をとって仕留める事が出来るだろう。
――――――それはこちらとて同じこと。
必然的に剣の初撃は縦斬りか、刺突になる。太刀筋が分かり切っているならば、先に動いた方が圧倒的に不利なのは明白。
――――――と、ここまでは向こうも予測している。少女をかばう剣士を前に男―――トゥダイは顔色一つ変えずに逡巡する。敵の構えは切っ先をこちらに向けた中段の形。あの形は防御には優れるものの、攻撃に移るためには、振りかぶり、斬る。という二つの動作が必要で先に攻撃するには不向きだ。故に敵の狙いはカウンター、上段からの斬撃は格好の餌食になる。
だが、
タオローの目の前で男は大剣の切っ先をこちらに向け中段に構えた。互いに防御の構え、ならばこちらが有利とタオローは判断する。敵の剣は身の丈に匹敵するほどの長さと厚みがある。その分、一撃の破壊力に優れるが助走なしには十分な威力を得ることが出来ず、またその動き出しは質量故に遅い。斬り返しは言わずもがなだ。
……愚か者、
――――――あの形からの刺突には剣を這わせて制し、軽功で間合いを詰めて斬る。もっと愚かにも振り上げようものならば、左腕を斬り上げて、残る右腕をこちらの右手で止め、返す刀で首筋を鈨元から撫で斬って終える。
もちろんトゥダイは中段の構えが不利なことをあらかじめ知っていた。自らの剣の質量と長さ故にこの構えは相性が悪い。
だがよ、
長套の剣士にトゥダイはほくそ笑んだ。可笑しくて可笑しく、懸命に表情筋が動かぬように耐える。
そいつは、普通の剣士同士ならだ!
間合いを切り取り直進した時、ついにトゥダイの内に育まれた喜悦は抑えきれない哄笑となって爆発した。トゥダイの手の内で錬成(べリス)が発動し、大剣の柄が爆発的にその質量を後方に伸ばす。
伸長した柄の後部を右手で掴み、刹那の内に長槍と化した大剣の切っ先をトゥダイは長套の剣士に叩きこんだ。
トゥダイの目論見は半ば成功し、そして結局のところ失敗に終わった。
「っ!?」
目論見をまんまと外された男の目に驚の色が浮かぶ。
男の間合いを詰める足取りにタオローは僅かな違和感を覚えていた。大剣のそれよりが届く距離よりも僅かに遠かったからだ。
違和感の最中に男の動きが大きく変わる。剣の刺突から、槍のものへと。
虚をついた槍の切っ先は、五層あるタオローの圏の第二層まで侵入しそこで目標を見失った。
切っ先を前にタオローの体が滑らかに流動する。中段の剣はそのままに、剣柄に左手を添えて半身を切る「柳枝堪風」の形。剣柄を諸手で持つことで切っ先に粘りが生じ、ギィン、と金属同士が擦りあって虚空に火花が散った。水平に構えたタオローの魔杖刀の反りに導かれて長槍の切っ先が明後日の方向に運ばれた結果だった。
これぞ軽きもって重きを凌ぐ戴天流「波濤任櫂」、その術理の一端に他ならない。
そして、体勢を崩した男を前に好機とタオローの体が加速する。否、トゥダイの目が捉えたのはきっとその残影だったのだろう。左腕に接触のされると同時に激痛が走り、トゥダイの体が硬直する。決定的な隙をみせた男を刃圏に収め、タオローの右手の魔杖刀は別の生き物のように踊り狂う。
宙を薙ぐ白刃の輝線はトゥダイの感覚を持ってしては捉えられず、ただ吹き寄せる風だけが男に終焉を報じていた。
少女の目の前で大きな剣を持った男がよろよろと三歩踏み出して、転げ落ちた首を抱え倒れ伏した。壊れた制御弁のごとくタオローの一刀に断たれた首筋が血の池に赤を注ぎ続ける。酸鼻な光景に少女は虚脱して失禁した。
「るゥりィ……」
何事か呟きながら長套の男がこちらに近づいてくる。熱病にでも浮かされたような歩みで、視線は虚ろに少女を見据えている。あれは私のことを心配しているわけではまさかないだろう。あの目に映るのはきっと私ではない別の誰かだ。
「無事か……?怪我はなかったか?」
愛しいものをみるような表情を浮かべ、人一人斬った男は少女の前でしゃがみこんだ。ツと伸びる男の人差し指が少女の輪郭をなぞる。懐かしむように、慈しむように。そこに偽りようもない男の愛情が込められている。
しばらく続く触診に身を預け少女は呆然と男を眺めていた。怖気を覚えるべきだったのかもしれない。相手は夢現な、それでいて殺しの達人だ。
「よかった……無事で、本当に良かった……」
触診を終え男は少女の体を抱きしめる。
なのに、今しがた抜け出していった鼓動が男の体温で蘇るのはなぜだろう。
分からない……。
ただ、
あと少しだけこの鼓動に縋っていたかった。
タオローってカタカナで書くとすげー間抜けですね。