中指と薬指の間が開かなくて、上手く弦を押さえられませんなう。
放置するのは流石に良心が咎めたので、倒れた承認欲求モンスターを抱えて連れ帰った。
今は、その子が目の前で山盛りのご飯をガツガツ食べている。さっき買った唐揚げ弁当はこの子が食べて既に空っぽだ。コンビニ弁当だけでは足りなかったみたいなので、二合の白米を炊いて食べさせてあげている。
白米を食べ終わると満腹になったのか、けぷっと言って床に敷いたバスタオルの上に寝転がる。ふくれたお腹に手を置いて、ニヘーと笑みを浮かべていた。
ちなみにバスタオルを敷いているのは、彼女が雨と泥まみれだったためである。本当は先に体を洗うべきだとも考えたがとてもお腹が空いている様子だったので、手と顔だけ洗って先にご飯を食べさせた。
不意に承認欲求モンスターが上体を起こす。こちらに顔を向けて、ペコリと頭を下げた。お礼のつもりかしら? と考え、
「あ、えっと、どういたしまして」
そう言って目を合わせると爆速で顔を逸らされた。この姿でも変わらずコミュニケーションは苦手らしい。
ご飯の後、改めて体を洗ってもらうために彼女にはお風呂へ入ってもらった。路地裏で倒れていたせいで泥塗れだし、雨に打たれたせいで体が冷えている。流石にこのまま放置してたら風邪をひいてしまうだろう。
この子の身長的に蛇口やシャワーフックに手が届きそうになかったので、お湯を出しっぱなしにしてシャワーヘッドを手に取れる位置に置く。併せて、シャンプーやボディソープ、ボディタオルなども手が届くところに置いた。「俺は外に出てるね」と伝えて浴室を後にする。彼女は首をコクコク振っていた。
洗面所の床に体を拭くためのバスタオルを置いて、キッチンに戻り食器を洗う。その後は床の泥を掃除した。
食器を洗ったり床を掃除しながら、あの子のことについて考える。彼女はどこから来たんだろう? いや、そもそもどうやって産まれたんだ? かつて見たマンガやアニメの通りなら、彼女は後藤ひとりが持つ承認欲求の擬人化のはず。彼女の心の中の存在で現実には存在しないのだ。
一人では答えの出ない問題に悶々としているとガチャ、と脱衣所のドアが開く音がした。承認欲求モンスターがお風呂から上がったのかとそちらに顔を向ける。
「あっ、あの……お、お風呂、先にいただきました……」
彼女は洗面所から顔だけ出してそう言った。ピンクの前髪の隙間からこちらを伺うようにスカイブルーの視線を向けてくる。しかし目が合ったせいか光の速さで斜め下に視線が逸れた。
その姿は今日も学校で見かけた、後藤ひとりその人だった。
「えっなん……何? えっと、うん?」
承認欲求モンスターをお風呂に入れたと思ったら、後藤ひとりになって出てきた。ふふ、何言ってるかわかんねーだろ。俺もわかんない。困惑からあまり意味のないセリフが口から漏れてしまった。
「あっ、えっ……その、た、助けていただいた着ぐるみの子です……」
後藤さんは、ニチャア、と音が立ちそうな引きつった笑みを浮かべて、ぷるぷる震えながら目をこちらに合わせている。
……いくら『ぼっち・ざ・ろっく!』の世界に生まれ変わったとはいえこんな展開あるか? 創作物の世界とはいえここは現代日本だ。普通、女子高生は膝くらいの高さの体長に縮まないし、それがお風呂に入って元に戻るわけがない。前世のマンガやアニメで奇怪な変態を見せてた後藤ひとりだが、俺の目の前にいる彼女は『キャラクター』じゃなくて『人間』だ。常識的に考えて、そうポンポンちっちゃくなったり大きくなったりできるわけないだろう。質量保存の法則って知ってる??
──閃く。ああ、気づけてしまえば簡単な話だった。うん、そうだ、つまりこれは現実じゃなくて。
「なんだ、夢か」
思わずそう口にした。
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私は、気づいたらお風呂に浸かっていた。蛇口からお湯が注がれて、今は浴槽を七割くらい満たしている。お湯に包まれた全身がじんわりと温かくなって、雨に打たれて凍えていた心身が癒やされる。その感触が心地よくて思わず、ほぅ、と息を吐く。
干したてのお布団の中のような安心感を覚えつつ、今までのことを思い返す。
ある日、なんでかわからないけど気づいたら路地裏でちっちゃい体になっていた。ビルの隙間から覗いた景色は見知らぬ場所で、どこか知ってる場所に出ないだろうかと街を一日ほどさまよった。こんな体になって人に見られたらどんな目に合うかわからなくて、怖くて人目を避けながら。途中でカラスにいじめられたり犬に吠えられて泣きながら逃げたりもした。
でも雨の日にとうとう空腹が限界になって倒れたんだ。コンクリの地面は固くて雨は冷たくて、ふと「ここで死んじゃうのかな」って考えが脳裏をかすめて。そしたら勝手に涙がポロポロとこぼれて。
そうしていたら、ふと、大好きな唐揚げの匂いがした。無意識に起き上がって、その匂いのところに向かう。前を見ずに歩いたせいで何かにぶつかって尻もちをついてしまった。
ぶつかったのは学生服の男の人だった。すごくイケメンというわけじゃないけど、クラスで三番目くらいにいそうな整った顔をしてる人。まるで小さい子が親戚の怖い叔父さんに会って怯えてるみたいに震える桜色の瞳が、やけに印象に残っている。普段だったら見られてることに緊張して何もできなくなっちゃうけど、既に限界を迎えていた私は唐揚げをゆずってもらおうと最後の力を振り絞って口を開いた。
「い……いいねくれ~……」
いや、そうはならんでしょ。自分で自分に呆れつつ、最後の力をしょうもないセリフに使い果たした私は意識を失ってしまった。
それから、目を覚ましてご飯を食べさせてもらって、お風呂に入れてもらってる。
「ずいぶん良くしてもらっちゃったなあ……」
いつの間にかお湯が浴槽いっぱいになってたので蛇口を止める。長い時間お風呂に入ってたみたいだ。ホントはもう少しお風呂の心地よさに浸っていたいが、長湯しすぎてのぼせてしまっても面白くない。そろそろ上がろう。
お風呂から出て、用意してもらっていたらしいバスタオルを使って体を拭く。
──そして、私は私のピンチに気づいた。
着替えが……ない……!!
さっきまで着ていた承認欲求モンスターの着ぐるみは泥まみれだし小さいしでとても着れない!
周りを見回すが着替えが用意されてる雰囲気もない! いや結果的には着れなかっただろうけど、ちっちゃい私用の着替えとかできれば出してて欲しかったかなー!?
いやいや、服がないのも乙女のピンチだけどそれ以上にあの人に「えっ誰? ヘンタイ不審者さんか?」って思われてしまう方がマズイ!! 家人が知らぬ間に家に上がり込んで服を着てない女なんて変質者以外の何物でもない! 通報されたら確実になんらかの罪に問われてしまう!
た、助けて誰か! お願いしますなんでもしますから!! そう考えてると、私の心の叫びが届いたのか助けの声が聞こえてきた。
(ひとりちゃん、ひとりちゃん……僕の声が聞こえる……?)
そ、その声は私のイマジナリーフレンドのギタ男くん!?
(ひとりちゃんの姿は大きく変わってて、相手からしたらひとりちゃんと承認欲求モンスターがイコールで結び付けられない……。まずは、ひとりちゃんと承認欲求モンスターが同一人物だってことをわかってもらおう……!)
な、なるほど確かに! 私が承認欲求モンスターだとわかってもらえれば、少なくとも不法侵入者の烙印は避けられるかも!?
覚悟とともにバスタオルという最低限の装備を身に着けて脱衣所から顔だけ出す。ドアが開く音を聞いたからか、彼の顔がこちらに向けられる。その桜色の目と視線が繋がった。彼が困惑と動揺を抱いてることがその揺れた瞳から伝わる。ちっちゃい子が出てくると思ったら体長が約四倍の見知らぬ女が出てきたのだから当然の反応だろう。
そう考えるが、そんな視線を向けられるだけで私の陰キャマインドは大きなダメージを受けて瀕死になってしまう。コミュ障陰キャは人に変な目で見られるだけで心がガラスのように粉々になっちゃうのだ。
それでも必死で踏ん張った。ここでいつもみたいに倒れてしまったら本当にヘンタイ不審者さんの烙印を押されて通報されてしまいかねない。それだけはイヤだ! こ、これでもライブハウスって飲食店でバイトして私もコミュ力が成長してるんだ! がんばれ私! 今の私はぼっちレベル100!!
「あっ、えっと……お、お風呂、先にいただきました……」
それだけ言って相手の視線に耐えられずに思わず目線を逸してしまう。うおおおおい、まだ私が承認欲求モンスターだって伝えられてない! こらえろ私、このままだとホントに通報されて「人の家に勝手に侵入して半裸になった罪」で逮捕されちゃうぞ!?
「えっなん……何? えっと、うん?」
私を助けてくれた男子は状況が飲み込めてないのか困惑のセリフを口にする。
こ、今度こそ私が助けてもらった子だってことを伝えるぞ!? なるべく親近感が出るように、苦労の末にバイトで身につけた笑顔で、相手の目をしっかり見て……!
「あっ、えっと……その、た、助けていただいた着ぐるみの子です……」
そして恩返しに来た鶴みたいな返答を彼にしたのだった。 や、やった!! 私がんばった! だからどうか! どうか不法侵入通報ルートだけはご勘弁をおおおおおお!!
「……」
男子は私と目があったまま、凍りついたかのように固まっていた。
壁時計の秒針の音がチッ、チッ、とやけに大きく聞こえる。
まるで職場のような不安感。この時間が一分にも十分にも感じられた。
そんな空気の中、ついに彼がぽつりと呟く。
「なんだ、夢か」
彼のその言葉を聞いて「えっ」と口に出る。
「えっと、だってあんなちっちゃい子がお風呂に入っただけで普通の女子高生の体躯になるわけないし」
「あっ……」
思わず声が出た。そ、それは確かに! 常識的に考えて156センチの女子高生がそう簡単に40センチほどに小さくなったり元の大きさに戻ったりなんてするわけないじゃん!! ていうかなんであんな非現実的で酷い目にあってこれが現実だって思ってたんだ私!?
「それに家にぼっ……後藤さんがいるなんて夢でもなきゃ信じられないし」
「えっ、あ……私のこと、知ってるんですか?」
「えっと、俺も秀華高校の一年なんだよね。それで喜多さんとクラスメイト、友達なんだ。喜多さんが入ったバンドの話をちょくちょく聞いてて、それで後藤さんのことも教えてもらって」
「あっ、そ、そうなんですね……よかった……」
喜多さんのお友達!? あっありがとう喜多さん! 喜多さんが話をしてくれてたお陰で通報ルートは回避できました! 喜多さん、あなたは天使だ! これ夢だけど!
「あ、その。もし後藤さんが良ければなんだけどさ」
「ピャッ……は、はい」
急に話しかけられてビックリして変な声出ちゃった。はずかしい。
「よければ俺とセッションしてくれないかな?」
「……へェっ!?」
男の人とセッション!? 怖い!! 偏見で申し訳ないけど何かやらかしたら大きな声で怒鳴られたりしそう! 目の前の彼は穏やかで優しげな顔をしてるけどこういう人こそ怒ったときが怖いんだ!
いやでも夢ならやらかしても大丈夫だから平気かな!? あ、いや、それよりも。夢ならセッションするのは別に大丈夫だけれど……。
「あっ、そのあの、セッションはいいんですけど……その、先に着替えを貸していただければ……」
「……ほ、本当にごめんね!? すっかり忘れてた!」
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「後藤さんありがとう。せっかくの夢だし、誰かと演奏したことがなかったから一度やってみたかったんだ」
演奏してみた動画や生配信と合わせたことはあるけれど、と呟く前島くん。彼には黒いジャージを貸してもらった。前島くんが中学一年生の時のジャージで、運良く私の体躯にピッタリだった。
今は防音室にいる。前島くんのお母さんが元バンドマンかつ楽器蒐集家で、その影響で家に防音室や楽器があるらしい。私はその楽器のうちから一本のギターを借してもらった。勝手に借りて大丈夫なのかと聞いたら「母さんがいない間、楽器を整備していれば使ってもいいよーって言われた」らしい。
「えーっと、俺が誘ったしまずこっちから曲を決めた方がいいよね。米○玄師の『ピー○サイン』はやれる?」
「あっ、やったことあるんで大丈夫です」
了解、と言って前島くんはベースのチューニングを始めた。
(動画をアップしたことある曲でよかった~! これなら十分にやれる!)と安堵しつつ、私も借りたギターをチューニングする。
私がギターをチューニングし終えた頃には、前島くんはベースのチューニングとそれに繋いだエフェクターとアンプの設定を既に終えていた。今は声を出しながらマイクの設定を弄っている。その慣れた手付きは、彼が普段からここでベースを弾いて歌っていることを私に連想させた。防音室に響く低く抜ける声を聞きながら、ギターにエフェクターとアンプを繋いで設定を弄る。
弄りながら、その力強く頼もしい声は歌ったら映えそうだと思って、羨ましさを覚えた。
私が設定を一段落させると、タイミングを見計らっていたのか前島くんから声をかけられる。
「後藤さんは準備できたかな?」
「あっはい、大丈夫です」
「了解。えっと、ドラムはオーチューブの演奏してみた動画を流すね」
ギターを持ち直してうなずいた。前島くんが譜面台の上にスマホを置く。動画の最初にカウントしてくれるからそれに合わせようと彼は口にしてスマホをタップする。
──ドラムスティックを打ち合わせる音の後、演奏が始まる。それぞれの楽器と歌声が辺りに響き始めた。
どうせ夢なんだし、と思って彼の目を気にせず思いっきりギターを掻き鳴らす。それが功を奏したのか、人との演奏なのにギターヒーローとしての実力をいかんなく発揮できている。
(や、やった! 人前なのにちゃんとギターヒーローの演奏が出来てる!)
その事実に気分が高揚する。気持ちが演奏に表れて、歌ってるように楽しげなギターの音が響く。
しかし人と合わせられない悪癖はそのままだった。前島くんと目も合わせず他の音も聞かず、自分のギターに集中してしまう。
ドラムを、ベースとボーカルをギターが追い越して走ってしまった。それに気付いてなんとか修正しようとするも、未だ私の他の音に合わせる技術は未熟だ。上手く足並みを合わせられず他の楽器より遅れたり走ったりしてしまう。
一番のサビに入る頃にはなんとか修正できたが、その時には歌うように楽しげに耳朶を打つギターの姿は無かった。他人の顔色を伺って間違えないように無難に演奏しようとする固い音になってしまっていた。
(最初は上手くできてたのに、やってしまった……っ!)
心の中で後悔と諦念が膨れてしまう。
(せっかく私とセッションしたいって言ってくれたのに……ガッカリさせちゃったかな)
前島くんは誰かと演奏するのは初めてだと言っていた。その言葉は、私が虹夏ちゃんとリョウさんと初めて演奏した時のことを思い出させたのだ。
あの時、実力は全然発揮できなかったけれど、誰かと一緒に演奏するのが楽しいことを初めて知った。
人と一緒に演奏する楽しさを知らないのは勿体ないと思って。だから、あの時の虹夏ちゃんとリョウさんみたいに、私も彼に誰かと演奏する楽しさを教えてあげたいなと思ったんだ。
(実力を出し切れれば、こんなはずじゃないのに)
悔しくて下唇を噛んでしまう。なんとかしたいのに、ミスを恐れてしまって演奏が縮こまってしまったままだ。
サビが終わり、前島くんはドラムの演奏動画を止めた。一瞬、なんで途中で止めるのかわからなくて彼の方に顔を向ける。失望されてしまったから演奏中止するのかな、と思った。
だけどベースを弾く彼の指は止まらない。前島くんがこっちを向く。目があった。
「後藤さん、無理に合わせようとしないで好きにやってみて」
まるで、とても楽しいことを見つけたかのように桜色に輝く瞳が私のことを見つめていた。