寒さには強いはずなのに、この家はまるで凍えるようだ──ようだった。
今はまるで……まるでもう、すっかり凍りついてしまったみたい。
お母さんに言わせると“開き直った”らしい。
四月の終わりにいきなり退院してきたお母さんはなんだか別人のようで、どうしちゃったのかと訊ねるとそんなことを言っていた。
……正直、どんな境地に突き抜けてしまったのかは良く分からなかった。
でもそれは大した問題じゃなかったのよね。家の中のこともお父さんのお仕事のことも、お母さんはゴリ押しでひっくり返していったから。単純に毎日が楽しくて幸せだったから。
そりゃ、お父さんのダメな所は一朝一夕で治ったりしない。嫌な気持ちになることもあった。
でも『お父さんのそういうところはダメだと思う』と言えるようになったのはすっごく大きくて……それまでは思うことすら
明るい展望があった。自分たちはこれから幸せに、いい家族になっていくんだって。
実のところこの感覚は夏くんも
私と焦凍はずいぶん気を揉んだけど、お母さんはここでも腰が激強で。
笑っちゃった。笑うしかないじゃない。
そう、笑って過ごせていた。
──例年よりかなり暑い、八月の終わりまでは。
夏雄が帰って来なくなって、お父さんはすぐに手を尽くしてくれた。沢山の人がびっくりするほどすぐに動き始めてくれて……でも、行方は分からないまま。
たぶん最後に姿を見たのは大学のお友達で、場所はすぐそこ──家から歩きでもほんの十分の辺りだという。
それが誰なのかは未だに不明。具体的な容疑者なんて
もちろん家の雰囲気は深く翳った。
だけど今とは雲泥の差だ。絶対に助け出そうって励まし合うことができていた。
むしろ一番後ろ向きだったのはお母さんかも知れない。
お父さんと焦凍が居ない時、こっそりとされた話はよく覚えてる。だって怖かったから。
夏雄が帰ってこない
『もちろん諦めてないし、やれることは全部やる。でもこれは……夏雄のためとは別の、目的が違う話よ』
『ぇ……じゃあ、誰のため?』
『未来の私たち』
お母さんに問われたから無理して考えてみたけど、でも考えるまでもない。夏くんが帰ってこなかったら私も皆も酷く傷付いて落ちこむに決まってる。
──決まってて、だからお母さんは
『一番怖いのは、やれることをやらなかった後悔。だから冬美、今できることをきちんとして、それを誇って欲しいの』
『……私、何にも出来てない』
『そんなことないし、そんな風に思うのは危ないわ。悪い未来で、その時のあなたが今のあなたを責めてしまう』
お母さんは
だけど──ごめんなさい。別の方に考えが行ってた。
『できることを精一杯やって、それでもダメだったら?』
その絶望や無力感を思うと歩みも思考も止まりそうになる。
お母さんが居てくれないと。
『そんなことで落ち込むようなら、引っ叩いてあげなさい』
『はい?』
聞き間違いかと思いきや大真面目だったあの言葉。
『“何様のつもりだ”って目を覚まさせてあげなきゃ。その時に恨むべきは不運や
だからそんな未来のために、不毛な自己嫌悪に沈まないように、やれることをやりなさい、と。
覚えてるよ。忘れてなんかない。
なのに──なのに今の私は。
動かない。動けていない。
必ず後悔する未来を怖がることさえ、今の私には難しい。
身体も心も凍ったよう。動かない。動けない──。
■十一月 初頭
頭の中で繰り返されるあの瞬間。
あの“蒼炎”の腕から、私もお母さんも確かに一度は逃れたはずだ。私は全力で──実際にはよたよたとモタつきながら──走って、ヒーローに保護してもらえて。その間お母さんは、何故か敵から離れなかった。
どうして? そんなことをする理由は
答えは出ない。それが結論。
なのにまた、あの男の近くへ引き戻されて恐怖の再体験を強いられ続ける。
延々と、昨日も今日も、きっと明日も。
だけどこの日はいつもと違うことが起きた。
玄関が何やら騒がしい──いや、怖かったのは一瞬だけだ。言い争いのようでそうじゃない。焦凍と知らない誰かとが、大きな声で呼びかけている。
……その相手は私しかいない。
「心配しねえでくれ!」
「──!?」
「そんなに騒ぐな」
「──」
「大袈裟なんだよ」
知らない声は聞き取りづらいけど、なんだか微妙に言い争いになってきたかも……?
カレンダーと時計を見る。曜日の感覚が怪しくなってるけど平日の午後二時、つまり焦凍が帰ってくるようなタイミングじゃない。
今の声を思うと病気で早退とかかな──大変!
「焦凍!?──ケホッ」
あぁもう、ちょっと大きな声出した位で。急に立ち上がった位で。
情けない、もどかしい。
動きにくい──座ってられない。這いずるように部屋を出る。
「大丈夫だって!」
「お構いなくー! この馬鹿はただの寝不足なんで寝かしときまーす! したらすぐ帰るんで──だから大人しく休めっての」
どうやら知らない男の子らしい(言葉で判別できそうなのは爆豪くん位だから、彼でないことしか分からない)。焦凍に付き添ってくれたのだろう。
感謝すべき相手だ。きっと優しい子だ。
──なのに他人と言うだけで、私は凍ってしまう。
そうなると、静かなこの家では普通な会話も聴こえてくる。
「オメーそこで寝る気か? ふざけんなや布団どこだ持ってきてやる」
「その体格で……? いや、俺が寝たらお前と姉ちゃんが二人きりになっちまうだろうが」
「ざっけんなよ!? いくらオイラでもそんな
「悪ぃな。そういう方面では全然信用してねぇ」
「むしろそれ以外での信用度の高さがオイラにゃ不思議なんだわ」
確かにそこまで深刻でないような──でも焦凍はきっと、私が聞いてることに気づいてるから……本音ではない。私たちはずっとそれを怖がってきた/いる。
私もだけど、焦凍もそういうところはダメだと思うよ、と。言えるだろうか。お父さんに言えたように弟を叱れるだろうか。こんなことを悩む時点で憚っている。
だけど単純な話だ。
私が他人を怖がって引きこもって、そのせいで焦凍が今も気を抜けずにいるのなら。
そんな私を、私が許せない。
──あ、ちょっとちゃんとお化粧しないと逆に心配かけちゃうな。
オイラ、雄英高校一年A組“いきものがかり”の峰田実。
ここんところ轟の奴が(無理もねーとは思うが)暴走気味だから、オーバーワークしねえようにクラスみんなで気をつけてる。で、オイラは何故か校外でも出来るだけ目を配る担当ってことにされちまった。
いや仮免補講の件からなんか懐かれてんのは分かってたけどな? そんならせめて美少女にTSとかしねえ? この際だから男の娘でも妥協するぜ?*
内心文句たらたらだったが──というか口でも遠慮はしなかったが──今日、すべてが報われた。
「天使!?」
「焦凍の姉です」
なんと。轟は天使の弟だったのか。
弟はとりあえずケータイを置け。セコム代わりに渡我パイセンを呼ぼうとすんな。『あの人なら半殺しも九割殺しも自由自在だから』ってどういう理由だよこえーよ。
安心しろ。この男一匹峰田実、吐いた言葉は飲み込みゃしねえ。弱ってらっしゃるところにつけ入るような下衆はナシだ。
「つまりまずは冬美さんを幸せにするところからだな! それまでは兄貴って呼ぶの我慢しろよ焦凍!」
「死ね」
おいおい爆豪みてーなツンデレ発揮してんじゃねえって。
冬美さんのことはオイラに任せておきなぁ!
※補足※
表題のシャドウは心理学用語で、ドイツ語風にシャッテンとも呼ばれるもの。ここでは『意識的にか無意識的にか、認められず無いものとしている、自身の中の嫌な側面』を指しています。
つまりこの話は、本当は気付いていることを気付いていないと思い込んでいる冬美のモノローグであり、そういう意味で『信頼できない語り手』の類です。
※次回更新※
次話から新章です。プロット練りのため14日頃の予定。
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