私たちの共同生活にも幾つかの決まりがあって、それは原則として三人に等しく適用される。まぁルールなんてのはそうである方が平和で良い。
でも中には個人を特定したものもある。
──百にお買い物を任せないこと、とか。
──
その中で、遊びに来る透やお茶子を驚かせたのは──被身子はお料理をしないこと。するとしても下ごしらえまでで、特に仕上げや盛り付けの工程に関わらないこと。
二人が不思議がるのも当たり前だ。被身子は手先が器用で、包丁使いなんか私も百も敵わない。メシマズとか味覚障害とかも当てはまらないし。
じゃあなんでか、といえば。
話は被身子と知り合った年の冬にまで遡る。
寒い冬だった。切っ掛けは一本の電話。
『助けてください!』
「!?」
仮免を取ったばかりのくせして、私にも指名依頼が!? なーんて血迷ったことも思ったっけ。まぁ実際にご指名ではあったんだけど、仮免は何の関係も無い。
「お邪魔しまーす」
「すみません寒いところを」
「とんでもない。……私のせいみたいなものですし」
「いえ、そんな」
やってきたのは渡我家──被身子の実家だ。助けを求めてきたのはお母様。
「私たちも
「ある程度までなら微笑ましいもの、なんですかね」
「ええ、はい」
会うのも上がらせてもらうのも初めてではないけど、不慣れなので緊張しながら奥へ進む。被身子がいたのは──占拠していたのは──キッチン。普通なら幸せな気分になる甘い香りが溢れ返って、もう噎せそうなほどだ。
テーブルや床には沢山の……たぶん
(何気に初めてのことで内心かなり驚いたけれど、それはさておき)
完徹のせいで目元の隈が復活している。その過剰なのめり込みは鬼気迫るという表現がぴったりだ。
丁度お目当ての温度になったのだろう。ガラスの分厚いボウルから大理石のキッチン台にチョコレートを流すと、スケッパーで手早く温度のムラをなくしていく。テンパリングというやつだ。
チョコレートの油脂成分を均質化させて、整形のしやすさとか色ツヤとかに関わる……らしい。いや私も調べたけどさ、なんだか難しそうなので比較的お手軽な種付け法で済ませてしまった*1 。名前で選んだわけではなくて、我が家にこんな立派なキッチンは無いので。
「……被身子、普段からお菓子作りとかって」
「ほとんど初めてのはずです」
「めちゃくちゃ手際良くないですか……?」
「そうなんです、出来栄えもすごくって」
お母様が見せてくれたのは、これまでの中で(被身子にとっては)一番“マシ”な出来のものらしい。
女性の横顔をモチーフにしたイコンというアクセサリーに似ている。あれは白い貝殻製でこれはホワイトチョコ製だけど、このまんまブローチにしても良い位には綺麗だ。
「…………これのどこが失敗なんですか?」
「そうでしょう!?」
つまるところ、被身子には『あまりにもこだわり過ぎ』という悪癖があったのだ。
……いや普段の食生活とか自分の健康とかは適当過ぎてヤバいんだけども。
「被身子、ほらカリナさんもこう言って──」
「リナちゃんはこんなにブサイクじゃない!!」
改めて止めに入ろうとしたお母様だけど、被身子に怒鳴られてヒッと後退る。この頃はまだまだお互いの接し方に恐る恐るだったもんね。
私はどう言って良いものか分からず──被身子の方を叱ろうかなと悩みながら──とりあえず空気を変えようとしてみた。思ったまんまの本音でもあるし。
「いや私こんなに美人じゃないし……」
「そんなわけな────リナちゃん!?!!?」
「はぁい被身子。ハッピーバレンタイン」
被身子はハッとして時計を見上げ、絶望に歪んだ顔でスマホの日付を確認して、それからはらはらと泣いた。
「ごめ……ご
「頑張ってくれて嬉しいよ、被身子」
ぐしぐしと目を擦ろうとするのを止めながらそっと抱きしめる。初めてのバレンタイン、私のためのチョコ作りで徹夜してくれた恋人を叱るなんて私にはできない。
……いや、言うべきポイントは色々あるんだけどね。お母様の憔悴っぷりとかダイニングテーブルに突き立った包丁とか何時間もキッチンを占領されてご両親は何を食べてたんだとか被身子も食事摂ってないでしょとか。本当に色々あるな!?
まぁそれは後のことだ。今はこの子の健康のこと。私は手提げ袋から持ってきたチョコを一つ取り出すと被身子の口に押し込んだ。
むずかって嫌がるので──形や香りをじっくり楽しんで写真も沢山撮ってからちゃんと味わいたいとかどうとか──お母様の前だけど強硬手段にでる。
「沢山あるから、ね♡」
「んむ」
「(……ほら、
「(! あ……む……)」
皮ごとスライスした柑橘を、シロップ煮にしてからチョコレートをかけたオランジェットというお菓子なんだけど、彩りが欲しくて幾つかの果物で作ってみた。見ないで取り出した最初の一枚がブラッドオレンジだったのは単なる偶然だし、それが
糖分と血とクエン酸と。あと泣き疲れと睡眠不足。……それ以前からだいぶ重なっていた、受験勉強のストレス*2 。被身子はあっさり眠りに落ちた。
「あ、あのすみませんお恥ずかしいところを」
「いえ……そうでもしないと食べなかったでしょうし」
目を逸らしていてくれたけど、やっぱりちょっと気まずい感じ。とりあえずリビングのソファに被身子を運ぶと、お母様はすぐに毛布を持ってきてくれた。横たえた被身子の額を撫で、雑に括っていた髪を解く手付きは柔らかい。そこには優しさだけでなく恐れも雑じっているのだろうか。
「その…………反対ですか、私たちのこと」
「…………悩まなかったといえば嘘になります」
うちのお母さんが紹介した保護者会でも、被身子のご両親のような人は珍しくないそうだ。つまり『我が子に“普通”であって欲しい』、という。
だからその会の運営側は慣れっこで、集まった親たちにこう促す。
『では皆さん、“普通”を言葉にしてみましょう。
お配りする紙に幾つかのシチュエーションが書いてあるので、“普通の子供”ならどうするか考えてみてください。お互い相談はせずにね』
意地悪な気もするけど効率は良い。
多くの親はそれらの問いに『普通ならこうするに決まっている』とあまり悩まずに答える。用紙に並んでいるのはそうなるよう意図されたシチュエーションだ。
しかし彼らにとっては意外なことに、外から観れば当たり前なことに、親たちの答える“普通”はバラバラである。お母様とお父様の答えもかなり違ったらしい。その両方に合致する子供なんてありえない位に。被身子でなくたって達成不可能だったわけだ。
ただ、漠然と多数派であって欲しいというのは分からなくもない。少数派でいるより安全──かはともかく、安心感はあるだろうから。安心感だって幸福の一つには違いないから。
その意味だと同性愛だって歓迎はされないのだろう。決して多数派ではないからね。被身子は最初、ご両親には私たちの付き合いを隠すか或いは私を男として紹介しようかと悩んでいたくらいだ。
「──でも、娘はカリナさんのことが大好きなんですもの」
被身子はご両親に──話題に困ってもいるんだろうけど──私や百のことばかり話すそうだ。そこで語られるのはかなり理想化された私のような気もするけれど。
「え、う、その。私もです……?」
「あら。“いつも堂々とカッコ良いリナちゃん”だなんて、色眼鏡ね」
「いえ、私もカッコつけてはいますから」
「まぁ、ふふふ」
「え゛。あの時そんな話してたんですか」
「そんなって、そりゃ被身子の話になるでしょうよ」
「ちょ、お母さん何か変なこと言ってませんでした!?」
その後どんな会話があったのか、被身子は詳しく知りたがる。……うーん、正直あんまり思い出したくないんだよな。半ば黒歴史だったりする。
はぐらかそうとする私が一体どう見えたやら。いや、たぶん大げさに驚く透は冗談なんだけど。
「まさかガミさんのおばさんとも
「カリナさん!!?」
ねぇ百、冗談だよね? 私は恋人の親にまで手を出すと思われてるの??
やましいこともないので疑いを晴らしておこうか。割と本気で恥ずかしいんだけど。
「こう……被身子のお母さんにね、説教めいたことを言っちゃって……」
「……わたくし達と知り合う以前のことでですか」
頷きあう私たちに、透とお茶子はちょっと疎外感がありそう。被身子の許可を取ってからその頃の写真を二人に見せてみた。
「リナリナがイケメンだ!?」
「私じゃなくてね?」
「ホンマや、うちらの知らんヒミ様や……」
「これは、あぁ。被身子さんの雄英合格祝いですわね」
私たちと知り合ってからまだ一年と経ってなかった頃かぁ。
被身子の
「私こんなでしたっけ……?」
「こんなだったよー。周りに他人がいる時はね」
写真が撮られたのは平和な平和な
たまたまこの瞬間だけではなく、外ではずーっとこんな感じだったんだ。
「ヤマネコかチーターのようでしたわ。ほんの少し目を離したら本当に消え失せていたんですもの」
「手を握ってなかったのが失敗だよね」
「そんなことありました?」
えぇー? 都合よく記憶を消している被身子に、百と二人で脱力する。
私たちのチョイスも失敗だったんだよ。遊園地という環境は、当時の被身子にとって労いにもお祝いにもならなかった。結局あんまり他人が寄り付かない闇落ちオールマイトことお母さんの傍に隠れて気配を消してしまい、私と百は大慌てでパーク中を探し回ることになり、トドメに迷子として呼び出された。被身子が呼ばれる側だっつーのに。
あまつさえ、『リナちゃん達と全然遊べてません』とか言って帰りたがらず泣きそうになるのだから。そりゃもう大変だった。
「それホントに私ですかぁ!?」
「被身子だよう。ねー百」
「よく覚えておりますわよ。
透たちは苦笑い、被身子はいけないことをしたとあわあわしている。もう良い思い出だけどね──た、たぶん百にとっても。
「ともかく、被身子がこんな感じになるまでに色々怯えさせられたんだと思うと、さ。つい上から目線の正論っぽいことを──で、後になって偉そうなこと言っちゃったって恥ずかしくなったわけ」
なんだか大幅に脱線してしまったけれど。
ともかく被身子が調理の仕上げ段階を禁じられてるのはそれがきっかけだ。あまりに凝り過ぎる。
ただ、この話をしたからには是非とも翌年のことも聞いてもらいたい。
つい四ヶ月ほど前、高校にあがる直前のことだ──。