人名ではありません。
仮眠から起きてきた壊理は、早速泣き始めてしまった。皆で食卓を囲みたかったと。
霧もカリナ達も揃って宥めにかかるが、かと言って壊理以外は既に食べ終えている。デザートで機嫌を直してもらうにせよ、夕食は一人で済ませてもらわなければならない。
これまでにも壊理が癇癪を起こすと、死柄木は気配を消して自室に引っ込んでいた。泣き声は煩くて嫌いだ。
しかし今はカリナが笑顔でブロックしていて立ち去ることができない。壊理をあやすように強要したりはしなかったが──
「なんで起こしてくれなかったのー!」
「声はかけましたよ。壊理は疲れ切って熟睡していたのです」
「無理にでも起こしてよぅ。いくら眠くたって弔くんが──」
──彼女が勢いで口にした言葉に。優しく温かだったカリナ達の空気が僅かに尖る。
「ちょっと【崩壊】
三人が揃ってムッとしたことに壊理はビクリと硬直し、それを受けてすぐに表情は緩んだが。
どんなに深い熟睡だろうと、【崩壊】を食らえば痛みで目覚めるのは確かだろう。どうも壊理は自分のことも治せると思っているようで*1 、確かめるわけにはいかないがそれは事実かも知れない。
──だからと言って。
カリナはこれまで壊理に向けていたよりも硬い口調で
「壊理ちゃん、そんなこと言わないで欲しい。“個性”で人を傷付けるって、怖いことだよ」
壊理はその恐怖を知っている。心が凍えきるほど刻まれている。
温かい日々が忘れさせていたのだ。今朝から三人の怪我を【巻戻し】で治したことから、過剰な自信もあったのかも知れない。
「っあ、わた、私…………」
「大丈夫だよ、つい言っちゃっただけなのは分かってるから。ご飯食べよう、ね?」
「……はい……」
夕食とデザートですっかり機嫌を直した様子だったが、壊理は三階で霧と二人になるとメソメソと泣き出してしまい、やがて疲れて眠りについた。
その小さな身体を豪華なベッドに寝かしつけた霧が訪ねたのは、二階に用意された死柄木の部屋。
「…………なんだよ」
「少し話をしても?」
邪険に応えてもまるで引く気配のない──とっくに慣れている──霧を、死柄木は溜め息混じりに招き入れた。
「おや、随分と殺風景なのですね」
「不便はない。どうせ寝るだけの部屋だ」
被身子達が保健室にしようと話していた空室に、急ぎ簡易ベッドなどを運び込んだだけの部屋である。雑談のネタもなく、そもそもそんなものを挟む性格でもなく、霧はすぐに本題に入った。
「ここ暫く、曖昧な態度を取ってしまいましたので……はっきり伝えておこうと思うのです、死柄木弔」
「…………」
想像はつく。というより霧は何度か明言していた。
自分が何者なのか知りたいと。それを踏まえて今後どうするか考えたいと。
そして、相澤と話したこのタイミングで打ち明けてくるということは。
「私は恐らくヒーロー志望の学生だったのでしょう」
「覚えてんのか」
「いいえ、全く」
「……なのにそう思うのかよ」
「はい」
霧の端的な答え。
道理は通っていない。理屈で言うなら相澤らの調査結果を待ってから結論付けるべきだ。
が、死柄木は納得した。黒霧から霧に変わってからというもの、彼女ができるだけ不法行為を避けていたのは明らかだったからだ。アジトでの寝泊まりも厳密には犯罪だが、新しく積極的に法を犯したことはない。
「この身体になってからの私には、自分でも理解不能な嫌悪感がありました。その感情に従って──つまり犯罪を嫌って──行動した結果……貴方には、不快な思いをさせました」
「それは別にいい。俺だってやりたくないことはやってない」
あえて言うなら不快ではなく不可解だった。
例えば金の件である。カリナとの遭遇の後に明かされた当時の家計状況など、死柄木には馬鹿馬鹿しいとしか思えない。
日用品も食料品も、『秘密裏かつ安全に』購入するために非合法のブローカーに口止め料のようなものを渡していたという。そのせいで支出が膨れていたらしいのだ。
ヒーローの巡回を避けるために普通のスーパーなどに行けない、それはまだ分かる。
しかし暗がりに蔓延る連中の頬を札束で叩いてやる理由が分からない。暴力で従わせれば良かったはずだ。【ワープゲート】を失って戦力に不安があるとしても死柄木を連れていけば済んだはずだ。
なのに頼まれてすらいない。
脅して従わせることを、薄汚い闇の世界でさえ、霧は避けた。
何故そうまで規範を守ろうとするのか。
こんなクソみたいな世の中の腐りきった枠の中に、身を縮めて納まりたがる意味が死柄木には分からない。
──もっとも、それはそれで構わないのだ。霧は死柄木に何も強要せず、何も禁止しなかったから。死柄木も霧に指図はしない。
(死柄木が積極的に他人を傷つけようとしていれば、霧はそれを強引に止めたかも知れないが。実際にはそのようなことは無かったので、霧が何かを禁止したことはない)
「戸籍等の手続きが上手くいって普通に社会生活を送れるようなら、今後そうするつもりですが──」
「そうかよ」
自分はその枠の中で大人しくできるだろうか? できるわけがない、と死柄木は自嘲する。考えるまでもないことだ。
そのせいで勝手に
「──貴方はどうしますか、死柄木弔」
「くれるもんは貰って行くさ、色々便利みたいだしな」
『貰って“行く”』などという言い回しが出るのは、手続きに必要な拘束期間が明けた後の展開をすでに決めているということ。
霧の言葉を別れの言葉だと
誤解というか、単なる
「いえ、そうではなく」
霧にとって、現状は何も決まっていない。今ここで、これから、決めようとしている。
かつてヒーロー科の学生だったと判明した。
それは今後の生き方を定める上で無視はしたくなかった前置き──あくまで前置きだ。必要な情報ではあったが決定要因ではない。
むしろ彼女自身の行動を善人の如く制限してきた嫌悪感が、己の過去に由来しているとはっきりしたのだ。
これを死柄木は『生まれ持った捨てようのない正義感』などと捉えたが、霧にとっては『戻るつもりのない過去』であって、きちんと理解できた今なら『捨てようと思えば捨てられる執着』に過ぎない。
つまり具体的には。
「死柄木弔。貴方がヴィランとして生きるなら、そして壊理だけは傷つけないと約束するなら。私もそちらの道を選ぶでしょう」
「………………ハ?」
死柄木がそのような内心を把握しているわけもなく、霧の言葉は理解されなかった。コミュニケーションがまるで足りていないのだ。
だから霧は、こうして話している。
死柄木がヒーロー社会への怒りや恨みを捨てることは、今更もう不可能だろう。
本人がそう思っているし、霧もその可能性が高いと認めている。
そしてヒーローを憎む者はヴィランになるしかない──と、そう考える死柄木とは違い、この点に霧は逆の見解を示した。
「ここ暫く何の犯罪にも関わっていない貴方が何を言うのです」
最近の生活が証明していると。ヒーローを憎んだままでもヴィランにはならずに過ごせていたではないか、と。
「ぐっ……お前らを殺しかけたり地面に大穴掘ったりしただろうが」
「それは壊理が無かったことにしてくれたでしょう」
「ハッ。俺達はともかくあのクソガキも、小汚い誤魔化しだよな」
人や街を破壊するのが違法であること位は死柄木でも分かる。それを揉み消して無かったことに
事実として在ったことを消す。
見逃す。
隠す。
それら全て不正である。不正ではあるが──
「そんなこと。貴方は最初から知っていたはずです」
「な…………」
──確かに、今に始まったことではない。
虚を突かれたように絶句してしまったが、それは死柄木の原風景とさえ言える。
幼い日の彼が放置され居ない者とされたように、ヒーローの目に留まらなければ助けては貰えない。
そういった、光の届きにくい薄暗がりが、確かにある。
ある意味“死柄木弔”というヴィランはその日陰で生まれたのだ。
一方でカリナは、同じグレーゾーンを霧達の生活を整えるために利用し尽くす。公の目が届かぬことを、むしろ
要は使い方だ。善悪どちらにも成り得るのだから。
「今の私に言わせれば、どちらも大差はありません。一般人として社会に埋没しようがヴィランとして戦いを挑もうが、それぞれにメリットとデメリットがある。生きたいように、生きれば良い」
死柄木は自らの耳を疑った。かつてヒーローを目指していた人間の言葉とは思えない。
これは霧にとっても大きな変節だ。この鮮やかな変化を
死柄木は部屋に籠りきりだったので殆ど見ていないが、八斎會から連れ出した直後の彼女の心身は……筆舌に尽くしがたい惨状だった。
今に至るまで、死柄木を弟に見立てて姉として気丈に振る舞うこと(そして陰では黒霧に泣きつくこと)が奇跡的に上手く働いただけで、短期間でここまで回復したのは幸運の賜物である。
一度や二度の折檻ではあれほどにはならない。繰り返し念入りに心を磨り潰さなければこうまであっさり依存しない。
当時はまだ【巻戻し】を受ける前で、罪への嫌悪など薄かったはずの黒霧でさえ、彼女への仕打ちには激しい怒りを覚えた。
あらゆることに怯える壊理の前では決して怒りを表に出さなかっただけで。
──実の所、【巻戻し】を受ける前に黒霧はひっそりと
死穢八斎會──組長と地下にいた者達を中心に、その他も目についた者は無差別かつ適当に
その時点では『こんなものは単なる憂さ晴らしだ』と認識していた。だからその時に例の屋敷に
ことを終えても、その時点では虚しさが強かった。やはり単なる八つ当たりだと、些かの気晴らしにもなりはしなかったと。
が、【巻戻し】で霧になった日からは重苦しい罪悪感が付きまとっている。だから余り平静ではないかも知れないが、それでも何回考えても、あの行いに後悔は湧いてこない。
──法を遵守するヒーローでは、壊理は
奴らへの報復も叶わなかったのだから。
そんな行いは知らないはずの死柄木から、霧をヒヤリとさせる一言が投げられた。
「お前、俺よりヴィランに向いてそうだな」
「──向き不向きの問題とは思えませんが」
僅かに詰まりながらも、できるだけさらりと返す。
「それに私はヒーロー社会を憎んではいませんよ」
「期待もしてないんだろ?」
「それは、はい」
こともなげに肯定する霧。憎悪も期待もなく、つまり価値を認めていない。
死柄木は改めて『向いている』と感じる。自分より上手くやりそうだと。
「俺はさ。『ヒーロー社会をブッ壊す』なんて言いながら、壊そうとしてるもんを見たくもなかった。気持ち悪いからな」
「ええ」
「お前はじっくり弱い所を探して、一撃で崩しそうだ。効率が良い」
「そうですね。仮に壊すならそのように進めるでしょう」
仮定の話とはいえ、本当に無感動に言い切る。抵抗もないし執着もない──身内だけが例外か。
「あー…………とりあえず、お前の立場は分かった」
「ありがとうございます。貴方はどうされますか」
なお、霧が語ったのは『ヴィランになっても構わない理由』だけであって、『死柄木の選択に添う理由』は全く語っていない。
しかしそこは問わなかった。
分かりきっているからだ。
無論、百が妄想したような乙女の香り漂う理由ではない。
腹立たしいことに、霧にとって死柄木は壊理と同カテゴリの庇護対象である。独りにはできないから同じ道を行くのであり、
悪事への嫌悪感は捨て去れるかも知れない。
正義への盲信は諦めたように見える。
それでも、しつこいほどの善性だけは──今も彼女の本質にこびりついている。
「少し、考える」
「分かりました」
答えを急かさない霧を見送ろうとして──その背中を追うように、言いそびれていた言葉が飛び出した。
「それと、壊理に言っとけ。俺は気にしないから今度から【崩壊】で起こすぞって」
「それは……えぇ、分かりました。おやすみなさい」
「……あぁ」
実際に【崩壊】させるつもりなど無いのだろうに。そもそも死柄木が霧達の寝室に立ち入ったことなどない。
壊理の失言に対する暴力的な気遣い方に苦笑しつつ、今度こそ霧は部屋を去った。
「………………チッ」
苛立ちのままに暴れて、意図せず二人を殺しかけた記憶は悪夢に見そうなほど残っている。だから先程の言葉は単なる方便──ではあるのだが。
指よりも忘れがたいのは、頬。
衝動的に霧を傷つけた【崩壊】。あの感触は恐怖か快感か、それとも両方か。いずれにせよ凍てつくようだった。
壊理に張られた頬の
危うく壊理を傷つけかけた指先。台無しの背徳と解放の虚しさを予感した。それは金属のように冷え切っていた。
霧の掌ときたら、それ自体の熱だけでなく鼻血の温度まで思い出させてくれた。
既に赤みは引いているが、胸の
かつての、家族の冷たい手とは違う。
死柄木を甘やかさない熱い掌だ。
彼は語らない。自分でもその動機を言語化できないからだ。
善意ではないだろう。
優しさでもないだろう。
本当に壊理の将来に安らぎを願うなら、自分のような人間は速やかに離れた方が良い。
そうする気が起きない以上、これはきっと善意などとは違うものだ。
何日か経って、彼は不器用に選択を告げた。
「で、霧。結局リサイクルショップにすんのかよ。俺ぁ接客とかやんねーからな」
「! えぇ、そのつもりです」
神の視点から彼の心情を言葉にするとしたら──『借りを返そう』という意思。いわば『恩義』による決断。
──それが