文字数が増えたので遅刻しました。
ということで勘弁していただけないでしょうか。
喜多郁代は、多くの素養に恵まれている。
幼少期から要領がよく、器用で、適応能力の片鱗を見せていた。
早熟であり、世間体や身だしなみに気を遣うようになったのも、他の子より早かった。
現在高校一年生となった彼女は、社会に必要とされるたいていの能力において、同世代と比べて平均以上のものがある。
もちろん、それらは継続的な努力に裏打ちされたものであるが、しかし、
あらゆる局面で、大きな挫折も、血のにじむような苦労も味わってこなかったという点で、やはり恵まれているのだろうと、本人は自覚していた。
そんな彼女は最近になって、不足を、意識するようになった。
もともと抱えていた小さなコンプレックスを、より強く、鮮明に、感じるようになった。
移動教室で、人が混み合う廊下。
友達と話しながら歩いていた郁代は、視界のはしに、ピンク色のシルエットを捉える。
チラッと、目線を動かして、その後ろ姿を追いかけた。
彼女は、いつも一人でいる。
学校内で、ポジティブな注目を集めているところも見たことがない。
しかし、しかし、
大勢の視線や歓声の中心に彼女がいる画は、簡単に想像ができた。
彼女と接してきて、その本質の欠片に触れたことのある郁代は知っている。
普段は見えにくい彼女の、内側にあるものが姿を表した時、今の環境も境遇も全部、一気にひっくり返る。そんな予感がある。
学校の範疇では収まらない、本物の特別性。
郁代にはそれが、ない。
☆
放課後、郁代とひとりは、空き教室でギター練習をする。
向かい合って、ギターを弾いているひとりを見ていると、吸い込まれそうになる。
弾き始めると一瞬で集中して、もう自分の世界に入っている。ギター以外見えていない。そんな空気をひしひしと感じる。
「後藤さん、ちょっと質問したいんだけどいいかしら?」
「あっはい。どうぞ」
顔を上げたひとりに郁代は動画を見せる。
「結束バンドの曲以外にも色々練習してみてるんだけどね、このフレーズがどうしても弾けないのよ。弦が押さえられなくて」
「喜多さんはどうやって弾いてるんですか?」
郁代はいつもやっているようにギターを構え、問題のフレーズを軽く弾いて見せる。無理をして指を開いているので痛い。当然、綺麗な音は鳴らない。
ひとりはその様子を真剣に見ている。
「あっこれ手の形じゃなくて、ギターの構え方の問題ですね」
「構え方?」
「はい。体と並行に構えるんじゃなくて、ネックが少し前に出るように、斜めに構えてみてください」
ひとりは説明しながら、郁代に見せるように自身でもギターを斜めに構えた。
「そうすると指が縦に開くので、けっこう簡単に押さえられます」
お手本を弾いて見せてくれる。
綺麗な音が鳴っている。
郁代も言われた通りに試した。置きたい位置に、すんなりと指が収まる。
「ほんとうだわ! すっごい楽!」
ピックで弦をはじいてみると、ひとりほどではないが、及第点の音になった。
「ありがとう! さすが後藤さんね!」
「あっいえ……ヘヘ、それほどでも……」
口元が崩れるひとりを見ながら、郁代は思う。
普段の奇行や不思議な生態はあれど、やはり彼女は、あまりにも一芸に秀でている。
教本や動画をあんなに探してもわからなかった問題が、あっという間に解決した。
さっき軽く弾いてくれたワンフレーズを取っても、アンプがないにもかかわらず動画よりよく聞こえたのは身内贔屓だろうか。
もしかしたら彼女は、この学校で一番ギターが上手いのかもしれない。
☆
別の日。
「後藤さん、今日も質問いい?」
「あっはい。どうぞ」
「ありがとう! ここなんだけどね――」
郁代は『ギターと孤独と蒼い惑星』の楽譜の一節を指差して、同じ箇所を弾いて見せる。
連続性のない、歯切れの悪い音になった。
「後藤さんが弾いてるのと違って、なんだかプツプツ変な音が入っちゃうのよね。同じように弾いているつもりなのに、どうしてかしら」
「ああ、それは多分、左手と右手を同時に使うと解決しますよ」
「同時に?」
イメージができず首を傾げていると、ひとりは慌てた様子でギターを取り出し、例を見せた。
「え、えと、ギターって、左手で弦を押さえて、右手で弦を弾くと思うんですけど、」
説明しながら、彼女は弦に指を添わせる。ゆっくりと、ピックで弦を鳴らす。
「喜多さんは多分、左手と右手のタイミングにラグがあるんです」
今度は同じ動作を早くやる。
左手が弦を押さえた、そのコンマ数秒遅れて、右手が振り下ろされる。
雑音が混じった、すっきりしない音になった。
「そうじゃなくて……左手が弦を押さえた、その瞬間に、右手をこう、」
もう一度、同じ動作を繰り返す。
左手と右手が、寸分違わず同じタイミングで動いた。
CD音源のような、綺麗な音になった。
「こうです」
「なるほど……! やってみるわね!」
得心がいった郁代は、さっそく自分でも同じフレーズを弾いてみる。
「あれ?」
手本のように寸分違わずとはいかないが、両手のタイミングはさっきより合っているはずだった。
なのに、さっきよりも悪い音が出た。原因がわからず困惑する。
「あっ喜多さん、弦の押さえ方が甘くなってます。フレットからこんなに離れてる。この曲テンポが速いから、慌てちゃったんですね」
ひとりはスマホのメトロノームアプリを起動し、ゆっくりなテンポに設定する。室内に、一定のリズムで機械音が流れる。
「さ、最初は難しいので、ゆっくりやってみましょう」
「わかったわ」
今度は慌てずに、丁寧に演奏してみる。両手を同時にと、意識することも忘れない。
ひとりは目を閉じて、音に意識を集中させている。
「あっいい感じです。よくなってきてます」
目を開ける。
「今のを意識して、ゆっくりのテンポで練習を続けてれば、プツプツしなくなってくると思います」
「ありがとう! やっぱり後藤さんすごいのね!」
「え、えへへ……」
ひとりはギターのことを本当によく知っていた。どんな質問をしても、絶対に明確な答えが返ってくる。
しかもアドバイスは的確で、自分がぐんぐん上達していってると実感できる。
ふと気になった。
「後藤さんは最初の頃、どうやって練習してたの? ものすごく細かいことにも詳しいから気になっちゃって」
「あっ私は普通に、教本の通りに弾くところから始めました」
「そうなのね! やっぱり基礎が一番大事ってことなのかしら」
「あっそうですね。基礎のページから、すみからすみまで」
「え?」
違和感があった。
「すみからすみまで……?」
「はい。教本のすみからすみまで、全部やりました」
「それって、一ページ目のの一行目から最後のページまで、全部に目を通したってこと?」
「はっはい……そういうことです」
「そう……。やっぱり、上手くなるにはそれくらいやらないとだめなのね……」
郁代は、感心と慄きが混じった声を出す。壁の高さを感じて、息を呑んだ。
しかし、その対象であるひとりの方が、なぜか腑に落ちない様子でうろたえていたので、郁代まで頭に疑問符を浮かべてしまう。
「後藤さん?」
「え……? が、学校の教科書とかも、すみからすみまで読みますよね……?」
「そんなに読まないわよ!?」
「え!? じゃ、じゃあどうやって勉強してるんですか!?」
「後藤さん、真面目なのね……」
ひとりの要領の悪さ、その原因の一つが判明した。
同時に、知識の豊富さやアプローチの角度の多さにも納得がいった。
実直すぎる才能人が一つの分野に力を注ぐと、こんな風に進化を遂げるのか。
もしかすると彼女の技量は、学校内で何番目だとか、そういう範囲に収まるレベルではないのかもしれない。
評価を改める。
☆
また別の日。
「後藤さんのギターって、なんだか迫力があるわよね」
「そ、そうですか?」
「うん。私が弾くと、なんだかか細いっていうか、弱々しいのよ。これってなにか足りないものがあるからなのかしら」
「えっと、音に迫力を出したいってことですか?」
「そう! もっと後藤さんみたいに、カッコよく弾いてみたいの!」
ひとりは少し考えると、
「あっそれならいくつか方法がありますよ」
「ほんとう!? 教えて教えて!」
「あっはい。ほんとうにやり方は色々なんですけど――」
彼女はいつものように、ギターを構える。
「例えば、ミュートを使ったやり方なんですけど――。一つは、単音を弾くときとかに、関係ないブラッシングを混ぜてみたり、」
例を見せてくれる。ただの一音が、奥行きのある音に変わった。
「あとはチョップっていって、鳴らしたい音の前に、いくつかブリッジミュートを入れてあげるんですよ。するとほら、」
目立たせたい音が強調して聞こえて、一層カッコよくなった。
「それからリズムを変えてみるとか。わざと走らせてみたり溜めたり。あとは右手に強弱をつけてアクセントを入れたり、」
譜面通りの単調な演奏が、抑揚が加わることで豊かになる。
「よくあるコード進行の裏に、違う音を入れてみたりとか、」
聞きなれた音楽の表情が、次々に変わる。
「色々あります。コード進行をいじったりするのは難しいので、最初は強弱をつけれるようになるといいと思います」
「ギターって奥が深いのねー」
様々なテクニックに、郁代は小さく拍手する。
「後藤さんは普段どれをやってるの?」
それは、何気ない質問だった。
「えっと、全部です」
「ぜんぶ?」
目が丸くなる。
「あ、いや、一度に全部やってるわけじゃなくて……えと、曲の雰囲気に合わせて、要所要所でやってるというか……。あ、でも、二つとか三つとか、同時にやることはあります。はい」
「そうなのね……」
少し、呆然とする。
しかし、すぐに気を取り直すと、郁代は真剣な表情になった。
「私、聞いてみたいわ。後藤さんの全力!」
「あっはい、いいですよ」
全力、と言っても、ひとりは最初、やはりお手本を見せるように、ゆっくりとわかりやすく弾くように心がけていたように見えた。
だんだんと熱が入って、すぐに夢中の顔になった。
顔がほころんでいく。ギターを弾くのが楽しくて仕方ない。そんな表情だった。
やがて早弾きやカッティングが加わって、演奏に感情がこもる。
郁代はその演奏に、聞き入っている。
帰宅した郁代は、最初に言っていた、ブラッシングを使った技術を試してみる。
うまくいかない。
指のかかりが甘くてミュートにならなかったり、逆に力を込めすぎて余計な音が鳴ってしまったりする。アンプに繋ぐと、そのミスは余計に際立った。
初心者だからかもしれないが、かなり難易度が高いもののように思える。
ギターを始めて、四ヵ月あまり。
郁代にも、自分の上達速度が見えてきた頃だ。
この技術一つを習得するのに、果たしてどれくらいの時間がかかるか。
想像ができる。かなり先のことだろう。
これらを複数、完璧にこなす。
高校一年生にできるものなのだろうか。
ギター。
詳しくない人が見たら、誰が弾いていても、格好は大体同じように見える。
しかしそうではない。
同じ曲を弾いていても、考えてることや、テクニックが、全然違う。
指先の細かい動き。たったそれだけの小さな領域に、数々の技巧がいくつも凝縮されている。表現の幅に大きな差が生まれている。
生命力を感じた。
彼女の演奏は、あんなにも生きていて、強い。
☆
郁代は、毎日ギターを弾く。
学校にバイト、友達付き合いと忙しい日々だったが、なんとか時間を見つけて、できる限りギターに触っているようにしていた。
ひたすらに打ち込む。追いつくために。
喜多郁代は幼い頃から、流行や変化に敏感であった。
小学校高学年になって、人間関係の形が変化し始めた時や、周りの子が垢抜け始めた時、漠然と、置いていかれることへの恐怖をおぼえ、駆け足になった。
子どもの世界は、絶え間なく変化する。
色んなものに追いつこうと、走って、走って、走り続けて。
いつしか、走ることが当たり前になっていた。
いつも走っている。
気づけば、自分が置いていく側になっていることも少なくなかった。
そこに安堵することは、決して悪いことではない。
それでも、友達を追い越した、追い越された。そんなことばかりに一喜一憂していると、時々、世の中のすべてが、競争のように淡白な場に見えてしまう瞬間がある。
ごく、稀に、疲れる。
それでも、この生き方は自分に合っていると思う。相応の誇りだってある。
郁代は自分のことを、かわいいと思っている。
予感があった。
後藤ひとりには、一生かかっても追いつけないのではないか。
これまでも、スポーツが際立って上手かったり、勉強で傑出している同級生はいた。
彼らの突出した能力に、ぼんやりと、憧れを抱いていた。
ギターという同じ土俵に立って、当事者になり、隔絶を理解する。
届かない領域にあることを悟り始めている。
それでも郁代は、毎日ギターを弾く。走る。
なぜなら、走ることしか知らない。
しかし今、彼女はほんのちょっと、ほんのちょっとだけ、
――こんなことは初めてだった。
努力を、不毛に感じている。
上手くならなきゃという責任感と、追いつけるのだろうかという不安が、渦を巻く。
時計の針は、午後八時を指していた。
窓の外から、夜空を見上げる。
本日は快晴につき、満天の星空が輝いていた。
その中の一つ、最も力強い輝きを放つ、一等星に目が行った。
その他の普通な星たちには目もくれず、暗闇の中にあってもなお鮮明なその光だけを、
じっと、見つめる。
☆
ある日の学校でのこと。
郁代は、「ピンクジャージの子が倒れたらしい」という知らせを聞いて、急いで保健室に向かった。
目が覚めたひとりにしばらくついていようと思ったが、断られたので、大丈夫そうだと判断して引き下がる。
しかし、やっぱり心配になって引き返すと、もう彼女はいなくなっていた。
よかった、元気になったみたいだ、と胸を撫でおろす。
そばのテーブルにあった用紙もなくなっていた。
それは文化祭の出し物のエントリーシートで、結束バンドの出場が明記されていたものだった。代表者の欄には「後藤ひとり」と書かれていた。
おそらく、提出しに行ったのだろう。
文化祭ライブが決定し、郁代の心はときめく。一ヵ月後の楽しみが一つ増えた。
保健室を後にしようとして、郁代は気づく。
ゴミ箱の中に、ちょうど同じくらいのサイズの用紙が捨てられている。
取り出して確認してみると、件のエントリーシートだった。
ひとりが捨てたのだ、とすぐに察する。
保健室の教員が勝手に捨てたとは思えなかった。
どうするべきだろうか。
この用紙を見ていると、ライブに出たいという希望も、やっぱり怖いという葛藤も、伝わってくるかのようだった。
どうするべきだろうか。
郁代の心によぎったのは、羨望。
あれほどの才能があって、あんなにカッコよくて、誰の目にも留まらないなんて、そんなの、あんまりにももったいない。
決心した。
郁代は生徒会室に向かう。
回収箱に用紙を提出する。
ひとりの本音に気づいていながら、黙って、エントリーする。
音楽にあまり詳しくないので間違っていることもあるかもしれませんが、大目に見ていただけないでしょうか。