2021年5月29日23:17 永葉県大桑山
敵に先を越されていないか。
そんな懸念もあったが、足裏に感じる土の柔らかさが解消させた。
月の光は高い木々によって遮られ、山中は漆黒の闇に覆われている。
そんな暗中を、ふたりは進んでいた。
先導する知樹は迷うことなく、ライトなしでズンズン進む。
後に続く瑩は、さすがに声を上げた。
「ちょっと、待ってっ……」
「どうした?」
「いや、前が全然見えないっ」
山に入った当初よりは目は暗順応していたが、追い付かないほどに闇は深くなっていた。
もし今、知樹の背中を見失えば遭難してしまう。
確信出来るほどに、現状の視界は最悪だった。
「照明は使えない。目立ち過ぎる」
「それは、そうなんだけど……見えてるの?」
「ああ。暗闇には慣れてる」
人間の暗順応とは暗視するための脳内物質の分泌と、僅かな光を捉えるため瞳孔を開く反射を指す。
これらの行程が人体で完了されるまで、おおよそ30分要するとされる。
通常は3分足らずで目が慣れることはないのだ。
「仕方ない。手を」
「え?」
「手だ。それなら転んだり逸れることはない」
すっと目前に手が差し伸べられた。
知樹は小銃を背中に担ぐと、代わりにリボルバーを右手に握った。
「でも……」
「逸れて探しに行くよりずっと楽だ」
足手纏いにはならない。
そう宣言した自分がバカらしくなってしまった。
「ごめん」
「連れて行くと決めた時に、そのくらいの覚悟はしてたさ」
バンテージでぐるぐる巻きにされた手を握り返す。
その瞬間から、気恥ずかしさは消し飛んだ。
彼の手からは、至る箇所から硬い感触を覚えた。
タコ、それに柔らかいものはマメだ。
───この手……尋常でない修行を積んでる。
瑩自身の手のひらにも多少はあるが、比較にならない程多く、ひどい。
指先で触れている拳には、皮膚が削げている感触まである。
努力の結晶とはいうが、ここまでくれば命を削っている証と同等だ。
───この人、一体どこまで鍛えてきたの……?
湧いてきた感情は、尊敬ではない。
言葉で表すなら、恐怖が近かった。
父の血によって、人間よりも多少は運動能力に優れている自覚はあった。
しかし彼は、それを血の滲む努力によって凌駕している。
それも、自分と同年代で。
善く例えるなら、人類の可能性を体現した存在。
悪く例えれば、人類の負荷実験体だ。
このような鍛錬を続けていれば、いずれ壊れる。
普通はそこまで至る前に切り上げるものだ。
果たして、何が彼にそこまでさせているのか。
彼女が抱いた恐怖の核はそれだ。
幕内知樹の内側には、何かがいる。
清水徹が最期に話していたのは、それに関わることなのだろう。
未知に対する恐怖。
しかし現状はその恐怖が、頼もしさに変わった。
───この絶望的な戦い。でも、この人となら……
やり遂げられるかもしれない。
勝てるかもしれない。
暗闇の中で、瑩は一筋の光を見出した。
「あった、例の旗だ」
暗順応の進んだ目でも、それを視認出来るまで少しかかった。
3メートルほどまで近寄ると、風で揺れる赤色をようやく認識できた。
旗のすぐ下には、簡単なゲートが設置されていた。
『関係者以外立ち入り禁止 大桑山城跡保存協会』
その文字が、目的地であると確信させた。
ゲートの網目からは異臭のする風が吹き込んでくる。
出口に妙な匂いを漂わせる何かがあるのか、あるいは───
「覚悟はいいな?」
「ええ、行きましょう」
守りを固めた山道を攻めるよりも、勝算はあった。
知樹はベルトから提げた化学灯を握ると、ぽきりと折った。
◆決戦の舞台へ───