2021年5月29日23:46 永葉県大桑山城跡
木立の隙間から差し込む光が、その茶色の毛皮を照らしていた。
四足で歩き、大きな口と爪を持つ、体長
そのヒグマが丘の上からこちらを睨んでいた。
この辺りにヒグマはいない。
いたとしても、黒い毛皮で1.2メートル程度のクロクマだ。
「なんっ……でっ……?」
瑩が強張った唇で呟いた。
知樹は徹との会話を思い出していた。
ハルを逃した直後、川を下る最中に聞いた言葉だ。
「この辺にはヒグマがいるぞ」
「そりゃ、固有種のクロクマだろ? ツキノワグマの亜種の。ヒグマは北海道、エゾヒグマだろ」
羅宮凪島固有種のラグナクロクマ。
戦後まで、その種はツキノワグマと思われていた。
しかし遺伝子検査をしたところ遺伝子的に別種の、絶対に胸の月輪が表れない固有種と明らかになったのだ。
名気屋の西山動物園では、ラグナクロクマをモチーフにしたキャラクターがイメージキャラクターとなっている。
北海道や大陸に分布するヒグマが、一体どのようにして入り込むというのか。
「今は関係を切ったが……金剛寺という南部のクソ金持ちがいてな。知ってるだろう」
「大地主だろ。小張に住んでたら、あいつらの土地入らずに生活出来ねぇよ」
金剛寺家。
かつての黄泉島における
安土・桃山時代に日本本州から本来の神道や仏教が伝来するまでの間、流刑地である黄泉島の宗教を取り仕切っていた。
第二次大戦後の米国統治時代は、駐留米軍に取り入ることで自身らの土地と権益を守っていた。
知樹としては、気に入らない連中である。
もちろん、そんな連中とヒグマは全く繋がらない。
一体どういうことなのだろうか。
「
「……はぁ?」
知樹はかなりのロシア通だ。言われてみると、心当たりはある。
シベリア平原の非合法業者はヒグマ狩りのツアーを行っている。
金持ち相手に狩らせるため、簡単に狩れる状況を用意するのだ。
「……あの田舎者連中、熊の密輸までやってたのか?」
「大枚叩いてな。話を戻すと、捕まえた内の一匹が逃げた」
捕まえたヒグマを使い山でハンティング・ショーに興じていたが、一匹が首輪のGPSを破壊して逃げたのだ。
関係各所に圧力を掛けて事実を隠蔽し、信頼出来る筋に駆除を依頼した。
それでも徹と繋がりのあった金剛寺家の人間は、この事件を機に本家から追放を言い渡されたそうな。
だとしても、逃げたヒグマが捕まるわけではない。
「最近この辺でデカい足跡と爪痕を見つけるようになった」
「なるほど。これ、まずくないか?」
「まずい。しかも、熊や猪を仕留めてる」
「なるべく、今回の事件からは離れてもらいてーな」
「兆候を掴んだら、可能な限り避けるんだ」
戦いを知る巨大な、孤独な熊。
この異常な状況下で介入されれば、厄介なことこの上ない。
しかしまさか、このタイミングとは。
知樹は自分の間の悪さを呪った。
いやそれとも、奇襲されなかっただけ良いのだろうか。
「どっ、どうするの……?」
瑩も熊ぐらいは動物園で見たことがある。
その呑気な姿はとても危険な動物とは思えず、拍子抜けした記憶も持っていた。
しかしそれは、檻の中で野生を失った存在。
常に命懸けで走り、叩き、喰らいつく。
それらが身体に染み付いた威圧感は、尋常ではなかった。
「今考えてる」
恐らく先ほどのゴブリンを捕食している。
ねぐらに放り込んだのは、後々の食料としてか。
ならば今なら、そこまで腹は減っていないはず。
「空腹じゃないなら、刺激しない限り安全だ。視線を外さず、ゆっくり離れる」
「おっ、OK」
熊は知能が高く、執念深い。
自分の所有物である巣穴と、その中身を侵されたと考えられると大変なことになる。
後退りして、山道の方へ歩く。
視線はずらさずに、熊の瞳を睨みながら。
相手も知樹達から一切視線を外さない。興味を持たれている。
この興味とは、人間の考える興味とは少々異なっている。
脅威となり得るか。あるいは可食物か。
そういった意味での興味である。
「ブモォッ」
熊が軽く鳴くと、丘を降り始めた。
そして、歩み寄る。知樹達と歩調を合わせながら。
「銃で何とかならない?」
「最後の手段として考えてる。相打ちは覚悟しろ」
熊がトンネル───巣穴に差し掛かると、後ろ足で立ち上がった。
それは威嚇行為の一種。しかし、足は間違いなく止めた。
相手は領有権を主張しただけで威嚇以上の意図はない。
知樹はそう判断した。
「……そうか、こいつ銃を知ってるんだ」
もし本気で興味を持ったのなら、熊は下山しても追いかけて来る。
巣穴の前で立ち止まるのは、日和見が過ぎる。
あり得るとしたら金剛寺家の人間に追い回された記憶があるのだ。
その時、人間が抱えていた獲物の強さと恐ろしさが身に染みている。
これは逃げられるぞ。知樹は内心で笑みを浮かべた。
「いたぞぉっ! よそ者だぁっ!」
背後から絶叫が轟くまでは。
◆お次は何だ?