01
2021年7月20日22:32 小張県名気屋市
それは、誰にとっても突然の事態だった。
「ええっ?! ちょっと!」
普段、かつて母が使っていた部屋は静かなものだ。
今の主である文華が慶太を気遣っているのは間違いない。
だからこそ、壁を貫通するほどの声を出すのは珍しい事態であった。
───なにかあったのかっ?
過去に一度だけ、ゴキブリを見かけて悲鳴を上げたことはある。
虫程度なら、かわいいものだ。
笑い事ではないのは、彼女が少し前までその身柄を狙われていたという事実があるためだ。
慶太は扉の脇に立てかけられたバットを手にすると、肩に担ぎながら部屋を飛び出した。
廊下に躍り出ると、隣の部屋のノブに手を伸ばす。
「姉さんっ、なにがっ?!」
その時見えたのは、薄水色。
従妹である文華は最低限の部分しか覆い隠さない、薄布ばかりの姿でそこにいた。
スマートフォンを耳に当てながら。
状況はさすがに理解できた。
その通り、通話していて驚いただけ。真っ先に考え付くべき可能性だ。
「あ、うっ……ごめんっ」
互いに頬を赤らめた状態で硬直する。
慶太がなんとか言葉をひねり出すと、沈黙の中から声が漏れ出た。
「文華っ、どうした?! なにかあったのかっ」
扉の開く気配と沈黙に、通話先の相手が驚いたのだろう。
この声には聞き覚えがあった。文華の父、慶太の伯父である。
長居するべきではない。
慶太は180度踵を返し、部屋から退出した。
それから数分して、文華がリビングまでやって来た。
さすがに下着姿ではなく、部屋着のパーカーを羽織って。
「その、ごめんね。さっきは驚かせちゃって」
「いやっ、僕こそごめんっ。ノックもせず入っちゃって……」
気まずい沈黙が漂う。
謝罪は済んでいるが、それでもいたたまれない気分に変わりはない。
この空気から逃れるため、慶太は口を開いた。
「あの、今日はお風呂どうする?」
「先に入っててもいいんだよ。いつも言ってるけど」
「そういうわけには……」
先に入れば、不潔な湯と思われるのではないか。
後で入れば、残り香を楽しもうとしていると疑われるのではないか。
彼女、菅原文華はそんなことは言わない。
慶太は理解していたが、心の中の猜疑心が警戒するよう囁くのだ。
「ねえ、ケーくん。さっきの電話なんだけど……」
「どうかしたの?」
あの通話相手は恐らく伯父。
親子の仲が悪くないふたりは度々連絡を取り合っていた。
気がかりなのは、あれほどの大声を出したところだろうか。
「その、ね。お父さんが夏休み、コンクール後に海外クルーズに行かないかって……」
「海外旅行?」
彼女の父は広告代理店の中でも結構な地位にいる人間だ。
多忙な身の上で当然長期休暇などそうそう得られない。
そうなると、夏休みは文華にとって貴重な休暇になるだろう。
「そっか。よかったじゃない、伯父さんって忙しいんでしょ?」
「違う、そうじゃないの。うちの家族じゃなくて、ケーくんとハンナ、それと……幕内君の4人で、なの」
「僕とマックも?!」
話の概要はこうだ。
自分の娘、文華を救った知樹に彼はいたく感謝していた。
しかし相変わらず自分の仕事は片付かず、赴任地のドイツから離れられそうにない。
そこで感謝の証として件の知樹、同時に誘拐されそうになった親友ハンナ。
そして普段から世話になっている慶太。
この4人分の海外旅行を用意したと言い出したのだ。
「飛行機でベトナムまで行って、そこから2週間で東南アジアの名所を船で回るプランか……」
文華から送られてきたサイトで行程を確認。
この旅行会社は文華父が勤務する会社と繋がりが強い。
その伝手で、この席を確保したのだろう。
「僕は問題ないけど、ふたりはどうかなぁ」
「ハンナは私から聞いておくから、幕内君をお願いできる?」
「ああ、いいよ」
知樹に対して恩はある。
しかし一方で、どこか信用できない。
それが文華の評価である。
故に礼は尽くしたいが、気乗りもしない。
正直な感想がこれであった。
「マックは海外旅行も慣れてるはずだから、きっと心強いよ」
「そういえば、そうだったね」
彼は以前、父親に連れられて様々な国を旅行していたと話していた。
東南アジアについて言及していたかは失念したが、それでも経験豊富には違いない。
「あっ、でもマックはもう寝てる時間だ。返事は明日以降になるね」
慶太は文言を打ち込んでから、彼の就寝時間を思い出した。
◆東南アジア編開幕ッ!