2021年7月29日ICT15:28 ベトナム社会主義共和国ホーチミン市 タンソンニャット空港
狭く、椅子と机しかない簡素な部屋。
知樹はその机と手錠で繋がれていた。
「この扱いは?」
「書類の不備。偽造パスポートの恐れがありました」
対峙する審査官は、知樹の言葉にそう返した。
ろくに見てもいない書類の不備とは、奇妙な話である。
「これは不法行為だぞ」
「まさか。不法入国者の取り締まりが仕事ですので」
ベトナムは強く、良い国だ。しかし、悪党はどこにでもいる。
知樹は思考を巡らせた。経験上、こういった扱いを受けた場合、相手の目的はひとつ。
賄賂だ。
通行料を支払わなければ、それなりの不利益を与えると言いたいわけだ。
知樹が軽蔑する“ムシ”はそうする。それならすぐにわかる。
しかしどういうことだろう。
この目前の審査官からは、そういった
「なにが取り締まりだ。旅行者から小銭を巻き上げたいだけじゃないのか? 卑怯者め」
「……ほう。
本来はあまり得策ではないが、知樹はあえて指摘してみた。
すると、胸の名札にレーと書かれた男は怒りに顔を歪めた。
「この、奴隷使いどもめっ!」
「なに?」
あまりに心当たりのない暴言を受け、知樹は目を丸めた。
奴隷使いとは、一体どういう意味なのか。
「いいかっ、俺の娘は日本に行ったんだ。高い技術を学ぶためになっ!」
「なんの話だ」
「技能……何とかって制度で、農業を学びに行ったんだよっ!」
そう言われても、やはりピンとこない。
返答に困り、知樹は言葉を発せなかった。
「それが、奴隷のような無茶苦茶な労働で、死にそうになりながら連絡してきたっ! それが最後だった!」
「待て。娘さんが日本で働いてて……消息を絶ったと?」
「そうだっ。お前らは娘を言葉巧みに騙して連れ込み、奴隷として死ぬまでこき使ったんだ!」
興奮しているため話が要領を得ないところはあるが、概要は把握出来た。
とどのつまり、これは八つ当たりなのだ。
「……あんたの娘さんの死は、残念だ」
「心にもないことをっ!」
「だが、俺には何の関係もない話だ」
「いいや、関係がある! お前らの食っていた野菜はっ、その労働で収穫されたものだ!」
「俺は店売りの汚い野菜は食わない」
「嘘をつくなっ!」
嘘ではない。が、彼にとって真実はどうでもよかった。
握りしめられた拳が振り上げられた。
殴られる。しかし、殴り返せば罪状が確かなものになる。
故に、受け止める覚悟を決めた。
しかし、突如開かれた扉が拳を止めた。
「待てレーッ! やめろ!」
「止めてくれるなっ、こいつは娘のっ……!」
「その旅行者は関係ないだろうっ。国際問題になるぞ!」
入国審査官が嫌疑のない容疑で旅行者を拘束し、さらには暴行する。
国際問題へ発展するには、十分過ぎる出来事だ。
場所と場合によっては戦争の口実にすらなるだろう。
「大体、言ったよな! 公的機関でも、奴らは怪しいって!」
「でもっ、でもっ……!」
「奴らに問題はある。だが、こっちにもあるんだっ」
「……くそっ」
レーが力なく椅子に腰掛けた。
このベトナム語のやり取りを、知樹はさっぱりわからないまま聞いていた。
もちろん、言葉は全て理解した上で。
「……それで、自分はどうすれば?」
現れた審査官の口ぶりから、嫌疑がないと把握しているのは明らかだ。
彼は鍵をポケットから取り出すと、知樹を繋ぐ手錠を解除した。
「失礼しました。手続きのミスだったようです」
「ミス、か」
「大変申し訳ありません」
口ぶりは丁寧ながら、どこか複雑な感情が表れていた。
同時に、これ以上事を荒立てたくないという気だるさも。
「もう行っても?」
「はい。警備官がご案内します」
審査官が入って来た扉から、制帽のつばが見えた。
もうここにいる理由はない。
知樹は席を立った。
「その通りだ。どこにでも問題はある。そっちにも、こっちにも」
去り際に、彼はベトナム語でそう告げた。
◆この男の娘に何が───?
C103よろしくお願いします。