2021年7月29日ICT16:33 ベトナム社会主義共和国ホーチミン市 サイゴン川のほとり
ホテルの正面には淀んだ水質のサイゴン川が横たわっていた。
数百メートルの幅を持つこの川では常に船が行き交い、溢れんばかりの水量で街に水を供給していた。
川沿いに南下し、観光名所でもあるチャンフンダオ像広場へ。
「チャンフンダオって、どんな人なの?」
ハンナはスマホで彼の情報を検索していたが、日本語の知識と噛み合わないため理解に困っていたらしい。
フィンランド語の情報も、アジア史に疎い影響でピンと来ないのだ。
「一時期、ユーラシア大陸のほとんどをモンゴルが支配していた。モンゴル帝国、あるいは元だ。知ってるな?」
「もん、ごる……?」
そこからか、そこからなのか。
少し困ってしまったが、せっかくだ。
知樹は歩きながら説明することにした。
「……今はロシアと中国の中間に位置する微妙な国だが、1200年ごろ、チンギス・ハーンが部族間の紛争状態にあったモンゴルを統一した。これがモンゴル帝国の始まりだ」
「あー、なんか歴史の授業で聞いたかも。なんか、悪役みたいな?」
「現代の倫理観で見たら、当時のどの人間も悪役だろうな」
現代ですら、倫理の定義は地域や民族によって異なる。
しかし今はそれを論じる場ではない。
「ともかく。チンギスから始まったモンゴルは快進撃を続け、最盛期は東欧まで版図を広げた」
「確か……ポーランドの辺りまで来たんだっけ? 思い出してきた」
「それはワールシュタットの戦いだな。そこまで勢力を広げながらも、モンゴルは間近にあったアジア2つの勢力に勝つことが出来なかった」
ここまで来ると、流石の彼女もピンと来た。
「あっ、わかった。
「その通り。当時のベトナム、
「ぷすっ……」
ハンナの口から小さく息が漏れた。
それはまあ、いま特別気にするべきではなかった。
知樹は少し足を止め、背後を振り返った。
口を挟んでいない慶太と文華は知樹とハンナの話を聞きながらも、互いに会話をしている様子だった。
確認ついでに、ふたりの後方をうかがう。
「どうしたの?」
「気にするな。で、チャンフンダオについてだ。チャンフンダオ、
「ぷっ! クススッ……」
突如、ハンナが吹き出した。
全く意識していなかった知樹は、困惑で固まってしまった。
「……なんで笑う? 笑うところあったか?」
「だって、ちんちょうの、ちん……こうどうって……」
しばし間を置いて、知樹もその意味に気付いた。
確かに下のネタに直撃していたが、それを笑うのはちょっと違う気がした。
「気持ちはわかるが、チャンフンダオは歴史的な英雄だ。侮辱と取られる態度は……避けた方がいい。ハンナは特に」
「わかったけど……なんで私が特に?」
「アジアの英雄をコケにする白人がどう映るか、わかるだろう?」
ハンナの脳内で、自分と同じ分類をされている人々に思いを馳せた。
大層な肩書をして、違う肌の色をした人間を野蛮と蔑視し、蛮族かのように扱う。
しまいには、自分達は正しい側にいるなどと言い始める。
そうだ。そういうのが嫌で、自分は故郷を飛び出したのではないか。
他の文化を異教の穢れたものとして扱う、そんな空気が嫌だったのではないのか。
出来ているかは別として、ハンナは己の醜態を恥じた。
「そう、ね……ごめんなさい。私が間違ってた」
「笑うなとは言わないが、現地人の前では我慢した方がいい」
と、一番出来てないし反省もしない男が偉そうに講釈を垂れた。
恐らくこれが日本に絡む事であれば、こんな態度では済まなかった事だろう。
「そうだな、話を戻そう。チャンフンダオはこのモンゴルとの戦いで功績を上げた人物だ。川があるとはいえ、陸続きのモンゴルを相手にここまで見事な戦いをした将軍は、他にいないだろう」
「それじゃあ、マンネルヘイムみたいなもの?」
「確かに、近いかもな」
マンネルヘイム。フィンランド第6代大統領にして、冬戦争と継続戦争で司令官を務めた軍人。
ドイツ・ロシア、2つの圧倒的強国と渡り合い独立を成し遂げ、守り抜いた象徴である。
同一視までは難しいが、救国の英雄という点では一致するだろう。
「そっか。じゃ、そんな人の名前、笑っちゃ悪いわよね」
「そうだな」
ふたりは互いに微笑み合った。
◆余所の英雄を雑に笑うのは……やめようね!