2021年7月29日ICT16:50 ベトナム社会主義共和国ホーチミン市
汗が噴き出すような外と違い、カフェの中は風邪をひくのではないかと思えるほど空調が効いていた。
ベトナム、特にホーチミンの夏は気温30度(お忘れかもしれないが、熱中症の危険がある気温である)、湿度は80%以上という日本でもあまりお目にかかれない激ジトアツアツ気候である。
外のテラス席に座るのは例え日陰でも、例え地元民でも嫌になることだろう。
知樹が先の強盗を見抜いたのにはそういった背景もあった。
「希望は?」
「マック。この……Egg Coffeeってなに?」
この辺りには外国人観光客が多く、メニュー表はベトナム語と英語が表記されていた。
慶太の興味を惹いたのはエッグ・コーヒーだった。
「俺は飲んだことがないが、卵が入ったコーヒーらしいな」
「卵……?」
思いがけない組み合わせに、慶太が少し引いた。
旅行は未知との初体験が“エモい”と考えた彼は積極的に調べていなかったのだ。
「もう、誤解を生む表現よ。幕内君」
「仕方ないじゃないか。見たことも、飲んだことないんだから」
一方、生粋の常識人である文華は違った。
ため息をひとつ吐くと、下調べの成果を語った。
「厳密にはコンデンス・ミルク……練乳と卵黄で泡立てたクリームが乗ったコーヒーなの」
「練乳? 普通、牛乳じゃないの?」
練乳とは言うまでもなく、牛乳に砂糖をたっぷり加えて濃縮した加糖練乳を指す。
製法の都合上とっても甘く、日本ではかき氷にかけるものとして有名だろう。
「練乳って、元々は日持ちしない牛乳を保存するために編み出されたものなの」
「えっ、そうなの」
ベトナムとは真逆の気候で育ったフィンランド人が驚いた。
現代でも有名な通り、牛乳は
これは牛乳そのものが雑菌の繁殖しやすい環境となっているためだ。
人類が高栄養価ともてはやして常飲するのと、理由はほぼ同じである。
なぜ砂糖を加えると保存性が高くなるのかは、説明するまでもないだろう。
砂糖は水分を吸収する性質が強く、雑菌が持つ水分すら奪って
「それで、ベトナムの気候と昔の技術じゃ牛乳を安全に運べないから、代替品として練乳が広まったの」
「なるほどねぇ。卵は?」
「牛乳が足りなかったから、らしいよ。1950年にハノイで定番化したらしいから、物資が不足してた時代なんじゃないかな」
1950年、ハノイ。もう5年遅ければ、知樹が妙な反応を返していただろう。
「当時は第一次インドシナ戦争、ベトナムがフランスと独立戦争をしていた時期だな。物資が不足することも、まああっただろう。牛の飼育は敷居が高いが、鶏ならどうにでもなる。そんな感じで工夫した結果なんだろう」
歴史とは、時に意外なものと結びついていることがある。
こういったカフェの飲み物すら、例外ではない。
「ともかく。すっごく甘いコーヒーらしいよ」
「へぇ。じゃあ僕はそれの冷たいやつにしてみようかな。姉さんは?」
「私は練乳入りのアイス・コーヒーかな」
これで慶太と文華の注文は決まった。
知樹はハンナへ視線をやる。
「そっちはどうだ?」
「うーん……せっかくアジアに来たんだから、お茶飲んでみたいし、慣れたコーヒーの方がいい気も……」
そもそもの話、彼女が留学している日本も立派な東アジアである。
どうやら彼女の中では日本が脱亜を果たしている様子だった。
「ねえ、マックはどうするの?」
「緑茶」
「ひっ、ひねりがない……」
しかしそれを聞くと、なにかを決断したらしい。
「じゃ、コーヒーにするわ」
「わかった。注文は俺が行こう。みんなは席を頼む」
「私も行く。2つしかない手じゃ、4つも飲み物運べないでしょ?」
お盆か何かを借りるつもりだったが、人手はあった方がいいかもしれない。
「それもそうだな」
慶太と文華に席を任せると、ふたりは列に並んだ。
◆飲み物ひとつに意外な歴史───