2021年7月29日ICT17:20 ベトナム社会主義共和国ホーチミン市
「そういえばさ、コンクールってどうだったの?」
談笑中、不意に慶太が思い出した。
今まですっかり放り出されていた話題だが、ハンナと文華は全国学園生コンクールに出場していたのだ。
基本的に内容を公開されないコンクールだったため、知樹と慶太は完全に蚊帳の外だ。
慶太は文華と同居しているが、自身の入院や治療ですっかり忘れていたのだ。
「うん、私はまあ……そこそこ」
と、文華の言。聞くからに評価は高くなかったようだ。
未だあがり症を克服したとは言えない。
「で、私なんだけど……なんと、一年の本選まで進出ー☆」
「なるほど。それは、すごいのか?」
知樹はよくわかっていないのが丸わかりな相槌を打った。
当然ながら彼は音楽のど素人なので、予選だの本選だのと言われてもピンと来ないのだ。
「ちょっとぉ。羅宮凪島でも上位の奏者って認められたんだから、褒めてくれてもいいんじゃない?」
「……羅宮凪島の上位なら、1900万の中で上位ということか?」
「さっ、流石にその100万分の1くらいかしら……?」
羅宮凪島でバイオリンが弾ける学園一年生となると、もう少し多いはずである。
とはいえ、具体的かつ強大な数字が出て、ハンナは怖気付いた。
ここでハッタリを効かせられるほど図太くはないのだ。
「まあ、なんだ。色々あったからな。舞台に立てただけでも立派なものじゃないのか?」
「そっ。誰かさんのおかげでね」
知樹は三人から向けられる視線に改めて意識した。
もし慶太に緊急時の心構えを話していなかったら、どうなっていたか。
考えるまでもなく文華は連れ去られ、彼自身も無事では済まなかったかもしれない。
文華が誘拐されていたら、どうなっていただろうか?
あの兄妹に散々弄ばれ、大桑村の狂わされた人々のように使い倒されたのだろうか。
ハンナは、言うまでもない。
注意が逸れたところで連れ去られ、彼女は辱められた。
結果的に傷は最小限だった。たった一晩の悪夢だった。
しかし、最小限は最小限。一晩は一晩。事は起きたのだ。
知樹は思わず視線を伏せた。自分の至らなさに、眉間を寄せた。
───俺は、守れない。救えない。これじゃ、とてもDS相手に……
怒りで強く握られた左手に、手のひらが重ねられた。
「ねぇ、マック。私は大丈夫だから。いま、ここにいる」
ハンナの微笑み。
知樹がいなければ、ここにあるはずのない微笑みだ。
「幕内君。何があったのか知らないけど……少なくとも私はあなたに助けられてる」
関わりを避けていた文華でも、ここ最近起きた知樹の変化には気付いていた。
その根幹を知ることは出来ずとも、彼にとって行き過ぎた変化なのは明白。
「マックはよくやってくれたと思うよ……やり過ぎかな、ってぐらいさ」
慣れない笑みを浮かべながら、慶太は言ってみせた。
一切の後ろ盾のない人間のやり口にしては十分過ぎる成果なのは事実だ。
やり過ぎなのもまた事実。何をしたのか知らないから笑って冗談のように言えるのだ。
「前にも言ってたろ? 自分を誇れ、とか」
「だが、守れなかったのは事実だ。だから……」
「ストーップ!」
ハンナの人差し指が知樹の唇に封をした。
「気にしてくれるのは嬉しい。だけど、私がいいって言ってるんだから、もういいの!」
「だが……」
「だがとかしかしとか、もういいの! 今は楽しい旅行の真っ最中。違う?」
違わない。その通りである。
父曰く、過去に囚われてはいけない。しかし、忘れ去ってはいけない。
教訓は過去の歴史から学ぶものであり、未来への礎としなければならないのだから。
「そうだな。わかった、この話はおしまいにする」
「そうそう。もっと……楽しい、将来の話をしましょ」
知樹の心には、もうひとつ大きな喪失がある。
大桑村での、遺憾ながら尊敬出来る人物の死。
「それじゃあ、明日は午後まで暇だから、なにか遊んでみないかな?」
もう少し、自分が上手く出来ていたら。もっと強ければ、死ななかったかもしれない人物。
忘れてはならない。しかし、囚われてはいけない。
「日本で出来ない事がいいんじゃないかな。ハンナは何かある?」
最も大事なのは未来だ。そして、未来へつながる現在である。
「なら、ピッタリなものがあるわ。多分、マックも気に入ると思う」
「そうか。それは楽しみだ」
過去に囚われて今楽しむ気持ちを失うのは、彼らに失礼だ。
知樹は笑みを浮かべ、今の状況に集中した。
◆囚われず、されど忘れず。前へ───