2021年7月30日ICT17:04 ベトナム社会主義共和国ブンタウ市 FJW第8甲板『Sapphire』
ほんの少し船体が揺れると、窓の外で景色が動き始めた。
ブンタウの港が遠ざかりつつ、少しずつスライドしていく。
「ほらっ、出航したわ!」
「そうだな」
FJW号は些細な保安上のトラブルによって4分ほどの遅れをとったが、無事出港した。
知樹とハンナは客室としては最上となる甲板の一室で、その瞬間を眺めていた。
「……しかし、いいのか? こんな事が……」
「私がいいって言ってるんだから、いいに決まってるじゃない」
ハメられた! 知樹の脳内でその一言が叫ばれた。
どうやら自分以外の三人は共謀し、ハンナと同じ部屋になるよう仕向けたのだ。
今までの流れから知樹は分析したが、疑問があった。
───そんな事をして、どうするつもりだ?
まさか、寝首を掻こうというわけでもあるまい。ハンナの腕では到底無理だ。
とすると別の意図があるに違いない。それは───なんなんだろう?
保健体育の授業を直視出来ないとはいえ受けている人間、ましてや淫夢厨ならば、普通はあっ(察し)というものである。機会があるかは別として。
しかしどうしても、自分と性愛というものが頭の中で結び付かなかったのだ。
「じゃ、これから……どうする?」
ハンナが窓を振り返り話し掛けると、知樹は腕立て伏せをしていた。
「ど、どうしたの?」
「鍛錬だっ」
旅行中、毎日の鍛錬が欠かしがちになっていた。それを時間と余裕のある場面で遅れを取り戻そうとしていたのだ。
これは嘘である。実際には脳内の混乱を運動で誤魔化そうとしているのが現実である。
照れ隠しに近い異常行動を、ハンナはノーと受け取った。
彼女も彼女で知樹の異常レベルを甘く見ていたため、今はその時ではないと判断したのだ。
実際の相手の行動は単なる反射であり、イエスやノーすら頭にない。
「あー……そっか。夕食も近いし、旅行だからって体型崩したらまずいしね。よーしっ!」
ハンナは知樹の隣に陣取り、腕立て伏せを開始。
当事者は自分から始めておいて混乱した。
「なっ、なんでぇっ?!」
「私だって、こう見えて体型キープに努力してる、のっ!」
驚愕しつつも、知樹の上下ペースは変動しない。汗ひとつ流す事なく、物音ひとつさせることなく筋繊維が175センチの物体を垂直に揺する。
隣で繰り広げられる究極のマチズモにハンナは喉を鳴らした。
「ねぇ。体重いくつ?」
「確か……66キロだ。背は178」
「力にしては、意外と軽いのね」
「筋肉馬鹿の米国人やボディ・ビルダーと違って、大きくはしない。あんなのは邪魔なだけだ」
純粋な筋力の増強も必要な課題だが、肝心なのはいつ本領を発揮出来るかだ。
軍事作戦において、費やす時間の大半が移動だ。車両で移動する場合、人が死にそうなほど座り心地の悪いシートにしがみつかなければならないが、それすら使えない状況は十分有り得る。
そんな状況でいざ現地に着いたら力を出し切れないでは、単なる木偶の坊である。
太く重くするよりも、細く強靭に。
「ハンナは?」
「ぶっころすよ?」
「……悪かった」
どうやら選択を間違えたらしい。向こうから聞いてきたのに。
強い理不尽を感じながらも知樹は謝罪の言葉を告げると、寡黙に鍛錬を続けた。
豪華客船最初の一時間は腕立て伏せに。
あたまおかしいんじゃないの? こいつら。
◆もっとやる事があるだろう……! 他にも……!