2021年7月30日ICT18:38 ベトナム社会主義共和国領海 FJW第8甲板『Sapphire』
一行は夕食へ向かう前に、一旦合流する約束をしていた。
特に深い意図はない。ただ夕食前に軽く見てまわれれば。
そんな感じの軽い気持ちである。
40分の予定に少し早く到着した慶太と文華は、三階層にも及ぶ巨大な吹き抜けを持つホールでもうひと組を待った。
行き交う人々は明らかに外国人───同じアジア人でも大多数が中国人だろう───であり、少ない確率で白人が過ぎ去った。
聞こえて来る言葉も耳慣れないものばかり、英語はほとんど聞こえてこない。
清掃も極めて行き届いている。床にはシミひとつなく、食べカスなども当然見受けられない。
今腰掛けているソファーも、自宅のくたびれたそれとは比べ物にならないほど柔らかく、しっかりした作りを感じる。
自分が住んでいる世界と、違う世界。
ただ腰を下ろしているだけでもそう感じさせた。
「改めて……凄い船だね。伯父さんに感謝しなきゃ」
「もう、そんなに大したことないよ。お父さんが忙しくなかった頃は毎年乗ってたんだから」
住む世界が違うといえば、そういえば彼女もそうだった。
血縁関係があるとはいえ、彼女の父親は大手広告代理店で重要な立ち位置にいる人物。いわゆる上流階級に片足踏み込んでいる家の人間なのだ。
近くにいる彼女が、遠くに感じた。
「あはは、なるほど……」
引きつった笑みで流すしかない。後に訪れるであろう微妙な空気を許容してでも。
しかしその時、風が吹いた。
「やあ。もしかして君ら、日本人?」
「え? はい、そうですけど……」
聞き慣れない男の声が、聞き慣れた言葉で鼓膜を揺らした。
振り返ると、体格の良いソフトモヒカンの男。その佇まいはどこか知樹と似た印象を受けた。
「お話中悪かったな。思わず日本語が聞こえてきたもんだから、つい話しかけちゃってさ。ちょっと聞いて良いかな?」
「僕らで良ければ……」
「ありがと。実は遠くまで見える見晴らしのいいレストランってのがあるらしいけど……上層へ行くエレベーターがどこかわかんなくてさ」
そこは恐らく、これから行く予定の展望レストランのことだろう。
聞くところによれば予約者以外立ち入り禁止とのことだが、彼も予約済みなのだろうか。
「それなら、ホールの階段を登って右に行って……通路を左に進んだ先にありますよ」
「ほーほー……サンキュ! どうもこういう船の地図って頭に入らなくてさ」
階段の先を見やると、彼は振り返ってウインクした。
キザな振る舞いだが不思議と似合ってしまう魅力のある男だった。
「俺は
「あっ、僕は菅原慶太で……こちらは従姉の文華です。よろしくお願いします」
「なんだ、従姉弟同士だったのか。てっきり恋人同士かと」
「えっ」
「じゃあな」
翻弄するだけ翻弄して、照仁は段に足をかけた。
ひとりで向かったのは誰かと現地で待ち合わせでもしているのだろうか?
疑問は湧いたが、それもすぐに消えた。
「悪いっ、少し遅れた!」
その声と共に現れた知樹とハンナのふたり。
互いに髪を濡らしながら───知樹に至っては体温で水蒸気が生じていた───慌てて駆け寄るその姿に、慶太はスケベの気配を勝手に感じた。
そうかそうか、まさかこれほど急速に発展してしまうとは。勝手に感心した。
「えっとその、お疲れ!」
「ふたりともどうかしたの? そんなに……」
「姉さんっ、時間もいい頃だしレストランに行かないと!」
珍しく文華の気が利かない。
無粋な質問をして、せっかく成立したカップルに水を差してはいけない。慶太は珍しく彼女の言葉を遮った。
「ちょっと遅れたくらいじゃ、特に何も言われないとは思うけど……」
「座っていい? マックのコースキツくて……」
「キツい?」
「休むなら、食事前でもいいからさ!」
それはきっと、公衆の面前で口にしていい話題ではない。
奇妙な誤解を抱いたまま文華の手を取り、半ば強引に歩き出した。
◆あの男の正体は───?