2021年7月31日ICT11:22 インドネシア共和国ジャワ海 FJW第14甲板『Lido』
世界で一番無意味な争いは肉弾戦へと移った。
サンラウンジャーにしがみつく知樹へ、ハンナはさらにしがみついた。
「いいかげん、こっち向けぇっ!」
「いいじゃないかっ、俺の自由だろう!」
イチャつくというより、レスリングの試合に近い醜態である。恐ろしく力の強い知樹をなんとかひっくり返さんと、全身の体重を活かしてハンナは引きはがさんと引っ張る。
そこに、気配が近寄ってきた。
「ネネネ、ゴメンナサイ」
韓国語の影響を強く感じる、つたない日本語。三人組の男が一行に話しかけてきた。
「なん、でしょうか」
文華が声を震わせながら問い掛けた。
この状況は彼女の
『楽しそうにしてるね、俺らも混ぜてよ』
日本語はほとんど話せないのだろう。今度は英語で語りかけてきた。言葉に伴う表情は、嘲笑と下劣な感情。
慶太の受けた英語教育でも、状況は飲み込めた。
これが冗談だとしても気分のいいものではない。本気ならば最悪だ。
『その、やめてもらえませんか?』
『は? JAPのサルが生意気言うなよ』
笑い声と共に慶太は肩を押されるも、反射的にその衝撃を受け流した。しかし、今度は両手で胸を押される。
あまりに手慣れた暴力の波に、ついによろめいてサンラウンジャーに倒れこんでしまった。
「ギャハハハ! テンニョヘイカばんじゃーい!」
『お前らは一生地面を這いつくばればいいんだよっ!』
理不尽な侮辱。容赦のない軽蔑。
この行為には過去の歴史という恨みの下地はあるのだろう。憎まれて当然のことはあったのだろう。
文華は硬直しながらも、息をのんだ。
───でも、こんなの……!
許されていいはずがない。しかし、どうすればいいというのか。
テレビでよく見るタイプの顔が歩み寄り、彼女の腕をつかんだ。
「キテキテ」
「や、やだっ」
「姉さんっ!」
『黙ってみてろッ! この女は俺らの“モノ”だッ!』
とても強い力が、彼女の腕を引いた。
その時だった。
「ぐばあっ!」
強い風圧を感じた。
視界を一瞬横切ったそれは、サンラウンジャーに見えた。
幸いにも布張りだったため大した被害はなく、男ひとりが吹き飛ばされてプールに叩き落される程度に済んだ。
しかしあれは、人が横になるためのものだ。あんな巨大な物体を投げられる人間など、そう多くない。
言うまでもない。彼、幕内知樹の仕業である。
『なっ、なんだあっ』
「
韓国には徴兵制度があり、男性であればほぼ確実に従軍経験がある。
故に彼らは、状況を察した。
今対峙しているこの男、並大抵の人間ではない。身体中の傷跡などささやかな評価点のひとつに過ぎない。
ただそこにいるだけで感じる強いプレッシャー。それはかつて、兵役の中で出会った特殊部隊の隊員。殺気を放つ彼らと対峙した時に感じたそれとほとんど同じものだったのだ。
『こいつっ……! 邪魔するなよっ』
『自分で何も生み出せない、半島の下等生物が。“淘汰”されるべきヒトモドキが』
知樹の口から発せられた言葉は彼らの逆鱗に触れていた。
韓国の男性に対し、淘汰されるべきは絶対に発してはいけないワードである。
徴兵制の除外をはじめとして、韓国の政治は国民の男女に極めて深い分断を生じさせた。
“淘汰男”という言葉は女性の側から生まれた、無理解と差別心により生み出された分断と負け犬の象徴なのだ。
『わかって言ってんだよな……JAP!』
『それ言ったら殺されたって文句は言えねえぞ!』
この瞬間。単なる遊びは矜持を賭けた戦いとなった。
仮にも殺しの訓練を受けた男達が殺意を鞘から抜き放つ。
対する知樹も退かない。自然体としか思えない佇まいで強烈な殺意を向けた。
ふたりと、その背後の男に対して。
「え?」
影が差してようやく、彼らも自分達の後ろに立つ巨漢に気付いた。
しかし時すでに遅し。驚くほど太い手がふたつの首を鷲掴みにした。
『頭冷やせ、恥さらしどもがァッ!』
大の男がふたり、文字通り宙を舞った。
3メートルほど上空に飛び、頭からきれいにプールへと落下。
あまりに現実離れした光景を見た人々は催し物の一環であると誤解し、パチパチと手を叩いた。
◆この巨漢は一体───?