世界が回っていた。
心臓が跳ねるたびに眼球が震え、自分以外の全てが揺れる。
なんとか、なんとか人が見ていないところで。
菅原文華は懸命に歩き、観客達の死角へ到達すると、すとん。
腰が抜けた。
「……やっぱり、私」
彼女は極度のあがり症だった。
見知らぬ人でも少人数なら、あるいは知り合いと一緒ならば耐えられる。
しかし一対多となると話が変わってくる。
途端に他人の目ばかりに気を取られ、集中出来なくなってしまう。
痩せ我慢を続けると、視界に影響が現れる。
もう少し演奏が長引けば、恐らく倒れていた。
こんな調子でコンクールで結果が出せるはずもなく。
あるいは、聴衆の中に従兄弟が混じっていればなんとかなるのでは。
そんなハンナの勧めで慶太を誘ったのだが……
「フミフミ」
その彼女が、ひどく不安そうな表情で舞台裏を覗いた。
自分の提案が、結果として傷つけてしまったのだと考えているのだろう。
「私は大丈夫だから、進行を続けて」
ここで進行が滞ると、ハンナのただでさえ悪い部内の立場がさらに悪くなる。
正直誰かそばにいて欲しかったが、わがままを言いたくはない。
演奏会は続く。
舞台の反対側には恐らく配置につく次の奏者……挙母部長がいるのだろう。
あの演奏を今、この場で聴きたくなかった。
あの心に響く演奏が耳に入ると、心が砕けてしまいそうだから。
ともかく、今は心を落ち着けなければ。
息を深く吸う。すると、人の気配に気づいた。
「これはこれは、文華お嬢様。どうかされましたかぁ」
黄色いタオルを首に掛けた中年男。
最近この学園に赴任した用務員だ。
「どっ、どうもっ」
「この卑しい吾作めなぞ気にせず、お座りになればよろしいのに」
「そういうわけには……」
嫌味ではなく、冗談で気を遣っているのは明らか。
立てる平衡感覚であることを確認し、彼に向き直る。
「何の御用でしょう?」
「くっくっく、真面目なお嬢様も冗談を嗜まれるのですねぇ。講堂の掃除も、用務員のお役目でございますからぁ」
凶悪な人相から放たれる、卑屈な笑み。
この"明らかに悪いことを企んでいる"姿から、学園生から酷く嫌われているのが彼だった。
文華はその数少ない例外だ。
心が沈んだとき、心が乱されたとき。
そんな時に彼がいて気を紛らわしてくれた。
さすがに恋愛感情までいかずとも、感謝はするというものである。
「立ち話もなんですから、どうぞこちらにお掛けください」
暗い舞台裏に設置した椅子に、文華を誘導する。
強がれるほど、彼女の心に余裕はなかった。
「ありがとうございます」
「くっくっく……当然のことをしたまでです。はい」
腰を落ち着け、深呼吸をする。
立っているより。地べたに座り込むより。ずっといい。
「ほら。体調が優れないのなら、ほぐして差し上げます」
「あっ、だいじょ……待って……」
背後に回り、もみもみと肩の筋肉をほぐす。
思わぬ刺激に身をよじらせようとするが、用務員の力は痩身の割に強い。
───だめっ、今声を出したら部長の演奏が……!
痛いほどに神経を走る刺激。
しかしこの刺激は、彼女にのしかかった緊張を表していた。
「おーっとっと。こりゃ、と~んでもなく凝ってらっしゃいますです。あっほれ、ぐ~りぐ~り」
「ぐ……あっ……いたたっ」
「まだまだ痛いかもしれませんが、ご安心を。この吾作、女体は毛先から肉壺の奥まで熟知しておりますです……はい」
「いた〜っ……えっ?」
途中、聴き慣れない単語。
この疑問は次に聞こえた音色がかき消した。
舞台から響くバイオリンの旋律。
聴くものが思わず息を呑む、圧倒的な技量。
それだけではない。
淀みない旋律には、揺るぎない自信を感じさせる。
そう、文華が持たないものだ。
「……っ」
劣等感が口から漏れ出た。
なぜあれほどまでに自信満々に、臆することなく演奏出来るのか。
「いや、私に……」
才能がないから。
その言葉を悪党の人相が遮った。
「文華お嬢様ぁ」
正面に回った用務員がずいと顔を寄せた。
強烈な圧迫感に文華もさすがに怯む。
「はっ、はい」
「肩の調子はいかがですかぁ?」
言われてみれば、重荷を下ろした後のようにすっきり。
体の血行が良くなった分、少しだけ精神も軽くなったような気がした。
「なんだか、良くなった気がします」
「くっくっく……この吾作、頑張った甲斐があったというものです……はい」
パシャッ。
電子音が聞こえた気がした。
「えっ?」
「どうかなさいましたかぁ?」
「いえ……」
スマホの撮影音に聞こえたが、見渡す範囲でそれらしきものはない。
気のせいだろうか。いやしかし……
「文華さん」
その逡巡を断ち切ったのは、彼女を悩ませていた当人だった。
「部長。先ほどの演奏、お見事でした」
「ありがとう。文華さんもそろそろ慣れる頃でしてよ。ところで……」
汚物を見る目が用務員に向けられる。
いつの間にか文華から離れた彼は、隅でうんこ座りをしていた。
「
「いえ。暗い舞台でお嬢様がたが転ばないよう、掃除をしておりましたぁ」
「用具も持たずに掃除、ね……」
「この吾作愛用のタオルで、拭き掃除をしておりましたぁ」
「よけいに汚れるからやめてくださる?」
「これはこれは、一本取られてしまいましたぁ。では洗ってまいりますので、これで失礼させていただきますぅ」
すごすごと用務員は立ち去っていく。
洗いに行くとは言ったが、いつ戻るとは言っていない。
外へ通じる扉へ手を掛けるその瞬間。
濁った瞳を持つ男が囁いた。
「けっ、近々お前らも立派な肉人形に仕立て上げてやるぜ。それまで肉壺をきれいにしとくんだな。くっく……く」
怪しげなおやぢは一人、含み笑いを浮かべた。
◆怪しいおやぢ───